平成19年10月号(木善胤追悼特集)

 

木善胤

              年 譜

昭和四十三年以後  短歌関係抜粋

昭和四十三年(一九六八)四十八歳

  大村呉樓八月一日近畿中央病院において死去。関西アララギ発行人 を担当すること となる
昭和四十五年(一九六八)五十歳
  近畿中央病院副院長となり、貝塚分院を廃止して堺の本院へ集結、統合を完了する。 昭和四十六年(一九六九)五十一歳
   国際結核会議出席のためモスクワ及び欧州各国を歴訪。日本歌人クラブ入会
昭和四十八年(一九七三)五十三歳
  十一月、熊野中辺路斎藤茂吉歌碑除幕式に出席輝子未亡人茂太博士ほか関西アララギ会員多数列席
昭和四十九年(一九七四)五十四歳
  大阪歌人クラブ創立。常任理事として規約起草、組織確立につとめる
昭和五十二年(一九七七)五十七歳
  甲状腺及び前立腺肥大手術。沖縄医療視察。大阪文化団体連合会設立幹事 として尽力
昭和五十三年(一九七八)五十八歳
  第一歌集『黄金樹』を上梓十月十二日読売新聞文化欄「民衆の短歌」執筆
昭和五十五年(一九八〇)六十歳
  現代歌人協会会員に推される住吉大社献詠選者委嘱さる。国際ロータリー75周年式典出席のためシカゴ、ほか米国各地巡遊。結腸ポリープを級友神前五郎教授の執刀によって手術。
昭和五十六年(一九八一)六十一歳
  関西アララギ四百号近鉄短歌教室の講師に就任国鉄歌人会で講演。近畿中央病院長に昇任。
昭和五十七年(一九八二)六十二歳
大阪歌人クラブ『大阪万葉集』の編集・上梓にあたる。日本歌人クラブ講演「歌の重みと軽み」。府医師会歌会講師。堺東ロータリークラブ会長。
昭和五十八年(一九八三)六十三歳
  近畿結核胸部疾患学会長。
昭和五十九年(一九八四)六十四歳
再渡米ラスベガスほか。NHK短歌教室講師読賣歌壇選者就任。近畿中央病院創立二十周年記念行事。国立病院全国学会を大阪市で開催、副会長として設営にあたる。
昭和六十年(一九八五)六十五歳
  関西アララギ四百五十号
昭和六十一年(一九八六)六十六歳
  三月三十一日近畿中央病院退官名誉院長の称号を受け病院前庭に職員有志による歌碑建設四月十九日に歌碑除幕式・記念パーティ第二歌集『わざうた』を上梓
大阪市大淀区長柄東へ転居。
  【近畿中央病院前庭の歌碑】
  二つ病院一つとなりて建ちすすむここに新しき医学の栄ゆ  善胤
昭和六十三年(一九八八)六十八歳
  大阪歌人クラブ会長に就任四月大村呉樓歌碑を池田市久安寺に建設
平成元年(一九八九)六十九歳
  関西アララギ五百号 (五月) 特集十一月大台・奥吉野宿泊吟行
平成二年(一九九〇)七十歳
  十二月土屋文明先生死去
平成三年(一九九一)七十一歳
 六月杉原弘・五月サダコ、六月大村房子死去。六月赤穂岬宿泊吟行土屋文明追慕特集(九月号)、大村房子・杉原弘追悼(十一月号)
平成四年(一九九二)七十二歳
  一月房総巡り宿泊吟行五月白浜宿泊歌会五五〇号記念特集(七月号)十月五五〇号記念秋季大会(なにわ会館)同万葉大和を歩く吟行十一月木善胤博士叙勲祝賀、「花きささげ」出版記念会
平成五年(一九九三)七十三歳
 四月鳥羽宿泊吟行十月備後出雲宿泊吟行
平成六年(一九九四)七十四歳
  八月夫妻で南米巡遊。十月三重国民文化祭短歌大会(津市文化会館)に選者として出席。
平成七年(一九九五)七十五歳
  一月十七日阪神淡路大震災。震災消息(三月号)、四月大村呉樓生誕百年法要(池田市久安寺)与謝野晶子文学賞の制定会長となる関西アララギ編集責任者に桑岡孝全
平成八年(一九九六)七十六歳
  五月創刊五十周年六百号を祝う記念式典七月土屋文明を偲ぶ吟行(群馬県保渡田)土屋文明記念文学館ほか九月創刊五十周年六百号記念特集号
平成九年(一九九七)七十七歳
  二月「関西アララギ土屋文明作品研究」発刊六月関西アララギ不変持続の発表九月「アララギ終刊問題の顛末」短歌新聞
平成十年(一九九八)七十八歳
  一月「何がアララギか」特集四月祖谷渓宿泊吟行
平成十一年(一九九九)七十九歳
  四月琵琶湖巡り筧裕画伯追悼(十月号)
平成十二年(二〇〇〇)八十歳
 ミレニアム。表紙デザイン、カット担当山口克昭。七月満八十歳。十月大阪歌人クラブ秋の大会において「土屋文明の死生観を読む」講演。十月地下鉄天満橋駅で倒れ後頭部打撲行岡病院一週間入院。
平成十三年(二〇〇一)八十一歳
  一月新年歌会に出席。六月歌集『閑忙』出版記念会延期。近鉄短歌教室、鳳千種歌会の講師を井戸四郎と交代。七月の発行所便りに自宅静養。八月閑忙出版記念会・歌会(延期)。『閑忙』特集(九月号)短歌現代』十月号巻頭二十五首出詠
平成十四年(二〇〇二)八十二歳
  一月号別冊付録「新世紀斉唱」出詠新年歌会出席四月美作宿泊吟行大原歌会出席
平成十五年(二〇〇三)八十三歳
 一月新年歌会出席同住吉大社献詠選者会。十月三十日加納病院入院。十二月口髭を剃る。
平成十六年(二〇〇四)八十四歳
 五月退院自宅静養。十二月旭区藤立病院入院、静江夫人同病院入院。
平成十七年(二〇〇五)八十五歳 三月夫婦、藤立病院退院。
平成十八年(二〇〇六)八十六歳
 九月十日幸成園入院。(二月静江夫人、幸成園へ転院)。
十月十三日脳梗塞で城東中央病院入院IPU室
十月二十五日午前八時三十分死去、行年八十六歳。同日午後六時三十分、北玉泉院において通夜
二十六日午後二時同院で告別式法名 善学朗詠居士。         

 追 悼 記
  木氏を思う
      宮地 伸一


 もうすべて記憶が茫漠としている。木善胤氏と知りあうようになったのは、戦後であるに違いないが、それがいつ頃かは、はっきりしない。あるいは昭和三十一年の九州の英彦山安居会に出合ったあたりからであったかと思う。この時は帰りに船に乗って親しく話したのを記憶する。そして私にとって特に印象的な思い出となっていることがある。
 それは、昭和三十二年の三月初め、五味保義氏と青山の土屋文明先生のお宅をたずねた時のことだ。私のおそい結婚の報告とその結婚式への出席をお願いするためであった。うかがうと、土屋先生は訪問中の木善胤氏と将棋の対局中で、それが一段落するまでしばらく待たされたのである。そして用事がすんで帰る時は、渋谷の駅まで木氏と一緒に歩いた。私の結婚の話は、アララギ会員のなかでは木氏に一番早く知られることになったのだ。そんなことを重大視するわけではないが、私にとっては忘れられない思い出になった。
 木氏は、アララギに対して常に意見のある人であった。昭和四十二年以後の東京のアララギ夏期歌会ではその終了後によく論じあったのを記憶する。彼は常に進歩的革新的な意見であったことは言うまでもない。しかしその作品が必ずしも意見と平行するものではなかったとも言えよう。
 これはまだ大村呉楼氏が元気な頃のことだが、いつだったか今調べるひまもないが、土屋先生が京都の歌会に出席した時に、小暮政次氏と私もおともをした。そしてその歌会の終了後に先生の泊まるホテルとは別の場所で懇談会が開かれ、大村氏のほかに中島栄一、高安国世、鈴江幸太郎などの文明系の人達が集まっていろいろ話した。その時、中島氏が大村氏に対して「関西アララギは、あんたのあとは誰にやらせるのか」と問いつめ「あの木君か」と言った。大村氏は言いなずみつつも「いや木君とは決めていない。私もそこまで信用しているわけではない」と言われた。これは全くの記憶で書いているので、実際の話とはニュアンスに多少の違いもあろうが、話の内容に誤りはないはずである。
 しかし結局、大村氏のあとは木氏が関西アララギの中心になった。これは当然のことでもあった。そして木流のやり方も、目立つようになった。関西アララギの作者は、新仮名に統一すべしというのは、私もその時に一文を書いたが、いささか強引なやり方であったと思う。だから関西アララギでは新仮名、新アララギでは旧仮名という仮名遣いの二重生活を今でもやる作者もいることになる。
 木氏の最晩年のことは、よく知らないが、作歌も続けられず不幸であったのではないかと思う。どうも医師で歌人の人は、私どもの周囲を見ても、長寿を全うせずに早く亡くなる人が多いようだ。木氏とは同年生まれのはず。私はのうのうと生きている。

  早口の短歌
      安田 純生 


 木善胤氏と初めてお会いしたのは、一九八一年四月二十五日だったと思う。その日は豊中の市民会館で大阪歌人クラブの春の大会があり、私は、招かれて北摂の歌枕についての講演をした。会場で木氏にお会いし、早口で話されるゆえだろうか、エネルギッシュな歌人だなあという印象を受けたことを記憶している。それから間もなく私は大阪歌人クラブの役員にしていただいた。その後は、年に何回か同クラブの集まりで木氏とお会いするようになり、大阪歌人クラブ以外にも、関西短歌雑誌連盟の「春の短歌祭」や、住吉大社の献詠祭など、短歌大会でご一緒することが多くなった。また、私の発行する「白珠」の創刊四十周年記念の大会や、五十周年記念の大会にもご出席いただいている。
 そういった折々に、短歌のこと、かつての大阪の歌人のことなど、いろいろな話をうかがってはいるけれど、今、思い返してみると、お会いした回数の割には、ゆっくりと話をうかがったのは、それほど多くなかったようにも思う。そういう機会は、いくらでもあったはずなのに、木氏が私の父と同年の生まれで、年齢が離れているため、私の方に何か遠慮する気持ちがあったのかもしれない。残念なことである。
 早口で話されるという印象を木氏に対して抱いたことは前記したが、その印象は、木氏の歌集を読んだときも変わらなかった。早口で何かを主張しているような歌が少なくないので、歌集を読んでいると、現実に木氏とお会いして話をうかがっているごとき感じがするのである。早口の歌とはどういう歌なのか。それは、破調表現、とくに字余りが多いという点と大きく関係している。たとえば、最後の歌集となった『閑忙』の、
 向井千秋さんのみ招かれしかと惑うまで朝日新聞の園遊会の記事
という歌を「向井千秋さん/のみ招かれしかと/惑うまで/朝日新聞の/園遊会の記事」と切って読めば、八・九・五・八・九になるから、定型に収まっているのは第三句のみである。こういう歌を享受するとき、定型意識の強い読者は、五拍を読む時間で八拍を、七拍を読む時間で九拍を読もうとするので、個々の語を早く読むことになる。早く読んでいるのは実は読者の方なのであるが、歌自体が早口の物言いであるような感じを受けるのである。
 現実には、確かに、そうではあるのだけれど、木氏の短歌を読んでいると、早口であった氏の声が聞こえてくるような気がしてしまう。同じく『閑忙』には、
  花に寄る歌の世界を恋うれども汚なき現実にむらむらとなる
という歌(これも第四句が九拍)もあるが、この世の「汚なき現実」を見聞きして「むらむらと」なった心は、どうしても定型のリズムに収まり切らず、早口の物言いになったとも思えるのである。

  追悼 木善胤先生
      猪股 靜彌 

 尊敬する歌人・木善胤先生が冥府に赴かれた。ここに謹んで追悼の思いを綴らんとしてペンを執った。
 先生にさいごにお会いしたのは、わたしが関西アララギの歌友と共に、大和路の吟行をはじめた当初の頃であった。二回目であったろうか、奈良町から高畑あたりの古社寺中心の文学散歩風の吟行会であった。元気な木先生も同行して下さった。近鉄奈良駅近くで会の解散をしたあと、久しぶりにお会いしたと言うのでお茶をのもうということになった。土本さんが参加して下さって三人、駅近くの地下の喫茶店に落ちついた。元気な木先生と時に高笑いしながら久闊の歓談が続いた。わたしは昭和四十年の吉野山安居会の夜、大村呉楼先生と吉田正俊先生が碁を打っていた秘話を物語ったことを覚えている。談半ばにして、国手・木先生が前立腺に悩んでいると言う告白をお聞きした。わたしはどんな病気か知らなかったので尋ねてみると、残尿感とか種々医学用語で説明をしてくれた。全く親密な心の通うお茶の会であった。あの日の口ひげ鮮やかな木先生が、今もよみがえってくる。
 その後、関西アララギの「発行所だより」や歌友会員から先生の病臥のことを聞き知ったが、雑事にかまけてお見舞にまいることもせず、またご葬儀の節は折悪しく都合つかずに参ずることもせず礼を失して今日に到ってしまった。今、わたしは、奈良でお会いした日の元気な木先生の面影に向って、失礼のおわびを申し上げ、かつ、永年の友誼のご指導に感謝の御礼を綴っておきたい。
 平成七年の春の一夜であった。わたしは電話で木先生に「関西アララギ」の誌面に万葉関係の拙文を連載させていただけませんかと懇願してみた。わたしは編集委員が運営されていること故、あるいは無理かとも思ったのであるが、生来の厚顔無恥のあつかましさで直訴したのであった。木先生は即決「いいよ」とご快諾をいただいたのであった。当夜のわたしのよろこびを、ここではじめて告白する次第である。爾来、編集委員の皆さん、とりわけ拙文をうって下さる桑岡詞兄のご尽力で、わたしの「万葉雑話」を関西アララギ誌上に連載させていただいた。そして平成十六年『万葉百話・木簡は語る』と言う表題で一書の上梓となることができた。会員の皆さんにもたくさんご購読いただき、世の書評らんにも望外の好評をもって迎えられたが、その原点に、あの夜の木先生の電話の声のご快諾のあったことを思い、今改めて感謝の思いをここに綴っておきたいのである。
 関西アララギは本年で六十二巻。六十二年前に大村呉楼主宰でアララギ地方誌の一誌として発足。そのはじめは大村氏のアララギにおける力量、知名度に会員が参集したのであろう。傍観者ながらわたしの知る関西アララギが、実質的に地方誌の雄として、またアララギの歴史において最大の業績を樹立したのは「土屋文明作品研究」と題する短歌合評の連載であったと思う。
 短歌の合評連載と言う事業は、まずは合評歌の選出、続いて合評参加の歌友の選出、その連絡、そして到着の原稿編集という経過を経ることになる。しかし、その経過を文字で要約してみれば五十字前後であるが、現実の作業は大変な労苦を要するのである。しかもその作業を毎月毎月、何十年と継続するのである。関西アララギの文明短歌合評事業の衝に当ったのは木善胤先生であった。合評連載の最終回(四三七回)に大事業を回顧して木先生の述懐がある。

