平成23年10月号より

 

            選     
   桑岡   孝全
かりそめのえにしのありてわがもとに来りていつのまに媼顔
点眼し服用し塗布する朝の日課七十七はめでたくもなし
軟膏の小瓶倒るるままに明けて小瓶に軟膏がねそべっている
よき報道なしとメディアを斥(しりぞ)くる老は嘗ての世にも居けんか
奥山のほろびし家の六畳に臥す錯覚のありてまどろむ
行年四十六美術教師の遺作展に暑き日なかをきたりむなしき
中村佳文蜘蛛膜下出血にて早世す声量大にして愛されし教師
               湧   水   原   (40)
                                                            伊藤  千恵子   選
   奥嶋   和子               (利尻  ・ 礼文)
67年間ありがとうと書かれたる校舎のありぬ夏草のなか
雪を踏む音と風ふく音ばかり午後四時の旭岳頂近く
足跡につきて行けども思わざる深さに沈む長靴の足
枯色の残るサロベツ原野にて初めてを見る大花の延齢草
海近き道につらなり立てるもの発電の風車三十七基
昨日ふたつ葬りのありてこの島の人口減をガイドの嘆く
島に一つある信号はいつも青学習用だとガイドの語る
期待するレブンアツモリ花未だ起伏ある野は枯れ色のまま
気温五度15メートルという風に吹き飛ばされそうスコトン岬に
底までを澄むというなる澄海岬(すかいみさき)撮られる髪は風に逆立つ
   佐藤   千惠子               (南イタリア)
オープンザドアを叫びて援けを待つ旅の初めのハプニングなり
太陽の道と名づくる高速路眩しみながらバスは南下す
雲間より微かに見えて大河ありまつわる支流蜘蛛の巣めきぬ
収穫終る葡萄棚より煙あがる作業の人の影は見るなく
早朝をアルベルベッロの駅に向かうサラリーマンの急ぎ足せる
街角にゴミの積まれるナポリのみち赤旗掲げゆける一団
手漕ぎ船の船頭ら歌うサンタルチア洞窟に響く声の哀しく
ポンペイの遺跡日差しの眩しくて悲劇めきたる匂いのあらず
ヴァチカンの高き城壁仰ぎつつ国境の白線跨いで渡る
   白杉   みすき              (紀北一日)
水子供養の面あどけなき六地蔵青葉蔭する水辺に立たす
内陣の薄暗がりに馴染みたるわが目に眩し六月の風
紀の川を隔てて仰ぐ竜門山学生われら心寄せにし
大寺の屋根より高きに石の鳥居構え産土神を祀れり
畑つもの露天にひさぐ媼あり旬のすぎたるデコポンまじる
山裾の緑のなかに入りゆけり巡礼らしき白き一団
争いて麻酔の人体実験に参ぜし嫁と姑の石
召されたる御殿医を辞し青洲は実験に盲いし妻を看とりき
   長谷川   令子               (思わざる)
わが胸の映像を指して説く医師に真向かいて息子しかと頷く
カーテンを洗い藤蓆(とむしろ)広げ敷く術後のわれの暮らし信じて
病名も受くる手術も告げえずに明日から留守とメール打つのみ
看護師の足にドア開く手術室高き処置台の上にわれあり
ひんやりと時空の感覚取り戻し息子らの待つ病室へ向かう
いたつきの管引きて聞く音程の少し外るるミニコンサート
たち帰る家に緑の影さしてゴーヤ伸びたり背丈がほどに
   春名    重信                   (美作探訪)
樹の枝を避けゆくバスの窓に見る崖の裂け目につつじ満開
歌会の席に居合わす井辺さん中学以来六十年ぶり
林野へ五里の道程自転車を漕ぎて来たりし六十年むかし
足ゆるく津山の城の跡に来て幾年ぶりか石垣の上
   松内   喜代子               (選挙)
講援会会長夫の挨拶を幾たびか聞く動悸しながら
応援を頼みて歩く若きらの早き歩みについていけない
おじいちゃんの応援してる候補さんポスター指して孫の言いたり
開票の結果待つ間の長し長し候補の父は静かに立てり
当選の一夜の明けて立つ庭にチューリップの花とりどりに咲く
   森本   順子                  (近江坂古道と深坂古道)
酒波寺(さなみ)へ若狭の僧が経よむと馬で通いし四百年前
熊よけの鈴ならしつつ若萌のブナの林を尾根伝い行く
若狭への大日岳の道さがすコバイケイソウ群がる中に
熊よけの鈴たしかめて目路のかぎり若葉の茂る古道に入る
川沿いの古道は草の刈られたり浦島草を数本残し
地蔵尊に塩供えあり敦賀より運びし道の名残とどめて
福井側は広葉樹林峠より滋賀県側は杉林となる
越前の荷を近江へと中つぎして賑わいたりし沓掛問屋
   山口   克昭                   (舗装道路)
家を棄て街の便利を選みたる兄の便りにさみしと記す
手伝いて親と植えにし杉山に人手及ばず木の下闇なす
朝明けの秣刈場に露負いて匂うささゆり刈り残されき
休暇毎二人の兄が谷間に町方ぶりを持ち帰りたり
男の子三人を連れて山仕事かなわざりしと父の日誌に
降る雪の谿より尾根に吹き上ぐる能登越中の境の生まれ
黒ずめる竈の跡の消ゆるなしわがふる里は遺跡になりつつ
人住みてありし名残と一筋の舗装道路が谷に入りゆく
   山口   聰子              (オペ)
事一つ終えたるごとく今はもう心静かにオペの時待つ
我よりも案ずる夫かとも思う広き背広を窓辺に見せて
息つめて一歩また一歩ふみしめて部屋のトイレに初歩みする
最高階の窓に展がる風景はみな新鮮で懐かしく見ゆ
常ならば多忙にあらんこの時刻ベッドにあるを安しともする
              ■  推奨問題昨  (23年8月号)   編集部選
                      現実主義の可能性の拡大をめざして
雪深く積りて鹿はあちこちに痩せ衰えて斃れていたる
   井辺  恵美子
再びを連れ帰ることあるまじと振り返る庭は花盛りなり
   小倉  美沙子
安全と言い募る根拠を学ぶ無く見ぬふりの一人なりし吾かも
   許斐  眞知子
後備役の軍曹の分隊は長以下七名雨の密林に臥すままなりき
   坂本  登希夫
祖母の告げたりしは国領川に干せる如く死体並びき明治のみ代に
   田坂  初代
倒れ来るを支えつつ書棚と諸共に揺れてその場は凌ぎ得たりと
   高島  康貴
都心より徒歩で帰宅を急ぐ群れ戦時の空襲の後のごとくに
   高間  宏治
三年兵は東京出身酔えば関東震災復興節うたいき
   竹中  青吉
今日よりは夏掛け布団を用いんに麻の感触言う夫の亡し
   鈴木  和子
遠き東に地震でありき六階にてメニエル病と錯覚せしは
   安井   忠子

 

 

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