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2005.4.3

成熟するとは、自らの未熟を悟る事である。

と、未熟なわたしがわかったような事を言うのはなんですが、そういう「感じ」である。

そうでも思わないと「先生」という職業自体が成立しない。

「成熟するとは、自らの未熟を悟る事である。」というテンプレートは結構使えますよ。

今、起きている社会的出来事に当てはめると見えてくるものがある。

政治や医療事故や情報企業の買収など整理がつき難い事柄に、ある「かたち」が浮かび上がる。それはあたかも受験勉強の単語帳の「赤いフィルター」みたいに。

このテンプレートの優れているところは「偏見」や「先入観」や「コンプレックス」ではないところで、逆に優れていると思い込んでいる人の本心をあきらかにしてくれる。







2005.4.2

ことばを残すと言う事

ぼくが経験して来た、主に「にがい経験」というのはだれでも経験してしまう可能性があると思っています。wが経験して来た、主に「にがい経験」というのはだれでも経験してしまう可能性があると思っています。

というよりあんまり危ない目にあわない方の人種だと思っています。ちらしも署名運度の人も高いリトグラフを売り付ける「微妙に美しい」おねいさんも近寄ってこないし韓国でも日本人観光客相手の「ぽんびき」のお兄ちゃんもわたしに近寄らないで同行していた韓国人のおじさんに日本語で話し掛けるしまつで、決定版は地下鉄に乗ってもわたしの両隣りが開いたままであることがあります。

そんなわたしに「ふりかける」災難の経験はよほど「よりすぐられた」不幸だと思っています。

だからあえてその「不可避」なアクシデントとその対処について書き残さないといけないなあと使命感に燃えているからです。

またぼくの感じる「いやなオーラ」というのは、これまた誰でもそう思っている感じている可能性が高いと思っています。

これまで書き残してきた事を読み返すとなるほどなあと「自分が」思う事があります。

それは「感じた瞬間」にそう書いているので時間が経つと自分の感想が変化してしまうからで、最初に感じた事が結果まとを得ているからです。

そんな「memo」がまもなく(すぐではないですよ)変わります。一見「ブログ」ですがブログにはしません。コメント欄もトラックバックもつけません。それはあくまでも「即時性」を高める目的であり「インタラクティブ」であろうとするものではありません。

まったく「パーソナル」でありながら「パブリック」でろうとする試みです。








2005.4.2

ぼくがデザインをする上で「変わり目」だったと思う出来事が有る。

1985年の12月、すでに会社は冬休みに入っていて出社する人もいない厚木工場にわたしは出かけていった。休み明けにはデザインを決めなくてはいけない、デジタルのオープンリールテープレコーダーのデザインスケッチをするために。

高さが120センチぐらいあって普通の紙ではもちろん実寸では入り切らないサイズだったので、通常であれば縮尺にして描くところだけれどそれでは全体の雰囲気が再現出来ないので、スケッチ用の紙では無く文具店でも手に入る「模造紙」と呼ばれるうすくてつるっとした紙に描く事にした。これであれば縦で1メートルちょっと幅も50センチ以上有るのでなんとかつぎたせば原寸のスケッチが描ける。

それをデザイン室の壁にテープでとめてスケッチしはじめた。まずは「イーグル」というブランドのまっくろな色鉛筆であたりを描く。サイズが大きいので習字をするがごとく「大きく伸びやかに」線をひく。そうすると気持ちも解放されはじめる。

これはもう「プロダクトデザイン」ではない。まるでそこにそびえる樹木のスケッチをしているような気分である。

「イーグル」という色鉛筆は「油性」である。油性がどうして便利かと言えばペーパーセメント(紙を貼る為に用いられていた液体の接着ゴムで何度も貼り直しが効くので重宝されていた)を剥がす為の「ベンジン」のような希釈剤を使うとまるで「水墨画」のようにぼかしたりのばしたり出来るのである。

それはやはり当時レンダリングを描く為に良く使われていた「スピードライマーカー」のスケッチみたいな絵を描けるしそれ以上に「絵画的」なスケッチを可能にしてくれた。

イーグルと希釈剤でスケッチするのはちょっとした「発見」であり「発明」だった。だれも会社でそういった手法をしている人はいなかった。と同時に「絵画とデザイン」という自分の中でもやもやしていた壁が取り払われる瞬間でもあった。