 昭和二十八年夏、土屋先生を訪問した折に出版したばかりの「自流泉」を頂戴し、当時小生が編集していた愛媛アララギ誌上で早速研究を始め、翌秋小生が大阪へ帰住した後もその研究は続いた。大阪においてもその研究を引き継ぐべく、関西アララギ昭和三十一年六月号から「自流泉以後研究」として開始し、以来三十八年余に亘った通算四三七回の勉強を成し遂げた。本号を以て土屋先生の作品の終着点に達し得たことに無量の感慨を覚えるのである。(後略)

 三十八年間の大事業を完遂した感動が惻惻と迫る名文である。わたしの知る木先生の文章のさいごである。合評参加の歌友はすべて五百余人と言うが、今は主催した木先生が亡く、わたしの友人であった安達龍雄、山村公治、前田定雄、寺井民子、田中栄君らも鬼籍。彼らも木先生を冥府に迎えて、関西アララギ時代の回顧談を交えているのではあるまいか。
 木先生は短歌実作者として、また歌誌編集者として、明確な歌論、哲学を堅持して居られた。いち早く短歌表現は今使用され生きている口語表現を可とし歌誌の表記を統一した。今頃、口語表記と文語表記混合の歌誌も散見されるが一本化したのは関西アララギを嚆矢とする。また先生は「現実主義の可能性の拡大」という名言をもって作歌の指標とした。
 五月号の「西東通信」によれば、四月一日に津山秀夫・コーディネーター、桑岡・鶴野両氏パネリストの木短歌研究会が行われたと言う。わたしは、この追悼の文中に木先生の短歌作品にはふれることなく終ろうとしている。木短歌の研究は後に続く現関西アララギの責務ではあるまいか。わたしは自動車には乗れないが、車を運転する人は、前進する為にバックミラーを注視する。ここに木先生に恩顧をいただいた歌友が相寄って追悼の文を捧げるのは、明日の関西アララギの発展を誓うことではじめて意義が存するのではあるまいか。わたしは恩顧をいただいた木先生を心から追悼すると共に、明日からの関西アララギの益々の充実発展を祈念する次第であります。 (四月二十九日)

  はっきりものを言う歌人
      豊田 清史 


 わたしが氏にお目にかかったのは、昭和の終りから平成の始めにかけての数年間であった。木さんは日本歌人クラブの関西代表、わたしは中国地方の代表として、クラブの東京での委員会で三回くらい会い、二人は気心が合ってすぐ意志が統合し親友になった。長身で、あの鋭い顔に黒いチョビ髭はよく似合った。もう一つこの人と仲良しになった事情があった。それはわたしの村(広島県神石高原町古川)から出て、大阪帝大を出て、大阪府立病院長等をつとめた田辺孜(つとむ)医師が居り、この人と木さんは大学の同窓であり、田辺さんも歌を作っており、この夫人田辺恵美子さんは「潮音」の同人だったので、田辺夫妻と木さんはどちらも早くから歌人のつきあいがあったと、双方の本人から聞いていた。
 田辺孜氏は中国山脈の山懐に育ち、広島市の第二中学で学んだが、成績はつねに二番を占め、この点比較するのはややためらうが同じ同窓生の近藤芳美(牙美が本名)は中以下であった。それと田辺恵美子夫人とわたしは主人孜氏の墓まいりに、わざわざ中国地方の広島県の山奥にみえた時、関西の歌壇事情を聞くと共に、主人孜氏の「メスと共に」の遺著も受贈、今も大切に架蔵している。
 もとにかえり木さんのことであるが、この人は決めつけるようにものを言われるので、日本歌人クラブの中央幹事会で、会長の水上正直氏といさかいがあった。木さんは「会長の独断をいましめ、もっと地方の実力歌人を役に容(い)れよ」との進言であったが、気性のつよい会長は、怒って「そんな言は無礼ではないか」と声を荒らげられたが、その時の幹事二五名は、みな木さんに拍手をおくった。わたしも木さんの勇気に力を得て、「全国を地域ブロックに分け、地方であってもすぐれた歌集は生まれており、その地域の優良歌集制を設けられよ」とつよく進言し、今日に見る地域ブロックの優良歌集表彰が実現した。このわたしの提言も、一に木善胤さんが民主化のプロリュームを放って下さったお陰だと思っており、歌人としても木さんは得がたい正論を主張する士であった。
 (短歌と評論誌「火幻」主宰・ヒロシマの心を貫く文学の会会長)

  歌人木善胤いろいろ
      浦上 規一 


 先月、他誌に「土屋文明い(・)ろ(・)い(・)ろ(・)」として短文を書いたので、今回もこのような題で拙文を綴ろうと思う。
 文明選歌 私たち(木さんと私は同年の生れ)の若い頃は、短歌と言えばアララギで、アララギは土屋文明選であった。私は戦争末期に短期間、斎藤茂吉選に送稿、敗戦後は文明選へ、そして『未来』創刊以後は近藤芳美選歌欄へ送ってきたが、木さんは、終始文明選を受け、それは「アララギ崩壊」までつづいた。その点一貫一徹の歌人である。短歌を書き始める人は、必ず何かマイナス要因から始めている。私の場合は戦争と、その後の長い闘病生活だが、木さんの場合も戦争と、療養所・病院勤務が作歌の源になっていると思われる。原爆二個とソ連の参戦によって戦いは終ったが、米国大統領は当時、南九州上陸作戦を承認していた(防衛大学校長五百旗頭(いおきべ)氏。毎日新聞)。その時木さんは、南九州海岸の防備隊で軍医として訓練中であった。志布志湾岸の砂礫になるところだったよと、かつて本人から聞いたことがある。
 昭和万葉集 講談社刊の巻十に次のような三首がある。
  看(み)護(と)りつつ誓へる君らの愛情のくづれ行くさまも吾が傍看す
  ヒドラジットも効かざる君と告げやらむ常に真実を伝へ来しかば
  痰コップ持ちて重症者もデモに行き蓆の上にはだへをさらす
 脚註に、ヒドラジット=合成抗結核剤云々とあり、はだへ=肌。はだ。と丁寧にある。同じ巻十には拙作「平和条約成りしといへど戦に得たる吾が病癒ゆることなし」も載っており、そのページの脚註には、「講和の発効」や「血のメーデー」について詳しい解説が見られる。木作品の一、二首はアララギ昭和27年4月、10月号。三首目は同29年10月号で、拙作は同27年7月号からの転載。当時の拙作には「患者の要求は看護婦を苦しめるばかりだと話しつつ看護婦ら皿を積上げてゐる」などもあり、行政、療養所当局、医官、看護婦、患者らそれぞれの利害、要求が交錯して、患者らの県庁舎へのデモも起こり、生活保護費をめぐっての憲法訴訟(朝日訴訟)そしてその第一審の勝利といった、まさに激動の時代であった。記せばきりがない。

 堀田清一さん 『大阪短歌歳時記』(一九八九年、平成元年、大阪歌人クラブ刊)に十首ある堀田作品から三首。
  汽車の窓に六甲の山迫りたり生きて還りぬ生きて還りぬ  (昭和21年)
  わが町を十丁目筋とよびし人なくなりせいもんばらひの言葉も消えぬ  (天神橋)
  下山事件の日に生れぬサマータイム午後七時なりき今日嫁ぎゆく
 「堀田清一さん」を見出しとするのは私にとってわけがある。四捨五入九十歳という齢になってくると、物忘れが甚だしいので何時のことか漠とするが、それは温かい日であった。亡妻敏子と、堀田家を訪れたことがある。病に伏せっていると聞いての見舞いであった。アララギの歌人には知人が多いが、この三首目の結婚式に或いは出席したかも知れない。ともかく当日、天神橋にある堀田家の病室で話しているうちに、木さんも丁度その頃入院中で、場所は大阪大学附属病院だと知った。早速訪ねた病室で、夫人ともども短歌に関わる長い長い話を交わすことになった。「木善胤」の名は早くからアララギで知っていたが、直接顔を合せての話はそのときがたしか初めてであった。大阪歌人クラブへの入会をそこですすめられ、その縁で入会し、その後、飯田棹水事務局長のあとを四代目局長としてしばらく席を汚すことになる。
 歌人クラブの吟行会 大阪歌人クラブの行事の中での木会長の思い出もいろいろあるが、何度か同行した短い旅の記憶がもっとも印象深い。周山街道を経て若狭。高野山。松花堂庭園から石清水八幡。和歌浦。などなど。たまたま手元に和歌浦吟行会で書き入れた筆書和紙綴りの歌帖があるので、それを見ると、一九九二、九、三〇(水)の日付のあと、一ページ目に、
  米提げて蜜月の旅にやどりにき戦争にさびれし新和歌の浦  善胤
 と達筆一首があり、つづいて山本菊一(?)萩本阿以子、北川富美子、坂口福男、山田都子、川上政子、みづほ、北川ふみ子、熊代正子、戸田都志子、浜田久仁子、乾 恵子、滝山光子、浦上規一らの即詠が並んでいる。養翠園、不老橋などのうたが多く、即詠の面白さが捨て難い。
 改めてかえりみて、木善胤という人は律義でやさしく、無邪気で、弱音を吐くことがなく、いつも胸を張って歩いた歌人であった。良医でもあった所以であろう。
 地球温暖化と木善胤 地球という星は、このままで行くと温暖化とそれによるCO2の増加のため、八十年ですべての生物は窒息絶滅するという。現在世界中大さわぎで、戦争をやっている場合ではない。思えばこのことを木さんは早くから言っていた。とにかく車に乗ることを極力避けていた。この点われわれは、彼から学ぶべきところが多かったと今になって改めて思う。
 第五歌集『閑忙』(平成13年6月)を今見ると、その見返し・扉辺りに、メモ様のものをいろいろ書き込んでいるので、多分わたしは一部いただいた折りに、その感想のような短文を書いているのだろうと思う。それに重複せぬよう今回は心掛けたつもりでいるが、重なっている部分があるかもしれない。
 『いろいろ』という題で書けば、まだまだ書くべきことの多いのに気づくが、この辺りでとどめることとし、最後に二首を挙げておきたい。
  水空気にごる大阪に帰り住み乾びし生をいつまでか歌ふ  (『大阪短歌歳時記』)
  曾孫と玄孫ら木善胤を先祖と思い呉れるや否や  (『閑忙』)
 狂乱怒涛の時代を長く生き得た幸せな人であった。
             (二〇〇七年六月)

