2009.11.19掲載 不許複製・転載禁止
2010.9.23
更新
五味堀菩薩堂縁起 参考資料;春日家文書、金毘羅講伝

多聞天、虚空蔵菩薩 普賢菩薩 文殊菩薩 観世音菩薩 地蔵菩薩、増長天(補作)


 北秋田市五味堀集落(旧森吉町)の上方、秋田内陸縦貫鉄道前田南駅へ通じる市道を東南へ進むと小高い鎮守の森がある。通称「菩薩堂」という。五味堀神明社があり祭神は天照大神だが、社殿は神明造ではなく仏閣造(春日造に似るが、異なる)で、元は菩薩様を納めた御堂だった。棟札に「文政参年(1820)四月貳拾四日、菩薩御堂一宇再建奉る」とある。

 棟札には、遷宮師 和乗院、別当 大聖院、願主 当村肝煎 越後屋新蔵、長百姓 越後屋武右エ門、長百姓 岸野金蔵、長百姓 工藤文佐衛門、長百姓  柴田第三郎、地主 細越村 新蔵、地主 巻淵村 重三郎、地主 堺田村 久四郎、地主 根森田村 太佐衛門、地主 桐内沢村 辰之助、地主 桐内村 太治兵衛、地主 様田村 吉蔵、地主 森吉村 金之丞、地主 小滝村 七之助、地主 砂子沢村 重郎左衛門。大工頭 槙沢鉱山 高橋喜衛、大工 高橋正吉、大工 市之又鉱山 甚五郎、大工 新屋敷村 庄太郎 名代 酉松、大工 当村 卯助、大工 陣場代 吉五郎、木挽 当村 伝蔵、鍛冶 銀山町 丈助。
 裏面には、「叶大衆 成就手伝 賢明院 常覚院 大宝院 地福院 明学院」と近在の修験・山伏の名が記され、願主には本村五味堀、大岱、柏木岱の他、各支郷の地主の名が記されているが、小又川流域の重立者が名を連ねているのは、これら全ての村々が五味堀村肝煎の支配下にあったからである。(願主 越後屋新蔵は、永々苗字帯刀大小御免被仰渡される前の春日常右衛門(春日宗家10代、当家初代の弟である)。

 しかし維新政府による明治元年3月28日の神仏判然(分離)により、全国的な激しい廃仏毀釈運動が起こって「菩薩様」が追い出され、今日「おせど」と言われる所にあった御伊勢堂(神明社)が、「菩薩様」の替わりに「菩薩堂」に納められた。今、神明社に納められている御堂がそれで、天明3年の建立である。
 「菩薩堂」を追い出された「菩薩様」を救ったのが、当時阿仁川の舟運をしていた船乗り達で、代表は「金毘羅講」盟主(当家が代々盟主)であった小生の高祖父(5代)で、菩薩様を密かに隠し祀ったと言う。
 その後、廃仏毀釈のほとぼりが冷めた頃を見計らって、「船乗り達」は今は神明社となった元の「菩薩堂」の隣りに明治33年、新たに「菩薩堂」を建立し、菩薩様を安置したのが現在の「菩薩堂内陣」である。

 今「菩薩堂」に納められているのは、多聞天(毘沙門天)、虚空蔵菩薩、普賢菩薩、文殊菩薩、観音菩薩、地蔵菩薩の六体であるが、金毘羅講中の言い伝えや古老の話では、もう一体あった菩薩様が(本尊か?)が盗まれたという。
 盗まれた仏像は、その当時南部の小豆沢(現・鹿角市八幡平小豆沢)に在り、小豆沢の村人がその菩薩様を正対安置するも、夜毎五味堀の方に向きが変わったと言う。
里人曰く、「なんぼ直しても、毎ばんげ(晩)五味堀の方を向いだもんだど!」


【注釈】@菩薩堂再建に尽力したのは、「金毘羅講」盟主であった小生の祖父等(当家5代)。
     A「菩薩堂」の多聞天、虚空蔵菩薩、普賢菩薩、文殊菩薩、観音菩薩、地蔵菩薩の仏像6体は、森吉町文化財に指
      定され、合併後の北秋田市に引き継がれている。
       なお向かって右端の「増長天」は平成3年の修復の際、「盗まれた仏像は『増長天』では?」との推測の下、補作
      されたもの。
       しかし「四天王」とは元来、東西南北の守護神であり、はじめから2体である筈がない。盗まれた仏像とはもっと
      大きな仏像、例えば「本尊」の様なものだったのではなかろうか?あれだけ大きな「御堂(本来の菩薩堂)」に小さい
      仏像6〜7体だけでは、不自然だと思うが、今となっては不明としか言いようがない。


本来の「菩薩堂」正面
   本来の「菩薩堂」正面(現:神明社)
本来の「菩薩堂」横
          本来の「菩薩堂」横(現:神明社)
「撫で牛」
菩薩像の脇に在る木彫りの大きな「撫で牛」
再建された現在の「菩薩堂」
再建された現在の「菩薩堂」
「鰐口」
村人が奉納した「鰐口」

春日家文書(春日堅蔵氏) 座像不動尊縁起 菩薩堂別当三光院所持の巻物より
 里の後ろに山あり尼舘山という。承元3年(1209)より尼子将軍の居城であったことから尼舘と謂われている(天舘ともいう)。そこから流れ下る沢あり谷あり、途中に滝あり之を仙人滝という。氏神として座像不動尊を造らせここに安置す。信心なれば立願叶わざるなく霊験灼か也。故あって尼子退去す。以来久しく、草木の露や落ち葉に埋もれることとなる。

