Baseballを「野球」と訳した教育者 中馬 庚(ちゅうまん かなえ)            2020.4.19掲載
4.23更新



鳳鳴高校に残る写真

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 旧制大舘中学校(現・大館鳳鳴高校)の第7代校長の「中馬 庚」は、現在の鹿児島市出身(明治3年・1870年3月10日-1932年3月21日)は、旧制第一高等中学校、東京帝国大学を卒業した教育者である。
 第一高等中学校野球部の選手として活躍していたが、卒業にあたり「ベースボール史」執筆を依頼され、その際「ベースボール」を日本で最初に「野球」と訳した事で有名。この間、学制改革により旧制第一中学校は第一高校となり、明治27年「一高野球部史」として刊行された。またショートストップを「遊撃手」と称したのも中馬庚である。一高野球部では名二塁手として活躍したと言う。

 明治30年7月東京帝大史学科を卒業した中馬は、兵役を経て鹿児島に戻り教師となり、明治39年鹿児島第二中学校(現・鹿児島甲南高校)教頭となった。
その後、新潟県糸魚川中学校長(現・糸魚川高校)、同新潟中学校長(現・新潟高校)を経て、明治42年10月秋田県大館中学校長として赴任した。新潟中学校から大館への赴任だから、いわゆる左遷だが、それには中馬校長らしい経緯があったという。
 新潟中学校在任中のこと、他校との野球試合の際、自校の応援団があまりに熱中して、血の雨を降らさんとしたのを食い止めるため、校長自ら陣頭に立って指揮刀(中馬校長は陸軍中尉で平素よく軍服を着用して居られた)で生徒を制し、その時過って生徒を怪我させたためだと言う。

 大館中学校時代の中馬校長は、時々軍服を召して出勤され、朝礼の時など壇上に上がって自ら号令をかけて、駈足あしぶみなど10分位、御自身もやりながら全校生徒に朝の運動としてやらせたと言う。
 五分刈りの坊主頭、濃い八の字髭、浅黒い顔、眼光爛々として、見るからに精悍の偉丈夫であった。左手を軽く背にあて、右手を前後に振るというよりも、少々前に出して左右に振り威風堂々と歩を運ばれた。大中・鳳鳴時代を通じて一番の豪傑だったと、当時を知る大中生(大中13期斎藤先生)等の弁。

 中馬校長は、その後大正6年徳島県脇町中学校長(現・脇町高校)を退職し、同7年〜14年の間、浪速銀行に勤めた。昭和7年3月21日62歳で死去。その後昭和45年野球殿堂入りした。

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