  思い出すことども
      津山 秀夫

 地位や役職が人をつくるとよくいわれるが、木さんの場合は、まことになるべくしてなった大阪歌人クラブ会長であり、大きい存在であったと今更ながら思う。
 その木会長から私は理事の要請をうけ、次には事務局長もお引き受けしたのであった。旧い「国民文学」育ちの私は、世間づきあいをしないという点で「アララギ」に親近感をもっていたから、木さんが会長ということならという思いがあって、おすすめに応じたのであった。「短歌春秋」先代の多磨仁作さんが役員をしていたではないか、という木さんの説得も気を楽にした。
 後で知った人事の裏話だが、理事推薦の影の人は浦上規一氏で、多磨先輩を偲んだ私の一首「堂島川そがひに仰ぐビルの窓我ある限り亡き君はあり」を読んだためという。また事務局長の推薦者は奥田清和氏で、ご自分の身代わりとして私の名を挙げられたらしい。
 木さんは奥田氏宅に出向かれており、私の家にはお一人で見えて要請されたのである。
 木さんとの思い出はすくなくない。日記もつけず記録もないので甚だたよりないが、思い出すままにいくつかを記してお偲びしたい。木さんとは形影のような存在であったから、終始私が出てくることはお許し願いたいと思う。
 公私でいえば、木さんとの関係はすべて公ということになるが、私にはお互い歌人だという意識があった。歌よみとしての私を木さんにぶつけて反応を知りたい、共感も得たいという思いがあり、機会あるごとに胸を借るかたちでそうした話題を持ち出している。
 クラブの吟行会であったか、浦上さんも並んだ昼食の場で、「単純化とは引き伸ばすことなり」と思うが如何、と当時自得した考えを脈絡もなく口にしたところ、少し間を置いて「文明先生にもそんな意味の言葉があったな」と木さんは洩らされた。うれしかった。エッセンスで通じるのである。
 木さんが社会の問題を詠んだ歌はかねてうまいと思っていたので、無遠慮にほめたところ、「腕力が要るんだよ」と言われた。既成概念や常識と闘うには蛮勇が要ると思っていた私には納得できる言葉で、今も忘れない。又、表現上の話から「どばがに」の問題は僕が言い出したんだよ、ということも聞いた。どんな表現でも一首にとって必然性があればよいという結論になった。
 或る時、『文明百首』の最後の一首、「九十三の手足はかう重いものなのか思はざりき 労(いたは)らざりき過ぎぬ」について、小暮政次氏の鑑賞を憤然非難されたことがある。小暮氏のその文章を私が「短歌春秋」にとりあげたことから電話してこられたのである。「小暮氏は文明先生自身のこととしているが、夫人への挽歌であることぐらい彼が(門下の小暮氏が)わからぬ筈がない」というのである。主語がない表現だから一概に非難できないのではないかと私は思ったが、文明自身を詠んだものとしたらつまらぬ一首になるので、作者のためには挽歌と読むのが親切だなあとも思ったことを覚えている。
 「俳句文学館」の総会だったかに招かれて会長と二人ロイヤルホテルへ行った時のことだった。木さんはタクシーで帰ろうと言われるのに私が徒歩でとすすめて歩き出したのであるが、二人で語りながらどこをどう歩いていたのか、「マルビルが見えんなあ」という木さんの声に気が付いたら、日通のビル近くに来ていたのであった。後日、病後の木先生を引っ張り廻したと誰かに叱られた。
 木さんから私の一首をとり上げてもらったことも忘れ得ないので記しておく。
 大阪歌人の近況として毎日新聞だかに木さんが時評を執筆された際のことで、「不動心あるもあらぬも逃げ隠れならず迎ふる現実があり」という歌である。私としては思い入れの深い歌であったから、うれしく思うとともに木さんの評価のモノサシを心強く思ったのであった。
 木さんの葬儀当日、私は「大き君遂にも逝きぬ車椅子に老夫人悲しみいますが悲し」と夫人の悲しみを詠んだ。その木夫人とは何かの行事の帰り、車中でお二人と一緒になり言葉を交したことがある。夫人が私に話しかけられ木さんは笑顔で黙っておられた。
 ご夫妻のことといえば「短歌朝日」五周年記念の会?のことがある。歌人クラブに招待状がとどき、公務として交通費だけクラブで出し、会長に出席してもらうことになったが、夫人同伴で東京へ行かれ一泊されたようで、後日「僕が事務局長でも同じことをしたよ」と言われた。その後何かの会の折、あの会長が清酒の一升瓶を抱えて来て私に下さった驚きも忘れられない。
 「人の心迎へてながく来りけり歌はひたすら無愛想(そ)がよし」と詠む私である。エリートとして社会的に高い立場にある人でも、歌人である以上歌よみとしての私の評価が作品以外のことで左右されることはない。エリートである会長の木さんが、歌人としても一流の人であったことは、私にとって何よりありがたく、心から敬意をもって働かせてもらったことと、追慕していることを申し上げて拙文を終わりたい。

  颯爽たるアララギ歌人
      大西 公哉


 木氏のご逝去は当時露知らず、告別式にも参列せず申し訳ないことであった。
 さて、『黄金樹』以下六冊の歌集を遺された木氏だが、小文では専ら最後の『閑忙』に拠ることとしたい。当時の氏と同じ傘寿になった私として、それが最も氏の心に近づき得るかと思うからである。
 集中最も目を引くのは「アララギ崩壊」である。
  ・下蔭に命安らぐたいぼくの一位を倒さん企てのあり
  ・ひたすらに命拠り来したいぼくを何に早まり倒さんとする
  ・その跡に苗木を挿して老人らわらべ歌うたい囃せと云うか
  ・守り来し五十年おろそかならぬ吾が関西アララギに命懸くべし
 次の「病上手の死下手」にも
  ・老人らよろめく泌尿科病棟に癒えづく吾が胸張りあゆむ
  ・アララギをほろぼすものへのいきどおり永遠と云わんも余命いくばく
 等々と続く。これより後京都歌人協会が大会に講演者として宮地伸一氏を招んだ時、木氏も京都に来られて三人でお茶を飲んだが、その席でもまだこの件に対する忿懣は去りやらぬ口吻であった。
 「土屋文明記念文学館」で
  ・朝の日に輝く二層の壁白き土屋文明記念館今日開館す
  ・復原されし君の書斎に胸迫るこの椅子に幾たびか将棋を差しし
  ・稲そよぐ道行きて生誕の跡を尋ぬ柿一木残り青実落せる
 と詠まれているように、「お別れの日の後迅き五年半われら三十名あこがれ来りぬ」「先生の写真と文献飽かず見る追憶はしきりに涙さそいて」と正直に明かされておられるように、木氏の心酔する師は土屋文明であり、その文明が敗戦後GHQによる短歌、特に斎藤茂吉の戦争詠を理由とするアララギへの追求を慮って各地のアララギ支部に独立の結社を作るよう呼びかけたのに呼応して作られた関西アララギ、その関西アララギの長として、木氏がアララギに如何に深い愛着を抱いておられたか、『閑忙』一冊によってもそれはよく判る。木氏はその心情においても、詠風においても、生粋のアララギ歌人、丈高く颯爽たるアララギ歌人であった。
 尤も、アララギと全く無縁ではないが(戦争末期、結社絞り込みの政策により一時アララギと合併)、ポトナムに所属する私はアララギ歌会での木氏は存じ上げぬが、大阪歌人クラブ会長としての木氏も、威有って猛からず、おのずから長たる風格を具えておられ、常任理事は皆唯唯としてその方針に従い行動したことであった。
 今、追悼特集に一筆をと望まれ、禿筆を執ったのを恥じると共に、改めて木善胤氏のご冥福を祈り上げます。

   折々の姿を偲びながら
      古賀 泰子


 木先生にはじめてお目にかかったのは、たしか二十年程前だったと思う。京都で短歌に関する講演会があり、終わって阪急電車の河原町駅から乗ったところ、丁度、先生と隣り合わせに坐っていた。はじめは、その日の講演のことなど話していたが、先生が「大阪歌人クラブを知っていますね。あなたもぜひ来て下さい」と言われた。「私はお役に立つこと何も出来ないと思いますが」と申しあげると「とにかく入って下さい」と懸命におっしゃるので入会を承諾してしまった。
 理事として迎えて下さり、いろいろ勉強させていただいた。ここは明るい雰囲気であり仕事の分担もきちんとしていてとても居心地がよかった。これも木先生が会長だったからであろう。先生はとても意欲的で新しい事も考えられた。「短歌の日」を「三月十一日」とされて、その前後に「春の総会」があるようにされた。
 忘年会などでお鍋を囲んでお話をなさってもとても気さくで面白い方でありながら細やかな心遣いもされる方であった。私は、先生を少し年上の方だとばかり思っていたのに、短歌の名簿などで同年生まれ、しかも先生は八月、私は五月生まれなのでこちらの方が上であることがわかり私には驚きであった。
 お医者様でありながらご病気になられたことはどんなにお辛いことだったのかと今頃、しみじみ思い、お見舞状もさしあげなかったことが悔やまれてならない。亡くなられたことをお聞きした時は、どうしてよいのかわからず、お葬式の事も何もわからず「関西アララギ」の方にお聞きしてやっとわかったが、ご冥福をお祈りするしかなく、ご生前のさまざまな事を思い出して心を慰めるより致しかたのないことであった。
 最初に「お目にかかったのは二十年程前」と書いたが、お名前はよく存じあげていた。先生も私も戦後の有名な「土屋文明選歌」の投稿仲間であり、昭和二十一年三月創刊のアララギ地方誌「高槻」でも投稿仲間であり、先生は大村呉楼選、私は高安国世選で勉強していた。「高槻」は、昭和二十七年から高安国世編集となり、誌名も「関西アララギ」となり、現在に至っている。
 お若い頃の作品を少々あげさせて頂く。
  戦ひし日もすぎゆきて砲兵学校のひろき焼跡に氷店ならぶ  (昭・23高槻7月号)
  論文の草稿綴るかたはらにミシン踏む妻の飽くこともなく  (昭・23高槻8月号)
  安楽死(オイタナジー)をしつこくせがむ患者ありておどおどと常識論を繰返し居る  (昭・24文明選)
  僅か配給ありしマイシンの割當が醫局の今日の論爭となる  (昭・24文明選)
 漢字・かな、すべてその当時のまま、書かせていただいた。
 『白霓集』から、代表歌となる作品、
  偶然の生に必然の終りありたまゆらの虹をよろこびとして
 生前のご好誼に対して心からのお礼をこめて拙いこの文章を書かせていただいた。

  三土会(サンドカイ)とお髭
      田井中みづほ


 先生と初めてお会いしたのはもう四十数年も前のことで、京都の友人の出版記念会の帰路「薔薇」主宰の松村衣栄様から「今から三土会に行くのでご一緒しませんか」とお誘いを受け、歌を始めて間もない私は、三土会なるものがどんな会合なのか、又どんな方々が集まられるのかも深く考えもせず、唯の歌会後の飲み会ぐらいにしか思わず、軽い気持ちで南の法善寺横丁の正弁丹吾に行ったのである。
 座敷にはすでに十名程の方々がおられ、早瀬譲氏より中央は平田春一先生で、その隣りが、木善胤先生とご紹介頂き、名前は上げないが、他の方々も結社の主宰や選者をされている方と聞かされ、隅で小さくなって、私のような者の来る場所ではなかったと堅くなっていた折、はからずも声をかけて下さったのが木先生で、「堅くならなくても、気楽にして」との言葉とともに「関西アララギ」を下さって、色々と作歌についての話をして下さった。
 三土会には皆が自由に歌論や作品批評、また歌壇等の情報交換にも話題のつきることなく、所属結社の歌会とは異なる雰囲気に刻の経つのも忘れて聞いていた。中でも白カッター姿になられた木先生の姿は今もはっきりと眼底に残っている。この頃の先生には口髭はなかった。これは大阪歌人クラブ発足以前の話である。
 話かわって、木先生の口髭を初めて見たのは、四ツ橋での大阪歌人クラブの会合で、女性数人でおしゃべりをしている処へ先生が「この口髭はどう、よく似合うでしょう」と来られた。それ迄、会議中に顔を拝見しているのに、誰も髭のことに気付いた者はおらず、話題にもならず、この時はからずも異口同音に出た言葉は「似合わないから、先生、髭の無い方が良い」への返事は「僕は気に入っているのよ」であった。この髭の為に近寄り難さを覚えたのは私のみではなかった。
 しかし外見とは異なり色々の会合での批評や発言等に、陰に陽にご助言を給わり、このように丁寧に指導下さる先生のもとに作歌されている会員の皆様を羨ましく思っている。
 今、眼前に浮かぶ面影には立派な髭の面差しばかり。医師としても歌人としても、口髭は終生お似合いであった、生前の先生を語り合える人も少なくなり淋しい限りである。もっともっとご健在で、関西歌壇の先達としてご指導を仰ぎたかった。
 無限の生は無きと知りつつもご逝去は悔やまれてならない。長年にわたり大阪歌人クラブ、また東大阪市歌人クラブ等では色々とご指導を給わり厚く御礼申し上げ、心よりご冥福をお祈り申上げます。合掌

  歌集以後の作品
      藤川 弘子


 木先生と初めてお会いしたのはいつか覚えていないが、昭和30年代、堺市長曽根町官有地にお住まいの頃、堺歌人クラブや晶子の会に関わっていた母中島昌子が、よくお名前を口にしていた。大阪日本橋に勤めていた私を大阪歌人クラブに声を掛けて下さったのも木先生だったから親子でご縁があったようだ。水甕の私どもの歌会の仲間だった故淀川恭子さんは伯父柴谷武之祐が、「木先生にどれだけお世話になったか」と繰返していたのもなつかしい。
 木先生の『官有地年華』『花きささげ』『白霓集』を読み返している時に「短歌研究」(平成8年10月)の特別作品に木先生の二十首を見つけた。歌集以後の作品である。

   土屋文明記念文学館           木善胤
  朝の日に輝く二層の壁白き文明記念館今日開館す
  お別れの日の後迅き五年半われら三十名あこがれ来りぬ
  君が住まい地の上にあらず恋しみて訪ねんはこの館より無し
  先生の写真と文献飽かず見る追憶はしきりに涙さそいて
  好みたまいし草木そこここに育てられ稚なし植生の茂り待つべく
  復元されし君の書斎に胸迫るこの椅子に幾たびか将棋を差しし
  焼け出され頼り来し川戸にみ歌あり宝とも諳(そら)んずる幾十首
  疎開地に春を待つ心ゆたかにて「四方に新しき泉の聞ゆ」
  鷹揚に鯉ひるがえるこの水を見おろし立たししか五十年まえ
  筧の水戦いの日より絶ゆるなく冷きを誰も争いて呑む
  生きんためいそしみ給いし耕作はアララギ再建につながりしと思う
  たたずみて南西に浅間を見たまいき夏の輝きに今日は見えざり
  榛名社の宵宮に君の生まれしと聞けど奥院まで詣らず戻る
  榛名富士浮べる水は夏の日にきらめきて限りなく波の押しくる
  灼くる日をまともに浴びて毛の国の山坂をバスに西東せり
  稲そよぐ道行きて生誕の跡を尋ぬ柿一木残り青実落せる
  村出でて一生あくがれし榛名には未だ隔る都幾川の墓所
  信うすくこの石の下に寄り給う信無き吾の時長く拝む
  夕闇の谷よりのぼるこの部屋に宿りまししやむささび聞けり
  ダムに沈む河原湯温泉年々の君の憩いの追憶も永遠に