建築家のスケッチがポスターになっていたりニューヨーク近代美術館に並んでいたプロダクト製品がアートに見えた経験からプロダクトデザインのスケッチが「アート」になってもいいと思ったしそういう広範な意識がデザインする上で大切だと思っていた。

どう見せるかも大切だけれどどういう思いでデザインするかはもっと重要だ。

スケッチを仕上げた12月30日の夜に長男が誕生したのです。






2005.4.1

そのむかしオーディオのデザインしていた頃「TQC」なる運動があって「トータルクオリティーコントロール」端的に言って「無駄をなくそう」ということですが、まあ「正論」なのでおおむね従わざるを得ないのですが、個人の好みで塗装色を増やすのはやめようとか、新規部品をそのつど増やすのはやめようという動きにつながるわけです。

当時、何機種も値段によってバリエーションがオーディオの世界ではあったわけですがこの「TQC」によって部品の共通化をはかろうとすると、なにが起きるかと言えば値段の安いものに高いものが従うと言う「逆転」現象が時として生まれてしまうわけです。

なぜそういう話を持ち出したかと言えば、新しく始まったTBSの朝のワイドショーを見ていてみのもんたさんから「はなまるマーケット」に引き継ぐ時の「温度差」が以前は気にならなかったのががぜん「違和感」を感じるようになったからだ。

みのもんたさんは努力家であり知識を一生懸命そしゃくして相手に伝えようとしているし突然のニュースやハプニングにつちかった今までの経験を生かしているのが見ていて良く判る。インターフェースが存在するのだ。

それにくらべて「はなまる」のふたりは昨日起きた事昔あった事を手がかりにしか話題が無く、計算外の事が起きるとぽかーんとするばかりである。

学習というものを感じないのだが、その影響がそこで止まらないで数年で変わる局内で将来有望視されている女性アナウンサーがそこに「まきこまれてしまう」。

女性アナウンサーがそれまでつちかった英語力や学習力を生かす事無く、子供時代きっと勉強としつけに厳しかっただろう親の影響で「してはいけない」「知ってはいけない」とされていた事柄に言及されるとまるで「おばか」な世間知らずに仕立て上げられてしまう。まるで都会から引っ越して来た女の子が「かえるを触れない」というだけで仲間からはずされてしまうようだ。

でもそれはこの番組を見ているクレバーだけども「この時間のこの番組を見ている状況を嘆いている」視聴者が作り上げたスタンスである。

勝ち組と言われてもなあ。

「たらない」という事が重宝されるのは、テレビの世界だけでは無い。と思う朝。










2005.3.31

昨晩、自宅に戻る途中なにげなくまだ明かりのついている商店を見たら、すでにあらかたの商品が無くなっている。それはかたづけてなく「店じまい」の最中だったのだ。

17年前、上原に引っ越して来た時からすでに「古びた」印象だったので、きっと30年40年とこの場所でお店をしていたのだろう。

食料品店となっているが日用品全般がおかれた「よろすや」である。店頭にはがちゃがちゃの器械が並び長男が子供の頃はよくお世話になった。

コンビニ以前の「コンビニ」だったけれど100メートル程離れたところに本物の「コンビニ」が出来てしまいすっかり御無沙汰をしてしまうようになった。

ぼくは昨日の「クレヨンしんちゃん」に出て来た昭和の商店街をなつかしいとは思わない、いまだに同じような空気をただよわせる商店がある、そういった意味では都心は意外な程「いなか」である。

「なつかしい商店」を消滅させているのは「私達自身」である。

そういう認識と「うしろめたさ」があるから、昭和の商店街を懐かしむ「資格」がないのだと思っている。

さきのコンビニも近所に出来たコンビニに客足を奪われてしまっている。コンビニもまた「懐かしむ」対象になってしまうのだ。

取り戻せないという意味では「今現在」と30年前とにかわりは無い。






2005.3.31

もし3年わたしが早く生まれていたらプロダクトデザインの世界に進めなかっただろうと思う事が有る。

家の状況から考えても世代的にも「すこし」違っていただろう。

きのう「クレヨンしんちゃんオトナ帝国の逆襲」のビデオを借りて来た。それは一昨日放送していた「まんが夜話」でこの映画が取り上げられていて大阪万博の事が詳細に登場すると知ったからだ。

