2004.9.13掲載 久米島を出自とする盛吉氏 2012.1.20更新

 「盛吉」姓は、沖縄県が16戸、宮崎県が3戸、兵庫・神奈川県が各2戸、東京都2戸で、全国25戸と極めて珍しい苗字。
 沖縄県は全国第1位の戸数を誇るが、中でも島尻郡具志川村(平成14年4月から久米島町に10戸。その他には宜野湾市に4戸、那覇市に2戸の計16戸である。
 最も多い久米島に本家があり、8世盛吉筑登之「智永」の代に功績により琉球王朝から戴いた苗字と云い、沖縄県の文化財的な苗字。同県内の「盛吉」姓は全部同族だと言い、また神奈川県内の「盛吉家」2戸は11世「智性」の子息。八王子市の「盛吉家」1戸は10世「智安」の子息。

 また宜野湾市に別ルートの「盛吉家」があるが、その子孫の現在については不明というものの、久米島の喜如嘉(チズカ)「盛吉家」の子孫に違いないと言う。

 宮崎市高岡町に「盛吉」姓が3戸あるが、いずれも同族(兄弟とその子)で、東京都に弟が住まいしていると言う。詳しいルーツは今となっては不明だが、久米島の盛吉家では昔、他家に「盛吉」姓をあげたという歴史があり、宮崎市の「盛吉家」はその子孫と思われる。

 ただし広島県の「盛吉」姓についての詳細は不明とのことだが、以上のような経緯と同氏のルーツから推測すると、関連性が強いものと思われる。

 また盛吉家「屋号」喜如嘉(チズカ)は、久米島で最も古い開発地と云われ、西銘周辺では「新垣のマキョ」という血縁集落であると云われている。                                  マニク
 盛吉家の元祖の年代は不明だが、美済氏本家の4世「智隆」(1580〜1659)の室「真舟久」(1582〜1637)は、喜如嘉の一人娘と記録されているので、1500年代前半と云う。

                        以上、「西銘誌」編集事務局長・盛吉秀雄氏より



美済氏支流 「喜如嘉(チズカ)」(現在の盛吉氏)系図(西銘誌より)

  元祖・垣花里主 → 2世・□□ → 3世・首里大屋子 → 4世・山里親雲上 → 5世・田頭掟親雲上 →
    1500年代前半               1718年没       1741年没           1773年没
 
   田頭筑登之    大田親雲上  盛吉筑登之
  6世・蒲戸  → 7世・松 → 8世・智永 → 9世・智勝 → 10世・智安 → 11世・智性 → 12世・邦尚
   1839年没    1867年没              1906年没     1925年没      1964年没       現当主


◆琉球時代の位階・役職(盛吉秀雄氏より)
役職名 読 み 説   明
按司掟 アジウッチ 中央集権役、その地区間切へ政治の監督へ行く者
親方 ウェーカタ 脇地頭家(ワキヂトゥケ)以上の最高の位の名
親雲上 ペーチン 各職場の頭、主任級
里之子 サトゥヌシ 脇地頭以上の方が王府の職についての役
筑登之 チクドゥン 王府の書記
地頭代 ヂトゥーデー 百姓の間切(村)を掌握する今の村長
夫地頭 フヂトゥ 地頭代を補佐する者
大屋久 ウフヤクー 仕事の現場を指導する者
沖縄県島尻郡久米島町の位置図


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