 どの一首にも、木先生の純粋な気持ちが通っていて心を打つ。貴重な作品と出会えたことをよろこび、先生を永遠に偲びたい。

  清く正しき歌作るため
      神谷 佳子


 木善胤先生の追悼特集に加えて頂きましたことを心から光栄に存じ感謝いたします。
 好日代表の米田登先生が平成三年に倒れられ、その後木先生から電話を頂きまして、大阪歌人クラブの理事として推挙下さいました。入会させて頂き何回かお目にかかる機会がございましたが、深くお話を伺うこともなく奥様の看病、ご自身の闘病と会にも出席されず、その後ご不幸のことを伺い、申し訳なく心苦しく思っています。
 この度歌集『花きささげ』『白霓集』『閑忙』を拝読いたし、結核専門の医師であることを知りました。私自身大学三回生の時(昭和二十六年)絶対安静病臥の日を過ごしました。その頃の先生の作品『黄金樹』に診察の日々、ヒドラジドなどの薬名があり戦後の、命と向きあった一時代を思い出しました。復員されてからの三十年程を詠まれた第一歌集は、私の若い日と重なって一首一首が明確に景を成しなつかしく、わが人生の原点がよみがえり改めて思い期するものがありました。

  病む肺を切りとるべしやと問う手紙「保険の切れるまでに癒りたいです」
  弱きもの救えと責めて青ざめし幾たりの面わがまえにあり  (退院拒否闘争)
  指かさね傘さし行きし夜のことも吾が過ぎゆきをゆたかならしむ
 切迫した病者と相対しての日々、夫人とのふとした思い出、二十年代三十年代の社会相を改めて思い起こし今の平穏(?)飽食、あくなき欲望の世を思います。故米田登先生の作品鑑賞を「好日」誌上でここ数年続けています。作品は木先生の作品と重なります。社会詠にみられる秀れた抽象性、日常生活詠にみられる具体性、そして何れも背後より滲むあえかな抒情性、大正ロマンをひいて、二人の作はよく似ています。
 戦争によって二人共に不如意な青春の時代があった。帰国してもどうにもならぬ現実の不条理に焦立ち、時に怒り愚痴り諦めといった正直な心情は、かの混乱期を生きたインテリ層の共通の思いでありました。
  平和よぶ力は頼みとしておらぬ宗教がむごき戦乱を起す  『白霓集』
  考えるゆえ我在りと思い付きしロマンティックな数学者ありき
  憤るのみ何も出来ぬ排悶を歌うにふさわしこの小詩型  『閑忙』
  自らを例外とする核禁止ゆき詰まるほか無きアメリカよ
 これら洞察に満ちた社会詠は恐らく人類が滅びるまで普遍的な力をもって訴えます。
  清く正しく生きんと希う性ならず清く正しき歌つくるため  『閑忙』
  生きのびてなし遂げん志は何清く正しきものにこそあれ
 清く正しくは最早や死語かと思われる現在、あえて詠まれる言葉に一途な清潔な人格を思います。弱者に厚く家族にも温かい父君であったと拝察し、歌としてよき作品を遺して下さったこと、大阪歌人クラブへのご縁を私に頂いたことを、改めて身に沁みてありがたく思います。

  大阪歌人クラブのこと
      鶴野 佳子


 ここに大阪歌人クラブ「会報第一号(1974・7・20)」がある。そのトップ記事は会発足までの経過報告なので、当時の様子が克明にわかる。当時は歌人であられる黒田了一氏が知事をされていて、その呼びかけで大阪歌人クラブが誕生したが、その経緯が、淡々と克明に報告されている。その執筆者は木善胤先生であられる。
 そのことが物語るように、木善胤先生なしでは、大阪歌人クラブは有り得なかった。呼びかけ人であり、実践者であり、常にその中心軸としての不動の存在であられた。その当時のわたしは、事務局を任されていることの誇りに、誠心誠意励み、木善胤先生の近くにいて、多くのものを学ばせていただいていた。
 そして、一九七八年、大阪歌人クラブとしての大きなプロジェクトが組まれ、会を挙げて『大阪万葉集』の編纂が始まった。これは歌人知事黒田了一氏の念願でもあった。そのときも、寸暇を惜しんで取り組まれたのは、木善胤先生であった。
 場所、地名、行事、全て間違いのないように、正確を期すための努力は惜しまないで欲しいと要請され、事務局として、取材に走った。資料も沢山入手した。現地で確認したら、大阪ではなく京都の歌であったということもたびたびで、それは、本人に電話を入れて没にしたこともあった。
 「全て、任せる。全力を尽くして欲しい、会員のためにプラスになることだけを考えていて欲しい。そのことで何が起ころうと、責任はわたしが取る。」そう、絶えずおっしゃってくださっていたので、仕事が本当にし易かった。大船に乗っていたと思う。
 印刷は遠田寛氏が担当で、いつも深夜にわたった作業を付き合ってくださった。最終的には、大山初江氏と三人で編集・割付・装丁の作業をしたが、いつも、先生は、連絡を密にしてくださっていた。
 そんな甲斐があって、一九八二年五月二十日、念願の『大阪万葉集』が刊行された。そして、この『大阪万葉集』はマスコミからも大きな評価を受け、テレビ、新聞ともに大きく報道された。
 そして、一九八三年五月三日、『大阪万葉集』の刊行事業が評価され、文化芸術功労団体として、大阪府から、栄えある表彰を受けた。『大阪万葉集』は、今紐解いても、充分優れた内容であると、誇りに思っている。
 思い返せば、いつも、中心に木善胤先生がいてくださった。わたしの中では永久不滅にいてくださるものと思っていた。まだ、木善胤先生の声が、近くに聞こえるときがある。
 プライベートなことに触れることを、許していただけるならば、そんな、偉大な先生が、わたしが入院したときには、お見舞いに来てくださったりしたのである。もう、感激するしかなかった。それだけではない。義母が倒れたとき、国立近畿中央病院の院長室で、紅茶をいただきながら、診察していただいたのである。罰が当たりそうな話であり貴重な私の思い出である。
 そういう優しさは、当然、わたしだけに与えられたものではない。そのやさしさは、先生の短歌作品からも滲み出てくる。
 第一歌集『黄金樹』より
  いのち生きて還り来りし吾家の座布団のうへに眠るみどりご
  医務室に呼びて都々逸を教はりしかの漫才師の兵も死にしか
  臨終をみとりて帰り来し部屋のなほ明けがたく宿直をする
  君を気遣ふ歌の幾つか選びつつ医師わがこころ単純ならず
  如何ならむ形の平和をも肯ふとわれも願ひき終戦のまへ
 医学博士としての先生、歌人としての先生の間を貫く精神が「命の尊さ」であるとわたしは信じている。
 それは、出された歌集の題名を見ても明らかである。
 『黄金樹』『わざうた』『官有地年華』『花きささげ』『白霓集』『閑忙』の六冊があるが、そのうち『黄金樹』『花きささげ』の二冊は植物名で同じ樹のことなのである。
  窓近くハナキササゲも植えたきに六年の後は出でなん家ぞ
 『黄金樹』はゲーテの(「ファウスト」の中でのメフィストフェレスの語り掛けの)「すべての理論は灰色で、生命の黄金の樹のみが緑なのだ」の詩句からきているという。

  貝殻節のことなど
      桑岡 孝全


 この特集を準備するある日、木善胤先生の写真のたぐいを発行所で点検していて、どの写真の先生も笑顔であることを、ふと―という感じで土本綾子さんが指摘した。それをきっかけに、生前の先生のありようの一面、如才無さを回想する会話があった。
 そういえば池田弥三郎という人―安田純生現大阪歌人クラブ会長の国文学の師匠筋に当たる方―の横顔を言う文章を以前どこかで読んだ。その如才無さを述べて、宴会などで「池田先生」と呼びかけると、さっとこちらに笑顔を向けてハイハイと応じて、さあワタクシメどんなお役に立ちましょうかと構えるのが常、大略そういう雰囲気を書いた一節が記憶に残っている。東京弁の歯切れのよいバリトンの口跡を伴う池田氏の風貌を、NHK解説委員をお勤めの頃かTVでよく見かけていたので、その雰囲気はわかる気がした。そして、その如才無さは、社交家としての木先生のものでもあったと思う。この感想は生前、もののはずみで直接木先生にも申し上げたことがある。先生の反応は微苦笑の影のようなものであった。
 木先生は、社交家にして高級管理職もしくは官僚であられたから、そういう挙措がじつに自然に身についていたと思う。たとえば宴会となると、必ず出席の全員に飲物を注いで回られた。義務感や計算で裏打ちされたものであろうし、その口髭同様に、何か、先生の仮面―外面(そとづら)と同義の―を見る思いもあった。その手のpersonaを仮面として剥ぎに剥いで、さらなる内奥に向かうかとも見える歌境が、最晩年の歌集に至って萌芽や片鱗を現すので、先生の文学のもう一つの展開が途中で終わったという悲しい感想が私にはある。
 短歌新聞社が黒衣となって支えてくださった関西歌人集団という勉強会があった。「白珠」の島本正齊氏や「ポトナム」の大西公哉氏を中心とした集まりであった。この会が木先生に講演(講演は関西歌人を励ますおもむきの「地方の時代」とかいったものであったと思うのだが)をお願いしたおりに、事後、恒例の講師をかこむ有志の会食があった。ここでも主賓の木先生が全員に酌をしてまわった。当時「関西覇王樹」から会の運営委員に出ていた町野修三氏が、もともと木短歌のファンではあったが、何か一言添えつつ一座の人々に酒を注ぐ木先生の気配りに、すっかり感激してしまった。若いが偏屈な町野氏の感激であるのがおもしろかった。桑岡より十歳若い町野氏が、将来どういう頑固爺になるのかとたのしみにしていたら、知らぬ間に「短歌人」に移って『ダンデイスト』という歌集を残して鬼籍に入った。大伴家持の研究では相当の深みに達していた人で、その方面の著書もあったのだが、木先生よりも早く世を去った。木先生が会長として大阪歌人クラブの発展を期して心を砕かれた当時の一夜、依拠すべき人物について電話で諮問を受けたおりに、いの一番に彼を推挙したものであったが―。
 酒席をいえば、先生がその酒席で乱れるところをついぞ見かけなかったし、人もそう言った。それは乱れまいという意志の結果であったらしく、意志を念頭にかかげて飲むお酒を、ついぞ旨いと思った覚えがないと、ある人に洩らした由、洩れ聞いたことがある。
 私は先代の林家染丸の高座の、知る人ぞ知るあの笑顔を以前の梅田花月で何度か見ている。出囃子とともに現れて座布団に座ったと思うと、上出来のお面のような独得の笑顔ができあがっていて、客席を一渡り見回す。陽に振った振り子は陰へ振りもどされる。染丸が、その弟子に対するにも、あの笑顔をもってしたということはありえない。そのことについては今の染丸であったか、死んだ小染であったかが念を押すような挿話を洩らしていたと思う。高座での笑顔の対蹠をなす内向けの、時には険悪な表情のことである。
 落語の話題にかこつけるようだが、往時、木先生の近親の方が心斎橋あたりで営んでいた「蓄音機」関係の店で、初代桂春団治がレコードの吹き込みをしていたのを幼い先生が見ていたという逸話がある。最近周囲で質してみると案外に知られていない逸話のようだ。そういう因縁もあってか先生は比較的落語にくわしいほうであられた。「河川に埋没したる金属類を採集して生計を立つ」などという「代書屋」の大袈裟な物言い(川太郎(がたろ)という職業を履歴書に記入するに際しての代書屋の作文)の例を私が歌評に援用したりすると、その心は一座で先生にだけしか通じないらしい経験もあった。この方面では、座敷芸の江戸・東京に対して、大道芸から育ったともいわれる上方落語の、まさに申し子のような初代春団治が先生のお好みであった。いま松福亭一門に継承されているような、一種豪快な高座である。逆に東京好みの、いまの春団治の洒脱や粋(いき)については疎まれるようであった。この好尚は短歌の上にも影響しているようで、私はなかなか興味深いこととして傍観していた。現代短歌の軽みと重みを論ずる先生の講演の下準備をお手伝いしたおりに、軽妙洒脱の例歌に吉田正俊や柴生田稔の作品を拾ってさしあげたが、感受の通路に障るもののある感じで先生はそれを講演には採用されなかった。『黄金樹』刊行時の反応の中にあった、「駄洒落の下手な御仁(ごじん)か」という、頴田島一二郎大阪歌人クラブ会長(当時)の指摘なども、右の感想を援護するものなのかも知れない。
 酒席の話をつづければ、先生は興に入ればというかサービス精神の発露としてというか、時に貝殻節を歌われた。ある折に誰かが貝殻節を所望したところ、もう七十になって声が出ないからと辞退されたことがあった。私は七十歳とはそういうものかと、自分の近未来を思ってみたりしたことであった。それ以後に、その貝殻節をもう一度拝聴する機会があった。聴き納めかという感懐もあって、耳を傾けたが、その夜のそれは、力まかせではない、いわゆる枯れたおもむきの、じつにいい歌であった。帆立貝を採る船の櫓漕歌に発するというこの鳥取民謡を、どういういきさつで愛好されることになったのかは、どなたかは当然ご存じなのであろうけれども、私は質したことがなかった。コーラスを趣味としたご子息が、この歌の採譜を希望されたことがあって、五線の洋楽の譜にのせるのは無理だとお断りになったというような逸話も、今思い出す。
 酒席の余興ということでは、その時々流行の演歌を、得意気に披露されることがあった。いつそんなものを覚えたか、不思議を感じさせたものだが、そういう機敏器用を身につけて居られた。ある席でにわかに木先生のその手の演歌がはじまって、同座の宮地伸一氏が瞬間、何とも居たたまれないようすを見せられた。さだ・まさしに中学校で国語を教えた宮地氏ではあるが、「ど演歌」にはへきえきする神経をお持ちのようであった。
 大平正芳首相在任時、少女がインタビューして、その終わりに最近好んでいるミュージックはという設問があって、首相がどぎまぎしていたTVを思い出す。少女は一国の首相の日々の過ごしようを自分たちのそれに引きつける思い込みがあったようである。首相は何しろ暇がないもんだからと弁解しながら立ち上がる時に「美空ひばりさんなんかうまいと思うことがありますが」と呟いた。「最近好んでいるミュージックは」と少女に問いかけられて、どぎまぎするのは多忙な総理大臣の普通のありようかと思われる。木先生にもその多忙はつきまとった。先生にあっても歌手は美空ひばりであり、俳優は長谷川一夫であったようだ。
 俺の取柄はマネージメントの手腕であろうか―と独語のように洩らされるのを耳にしたことがあった。医術を文学を等閑にせざるを得ないほどに、いきおい経営管理の重荷を背にする日々を生きられたということでもあろう。一国の総理ほどにとは言わないが、類似の繁忙の中で時々のはやり唄を覚える技は思えばやはり不思議に属する。落語に通じて居られたのも不思議に属する。
 管理職の面目は身近にいてよく感じた。吟行で訪れた当麻寺の境内で、ゴミをつくるな捨てるなと会員諸賢にむかって目を光らせて居られたのを思い出す。発行所で炬燵を用いていた頃、蜜柑をむいて蒲団をよごすなと私に口を出されたこともあった。どこか滑稽感をもともなう思い出となってしまった。
 青年紳士然とした三十六歳の木先生にはじめてお目にかかった日のことを、本誌本年三月号の「晴雨圏」欄に私は書いている。二十三歳の私の目に映じた先生を、われわれ駄馬にはかかわらぬ血統の正しい駿馬に擬して書いている。この駿馬を言い換えれば、世の上層の空気を呼吸して生きるさだめの存在のことだが、人は多面体であり、上層のものではない空気をも纏って居られた。たとえば、堀田清一氏の奔走で開催されていた天満アララギ歌会で、私が、父を見舞っての帰途兄が町の食堂で饂飩と白飯を注文したという意味の作品を提出したところ、その作品に先生が好意を示してくださった。ご自身饂飩で白飯を食うのが好きだからとも言い添えられた。これは「駿馬」族の好みではないし、医学博士国立近畿中央病院長(当時)にふさわしい嗜好でもない。高野山金剛三昧院での宿泊の編集会議の帰途であったか、私が高野山駅の販売機でお茶を買って飲んでいると、家で飲める飲物をなぜわざわざ買って飲むのかと不思議がられたことがあった。私にはその理屈がわかった。それは貴種にあらず市井の人のたてる、それもごく昔風の理屈であろう。
 いつか、壮年の先生が「関西アララギ」で「老境」という特集を試みられた。先生がそれに「土屋文明の老境」というテーマで物を書かれると聞いて、文明の作品に見る老いの自覚は〈老眼鏡買ひ来て何をするとなく掛け外しして二日(ふつか)三日(みか)すぎぬ〉〈また妻を相手にいきどほれども怒ももはや長つづきせず〉のあたり、『六月風』作者四十五歳・四十六歳前後の時期にはじまるかと思うという私見の葉書をさしあげた。先生からは、ありがとう、論文に使わせて貰う旨のお返事があったが、実際使っていただいたような記憶がある。それはいいのだが、やがて先生の上にも老境がおとずれた。
 先生がまだ大阪歌人クラブ会長の職責にあられて、同クラブの何かの集いで会長としての挨拶をされた折に「私も寄る年波で」云々という一語を洩らされた。聞き手の、特に女性会員の皆さまはジョークの一つという受け取りをしたと見え、あちこちで笑声が聞こえた。それは長上のジョークに合わせての儀礼的な笑いともとれた。もう少し先生の日常に接することの多い私には、寄る年波のなげきを本心の吐露と聞いていた。
 それより遡る時期のことだが、ある日の編集会議で、その朝か前日か、先生が食事をすませたあとで、食事を催促して奥様を驚かせた話を、笑い話としてもちだされた。「多々ますます弁ず」のさかんさをまだ保持されていたころのことで、その壮健と多忙の隙間にふっと兆した老いの影ほどに考えていい事例であろうが、「家内がものすごい顔つきになったよ」とも付言された。もっとありふれた例では、常用の薬剤を服用したかどうか、薬包紙のたぐいを屑箱に探って確認するのだよと嘆かれることもあった。
 側近の一人としてながめる木先生のその後の衰えは「秋の日は釣瓶落し」という、その釣瓶落し然としてすみやかであった。信玄の終わりは甲斐の武田家に大いに後顧の憂いを残すものであった。その種の遺憾は木先生のものでもあったと思う。