何度もお話していますが、わたしが育ったのは大阪万博の開催された「吹田市」です。自分が利用しているJRのホームからエキスポタワーが「ずっと長い間」見る事が出来た。

「まんが夜話」の中でトリビアの生みの父たる唐沢さんが『すべての人が開催を望み賛成した最後の博覧会』と話されていましたがそれは「うそ」です。

当時「美術手帳」(今とはちがって過激な美術雑誌でした)を読んでいた高校生たるわたしは「反博」がもよされたり重要な政治的懸案を通す為のイベントとされていたのをかすかながら記憶しています。(余談ですが俳優の佐藤B作さんは当時首相の佐藤栄作さんをパロディーにした名前で美術手帳の劇評欄に政治風刺の演劇家としてたびたび登場していたのを記憶しています)

さりとてわたしは、そういう「風の存在S」を感じていてもしっかり大阪万博を楽しんだし「政治的」であることをインテリジェンスに感じる程大人びていなかった。

ただ万博近くのクリーニング工場できっと会場への搬入でくたくたになっているだろうコカコーラボトラーズの薄茶色に赤い縦線の入ったユニホームを洗うバイトをしていたし会場の「ミュンヘン館」の生ビールをのんでその陶器製の重いジョッキを失敬して家で長い間ペン立てにしていた程度に大人びていた。

三つ年上であればすでに会社に入ってそこから横目に万博を見ていただろうなあ。きっと8回も行く事はなかっただろう。

学生運動も状況を無心に楽しめるわけもないその真空地帯にいただろうなあ。

この文を書いていてわたしが生まれる前に亡くなった二歳年上の兄の青春を思った。








2005.3.30

不忍池のまわりをちょっと歩いた。さくらもちらほら咲いて春はそこにあった。

いつもであれば地下鉄を降りて右にまわるところをまっすぐ進んで不忍池にいったのにはちょっとした理由があった。それは池のほとりに立っているソフィテルホテルを見る為だ。

この建築が菊竹清訓さんのデザインであることを今日知ったからだ。同時に「景観論争」が起きていた事も今日初めて知った。

ぼくは「不忍池」が恐い。まわりが雑然としていてかつ夏場には蓮の大きな葉っぱが生茂り野鳥が多くいるのだが、なんだか極楽とは反対のイメージすらいだいてしまう。

そこにこつ然と飛行場の管制塔みたいな建物が建っている事を何年も前から知っていたがなぜか調べる事自体をためらっていた。

とにかく「唐突」なのだ。かっこいいのにそう伝わってこない不思議な「モダン建築」である。

ひょっとしたら「メタボリスト」のなかで、もっとも過激に影響をひきずっているのは菊竹さんなのかもしれない。江戸東京美術館も九段にある昭和館もなにか不思議なこだわりと言うか情熱を感じてしまう。さきほどのコラム的にいえば「インターフェース」がないのである。

1960年から70年にかけて黒川さんや槙さん磯崎さんが提出した「夏休みの自由研究」の出来の良さに未だに執着と「越えよう」という情熱を燃やしている感じである。

菊竹さんの建築で好きなのは大阪万博の「エキスポタワー」だ。

それは会場全体を見はらせる高台にある。でもその位置はにぎやかな集まりの外であった。さきほど述べた建築物はみな建っている場所が「微妙」である。

愛知万博の総合プロデューサーに就任されていると知り、ますます自由研究の完成を目指していると言う思いが強くなった。





2005.3.30

絹谷幸二さんのこと

先日地下鉄で事務所に帰る途中電車の中吊り広告を見たら「春の院展」のポスターが目にはいった。

そこに並んでいるおよそ30人の日本画家の平均年齢は幾つぐらいなんだろう。わたしの同級生の名前はそこにないので下で55歳上は90歳を越えているだろう。ある意味「うらやましい」世界でも有り、でも美術ってそういうことなのかなとかしげたくなる世界でも有る。まあ頭に「?」マークをつけたまま寒い小雨の中、事務所にもどりパソコンで「院展」をしらべてみた。

