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◆砂子澤の由来
…五味堀村肝煎、越後屋九兵衛の記録

 天和2年(1682)戌年、陸中国南部境看守のために、五味堀村支郷として砂子澤平田村湯ノ岱村、大杉村の四ヶ村を立置かれたり。
 拠人として前田村より半之丞、沢内村より久右衛門、作十郎、六兵衛は宍戸又右衛門の下人なり、茂左衛門、徳助は独狐村より移住したり。
 但し拠人壱人につき五合づつ五人扶持、銀弐拾目遣わす。百姓壱人につき一人扶持、地主重郎左衛門は弐人扶持、百姓家内は八歳以上一日につき2合づつ下置き候。

 天保9年(1938)戌年8月、慶長年中より9代九兵衛(元文3年没)、南部境切り開きの功により、御評定所奉行より永々苗字帯刀大小御免被仰渡候、名を春日常右衛門(春日家9代)と改める。

 天保14年五味堀村肝煎春日常右衛門より、田畑開墾の願い上げがあり、御境奉行の許可が出て、2ヵ年で田地開墾、田地不向きの場合は畑切り開き、兀田1町8反1畝20歩、稗田1町4反6畝11歩、下畑7反96歩、本畑2町9反6畝3歩、屋敷2反4畝23歩の合計7町2反7畝25歩の出来高を御境奉行に報告している。


◆見当山調査…南部領との国境調査…国絵図書き替え

 享保3年(1718)4月、幕府が見当山調査を諸藩に命じた。5代秋田藩主「義峯」は、家老今宮大学義透(よしすく)に命じて領内調査を推進した。

 春日家文書には、「享保3戌年3月28日、久世大和守様、大久保下野守様、北条新左衛門殿より御用に付、留主居催促致べく仰せ付けられ、4月2日御両所より見当山之事府内山より他国山見渡し之義、仰せ付けられ候。秋田郡阿仁中邉在る森吉山正保元禄共に誤りて南部境山に書出此節仰解かれ哉…」

 但山本郡藤琴村物見山津軽御境山に書出成置かれ候。是は山名相違成られ候間、森吉同様には相成らず候。「森吉嶽」は十二所扱、「安森」は角館扱大阿仁荒瀬分擔なるべし。
 なお南部藩国絵図では、森吉山を「帝釈森」と記している。

 見当山調査をしたところ、嘗ての正保2年の「出羽一国絵図」、元禄の「国絵図」には、森吉山が南部藩との境の山として描かれているのが分かり、秋田藩は享保4年8月に訂正「国絵図」の提出を願い出たが、同年10月藩の願いは老中久世大和守に受理されたものの、国絵図訂正についての指示は得られなかった。

 従って代々肝煎を勤めた春日家の当主は拠人を兼ね、藩命により4代〜11代までの間に、「南部御境筋調査」を続けた。その功労により、9代目の常右衛門が永々苗字帯刀大小御免被仰渡され、以後「春日姓」を名乗った。
 
 この地域は豊富な鉱山資源を有するため、南部藩との境界警護は重要。戊辰戦争でも南部勢と対峙した。

訂正前の国絵図  詳細  本砂小沢絵図  御境筋  訂正後の国絵図  訂正後の詳細

出羽秋田領六郡図(寛文4年)


大阿仁小又沢の由来(春日家文書)