                   『黄金樹 』

歌集抄 関西アララギ双書第2集〈昭和53年2月刊〉  野崎 啓一

みんなみの島陥されしと告ぐる日を血を喀き臥しき軍病棟に
熊本陸軍病院
戦ひに死すべき命疑ひて読みしフィヒテも慰まざりき
夜の霧の白く立ちくる峡のみち往診に急ぐ自転車を押す
時計二つかたみに時をきざむ夜半狭き己をうべなひてゆく
癒えがたき者らみとりてあはあはと過ぎゆく年のカルテ整理す
弱きもの救へと責めて青ざめし幾たりの面わがまへにあり  退院拒否闘争
院長の職賭すべしとアヂるこゑ一つの拍手につらなる拍手
痰コップ持ちて重症者もデモに行き筵の上にはだへをさらす
大阪に吾をもつとも待つひとりまなこ昏みゆく柴谷武之祐
賛美歌のこゑ窓下を過ぎゆくはまた幾たりの癒えず去るべし
相聞に似たりし汝のふるまひも吾が過ぎゆきをゆたかならしむ
聴診器のゴムのくされしを切りてをり稀々に診る医者となりたり
息のみて命終をかこむ部屋の外ながくかかりて含嗽するきこゆ
見おとしし一つ文献を悔しめりあはれ黄に染む亡骸のまへ
癒えがたき真実を吾が告げしより仰臥の床に算盤をならふ
死にちかきまなこ澄みつつ朝床に蝿のむくろを罐にたくはふ
健やかに老いまししかな今日ひと日わが耳にうるほふきびしきみ声  土屋先生
忙しき吾に悲しみのはやく過ぎ君の遺影を今日は賜はる
悼 笹川献吉君
嘔きやまぬ病と聞きて事もなく答へつつ吾の心はおびゆ  大村先生
亡きあとを続けむと苦しむよひよひの浅き夢にも顕ちて来まさず
医者やめるつもりかと妻の嘆くまで選歌未熟練工赤字出版業者
極まらむ老の日を思ひひやびやと花茣蓙の上に長まるひと日
地のうへにみづからの汚れ吐きつづけ滅びゆかむか人も蝸牛も
肌のいろ同じき民らナパームに焼かるる此方に吾らは富みぬ
出でゆくもとどまるもつひに安からず降るアメリカの核の傘の下
戦争をなすは人類と蟻のみと聞けば憐れなり人類と蟻と
三十年気負ひつとめし結核の診療も世の片すみとなる
病減り新たなる病ふえてゆく世に追ひ及かず吾の老いづく
埋み火の静かなる愛をねがひたる吾が老の日の既に到るや
円かなる晩年に入るを見し時にけぢめなく襲ふ死といへるもの

  『閑忙』以後の周辺
      井戸 四郎


 昭和四十九年関西アララギの会計を預かっていた細見博秀氏が交通事故で植物人間のようになってしまわれた。以前高槻の会員でもあった私に木先生から会計を手伝えと命じられた。関西アララギと木先生との個人的な交流はその時以来である。
 関西アララギの当時は先生が編集の大凡と、編集事務を一手に引き受けていた土本綾子さんの二人と、印刷の石橋寛氏それに木夫人と、当時の近畿中央病院検査技師長の杉原弘氏と杉原夫人が発送の宛名などを整理していたのである。
 平成十二年は西暦二○○○年二十世紀最後の年、あけて二○○一年は二十一世紀が始まり、木先生八十歳の年でもあるので、平成六年までの第四歌集『白霓集』に続き第五歌集の刊行はどうかとの編集部一同の意向が一致した。木先生の歌集についての話題はこの時以前、かなり早くミレニアムの一九九九年平成十一年の中頃から関西アララギの編集会議で話題になっていた。原稿として纏まっていたのは、それより前の十年の末頃で井戸がワープロのフロッピーに整理していたのである。が、その頃にはまだ先生の気持ちが十分に熟していなかった。平成十一年四月に初校ゲラが先生の手元に届けられた。が、このゲラはいつものように長い間先生の鞄の中でじっとしていることになった。
 恒例の夏の編集会議にその歌集が議題になった。その頃になると、先生の体調は万全でなく年末には、道路を通行中に倒れて怪我で入院されるようなこともあった。後で聞くと倒れたときのことは自分には全然おぼえがないと言われていた。そういう状況の中で第五歌集のゲラに先生の朱も入り形を整えつつあった。
 平成十二年七月三校がプリントされた。九月、仮の題名が「宇宙悠遠」と決まった。小見出しも出来あがり残るは序文のみ。最後の仕上げは桑岡氏の入念校正によりゲラとしては誤植の無きを期した。この時に歌集名を『閑忙』と決定された。
 「あとがき」を添え桑岡氏から短歌新聞社へ原稿を送付した。後は出来上がりを待つばかりである。この間、先生の体調回復はきわめて遅かった。平成十三年五月末歌集『閑忙』が出来上がり各方面、会員各位へ送られ、関西アララギ六月号に出版記念会の案内も掲載された。
 その時点で、記念会への先生の出席がどうかと危ぶまれるような健康状態であったので、招待の方々にご迷惑をかけるような万一の場合を考慮して編集部で相談のうえ急遽、歌壇の各位を招待しての出版記念会は、取り敢えず延期を決定した。関西アララギのみの記念会は八月二十八日、先生の誕生日に開催されることになった。この日は矢張り精神的に高揚されていたのか午前午後を通して丸一日の開催にもかかわらず先生は最初から最後まで列席され終わりには謝辞を述べられた。
 十四年四月には先生はご夫妻にて美作大原バス吟行に参加された。先生の最後の関西アララギ行事参加であった。
 大阪歌会、編集会議には十四年三月頃から欠席が多くなった。編集会議には井戸が送迎した。それまでも出席されても偶に発言されるくらいではあったのだが、十五年十月に加納病院へ入院された。十二月見慣れた口髭がない。
 十五年一月には住吉大社選者会に出席され、対外活動の最後となった。病状は一進一退ながら、次第に言葉が少なくなり、難聴がすすんでいた。
 平成九年のアララギの分裂崩壊につき先生の胸にくすぶる怒りが肉体を鼓舞するように、一時元気をとり戻され各紙誌の求めに応じてご自分の意見を述べられた。が、アララギ崩壊も時が経過すると過去の一事件にすぎなくなって、世間はもとより歌壇でも云々されることもなくなっていった。それにつれて先生の体調もおもわしくなく、同時に夫人も老人療養病院に入院されることが多くなった。
 思い返すと鳳の福泉療養所以来、昭和十六年から六十五歳退官まで昭和の時代、結核の時代を、医師、管理者として国に尽くしてこられ退官にいたるまで自身の能力を出し尽くされ、それが退官後の短歌一筋の生活を願っておられた先生に、急激な心身の衰えをもたらしたのであろうと、私は思う。
  金に汚れし人も受くるを胸はりて清く貧しき吾が戴きぬ  (平成五年)
 「胸はりて清く貧しき吾が戴きぬ」には先生の精一杯の皮肉と共に心の底が窺われるようにも思うのである。
 平成四年十一月 木善胤博士勲二等叙勲、関西アララギ会では大阪歌人クラブ共催で盛大なお祝いの会を催した。叙勲祝賀、『花きささげ』出版記念を兼ねたものであった。今になって思い返すと、この頃の先生は歌人としても最も充実していたのではないかと、つくづく感じるのである。
 平成十六年になると自宅の寝台に寝たきりの状態で、言葉を交わすことも少なくなり、ただ目を瞑っていられるようであった。この年の先生の誕生日に小さなバースデイケーキに先生の名前を入れて持参した。夫人から顔の前に見せられて何か言われたようであった。
 その翌年先生ご夫妻は旭区の病院に入院された。十八年先生八十六歳、入院されていた厚生園から十月十三日脳梗塞で城東中央病院IPUに転院され、子息善之氏から桑岡氏に連絡が入った。その前々日に先生にお目にかかったが、何かを言おうとされるのを見て、その様子では、いつもと余り相違は無さそうに思った。が、二十五日朝、息を引き取られた。
  守り来し五十年おろそかならぬ吾が関西アララギに命懸くべし  (平成九年)
 の先生の作に私の追悼作を並べる非礼をお許し願いたい。
  うつし世にもはやいまさぬ先生と夜の灯を消してひとり涙す
  天上より吾を見おろす励ましのさやけき声は夢にひびきぬ