All Aboutには日本画や油絵のコーナーがあることを初めて知った。そこで日本画家じゃなくてひとりの洋画家に目が止まった。それが絹谷さんだ。

以前にも絹谷さんのことを書いた事がある。わたしにはすごく気になる人なのだ。今から30年以上前デッサンの参考書たる「アトリエ」に、東京芸大の助手をされた方達が編纂された号があってその中で異彩をはなつデッサンがあった。

当時の私にはどうしてこんなに「へた」なデッサンで芸大入れたのか不思議だった。「実物そっくり」に写し取る絵をデッサンと信じていた(今の受験生も予備校の先生もそう思っているでしょう)が、今にして思えば、彼1人「絵を描いて」いたのだと解って来た。感情の有るデッサン。

結果的に見れば絹谷さんは過程であるデッサンの先に有るものを見据えていたのだ。

絹谷さんはホームページも作られている。きっとそういう画家はめずらしいのではないでしょうか。そのホームページに掲載されているインタビュー記事も面白かった。

ぼくは「インターフェース」というものがすごく大切な能力のような気がします。

コミュニケーションとはちょっとニュアンスが違うんです。誰とでも仲良くなると言うと聞こえがいいですがそれは「平凡」や「妥協」につながるように思います。

インターフェースというのは自分の考えを多くの人に「放り投げる」行為でも有ります。すべての人に「理解」してもらうのとは違います。

難解なものまで「簡単」にしてしまうのは「つくった側」の優位性を示す「屈折した手法」に最近は思っています。

彼はきっと仲間内からは「どうして評価されるのかわからない」と言われているのでは無いかと思います。でも絹谷さんの中にはそういったコミュニケーションをとろうとは全然考えていないでしょう。そういう「殻」を突き破って「見る側」に届く「光り」のコンデションにいつも留意しているのだと思います。海にうかぶ小さい島の灯台守りのように。

絹谷さん、光は届いてますよ。充分につよくますますう強く。














2005.3.29

昨日の夜中に衛星放送で「マラソンマン」をが上映されていた。

有名な残酷なシーンに辿り着くまでにどうしても睡魔と明日しなければいけないことを考えてテレビを切ってしまった。

「サスペンス」というジャンルになっているがとても生々しく感じた。つまり「映画」という他人事ではない感じ方をしていた。

考えてみるとあまり映画評論(まあそこまでのものでなくブログ的なもの)で傑作と言う文章をあまりみかけない。

それは、作る大変さや能力に対して敬意を文章から感じないのだ。「それはできたもの」であって「出来たものをどう感じるのも勝手」という了解が批評する人たちに「勝手」に出来上がっている。

べつのことでは慎重な言動をする人の「気のゆるみ」みたいなものを感じてしまう。

そう「マラソンマン」の話し。

1976年につくられた映画ですが、その4年後に最初に行ったニューヨークの印象と映画の雰囲気がぴったりシンクロする。「かっこよくない」のである。まちもくすんで汚く走っているクルマも手入れが悪くクルマのデザインも最悪の時期だった。恐竜を思わせる大型車の終焉の時期だった。

そのとき始めての海外旅行でまずヨーロッパにはじまりドイツ・イタリア・フランス・イギリス・デンマーク・スエーデンとまわった後のアメリカだっただけに「ショック」は大きかった。しかしながら音楽が救いだった。FM局がふんだんにあってダイアルをまわせば「なんでもあり」だった。しーんとしずまりかえったスエーデンからアメリカの事務所に電話した時電話の向こうからがんがんロックが流れて来たのには心底びっくりし別世界を感じた。(会社の名誉のためにフォローすると、たまたま倉庫にあるアフターケアで働いている日本人の青年に交換が気を利かせてまわしてくれたのであって事務所では音楽は流れてなかったのです)

