森吉町を出自とする「森吉氏」

 
平成24年1月21日更新

  森吉町の町名は、旧米内沢町(よないざわまち)と旧前田村(まえだむら)が紆余曲折の末、町村合併促進法期限切れぎりぎりの昭和31年9月30日に合併した際、時の県知事が町のシンボルである霊峰「森吉山(もりよしざん)に因んで命名したものです。
(平成17年3月22日、市町村合併(新設合併)により、森吉町は廃町となり、北秋田市となりました。)

  この森吉山は古来、秋田郡(現北秋田郡、能代市、山本郡、南秋田郡、秋田市、男鹿市などの総称)のシンボルとして「秋田山」とも言われ、山頂を望む外輪山の一画に、大同2年坂上田村麻呂が寄進したと言う(伝承)薬師堂があり、規模は比ぶべきもないが、出羽三山のような霊山であった(戦前までは女人禁制)。昭和30年代までは一週間精進をした上、途中の「垢離採り場」で水垢離をして登山をする「嶽参り」が盛んに行われ、帰りにモロビ(アオモリトドマツ)の枝を手折り、帰宅後神前に供え、親戚縁者に」配り、魔除けとする風習が山麓周辺集落の春祭り(旧4月8日)の行事として盛んに行われていた。

  この森吉山を祭祀するのが、山伏・修験で阿仁部の頭襟頭をしたこともある本城村(現森吉町本城)の修験和乗院」であるが、明治維新の廃仏毀釈と修験山伏停止令により復職し、森吉山に因んで「森吉姓」を名乗ったものである。「金家文書…金鉄之助日記;現・金和彦氏所蔵」明治2年4月29日、和乗院改名・森吉豊とある。

  このは和乗院は代数不明だが、元は阿仁銀山・山神堂の別当であり、本城村に移り住み、元文2年…和乗院宥信、大頭。文政8年和乗院宥寿、頭襟頭。成就院(八竜町鵜川)10代目慈眼が寛永元年に新入、翌年入峰後、頭襟頭となる。などの記録(「秋田の山伏・修験」、「秋田風土記」)があり、往時は森吉山の別当として、阿仁部修験の元締めであり、森吉山に因む旧記ありと記録されている。なお森吉神社は明治45年3月11日阿仁前田八幡社を里宮として両社を合祀し、郷社森吉神社となる。(参考文献;「当山修験宗派本同行御改帳」「胎輪寺記」「巳年の調」「秋田風土記」「秋田の山伏・修験」)

  明治以後の「森吉家」は「」の子「武雄」が本城村の本城学校の教員をしていたが40歳で死亡、その子「**」がわずか6歳と幼少であったため転出、その子「**」氏が現在鹿角市に住んでいる。この家系が森吉町から出自した「森吉家」であり、県内唯一である。また森吉武雄の顕彰碑が浄福寺(本城)にある。(「武雄」の時代は明治維新の宗教統制や神職の教員禁止令、学制改革などで国の制度も正に「朝令暮改」であって、武雄の処遇は明治維新と言う激動時代の犠牲者でもある。「金鉄之助日記」「秋田県教育史」に詳細が 記載されている。)

  尚、和乗院が初めから森吉山の別当を勤めていたのではない。元々、現在の森吉町大字森吉、大字根森田は五味堀村の支配郷であったため、森吉山も五味堀村の肝煎の管轄であったが、「春日家文書」(代々肝煎を勤めた、現・春日俊克氏所蔵)によると、森吉山の縁起について「依田村三光院(山伏…新屋布)に縁起之有」とあり(寛保3年9月の条、この時和乗院名改安正院とある)、その三光院は五味堀村「菩薩堂」の別当であった人。おそらく和乗院が入峰後、頭襟頭となり、その威光によって森吉山の別当職が三光院から和乗院へと移ったものであろう。また和乗院が阿仁銀山・山神堂の別当であったのは、鉱山開発と密接な関係がありそう…

  また秋田城之介の時代には霊山として栄え、神田の寄進もあったと伝えられており、神仏混淆時代には「森吉山天竜寺」、「森吉山竜淵寺」、「森吉山霊竜寺」の三ヵ寺が栄えたと言われているが、「春日家文書」には寺号之額龍王寺拝殿の云々とあり、また「菅江真澄遊覧記」との対比など、今後の研究課題である。

※無断転載はお断りいたします(平成10年10月10日掲載)

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