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選 者 の 歌 |
桑岡 孝全 |
かりそめのえにしのありてわがもとに来りていつのまに媼顔 |
点眼し服用し塗布する朝の日課七十七はめでたくもなし |
軟膏の小瓶倒るるままに明けて小瓶に軟膏がねそべっている |
よき報道なしとメディアを斥(しりぞ)くる老は嘗ての世にも居けんか |
奥山のほろびし家の六畳に臥す錯覚のありてまどろむ |
行年四十六美術教師の遺作展に暑き日なかをきたりむなしき |
中村佳文蜘蛛膜下出血にて早世す声量大にして愛されし教師 |
湧 水 原 (40) |
伊藤 千恵子 選 |
奥嶋 和子 (利尻 ・ 礼文) |
67年間ありがとうと書かれたる校舎のありぬ夏草のなか |
雪を踏む音と風ふく音ばかり午後四時の旭岳頂近く |
足跡につきて行けども思わざる深さに沈む長靴の足 |
枯色の残るサロベツ原野にて初めてを見る大花の延齢草 |
海近き道につらなり立てるもの発電の風車三十七基 |
昨日ふたつ葬りのありてこの島の人口減をガイドの嘆く |
島に一つある信号はいつも青学習用だとガイドの語る |
期待するレブンアツモリ花未だ起伏ある野は枯れ色のまま |
気温五度15メートルという風に吹き飛ばされそうスコトン岬に |
底までを澄むというなる澄海岬(すかいみさき)撮られる髪は風に逆立つ |
佐藤 千惠子 (南イタリア) |
オープンザドアを叫びて援けを待つ旅の初めのハプニングなり |
太陽の道と名づくる高速路眩しみながらバスは南下す |
雲間より微かに見えて大河ありまつわる支流蜘蛛の巣めきぬ |
収穫終る葡萄棚より煙あがる作業の人の影は見るなく |
早朝をアルベルベッロの駅に向かうサラリーマンの急ぎ足せる |
街角にゴミの積まれるナポリのみち赤旗掲げゆける一団 |
手漕ぎ船の船頭ら歌うサンタルチア洞窟に響く声の哀しく |
ポンペイの遺跡日差しの眩しくて悲劇めきたる匂いのあらず |
ヴァチカンの高き城壁仰ぎつつ国境の白線跨いで渡る |
白杉 みすき (紀北一日) |
水子供養の面あどけなき六地蔵青葉蔭する水辺に立たす |
内陣の薄暗がりに馴染みたるわが目に眩し六月の風 |
紀の川を隔てて仰ぐ竜門山学生われら心寄せにし |
大寺の屋根より高きに石の鳥居構え産土神を祀れり |
畑つもの露天にひさぐ媼あり旬のすぎたるデコポンまじる |
山裾の緑のなかに入りゆけり巡礼らしき白き一団 |
争いて麻酔の人体実験に参ぜし嫁と姑の石 |
召されたる御殿医を辞し青洲は実験に盲いし妻を看とりき |
長谷川 令子 (思わざる) |
わが胸の映像を指して説く医師に真向かいて息子しかと頷く |
カーテンを洗い藤蓆(とむしろ)広げ敷く術後のわれの暮らし信じて |
病名も受くる手術も告げえずに明日から留守とメール打つのみ |
看護師の足にドア開く手術室高き処置台の上にわれあり |
ひんやりと時空の感覚取り戻し息子らの待つ病室へ向かう |
いたつきの管引きて聞く音程の少し外るるミニコンサート |
たち帰る家に緑の影さしてゴーヤ伸びたり背丈がほどに |
春名 重信 (美作探訪) |
樹の枝を避けゆくバスの窓に見る崖の裂け目につつじ満開 |
歌会の席に居合わす井辺さん中学以来六十年ぶり |
林野へ五里の道程自転車を漕ぎて来たりし六十年むかし |
足ゆるく津山の城の跡に来て幾年ぶりか石垣の上 |
松内 喜代子 (選挙) |
講援会会長夫の挨拶を幾たびか聞く動悸しながら |
応援を頼みて歩く若きらの早き歩みについていけない |
おじいちゃんの応援してる候補さんポスター指して孫の言いたり |
開票の結果待つ間の長し長し候補の父は静かに立てり |
当選の一夜の明けて立つ庭にチューリップの花とりどりに咲く |
森本 順子 (近江坂古道と深坂古道) |
酒波寺(さなみ)へ若狭の僧が経よむと馬で通いし四百年前 |
熊よけの鈴ならしつつ若萌のブナの林を尾根伝い行く |
若狭への大日岳の道さがすコバイケイソウ群がる中に |
熊よけの鈴たしかめて目路のかぎり若葉の茂る古道に入る |
川沿いの古道は草の刈られたり浦島草を数本残し |
地蔵尊に塩供えあり敦賀より運びし道の名残とどめて |
福井側は広葉樹林峠より滋賀県側は杉林となる |
越前の荷を近江へと中つぎして賑わいたりし沓掛問屋 |
山口 克昭 (舗装道路) |
家を棄て街の便利を選みたる兄の便りにさみしと記す |
手伝いて親と植えにし杉山に人手及ばず木の下闇なす |
朝明けの秣刈場に露負いて匂うささゆり刈り残されき |
休暇毎二人の兄が谷間に町方ぶりを持ち帰りたり |
男の子三人を連れて山仕事かなわざりしと父の日誌に |
降る雪の谿より尾根に吹き上ぐる能登越中の境の生まれ |
黒ずめる竈の跡の消ゆるなしわがふる里は遺跡になりつつ |
人住みてありし名残と一筋の舗装道路が谷に入りゆく |
山口 聰子 (オペ) |
事一つ終えたるごとく今はもう心静かにオペの時待つ |
我よりも案ずる夫かとも思う広き背広を窓辺に見せて |
息つめて一歩また一歩ふみしめて部屋のトイレに初歩みする |
最高階の窓に展がる風景はみな新鮮で懐かしく見ゆ |
常ならば多忙にあらんこの時刻ベッドにあるを安しともする |
■ 推奨問題昨 (23年8月号) 編集部選 |
現実主義の可能性の拡大をめざして |
雪深く積りて鹿はあちこちに痩せ衰えて斃れていたる |
井辺 恵美子 |
再びを連れ帰ることあるまじと振り返る庭は花盛りなり |
小倉 美沙子 |
安全と言い募る根拠を学ぶ無く見ぬふりの一人なりし吾かも |
許斐 眞知子 |
後備役の軍曹の分隊は長以下七名雨の密林に臥すままなりき |
坂本 登希夫 |
祖母の告げたりしは国領川に干せる如く死体並びき明治のみ代に |
田坂 初代 |
倒れ来るを支えつつ書棚と諸共に揺れてその場は凌ぎ得たりと |
高島 康貴 |
都心より徒歩で帰宅を急ぐ群れ戦時の空襲の後のごとくに |
高間 宏治 |
三年兵は東京出身酔えば関東震災復興節うたいき |
竹中 青吉 |
今日よりは夏掛け布団を用いんに麻の感触言う夫の亡し |
鈴木 和子 |
遠き東に地震でありき六階にてメニエル病と錯覚せしは |
安井 忠子 |