わたしが電話をしていてもクラシックやジャズを流しているのはそんな経験がベースに有るからです。

マラソンマンとはなんの関係もなくなっちゃった。





人生は積み重なる。雪のように。いろんな色の雪が降りしきるけれど結局すべてがまじってわたし色の雪が積もる。

春がくればとけて雪の芯たるほこりなのか誇りなのかわからないものだけが残っていく。

別にセンチメンタルでもロマンチックな心情でこれを書いているわけではないのです。

この「memo」というコーナーで降り積もった雪が何色をしているか春が来る前に知りたかったのだ。





デザインはモラルとの戦いである。モラルがルール化されていれば白かクロか判然とするけれど、人により場合によりそのモラルラインは上下左右に動き回る。朝令暮改とは違って変えなくても変わる場合が有る。

ものすごく「生々しい」生ゴミの話を例にあげると、家の事務所のまわりというのはすごく大きなお屋敷の跡地が目の前にあってそこが都心にはめずらしい大きな駐車場になっている。しかしバブルの頃地上げに「乗らなかった」お家が点在している。

それがなにを意味しているか?そこにはひとなみはずれた「頑固者おやじ」が住んでいると言う事です。

ゴミの日になるとゴミを出すわけですが、回収の清掃車が回る時間がやたらここだけ早い。朝の8じ時ぐらいにまわってくる。そうすると家から事務所に出てくるわたしには「辛い」ことになる。へたをすると一週間まるまる出す事が出来なくて部屋に置いたままになってしまう。ところが30メートルも歩けば回収のされていないところがいくつもある。へたをすればお昼まで回収車がこない。

ゴミがたまったわたしは「ほっかむり」して昼の泥棒みたいに「こそこそ」っとルールに違反して他の地域にゴミ捨てに行くことになる。

なんなんだこの「背徳感は」と何度もおもったわけですよ。

頑固おやじのお家は自分の家の前にちょこんと「ゴミ袋」ひとつ出しているのにわたしはわざわざ数十メートル「回収所」に出さなくてはいけないのに。(そこから数メートルはなれたところに昼まで回収されない場所があるのに)

その事態が変わったのはつい2ヶ月前のことだった。回収所になっていたこのあたりではちょっと「霞んだ」住んでいるかどうかわからないその家の主人が存在感をしめして「ここに出されては困る」と言い出したのである。

ことは「好転」した。(のかなあ)アパートのすぐ前に出せるようになった。そして昼ごろまで回収にこない。

わたしはすっきりしない。わがままだと思っていた「頑固おやじ」が家の前に出す事が正当化されて、うちの大家さんがまるで「家の前に出していんじゃ無いの」と言い出さなかった「事なかれ主義」のおじさんになってしまう。

モラルの線引きがすっかり変わってしまったのである。

これは全部「デザイン」のはなしです。






2005.3.28

昼の2時に届いたメールが「スタート」の合図だった。そこから東京を右往左往する事5時間にして事務所に戻って来た。

最近「じたばた」していなかったのをデザインの神様に見つかったようだ。

ほんとうに「じたばた」する必要があったかどうかは実はなかったのだけれど私はこういうとき身体を使ってじたばたをわかりやすく表現する。

こういうとき動くと思わぬひろいものを全然別のところからすることがあるからだ。

わたしは「完璧なプラン」を立てない。完璧なプランは完璧なプランによって裏切られると思っている。

デザインもそうで、ベストひとつというよりもベターを三つだした方がベストにちかづけると思っている。みんなでベストはつくるものだ。

こういう事をかけるのも「じたばた」しているおかげです。







2005.3.28

昨日の情熱大陸は見ましたか?

大学で研究をされている「全盲で聴力も失った」男性のお話でした。

以前のわたしだったら日々の不徳や自分が五体満足であることの幸せを感じつつ感極まって正視することが出来ずに「堂本兄弟」にチャンネルを換えていたいただろう。

でも昨日の人物はちょっと違っていた。そこにはインテリジェンスというか知的な探究心に満ちた「未知の世界」があった。

もうひとつは自分の中に覚悟というか、なにか自分とは異なる条件で生きている人を受け止めるでも、つきはなすでもなく「あるがまま」相対するしか無いと言う諦観がある。

苦労の大きさをより大きな苦労をする人を知る事により軽減される程、曖昧なボリュームで今の状況をわたしは捉えていない。

次男が生まれてまもなく何度も入院した。臓器に不具合があるという事で摘出しようと言われた時は、相当ショックだった。幸いにして摘出をまぬがれて健康に成長しているが、未だに風邪をひいても心配になる。それと入院の記憶が残っていないということ(恐くて本人には聞いていないが)