  えにし五十年
      土本 綾子


 短歌を作ってみないかと義姉黒田公子に勧められたのは昭和三十年、子育てもようやく一段落した頃であった。当時関西アララギの発行所があった池田市石橋荘園の大村呉楼先生宅を訪ねてみるようにと言われ、三十一年一月三日そこで開かれていた新年歌会に初めて一人で出かけて行った。その時石橋の駅で降りる人々が皆歌人に見えるほど世間知らずの私はどきどきしていたことを思い出す。道に迷い探しあぐねたが、正月の屋敷町は人影もなくひっそりと静まりかえって尋ねるすべもない。ただ一人小学生くらいの女の子を連れた中年の紳士に出会ったが声をかける勇気もなくすれ違って、またしばらく辺りを彷徨い歩いた。ようやく辿りついた大村邸の玄関で件の紳士と鉢合せをした時には本当に驚いた。まさか子供連れで歌会に来る人があるとは思わなかったから。それが木先生だったのである。後で聞いた話によると、むかし石橋荘園に住んで居られたので、お嬢さんと一緒にその辺りを散策してから大村邸に来られたとのことであった。
 そんなわけで私が関西アララギに縁を得て一番最初に出会った人が木先生であり、それから五十年のご縁が続いたことを思うと今更に感慨無量である。
 会場は二階の二部屋を通した明るい日本間で、大村先生は和服で火鉢の前に胡座され、その前に木先生、合田八良、笹川献吉氏ら大先輩が並んで坐り談笑しておられる。全部で十二、三人であったが、古くからの会員であった義姉があらかじめ大村先生に手紙を出しておいてくれたので、紹介されると皆さんがすぐ親しげに温かい笑顔で迎えて下さり、朝からの緊張がほぐれる思いであった。
 その頃の歌会は提出した歌(当日私は歌を出す勇気はなくて見学だけだった)を先生が読み上げられ、皆がそれぞれ膝の上に広げたノートに書き写して、それから批評が始まるのであった。歌評は厳しくて先生の歌も遠慮会釈なく酷評をされるのに吃驚したが、雰囲気は和やかで温かく、世の中にはこのような世界があったのかと私は一日で歌会の虜になってしまった。批評会のあとは階下の座敷に移って奥様やお嬢様方の手料理の祝膳(後には奥谷漠氏の店のおでんになったが)を戴き、また二階に上がってカルタ取りや雑談に興じるという本当に楽しい一日であった。この一月三日の行事は大村先生ご在世中恒例として欠かさず続けられ、人数は次第に増えて終りの頃には三十名を越えた。この間の十二年間、皆出席は木先生と私だけであった筈である。時には余興もあり、ある年には木先生と阪田こと子さんが二人で野球拳を踊られるという場面に驚いたことも思い出す。
 当時月々の歌会は発行所を始め、各地で開かれていたが木先生はあまり出ておられなかったようだ。病院の統合など多忙を極めておられた頃で、年に一度の新年歌会に来られるのみの時期がかなり続いていた。しかし雑誌の編纂についてはいろいろとアイディアを提供したり行事の企画をされたりしていたようだ。大村先生が「木さんは政治家やからなあ」といっておられたことがあるが、関西アララギ二百号記念(39年5月号)に土屋文明先生のご出席を得て大会を催すことが出来たのなどはひとえに木先生の手腕によるものであったろう。
 とにかく私共の目から見れば雲の上の存在のような方であったが、一方人一倍庶民的で飾り気がなく親しみ易い人柄でもあった。昭和四十年頃だったろうか、先生が近畿中央病院の貝塚分院長であられた頃、笹川献吉氏もそこに勤務されており、その官舎で少人数の歌会が開かれていた。笹川夫人の千恵子さんと親しかった私も大村先生のお供をして参加させて貰ったが、真夏でも当主の笹川氏は浴衣に帯をきちんと締めて正座されているのに、木先生は部屋に入ってくるなり「ああ暑い暑い暑い」と言いながら上着もズボンも脱ぎ捨てシャツとステテコ姿で卓の前に胡座されるというような按配で皆が笑いながらくつろいだものである。後々にも新年歌会のあとなどよくお得意の貝殻節をご披露して皆を楽しませて下さったことなどは記憶に新しい。知多半島・篠島吟行(昭和39年)の時の大村先生の歌に「盆踊り見て帰りしが木善胤をかしなをかしなをどりを踊る」という一首があるのを覚えておられる方もあろう。
 事柄が前後するけれども、先生は夏毎のアララギ安居会にも早くから熱心に参加しておられたが、公務多忙のため行かれなくなり、入れ違いのように私は昭和三十六年から出席している。安居会は四十一・二年の吉野山を最後に東京でのアララギ夏期歌会となり、先生も又出られるようになった。その頃には関西アララギからも二十名近くが参加していたが、木先生の発案で一席が設けられ、現在新アララギ代表の宮地伸一先生(当時はまだ選者になられる前であった)を囲んで有志が団らんの一夜を過すのが慣いとなり、宿舎の茜荘にちなんで「茜会」と名付けられて何年か続いた。清水房雄先生や添田博彬先生らの加わられた年もあってアララギとの交流も自然であった。また歌会の終った翌日、宮地先生のご案内で信州への旅が実現し、伊藤千恵子、黒田公子、島磯子、妙心寺喜美子、今は亡き三宅霧子さんらと共にお相伴をさせて貰ったことも忘れられない思い出である。アルバムを繰ってみると信州へ三回と他にも何度か夏の旅を重ねている。あるときはレンタカーで東京から信州まで木先生が運転をされたこともあった。柿蔭山房では当時まだご健在であった久保田健次、夏樹氏ご兄弟(島木赤彦のご子息)のおもてなしを戴くという恩恵にも浴した。これら貴重な体験も宮地先生と木先生の親交が深かったお蔭であり、あやからせていただいた私共の幸せであった。思い出でて懐かしく、今更のごとく感謝の思いを新にする次第である。宮地先生には、後年アララギの選者になられてからも関西アララギの大会に何度も来阪して頂き親交はアララギ終刊の時まで続いたのであった。
 また年が遡るが、健康そのものと思われた大村先生が思いがけぬ病で亡くなられ、その遺志を継いで木先生が関西アララギの代表となられたのが昭和四十三年、まだまだ公務が多忙の時期であった。当座は杉原弘、合田八良、奥谷漠、林矢江子氏他何名かの協力者があり、月々堺の近畿中央病院の官舎に集まって編集会議を開き、ともかく雑誌は順調に刊行された。大村先生の追悼号はもとより「愛情の歌特集」「老境の歌特集」「現実主義の可能性の拡大特集」等々年に二回も特集号を計画し、着々と実行に移された。アララギの先進たちにも次々寄稿を依頼し、礼状を書くのは私の仕事であったがある年の東京夏期歌会で、亡き井出敏郎氏に「一いちあんなことしなくていいんだよ。書けって言ってくればいいんだよ」と言われたことを今も忘れない。また、近鉄の教室が始まった頃、二時間の講話を「作歌講座」として雑誌に掲載することになったが、格別に弁舌の達者な先生の二時間の話をテープにとり、それを起こす作業は実に大変でついにネをあげたこともあった。
 当初の編集部のメンバーはその後加齢や躰の不調などで欠落し、編集を引受けておられた林矢江子さんも都合で止められることになって、校正などやっと覚えたばかりの素人の私がすべてを引受けねばならなくなり、死に物狂いのような一時期もあったが、何とか乗り切ることが出来たのは先生の的確な指示と、それに従い得る若さの故であったろう。ワープロも宅配便もない時代で、すべて手書きとガリ版刷り、電車で月に何度も印刷所に通うという、現在とはまるで比較にならない状況であった。かつての先生は頭脳明晰、判断力抜群、一を聞いて十を悟るという所があったから、編集の割付や埋草などのことも電話でテキパキと指示されて間に合うことが多かった。多忙な先生は原稿が間に合わず、校正が出てからぎりぎりに直接印刷所へ届けられたり、その途中の車中で吊革に掴まりながら当月の歌を作られたりすることも珍しくなかったが、同行の私がはらはらしていても先生は慌てず騒がず滑り込みのスリルを楽しんでおられるようにさえ見えた。
 数年経て、印刷所の指導をしておられた編集のベテラン遠田寛氏が入会して下さったことは百万の味方を得たような心強さであった。ついで昭和四十八年には桑岡孝全、井戸四郎氏が再入会されて、次第に態勢がととのい、紙面もさらに充実してきた。
 また毎年のようにアララギの選者を招聘して、地方の会員が合流できる歌会を開くなど外部との交流も広まっていった。会員もまだ若く結社として最も旺んな時期であったといえようか。平成元年五月号記念特集などはそれを実証する内容と言えよう。先生の企画によって実現した『塚本邦雄 木善胤の「平成元年短歌放談」』と題する28ページにもわたる記録は今読み返しても面白く貴重なものと思われる。なおこの号には先生が主張される「現実主義の可能性の拡大」を目指して「さらなる発展」という表題で安田純生、道浦母都子、阪森郁代、藤井マサミ氏ら若い世代の歌人を招いて、桑岡孝全氏の司会、進行、編纂に成る座談会の記事も14ページにわたって掲載されている。アララギ先進の寄稿作品や文章、大村呉楼特集、木歌集批評特集など内容は多彩。編集は遠田氏の手腕が存分に発揮されて420ページの大冊は貫禄十分の記念号となっている。このような進展ぶりに対して必ずしも好意的な眼差しばかりではなく、殊に旧アララギの質実そのものの気風を尊しとされる向きからは批判の声も少なくはなかったようだ。
 年中行事の一つである吟行も、伊勢・志摩、木曽路、東北、立山、隠岐、壱岐・筑紫路、金沢・和倉、甲浦・室戸、国東・阿蘇、房総、神島、備後・出雲等々遠隔の地を訪ねて、その都度吟行特集を組むなど、皆元気で楽しかった思い出が多く残っている。
 先生は自らニヒリストをもって任ずる所があり、勤勉実直とは反対のタイプのようであった。子供の頃からガリ勉が嫌いで、試験中でも海水浴に行ったりして友人に呆れられたという話を聞いたこともある。そうした性格は長じてからも変らず、何でも真剣に取り組むことは苦手で、植木等の「コツコーツヤルヤーチャ ゴクローサーン」という歌を楽しそうに歌われることがよくあった。そんな先生の原稿が遅れることには常に悩まされ続けたものだ。(後年にはその催促の役を井戸氏が独特の口調で根気よく引き出して下さって何とか間に合わせてきたのであった。)
 当初は発行所が堺の先生の官舎であったから、会計や事務、渉外、発送の仕事など木夫人や同じ官舎の杉原夫人の手を煩わすわけで、家族ぐるみの大変な負担を強いるものであった。不思議なことに文字を書くことが苦手であった先生の原稿は殆どが夫人の口述筆記であり、編集会の席では私が代役をつとめた。昭和五十六年から遠田(石橋)氏宅に発行所を移し、一切の業務を同氏夫妻が引受けて下さることになって今に続いているわけであるが、そのお蔭で先生も随分ほっとされ、安心されたようであった。
 何年か経って、現職を退かれた前田定雄・通恵ご夫妻や藤田政治氏らも加わって下さり、編集部は頼もしく安泰の時期がしばらく続いた。近年では森口文子、角野千恵さんら若手の協力も得て、老齢組の負担が少なくなったことも有難い。世の中すべてが機能的になり、昔とは比べようもない便利な時代である。本誌創刊以後さまざまな苦難を乗り越え、運営も実務もただ一人の背に負って二十三年間守り続けて下さった大村先生とご家族のご苦労は言葉につくせぬほどであるが、それを木先生が引き継がれて四十年近い歳月が過ぎた。顧みて感懐一入である。そして、かけがえのない後継者として早くから心に決めておられた桑岡孝全氏にすべてを譲り、晩年は心やすらかに本誌の行く末を見守っていて下さったことと思う。

  正に国手
      竹中 青吉


  医者やめるつもりかと妻の歎くまで選歌未熟練工赤字出版業者
  患者もたぬ医師となり果てなほさらに歌誌経営の歌よみあはれ
  聴診器より朱筆もつ多くなりしかな今日選ぶ水浚ひの歌空想恋愛等々
 右三首は平成十九年関西アララギ二月号「関西アララギ作品回顧49」より転用したもので、作品は昭和四十五年六月号所載のものである。大村先生は常々「こんな忙しい人見たことない」と木先生のことをいわれた。そのお声が今も耳に残っている。その大村先生が昭和四十三年八月一日近畿中央病院にて死去され、その後の関西アララギ編集発行を担当することになる。三首共多少自嘲めいた所にゆとりが見え、医業に雑誌編集には自身たっぷりとも受取れる。丁度この頃のアララギ東京夏期歌会にて、土屋先生から「君はジャーナリストか」と言われたといっておられた。なる程土屋先生は旨いこというと我々は思ったのであるが、その言葉の裏に、君は医者だろう医師としての本分を忘れるなの注意であったのかも知れない。頭の良い木先生はすぐ自省されたものと思われる。医者と雑誌編集発行人、凡人ならばきっと本業をとり、余技は割愛捨てるものであるが、木先生はその両方をとり、やりこなした非凡人であったのである。
 当時発行所には桑岡、杉原、前田夫妻、土本、石橋氏らが集まり、新編集発行人を助けた。
 次に下脇光夫氏死去についてであるが、下脇氏は関西アララギにおけるよき作者であり、また論客であった。この人を失ったことは大きな痛手であった。歌集「官有地年華」には「下脇光夫を悲しむ」二十三首が見える。
  わがもとに何ゆえ早く来ざりしかありありと左肺円形病巣
 下脇光夫氏は永年勤務した法務局を昭和五十四年四月一日退職した。退職二年位前から有田市有田川口付近に家を建て退職の日を待っていた。退職後、まず念願の出生地韓国の旅行を果たし、歌集出版にとりかかり余生を楽しむスタートに着いたばかりであった。退職後のある日、彼から電話があり、お互いの健康をたずねあい元気であることを確認したのであるが、その時「我々には木先生がおられるので病気になっても心配はいらないね」と言ったので、私もそうだねと相槌を打ったのであった。後から思うとその時すでに自覚症状があったのかも知れない。それから間もなく入院、ひどい病状で、もはや手遅れであることを知らされた。一首には先生のくやしさいっぱいがうかがえる。
  点滴をつづけて熱のひきし君護り行く君の祝賀の会に
  手をうちてはやすことなし病む著者の退席をせしあとの宴に
 入院闘病中に歌集「鳥」(千四百余首)を上梓、出版祝賀会が九月八日、大阪阿倍野の以和貴荘で催された。会員四十六名、この時本人は娘さんに支えられ痛々しい姿であったので、出版のよろこびも形式に終ってしまった。
  この友を癒すことついに叶わぬと夜ふけ目覚めて涙垂りいつ
 出版記念会後間もなく九月半ば頃他界、葬儀告別式は有田川の新築の家で行われ、白膠木(ぬるで)の白い花が沿道に咲いて残暑きびしい日であった。思えば退職後四ヵ月余、うち四十日の入院であった。
  有田川秋の光を湛えつつゆきてかえらず人のいのちも
 追悼歌二十三首の最後の一首で、しみじみとして心にひびく何ともいえないものがある。
 医業については下脇氏の一件のみしか知らないのであるが、木善胤先生は矢張り立派なお医者さんであったことを確信して言えると思うものである。  (〇七・三・二五)

