2009.12.15掲載 森吉山古記 六郡郷村誌略・秋田風土記・羽陰温故誌より

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                     江戸時代の紀行家 菅江真澄が描いた森吉山(画像クリックで拡大)

森吉山向嶽(奥嶽)
  一ノ腰        行人瀧    向嶽     冠岩  前山(嶽)
森吉神社と冠岩     森吉神社      冠岩                      諸檜 



森吉山ハ堺方見当山ト云。 見当トハ見当盤ト云フモノアリテ、磁石ヲ以テ方角ヲ定メ、遠近ヲ見ル口授アリトゾ。麓ヨリ砂子沢、小又沢マテ五里、
砂子沢ヨリ赤滝仮戸(ケド、伝ハ堺方廻山ノ片小屋カケ泊ル処ヲ云)迄三里、赤滝ヨリ冷水仮戸まで三里、冷水ヨリ三ツ又堺迄三里ト云フ。
東ニ南部硫黄山アリ、又湯沼トテ一丁程ノ湯涌立沼アリ。景地ナリ。南部花輪ノ拠人ト砂子沢ノ拠人ト会立堺通リ道払フト云、忍ヒ通ル者越ル事アリ共、通リカタキ難路ナリ云々。(羽陰温故誌)

森吉山は阿仁銅山の奥にて大山なり 登り三里下り三里 銀山町より七里余 景山なり 五味堀村の枝郷様田村より登れ
一ノ鳥居台一里余と云う有 自然に登る一円ブンナの木 銅山の用燈し竹伐小屋有 但笹竹なり己ミと 枯れたる竹に非レハ用立ちさるよし
垢離掻場 是より山急に三丁程上り 一ノ腰と云うに至る 是より上りなく半里程行て前山(岳) 前嶽に本社あり 石仏の薬師堂なり
御堂四尺一間 堂の后に立石有 高さ三丈程 渡り十間程 石と石の間虚なり 胎内潜りと云 是銅山のタテツフリと云なり
庚申金毘羅馬頭等の石小祠あり 石の絶頂に上りて見れば五六寸四方の窪あり この窪に水をたたえて炎天にも絶ゆることなし
参詣の人々此の水にて目を洗う 名付けて目洗水と云ふ 別当本城村和乗院 縁起に曰 大同二年阿仁大瀧丸退治の時立願有て
田村将軍開基すと云ふ 考えるに石ハ即金剛の勢にして即薬師ならん 山霊山面に現し石に刻み木に彫るの類不非 必拝すへきの霊地なり
向嶽は前山の南東にあり 一里上る即絶頂なり 前山向嶽の間に御田と云ふあり 神田とす 田の形の水溜あり 稲の如き水草有
又花畑と云ふあり 神苑とす 一円わすれ草なり 山上は庭前の如く這ひ松地に敷き 佳石ほとよき並び 諸檜と云ふ大樹其間に生じ
造化の妙人事に及ふへきに不非 山上の大観 東は奥州南部岩鷲山(岩手山) 北東の間に鵜曾礼山有( 不明?)
西南の間に鳥海山 北に津軽の岩城山富士峯の如く 又西に男鹿本山三倉鼻八龍湖 南東に漢槎湖(田沢湖)有り角館に有り
諸山は畑の如く銀山の天狗嶽の山の形をなし 其外は遠山雲に双ひ海隅天につゝけり 何国の山何地(津)の海と云ふ事を不知
記する処は近国に見知りたる山を指すの 山はモロ檜と云へる木のみ 又大鞁(太鼓)沢と云ふあり 不思議有て人の行く事を禁ずと云へり
或いは云ふ 森吉山は本社五味堀村の枝郷様田村の内小又沢イラダイ(ソライ)トモと云ふ処の内に薬師堂あり 社地百間に三十間
三ケ寺あり 何宗と云ふを不知 又行人瀧と云ふあり 森吉山上の行を勤めし処と云ふ 額天竜寺とあり 何人の筆跡たるを不知
堂破損して無りしを前の銅山師石田久太郎と云ふ者再建す 田村将軍開基と云ふこの薬師ならんかと云へり 大瀧丸居住の洞は三陵山の内にあり 今木の葉を埋んで広からぬ岩洞なり 全く大瀧丸穴居するに不非 山上に古城有と云へり 森吉山笠冠石は即御神躰とす
鐇石ユルキ石獅子鼻石とて山中にあり 皆雅石にして銅なりと云へり 云々