病気になってなにを考えたかといえば、そういうことが自分の上に起きたと言う事自体が「受けとめがたい」のである。ラッキーなわたしがそんな「経験」をすることがたまらなかった。本人が一番大変なのに。

入院してわかったのは、思い病気をもつ子供さんの両親が明るいと言う事、とくにお母さんは元気で美しい表情をしていること。

きのうの番組に出ていたおかあさんもあっけらかんとしてうつくしかった。入院中の写真で主人公がベッドのうえでうなだれていてお母さんがカメラに向かって微笑んでいるのが印象的だった。

「泣いていたり嘆いていて状況が良くなるならそうするけれど、どうあっても現実が変わらないのならば明るく笑っているしかないでしょ」という言葉が聞こえてくるようだった。

レンブラント最晩年に描かれた自画像が「ほほえんでいる」のを思い出した。







2005.3.28

今朝は早起きだった。6時から目がさめて漠然とテレビを見ていた。出張先のホテルの朝のような気分だった。

6チャンネルは今日からみのもんたさん司会の番組にかわっていた。

お昼の番組のコーナーみたいに、視聴者と電話のやりとりをしていたがタイトルは「うれしかった事」。大学院を卒業してこの春就職する子供の「自慢」である。

電話の主は49歳主婦。また「おこられないで育った世代」がやってくれたなという思いが走る。こういう自慢は大学に受からなかった人や家族もろもろ、上手くいった人も含めて「不快」に思う事がどうして判らないんだろう。

大学院は本人の「趣味」ですよ。学費を親にたよるのすら「恥ずかしい」ジャンルだとわたしは思います。(借りて返すのならいいですが)

わたしが大学の頃、大学院というのは学問をきわめるプロセスでありさらに博士課程の「はじまり」だと思っていました。そういう大学院にわたしは行きたいと思っていました。そしてさらにイギリスのロイヤルカレッジへいってデザインを学びたいと思っていました。

でも躊躇しました。会社はいってそこで実際のデザインを学ぶ方がわたしの場合は「大学院」かもしれないなと思いました。

それに大学院がかならずしも就職に「有利」という時代では無かった。そういう犠牲をはらってまで学びたいと言う人が行く学問に哲する。そう「哲学」する場なのです。

最近では噂では大学院以上(こわいなあ)しか取らない企業もあるとか。会社もなにを考えているんでしょう。

そんな就職有利なんて「オプション」がついたら、大学院が「大学プラス短大」になってしまう。

電話の「おかあさん」はまったく自分のおかれた状況でしか判断していないでしょうが、そういった「賢い子供」をもった親にしてこうですから、便乗するというか自分のはたせない夢を今日の電話でどれだけ「あおられたか」考えると悲しくなります。

「子供の為」というのは絶対善という気持ちがあるかぎり。教育はいくつになっても「自身」が受けなくてはいけないと思った朝です。





2005.3.27

銀座4丁目の交差点から新橋に向かってしばらく歩いて「資生堂パーラー」手前を右にまわるとそのビルはあった。

昭和の始め頃に建てられただろうゴシック様式の6階立てほどのその建物は慶応大学OBの経財界人が集まる倶楽部として作られたものだと記憶している。さりとてその「ビリヤードルーム」(撞球室というんですね)にあがったわけでなく、一階にあった「ピルぜン」というビヤホールによく行っていたわけです。ピルぜンビールとソーセージそしてザワ−クワフトそして最大の「好物」は「雰囲気」だった。いつも満員でにぎやかでそれでいながらいい顔したお客さんを見るのが楽しみだった。

となりには「イーハトーボ」というなにやら宮沢賢治な名前のまたすてきなバーがあってこちらは二度しか行かなかったが、今となっては貴重な体験になってしまった。

昨年だったか、「そうだピルぜンへ行こうと」と思って向かったがすでに建物そのものがなかった。

昨日、一通のダイレクトメールが届いていた。透明の封筒からB&Oの文字が見える。それはピルぜンのあった「交詢ビル」のリニューアルされたビルに入っているライフスタイルショップからのお知らせだった。