     『黄金樹』 特集メモ
           遠 田  寛


 発行は昭和五十三年二月、特集は七月号。その間四ヵ月、全く予定になかった企画として、歌集の背景をノンフィクションに纏める作業に取り組むことになった。
 さっそく井戸四郎氏の運転する車で先生と土本綾子氏、私の四人で歌集の背景を各個所に分けて、二日がかりでたどった。
 最初の赴任地であった福泉療養所跡(現在の赤坂台)は、昭和四十一年から始まった泉北ニュータウン計画による宅地造成で、泉北の野は変りつつあったが、園のあった一帯は、まだ一棟か二棟の小規模なマンションがみられる殺風景なたたずまいであった。
 予定の砂川厚生園跡、貝塚分院跡は、病院統合の重要な個所であったが、残念ながらその機会が得られなかったので、この部分は著者の記憶によるほかなかった。
 上町台地の木家は、百十米四方、三千二百坪 (一万平方米) あったとされているが、跡地がどこから何処までなのか、普通の町並になっていて、憶測ではあるがおおよそ想像できた。その点、待兼山の旧制浪高跡は、わずかながら当時の面影が残っていた。
 前後して湖北の草野川の上流、小谷城に近い集落、浅井町徳山の父君の生家を訪ねて取材した。四月のはじめ、ところどころ梅の花が残って、とにかく寒かったことを覚えている。父君の兄、左三氏は当時九十歳、六十年遡る話は断片的で全体像を探るまでには至らなかった。
 こうした現地踏査のあと、木家の先祖の調査に着手した。油屋善兵衛は菜種油を業として財をなし、のちに鴻池、天王寺屋、平野屋などとともに大阪の十大本両替商に名を連ねた。明治になって銀目廃止令により、九代目善兵衛(善胤の祖父)で両替商を閉じた。これらの経緯は、専ら夕陽ヶ丘と中之島の図書館に求めたが、資料を探すのに手間取って、予定した時間を大幅に超過した。
 準備が十分でないまま、ともかく時間に急かれて書きはじめ、題名を旧制浪高の草創期、大正デモクラシーを象徴した「浪速の友」の「麦生の床に百鳥の/声は平和をなのれども=以下略」の学園歌に因んで「麦生の館」とした。
 大筋が書きあがったのは、締切を大幅に過ぎていたが、印刷会社に勤めていた関係で、書いた何枚かずつを活字に組み込んでいったので、発行に支障のないように進捗していた。
 ところが、もう少しで完了という時点で、稿の全体について先生の校閲を受けたところ「よく調べてある。大変だっただろう。だが一つだけ気になる個所があるので、考慮してほしい」とのことで、指摘されたのは、医学に関係の深いドイツ、しかも誕生日八月二十八日が同じゲーテについて触れた項で、比較対照的にフランス文壇を土足で踏みにじったとされる天才詩人ランボオを、かなりの行数加えていた。他の部分には一言もなかったが、ランボオについては、意に添わなかったと思われる。
 既に植字の終った個所で、しかも一五〇頁の特集号、印刷製本を逆算して時間が逼迫していることから思案したが、しかし、これは『黄金樹』の特集であること、その背景の丹念な記録が中心であることから、必要以外は極力割愛しなければならない。直ちに書き改めた。削除部分については、先生のいわゆる「ニヒリズム」に関連して展開、
 「ニヒリズムへの傾斜と存在の絶望を認識してさまよった姿は、ゲーテよりもランボオ的でさえあった」
 で始まる十数行にまとめ、挿入個所を変更した。
 もともと特集における私の担当は、『黄金樹』の生まれるに至った著者と、その周辺を脚色なく描くことであった。一般的な批評、評論とは異なった分野を要求されるもので、したがって原稿以前が重要で、調べに基づいて事柄を叙述すること、極端な言い方をすれば、主観は許されない性質のものであった。
 時間と追いかけっこの中で、どうにか終ったが、これほどの長編(十四頁、二百字詰め原稿用紙九十五枚)は、私にとっては何年ぶりかの稿で、今では考えられないことであった。
 発行した後、先生はしばしば、木家の先祖の項について「あれは役に立っているよ」と言われた。

    先生の存在感
         藤田 政治


 大村呉樓先生が亡くなられ、関西アララギ会の代表を木先生がひき継がれた昭和四十三年当時は短歌の実作から遠ざかり歌会にも欠席し退会同然であった私が、退職の機会に再び関西アララギへの入会を決意した。このような気ままな私を気持ちよく受け入れて下さったのが木木先生で、それ以来先生には負い目を持ち続けてきた。
 先生は国立近畿中央病院の経営に当たられ、大阪療養所の統合廃止など大きな問題を抱えて大変な時期でもあった。爾後、先生には作品Tの選者として、また大阪歌会や新金岡短歌会の指導者としてお世話になったが、後に編集委員に加えられて毎月直かに先生の人となりに接する機会を与えられたことは大きな幸せであった。
 その間、私が歌集を出版することになって、その序文をお願いしたところすぐ引き受けて頂いたのであるが、多忙のため筆を取ってもらうまで時間がかかり、編集部から再三催促して頂き、漸く取りかかって下さった。それからは、私の経歴に関する参考資料、自分史などを求められたり、基督教入信のいきさつ、家族のことなど細かく聞かれた。これは何事も納得ゆくまで正確を期すという先生の性格のあらわれであることが後で分った。というのは、やっと届けられた序文が想像以上に丁寧、正確であり温かみのあることが身に沁みて感じた次第であった。
  アララギが私を退会せし日より歌の友ともうとくなりたり
  (歌集閑忙)
 右の歌が発表された時、読者の多くから異議が出た。「私がアララギを退会せし日」が正しいのではないかとの意見が多かったのである。これに対し木先生は、アララギが廃刊した結果、私が退会を余儀なくされたのであり、私の歌に矛盾が無いとの論を変えられなかった。たしか短歌新聞にも載せられたように記憶している。
 現代カナ遣いについてのアララギとの論争も先生らしい。先生の主張は、アララギでは取り上げられなかったたものの、関西アララギにおいては歌も文章も新カナ遣いに改められており、新アララギも文章は新カナ遣いに拠っているようである。
 旧制浪速高校尋常科出身の聡明な先生の存在感は、生前にも増して大きく感ぜられてならない。昭和四、五十年代の先生を私はあまり存じ上げないが、多分に気むずかしい面があったのではないか、とは私の想像だが、直かにご指導を仰いだ頃の先生はわりと温和な雰囲気があり、趣味も広く、何事によらず相談に乗って頂けた。歌会の批評でも晩年は以前のきびしさが影をひそめ、ややさびしい思いがした。広い趣味のなかでも、将棋や囲碁は得意であり、土屋先生ともよく将棋を指して私の方が強かったと得意に語られていたこともほほ笑ましく思い出されるのである。
他 、 多数の追悼文を掲載

                                

                  『わざうた』

歌集抄 関西アララギ新書第1集〈昭和61年4月刊〉 遠 田  寛

朝光に流るる群集をうとみつつ周期を持ちて憂鬱は来る
はたらきて豊かなる民みずからの吐ける煙の底に息づく
世に遠くなりゆく言葉になずみつつわが窓の下の花梨いろづく
松阪牛質をおとせし構うなき胃袋がつぎつぎ店に入り来る
桃の花においし坂に幼き日かえらず警笛の鳴りつぐ車列
焼かれ果て清き大阪の空の下ゆきゆきし日の歎きも忘る
生き死にのこと学ばざればたわやすく命を捨つる稚き者らの
成熟はいびつに進むたとうれば初交年齢幼年自殺
捻子のたぐい破片など衛星幾千かいまだ人間の遺体めぐらず
骨肉の相食みて血を流せるもうるわしき明日香ぞ国のまほろば
吾を包む病室の方形に花あふれとわの墓壙かこの明るさは
識閾に存在せざりし六時間ありありと縫合創二十五p
残生は測り難けれ癒えづきて塵の境にふたたびかえる
隣国をうかがいおかしし二千年原子爆弾落ちしよりやむ
降服のみことのり雑音のみ聞こえ暑き兵舎に茫然といき
繁栄の移ろう心斎橋北詰に蓄音機一つ売れぬ日無かりき
野分きとも野分けとも呼ぶことなくなりて樟の葉むらの騒ぐ明け方
歌詠みの死に絶えし地球におりし夢さめて吊革の揺れいる車内
老いて臥す身ぬちにあやしくほむらだつ歎きは医師吾のみに語りき
咲きて散るあわれも人の移ろいも沁々としてけじめのあらぬ
新しきソファの上まで書類みだし院長室に人入らしめず
わが予後をひそかに伝えいう知れど 「このとおり元気です」 今しばらくは
茫々とつゆごもるわが眼交ひの草蔭に逝く人のおそ早
ほろぶべき生の折々のよろこびは悲しみよりも単純ならず
二つ病院一つとなしし二十年建ち進み改築し吾が老いにたり
卒業証書わたし終りぬ中絶をせしものの名も今日より忘る
慕われし病棟医七年にくまれし病院管理者三十五年
精子われブラックホールへまっしぐらやむことのなき永劫回帰
わが生きし昭和の代あと幾ばくか継ぎつぐ元号のありもあらずも
いづくより何処へ吾の過ぎゆくや青き地球と知りたるのみに

 

                 『官有地年華』

歌集抄 現代短歌全集40 〈昭和63年8月刊〉    藤田 政治 

安曇野に夜は明けはなち眼のさきを落葉松あおき山なみの過ぐ
登りゆくわがゴンドラを包む霧はれゆけばたちまち迫る立山
いとまなき吾に季節の感ありて楊柳の芽ぶきの下ゆきかえる
心ゆらぐきょうの空気に出で来りさやげる楠の春蔭に立つ
ありありと木草の花らうつろえりわが内に過ぐるもの見えがたく
下駄の音夜更け何時までも響きいし心斎橋角に住みし思い出
踏まざりし三つきの土に降り積みし楠の枯葉をしのぐ春草
緑かおる官舎を惜しむ妻と吾に高層マンションあり残生のため
年ながき交わりにいま聴診器あてゆく吾のこころはおびゆ
知らしめず慰むるほかに手だてなき罪ふかき日々のまた始まるや
この友を癒すことついに叶わぬと夜ふけ目覚めて涙垂りいつ
有田川秋の光を湛えつつゆきてかえらず人のいのちも
湖のうえ遠じろく夕べの靄おりて月はあかるき西にかたぶく
立ち歎く湖の西をかき暗し余呉の辺りより吹雪ちかづく
田の中にまどかに高く木々茂りめおとすめろぎ合葬の陵
飛鳥川狭くさかのぼるここにして細川と稲渕川とあい合う
仰ぎ見る多武の峯々行きがたく入鹿の首塚雨に濡れそぼつ
新萌えの林こだまし木を打てり谷ふかくして人のいとなみ
手術の日決りし心安けくてなお血を瀉(くだ)すは告げず飲み食う
ギャジベッド上げしめて見おろす堂島川船渡御三日後の水面しずけく
吾の生に賜わりし閑暇と安らぐに身じろげば手術の傷あと痛む
草の間のぬくめる石に来て坐る遠の朝廷(みかど)を残すいしずえ
くろずみて今朝平らなる海峡の彼方に恋うる対馬は見えず
泡立草素枯るる桂川を越えまなこは潤む薄き曇りに
高楠のゆらぐ葉むらに照りかえす昼の光も秋ならんとす
幾本かいちょうの秀枝葉をもたず冬木のごとく澄む空を指す
水天の境におり居なす雲を今し凌ぎて差す黄金光
若く死にし父を仕合せと思うまで考えは年月に移ろいゆきぬ
統率なき兵らと貨車を乗りつぎて宮崎より大阪まで暑き五十時間
反核の言葉地上にひろがれば戦争は遠くならんというや