 神意畏れ給うべし。天正二年(1574)四月七日、里人の夢の中に座像不動尊顕れて言うに、「我この沢に埋もれて久し。人間の悪行苦難災害そのとき計り難し。信心をもって神徳を得れば諸願成就す」と言う。夢覚めて不審晴れず。又其の後、度々夢に現れるので、是偏に安置して崇信すべき也と。里人夢中の神像を尋ねて数日を経るも見出せず。
 詮方なく幾日か過ごした或日のこと、里人松之助と言う者山仕事に出掛け、日暮れてこの沢を帰る途中仙人滝の上に紫雲棚引き柴木の梢を襲う。其の中に炎の様な光明顕れて金色両岸を照らす。松之助驚天して馳せ帰り名主に語る。
 翌暁その地を訪ねるに、暫くして不思議の大石深く苔を覆い竜宮の一つ神あたかも出現したる如し。其の傍ら草木露深く苔滑らか也。如何にも怪しく、其の石を掘り沢水にて洗い見るに、果たして夢中の神像也。人皆奇異なる想いを成す。此の神像顕れたるは同年六月也。其の沢下に階ケ滝と言うあり、其の岳に勧進す。しかして後、時々灯明天より下る。心霊畏るべきなり。

 同三年四月二八日里人信心を成し、七人詣で通夜深更に及ぶ時皆眠気を催す。神慮の程畏れ多く眼を瞠り歯を噛み締めるも遂に眠りに陥る。不動尊顕れ「我此処に遷すと雖も未だ其の聞こえ惜しき也。希わくは一宇を建立し、虚空蔵菩薩、普賢菩薩、文殊菩薩を遷し信心あるべし。我守護の神となりて庶民を加護すべし」との御告げ也。七人の里人之を畏ろしく且つ神霊尊しと雖も、社を建立するに早速には及び難く、また年月過ごしたり。同十年六月二十四日社建立也たる如くみえたり。

 「我一宇の滝上に魚上り成さず」と夢に示されてより心を尽くして見るに一丈滝上一円に魚上らず。示現違うことなし。人皆神霊尊しと一同心を合わせて一日も早く一宇を建立し、延命を祈るべく話合一決す。
 同十六年八月十六日一人の僧来たり、予は仏師也。此の里社を建立すると聞く。頼らば予の望む所也と。里人之を乞い求む。同年九月八日に至り三尊完成す。僧曰く「開眼如何」と。里人之を祈願し同月二十八日開眼読唱終わり不思議なる哉、僧神前に進み其のまま消え失せり。静鎮寂々遥か巽の方に雷鳴一声聞ゆ。里人之を畏れ伏拝す。
 其の後小山を平らに成し、同十七年四月(1589)一宇全く之成就し同月八日三尊を宮に遷す。之にて終わりぬ。
 又曰く、滝下まで来ると雖も滝の上に魚上らず。霊験尊し。座像不動尊の不思議なる神慮の灼かなること疑うべからず。里人信心を為し、神慮により其れ以来五味堀の里火災無しと言う。


【注釈】@現在「菩薩堂」に安置されている仏像の「虚空蔵菩薩」は立像で、座像菩薩は「普賢菩薩」、「文殊菩薩」の2体の
      み。天正16年に完成した「座像不動尊」三尊が、現存の仏像と同一のものなのかは、よくわからない。

     A尼子将軍…五味堀部落の口伝に「尼子将軍」の居城跡とある。また「阿仁発達史」には、尼子勝久氏の居城と語ら
             れるのみで年代事跡等は伝えられていないと、記載されている。

     B尼子氏…近江(阿部氏族、佐々木京極氏流)和名抄の犬上郡尼子郷の地名を負ったもの。
            淺羽本佐々木系圖に「京極高秀ー尼子高久ー詮久(江州尼子)とある。
             中世末、山陰地方で勢力のあった豪族。室町期のはじめ、持久が出雲守護代となって以来、
            代々富田月山城主。その孫經久、及び經久の孫晴久の代に山陰地方を統一した。
             しかし、大内氏や毛利氏と争って義久のとき毛利氏に降った。支族の勝久らは、山中鹿之助の
            力により挽回の企をして失敗、ついに滅亡した。(姓氏辞典より)

            尼子高久ー持久ー清定ー經久ー政久ー晴久ー義久ー元知ー就易
                               ├國久ー勝久├倫久
                               ├興久                ※尼子勝久は晴久と従兄弟。

     C尼舘…北秋田市五味堀字天舘。五味堀集落南東部の大久保山(353b)の山頂部にある。五味堀では、天舘
           と呼ぶ。
           山頂部から一段下がった城岱と言われるところが尼子氏の居城跡と言う。五味堀側に比べ巻淵側、
           小様側は急峻な断崖で天然の要害。
           単郭状で巻淵側の断崖下に空堀がある。「六郡郷村誌略」に、『古城五味堀村、アマ館と云う有り』と記
           載されている。

          ※天舘の麓〜仙人滝の上方は通称「日蔭平(ひかげぴら)」と呼ばれ、五味堀集落の採草地だった。
            昭和30年代後半、この地一帯を区画分割して集落の各戸に分譲した。分け前を貰った各戸は杉を
            植林したが、仙人滝の上が割当てになったある家で杉を植栽するため唐鍬で山を掘り返したら、
           錆びた刀が出土したと言う。