すてきなインテリアの紹介されたパンフレットにワインセラーが写っていた。以前友人から「交詢ビルのショップでワインセラー見ました」と知らせていただいていたが、こうやって面識も無いのに紹介状が届いたのはすごく不思議でありうれしい。

「ピルぜン」に最初にいってからおよそ30年。なにも「置いて行くもの」もない私がこうやってあのビルに「住んでいる」ものをデザイン出来たのは大変光栄なことだ。






2005.3.26

最近「年号」の感覚がなにか変である。去年が2005年で今年が2006年のような気がしてしょうがない。「2004年」てすごく古臭く感じてしまう。

ぼくが好きなのは1990年代だなあ。一年一年が2000年にちかづくスリリングさがあった。







2005.3.26

今、20歳前後の人が問題や事件を起こすと、わたしはすぐその親の事を考えてしまう。

ちょうど自分と同じ世代が「親」をしているから。

わたしたちは「叱られていない」叱られなくて成長した

世代である。

どうも親の躾が厳しいということを「叱られた」事と、勘違いされているところがあるけれどその肝心の親自体が「矛盾」した行動や生きざまをしていると、その躾された子供達は「親の矛盾」の解決のすべきもわからず「同じてつをふんでしまう」ことがある。

躾の抜け道を見つける「姑息さ」も同様にみにつけてしまう。

「叱られる」ということの本質は、叱った人が見て無くても「そういうことをしないできない」ようになってしまうような「経験」の事である。


ある歌舞伎役者さんのことを「叱られていない世代」代表であると前々から思っていたのだが、その役者さんの子供さんがタクシーの運転手をなぐったという事件が起きてしまい、あまりの生々しさにかえってかけなくなってしまった。






2005.3.25

以前、ステレオがあったときAMラジオをよく聞いていました。「えーFMじゃないんですか?」といわれつつも「ラジオの神髄は言葉」だと思っていましたのでAMラジオが「マイブーム」でした。まあ考え事には向かないのですが。

ニッポン放送ばかり聞いていたわけです。言葉が主流なのでその曲のアナウンサーの声の粘度やら湿り気そして局全体の「雰囲気」をかんがえあわせるとニッポン放送しか体質に合わない。

朝9時ぐらいからずっと聞いていました。とくに11時の「人生相談」はマニアでした。

「タモリの週刊ダイナマイト」は、野球放送が終わった後の10月から3月までの農閑期ともいうべき時期の金曜夕方に放送している。

前回「トリビアの自衛隊」で彼の事「なにもしないでずるい」と書いた事を感じたのか、気骨のあるところを今回は見ました。

さりとてライブドアもわたしは嫌いでは無いのです。






2005.3.24

先日、用事のついでに、とあるインテリアショップによったのであります。

このショップは「日本で最初に」デバイスタイルのワインセラーを置いていただいたお店です。ワインセラーやコーヒーメーカーをデザインしながら、こういうお店に似合うデザインをしようとイメージしたお店のひとつなので実現した時はとても嬉しかった。




2005.3.24

デザインコンペの審査委員てデザイナーである必要があるのかしら?と、このところ幾つか見た展示会で思った。はたまたインターネットでデザイナーでは無いと思われる人たちのセレクションを見ていて「これだけ選択眼があるんだったら充分じゃないかな」と感じるわけです。

デザイナーが選ぶ弊害すらあるんじゃないでしょうか。デザインコンペがどんどんミニマムにそしてみじかなものに落ちていて直接プロにお願いした方がいいのではないかと思えるものが多々あります。

審査とは「自分をちょっと下回る似た人を選ぶ行為」かなと思ったりします。

いいものを選ぶのは「誰でもできる」、そうでないものをひろいあげるときに難しさが出る。

昨年のグッドデザイン大賞にNHKの幼児番組が選ばれましたがそれは「凝り過ぎ」だろうと今でも思うわけです。また書きますがシャープを選ぶのが順当な線だとわたしは考えます。