             『花きささげ』

選集抄 大阪歌人クラブ叢書第1篇 〈平成4年11月刊〉 
桑岡 孝全

  
いのち生きて還り来たりし吾が家の座布団の上に眠るみどりご
戦争より帰りきたりて末端の官庁労組委員長なり
肩冷えて醒めいる朝単調にラジオの声は人を尋ぬる
臨終をみとりて帰り来し部屋のなお明けがたく宿直をする
針先の心臓にとどくを確めて高張糖液一気に注ぐ
ヒロポンをうちて計算つづくるに真夜時雨過ぐ幻のなか
わが病みてこもる一日を安けしと厨に妻の低き歌ごえ
癒えざるも退所せしめよと言う指令秘の印捺して回し来りぬ
「会場にお見えになれば萬歳を自然発生的にお願いします」
アララギに新仮名遣い用いよと二夜くるしみ没書となりつ
院長の職賭すべしとアジるこえ一つの拍手につらなる拍手
おもねりし吾がはらわたの見ゆるまで鏡の前に欠伸をしたり
瞳孔を閉ざせるままに息絶えき吾が学ばざりしホリドール中毒死
覚むるなき昏睡(コーマ)のなかに此の月の生理は常のごとくめぐれり
旅費とぼしき東京出張のよろこびはいま髭白き先生のまえ
短歌俳句亡びに至る絶えまなき行列のなかに君にしたがう
稲妻のそのおりおりに照らされてわが母子像の眠やすけし
罵りに対える夜の白み来ておとがいにひげののびし手触り
楽とともに緋毛氈のうえを歩む吾の泰然として涙をぬぐう
日を負いてひたすらに飛ぶいちにちの暮るることなく広き国はら
三十年前畏れ学びしコッホ先生の書斎にかそけき吾が名を留む
窓の彼方スモッグ報知の旗靡くいとけなき肺の吸わん空気ぞ
スモッグのこめてうらうらと冬日照る大和川の上の停滞にいる
わが終(つい)の在処(ありど)か少し水たまり方尺の闇の安けくも見ゆ
大阪に十人両替のひとつたりし跡なく木家累代の墓
草野川汚れおよばぬ若鮎を夜ふけ煮たまうわが家づとに
金と票もっともあくどく集めしを宰相と仰ぎし民の一人なり
国税をとりこむパイプ絶やすなと雪ふかき村々共謀をせり
わがもとに何ゆえ早く来ざりしかありありと左肺円形病巣
録音の感謝の言葉しわがれて二十日のまえは世に在りし声

                     『白霓集』

歌集抄 関西アララギ双書第55集〈平成8年3月刊〉 土本 綾子

出家遁世果し得ざりし医師われの定年は誰より自らが待つ
永劫の中のにんげんの一瞬のあと先を言う幸とも不幸とも
北イエメン医療援助に行けという日に五度礼拝する国クワバラ
誕生日迎える孫の十七歳汝が祖父が祖母に逢いにし齢
束の間を歎き愉しみ生殖し百歳ばかりをことぶきとする
父のうちに漂いし記憶ははの裡の茜さす闇茫々として
ビッグバンに始まる宇宙その時は神の掌の上に転がりいしか
暖きこの冬の今朝は氷雨して枝張るミズキ雫を咲かす
民主々義疑う吾の一票を抛りこみ帰る冬木々の下
再びを病む吾も看とる妻も老い心沁む核家族行末の論
エスカレーターに佇むを間抜けと思いにき駈け上がる性急を今は蔑む
稀ならぬ老を敬いくれるものただ一つ地下鉄優待の証
素粒子の凝りて成りたる物体が何によろこび何に苦しむ
いずれ原子に還りゆくべし星たちは三億年ひと三万日ほど
惑星の水に涌きたる生物が宇宙の老化をおそれつついる
直立し語り始めて幾万年哲学すべく罰せられたり
闘争の本能退化せざるまま知恵増して自らの星を滅ぼす
永劫のなかの一瞬尊びて歌会などへいそいそと行く
八月はわが生れ月敗戦の月長らえて霊祀る月
偶然の生に必然の終りありたまゆらの虹をよろこびとして
午前三時定まりて吾の目覚むるは隣の黄泉にアラーム鳴るや
西の方十万億土は程ちかし身支度をしていい日旅立ち
毀たるる日近き仏間に手を合わすいよいよ遠くなり給うのか
尽したまいし後をつたなく守り来ておもえば君の年月を越ゆ
天つ火に焼かるる前にみずからの撒く公害にほろびゆかんか
空に星野に花人に言葉あるをうとみ始めしは何時の日よりか
惑星の舞台にページェント展開すそして最後に誰もいなくなった
やがて癒ゆる病いく度か吾の経て死に到る長手をのろのろと行く
ひと月に九十歳八十歳七十三歳八十六歳南無阿弥陀仏
「日はまた沈む」また昇るわが黄昏は無明につづく

           『閑忙』

歌集抄 関西アララギ双書第69集〈平成13年6月刊〉 池上 房子

豪奢荘厳悲惨の美を観て出でて来し喧騒の娑婆よりわが在処なし
真夜中のラジオに吾の慰むはなべて世に亡き人の歌声
天翔けるメルヘンを実現する科学たのまんか通力失せし神より
真実を希わずなれば交わりは平穏となる人も人の世も
心より歓びし記憶無しと知る冬の満月の下歩みつつ
確かなるもの地の上に無しと知るそれより心安らぎ眠る
願うなく生老病を経りて来て残るは死のみおびえ待つべし
幸せになるに願いは慎まん二流の政治に柔和に耐えて
世に生きて憤りをついに超え得ざり恍惚の老の時をまたんか
距離長き地下鉄に人の入れ替り大阪弁が僅か変化す
倦まざれば自らの境地に至るべしみ教えに従い歌い続けし
それぞれの家にそれぞれの歎きあらんうわべのみ見てあわれ人間
復原されし君の書斎に胸迫るこの椅子に幾たび将棋を差しし
むかむかと眠りし夢に自らが汚職せり羨む心ひそみおりしか
進歩ねがい文明をよろこぶ考えを改めのどかに生きてゆくべし
ほろぶべきものと知るとき安けかりつきつめず生きて倖わせにあれ
大阪の変貌の中に息づまる日月かさねてこの喪失感
来り去るを文学の常と語りましき離合集散は論外として
アララギの滅びん日など思うなく無邪気なる七十七歳なりき
搾取する者とのがるる者の知恵幾十年を相たたかえり
自らを例外とする核禁止ゆき詰るほか無きアメリカよ
短歌ほろべの声聞かず言霊のはしやぐ世の紛れもあらず滅びにむかう
民のため在らざる国か国のため在らざる民か何時のころより
DNAの如何なる部分が成長しかく不可解な生物を造る
死と定め再び命授くるは神のわざより畏れおおかり
職ひきていとまを得しは束の間か果敢なく甲斐無き歌にかかずらう
たゆたえる流れになじみひそやかに或る朝来たる生の終りは
背をかがめ歩みし少年の日を思う凛の一字を殊にいといて
いつの間に咲きいつの間に散りたるか沈丁の香の残るこの道
幼時より滅びを怖るる性ありて八十年を経れば倦みたり

『閑忙』以後作品抄 

       〈平成12年7月『閑忙』収録以降作品〉    井戸 四郎

幼時より滅びを怖るる性ありて八十年を経れば倦みたり
アルツハイマー進む夫を見とるため歌会やめると一人告げ来ぬ
アルツハイマーの従妹に妻の電話して「はい」ひと言の返事をなげく
迫りくるめぐりの呆けの心細く鏡に向い話しかけみる
斎藤茂吉呆けてありし「つきかげ」の秀歌諳んず「遠のこがらし」
告知されしよりの五年の苦しみを術なく吾は傍観せりき
予報せし歌集二冊を送り来ぬホスピスの床に己れ編みたる
耳遠きは健やかの証と言えるあり病みがちとなり耳もあやうし
耳に掌をかざして聞きし先生の三十年の前か後なりや
補聴器を求めんと来し梅田街悩みのあらぬ顔の群れ行く
補聴器二十八万円老ゆれば費えのふえゆくものを
つどい来て一日は過ぐる西暦二千一年号編集のため
長命を意識したりし頃よりかいよいよ耳の遠くなりつつ
逆行性健忘症を体験す地下鉄階段に倒れし後さき
夫ぎみを逝かしめし人らいそしみて歌の交わりいよいよ深し
八十歳となりて惑いの新たなり土屋先生逝きて十年
土屋文明尊敬するはよしとせんその勤勉先ず習うべし
遠く来し出石のホテル八階に孫らと夜ふけ湯を浴びており
阪神が負け続けるを自らの運命と重ねてはかなき日頃
暑き一日に閉口しいたり日本の平和に安心しいたり
耳遠くなりて耳鳴りやまずありこれも平和の象徴として
鼠蹊より心臓に届くカテーテル動脈血の濁るを示す
七党の党首の討論聴きし後日本に希望持てるにも非ず
枕頭の時計は律儀に時を刻みいて長く病むことのなし
雨つづく幻聴癒えず倖せになりそうもない年明けかかる
アメリカのユニラテラリズム一国主義をアラブ原理主義が張り飛ばしたり
午前二時覚醒し昼まで床にいる幾月かいたく体弱りぬ
罅割れしまま保ちいるわが体心臓の雑音澄むことあらず
常臥しの如く怠る日々続きほとほと囲碁も弱くなりたり
八月二十八日八十四回のわが誕生日涼しきひと日楽々と過ぐ

  父、木善胤のこと
      木 善之(六〇歳)


★十月二十五日午前八時十分心不全で死亡。享年86歳。
脳梗塞で倒れて以来、ずっと意識不明。
病院から緊急連絡を受けて駆けつけた時、父はすでに息を引き
取っていました。衝撃と動揺……
それからあとはスローモーションのようでした。
医師と看護師が深々とお辞儀を。
医師が死亡診断書を書く。
看護師が死亡手続きの説明を。
家族、親族に連絡を取る。
葬儀社に連絡する。
葬儀場に向かう車に、父の家の前を通ってもらいました。
そこは、何度も父と歩いた道…涙が溢れました…
葬儀社と相談して、友引を避けるために、急きょ、今夜に通夜
をすることにしました。

いま通夜から帰宅しました。私が喪主をつとめました。
初めての葬儀、初めての喪主、貴重な体験をしました。
湯灌では、不思議な光景を見ました。
父は全身を洗ってもらい、髪を洗ってもらい、ヒゲを剃っても
らい、だんだん笑顔になっていくのです。
めまぐるしく、いろんな手続き、いろんな儀式が走馬灯のよう
に過ぎ行きました。
通夜の夜中、父が近くにいる気配があり、私は父と長く対話し
ました。父はやっと生涯知りたかったことがわかって安心して
旅立ったのでした。父は生涯、存在の意味、いのちの意味、生
きる意味を探していたのでした。
父に「よかったね。ご苦労様でした」と見送りました。感動の
別れでした。でも、私もやがて会えます。

★十月二十六日
父のことをよく知る菩提寺の西往寺の老師と相談し、
「よく学び、高らかに歌い、世に尽くした」という思いをこめ
て、戒名「善学朗詠居士」を戴きました。
父は医師として、歌人(関西アララギ主宰)として精一杯、悔
いなく生きました。
お父さん、ご苦労さま。
みなさま、ありがとうございました。

父からの伝承によりますと、木家の屋号「油屋善兵衛」は、
長く文化と社会貢献につとめた家柄だそうです。
父は油屋善兵衛二十七代目。初代油屋善兵衛は、ナタネ油を商
う商人でしたが、よく働き、精進し、商売繁盛して、富裕になっ
た。「自分のためだけではいけない」と気付き、「世のため、人
のために尽そう」と決意し、貧しい人に喜捨するようになった。
のちに大阪の豪商になり、遠方の大火、飢饉などに、緊急物資
や食糧の千石船を出すなど救済につとめた。いまも各地の村や
町(九州が多い)に、「文政○年の○○の難儀の折、難波の油
屋善兵衛様より米○○○俵の施しあり」などの古文書が残って
いるそうです。
父自身も、国立病院の医師(国家公務員)でしたが、肺結核、
塵肺、石綿(アスベスト)肺病など、国の医療体制、医療施策
に疑問を感じ、患者の権利を守るために国と戦い続けました。
気づけば、息子である私もいつのまにか、同じことをしていま
した。(私は環境と平和のNGOネットワーク『地球村』を設
立して、環境保全や飢餓貧困の救済などの国際活動を続けてい
ます)
思えば、父が最後に私の講演会に来てくれた夜、父は、
「お前はいい仕事をしているなあ……うらやましい……俺は、
本当はそれがしたかったんだ……しかし、それができる時代で
はなかった…」としみじみ言ってくれました。父は涙を流して
いました。

あの時の驚きと喜びは、今も忘れることができません。いい親
孝行ができたなあ……と今も思います。
私は、一生をかけて、これをやり続けます。
お父さん見守っていてください。

★十月二十七日
不思議なことがありました。
きょうは大阪で私の講演会がありました。会場は四天王寺の
「クレオ大阪」。半年も前に予約した会場でしたが、なんと、
うちの菩提寺・西往寺の真正面でした。
まさに、「父が私を呼んだのだ」としか考えられません。です
ので朝一番に墓参りをして会場に行きました。
私は講演の最後に、父の死のこと、葬儀のこと、父への感謝の
気持ちを話しました。会場は感動と涙のフィナーレでした。そ
の中で、私は父に、「お父さん見てる?私はあなたの息子です。
精一杯話しています。生んでくれてありがとう。見守っていて
ください」と話しかけていました。

註 ネットワーク『地球村』
    TEL.06−6311−0309 FAX.06−6311−0321
    アドレスhttp://www.chikyumura.org/

          関西アララギ平成19年10月号      

       木善胤追悼特集号  頒価    1500円      申込みは発行所へ

                      

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