2009.12.15掲載 森吉神社縁起 郷社森吉神社より

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所在地 秋田県北秋田市森吉字森吉山1番地(奥宮)

祭 神 伊耶那岐命、 伊耶那美命、 天照大神、 素戔嗚命、 大己貴大神、 大山祗大神、 大汝小彦命、 
     受持之命、 火産霊神、 豊受大神、 日本武命、 応神天皇、 少名比古那命、

境内神社 山神様(冠岩…神秘的に積み重なった巨大な岩石が御神体)

祭 日 旧4月8日(春祭)、6月15日(夏祭)、8月15日(秋祭)、

里 宮 北秋田市阿仁前田字八幡森1番地(旧村社八幡神社社趾)



縁 起 「当神社の創建不詳と雖も伝え聞く。大同二(807)年、田村将軍の開基也と伝えり。蝦夷征討の砌、
     奥州へ下向ありし時、出羽国秋田へ来り。時に森吉山は霊山なりしも、大滝丸と云う鬼神三陵山(みおかやま)
     の内岩穴に居住し、参詣人を妨げ、是がために参詣の輩稍久しく絶えたり。
      田村将軍、高清水という所に十七日参籠し時に不思議なる哉、著しく霊夢あり。告げて曰く、翌日南方
     の方より白矢一本飛び来るべし、必ずその時勝利を可得、と忽ち夢覚めたり。心中に稍祈念し、案の如く
     南方より白矢一本飛び来り。その時士卒引き手押し寄せ、速やかに大滝丸を退治す。爾来穏やかにして
     遠近の人民今に至って参詣絶ゆる…云々」

     明治六年村社に列す。
     明治四十三年、秋田県知事の許可を得て八月十五日、村内各部落の二十六社を合祀する。

     明治四十五年三月十一日、秋田県知事の許可を得て阿仁前田村社八幡神社社趾を里宮として、両社を合併し郷社森吉神社と称することになれり。
     同年七月十六日、秋田県知事より同日以降郡費を以て神餅御帛料を供進することを得べき、神社に指定される。

御神体  現在、里宮に安置されている御神体は、田村将軍東征の時身につけて来た守護神七体のうちの一体を解き
      以て凱旋の功を祈念し、其の威霊の赫々たるに依り、以て王朝に敵する不逞の徒を征滅するに至れ、という。爾来将軍の符を以て後世の御神体となせり。
       然し当社の奉仕者である別当職が更送されたが為、御神体も一旦所在を失いたるも、明治十九年本社新築の際、
      本城村住森吉豊氏(旧別当・和乗院)より譲り受けたとして民間にあるを発見。それを返戻せしめ、本社に祭祀せりという。

       森吉山は古くから山麓住民の尊信を集め、秋田城之介の時代には霊山として栄え、神田の寄進もあったと伝えられており、
      神仏混淆時代には森吉山竜渕寺、森吉山天竜寺、森吉山霊竜寺の三カ寺が栄えたと伝えられているが現存せず。
        なお大阿仁城主板垣但馬守が森吉大権現の本地仏として薬師如来を祀り、また山頂より東方に延びる這松の尾根には、少名比古那命を祀り、
      朝夕遙拝したとの言伝もある。

嶽参り  山麓の人々は霊山である森吉山を「嶽」と称し、近在の若勢達が約1週間精進して旧暦四月八日に「嶽参り」を行う風習があった。
      嶽参りをした若勢等参詣人は森吉山のモロビ(アオモリトドマツ、オオシラビソ)の枝を手折って持ち帰り、氏神や神棚に供え、一部は近隣縁者に配った。
      モロビの香りは穢れを払い、魔除けの効力があると信じられていた。旅立ちの際は、モロビを燻して全身を浄め、行路の安全を祈願した。

胎内潜 昔の霊山時代は修験や山伏が別当を勤め、冠岩で山伏の修行「胎内潜り」が行われた。真澄が描いた一番下の絵にその文言が書き込まれている。


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冠岩・非難小屋・神社・一の腰 江戸時代の紀行家・菅江真澄が描いた奥嶽
神秘の奇岩 冠岩 現在の奥宮(小生が分かるだけでも四代目)
横から見た冠岩(昔は胎内潜り行われた) 菅江真澄が描いた冠岩と神社