平成22年10月号より

 

            選     

   桑岡     孝全

地に腹を接して涼を得るらしき犬ありにけり七月なかば
わが挙措に向くる小言の増え来り老いづく妻に母のまぼろし
地震列島に新幹線網を敷設するような危うさこの世のことは
みずからの硬きするどき靴音を歩むおみなはどのように聞く
人の見向かぬわが歌を称え下されし君の亡き世に儚くぞ居る
冷房してテレビをつけて半裸にて夕餉する兄八十七歳
洗いたる手を電力で乾かしているばかありて音のかしまし
      湧  水  原      (37)       伊藤千恵子 選
奥嶋     和子           〈 オランダ・ ベルギー  〉
夫の持つ部厚き「海猿」一冊を読みて時経る長きフライト
明日行く町の気温を確かめるベルギー語なるテレビをつけて
ユーロ圏なれば国境は道端の青き看板に知るのみとなる
丈低く咲くチューリップの側に桜の咲けり花色の濃く
橋いくつ潜りて運河を巡りゆく船形住居に住む人もいて
ヘルシンキの空よ見ゆる湖の氷上に白々と道筋のつく
白杉     みすき      〈 斑鳩から伊賀へ 〉
夏霧の湧く山間を抜け来たり風光る斑鳩の里に出でたり
はつ夏の風吹きわたる法隆寺五重の塔の水煙光る
蕉門の遺墨短冊板壁にあまた掲げて土間の小暗し
六畳に文机一つ据えるのみ帰省の芭蕉の起居せし庵
照葉樹昼暗きまで繁る道登る頭上に鳴くホトトギス
津月     祐子          〈 川下り 〉
道標に京都市右京区と書かれたる道を隔てて古里に入る
公務員になりたき一念和文タイプを夜学に習いて叶いし思う
夜遅く蜷川知事の答弁資料ようやく届きタイプにて打ちし
長谷川     令子      〈八十路 〉
黄ばみたる奉書に黒々とわが名ありその由来あり父の筆あと
もう八十まだ八十と思いつつ一日片付け三日を休む
笊の如く記憶留まらぬ齢なり日々探し物に時を過ごして
何時までも存えたしと思わぬままワクチンを打ち服薬つづく
葉の散りし枝に角ぐみ光るありかかる日は我に来らざるべし
咲き照れる桜の下に思うかな父の齢を超えて見る花
花びらの重なる影も柔らかく百歳遊亀の描く山茶花
春名      重信         〈平城宮跡 〉
盛土のこの芝はらに聳えけん朝堂院の今はまぼろし
一段と高き玉座に近寄れる古老の胸にケータイの揺る
幟立つ大極殿の前庭にリュックを背負う異国の人ら
森本      順子           〈芦屋の山A 〉
地震により七右衛門ー閉ざされて新しくなる岩穴くぐる
荒地山より落下せし鯰石右岸の道せばめ鎮座す
池涸れてあらわれし岩大阪の築城の際の鑿跡残る
大地震おこりし年に米つつじ満開なりき再びを見ず
山口     克昭            〈泉川 〉
信楽をすてて聖武の帰り来し渓は新茶の盛りにありき
さまよいて父の帝が行き交いし道を見放けて和束の御墓
陽の上る前に茶摘の一仕事終えし村人みな老いにけり
バス停に看板あらたに括られて「家族葬をも取り扱います」
大極殿の跡に寂びれる小学校森のみどりに沈みてありぬ
瓶原に上人拓きし用水路七百年経て村を潤す
横山      季由           〈大和し麗し 〉
落葉踏み孤りごころに下りゆく人麿の歌碑立つかぎろいの丘を
西日受け甍の光る宇陀の家並ここに伊勢街道の道しるべ立つ
富本銭作りし炉跡のたまり水に飛沫(しぶき)をあげて遊ぶ鶺鴒
明日香村高家(たいえ)に野火の煙立ちボランティアガイドの任終え帰る
大極殿の復元なりし平城京址夕暮るるまで少年ら野球す
達陀(だったん)の松明の炎収まりて闇にひと声鳴く鹿のこえ
           推奨問題作  (22年8月号)   編集部選
                現実主義短歌の可能性拡大をめざして
横たわりベッドに検査受くる母過ぎし年わが受けにし検査
岩谷     眞理子
午睡せる吾を訪ねてヘルパーは倒れていると見紛いたりき
大杉     愛子
ビルの間に眺めて居りし観覧車に伴われきぬ母の日今日を
奥村     広子
我が売りし仔牛は今は繁殖中恙のがれてうまごを産めよ
小深田     和弘
めずらしくからりと晴れた日曜日カップ酒買い夫の墓へと
沢田        睦子
幾度も鋏は空を切るばかり視力落ちたる夫を危ぶむ
鶴亀     佐知子
食べたるを忘れ始むる長兄をいよいよ来たかと夫の嘆かう
藤田       操
若者の最期を看取る当直を終えきて汝の一日つつしむ
松内     喜代子
尊属の逝き給うなかただ一人世にある叔母の記憶に吾無し
安井     忠子

 

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