審査員の「ウルトラC」の選択眼をだれが「見たいし」「知りたい」だろう。

グッドデザインの審査委員になることがなんだか若手フリーランスデザイナーの登竜門化しているように感じます。






2005.3.24

なにか勝手に市民権を得てしまうものがる。「もてたいという衝動がすべての男性の「モチベーション」の起源である。」という話もその一つだと思うわけです。

とくにミュージシャンの人たちがクラシックギターやロックバンドを「はじめた動機」としてもう平然と口にするようになっている。あたかもそれが「正直」の免罪符みたいになっている。

これまで自分を振り返って「もてたい」という事が奮い立たせたり、行動に走らせたりしたことがない。

「好かれたい」とは小さい時から思ってました。結構ばかなことをやってましたから。駄洒落菌も自分から口にほうりこみました。

まあ好かれたいももてたいと同義の部分もあるので、ないといいきれないのかもしれませんが、異性を道具をつかって「どうこうしよう」という気はさらさらなかった。

本を読むのも絵を見に行くのも音楽を聞くのも、まったく自分本意の興味のなせるものでしかなかった。

そういう知識が、異性と話する時の材料に「なる」と思うようになったのも(思ってるんですね)そんなに昔の事では無い。

先日テレビで「友人のデザイナーに頼んで改装したんですよ。」と話す「リッチマン」に対してインタビューする人が「わあ、そういうの理想だなあ、友人のデザイナーなんて」というのを見て、へー私の友達がそうやって「利用」してくれてたら嬉しいなあと思ったりしたぐらい「自分のありよう」には頓着していない。

まあこうやって書く事自体「嫌味」にうけられるのも承知の上で書いてます。

でもね「かっこよさ」にはこだわってますよ。非常に。でもそれは「もてる」という為では無く、デザインしたものが誤解されないように、納得されやすいようにするための「舞台」であってそこに登場する「主人公」という意識ではないのです。

わたしと会った人は、わたしが「主人公」という意識でいないことに気がついてくれていると思っていますよ。








2005.3.24

昨日、むかしの会社の友人から電話が有りました。彼はわたしのことを「秋田さん」といいわたしは彼の事を「Aくん」とずっと呼び合っているのですが、文章で書くとなにか彼がわたしよりへりくだっているように感じるかも知れませんが、あきらかにわたしよりクレバーな彼の事を「あにき」的に思っているし、彼もその呼び方と裏腹に、実際にあっていると私をたてるというよりは「自分オリエンテッド」な行動で、道の前をさっさか歩いておりますよ。

おもしろいのはわたしが「Bさん」と呼んでいる年上の人を「Bちゃん」と呼んでいる事に気がついたのです。

まあいろいろ感情もくろみあるのでしょうが、そういうのが面倒臭いのでわたしはさしあった年上も年下も関係なくほぼ「さん」で呼び方を「統一」しております。

わたしはどんどん同じ年とその「周辺」にいる人が苦手になってきております。








2005.3.23

丹下健三さんの訃報について触れないわけにはいかないだろう。

わたしはその亡くなられたタイミングが愛知万博がオープンする二日前だったという事にスターたるゆえんを感じてしょうがない。

圧倒的な仕事量とその支配性の高さは抜きん出ていて比類が無い。

そんな丹下さんを知らない若者と授業する時代にわたしは今生きている。

村野籐吾さんの事を思い出した。それは村野さんがデザインした建築のクライアントが死後、そごうをはじめ銀行や生命保険会社などことごとく(というのは語弊が有るが)問題に巻き込まれるというその不運と言うか、さだめが不思議だった。

今フジテレビがゆれてプリンスホテルが揺れている。

建築家はそういうものだ。そういうものか?たんなる「運」のはなしかもしれない。丹下さんの訃報を聞いてこんなことを思うのは「世界中」で私だけかもしれない。


自分の存在を自分で忘れるぐらい生き続けたわたしです。






2005.3.23

わたしは毎日「しんどい」。忙しいからでも、ここに書き込む事を考えるからでも無い。それは「見た事の無い魚」を釣り上げに毎日船出する海のその広大さに疲れるのである。

昨日の夜、衛星放送で「海外で活躍する日本人」を見た。

イタリアのクレモナでバイオリンを作る職人さん(マエストロ)のお話だった。現在47才のその彼はセクシーだった。イチローの15年後をちょっと思わせる雰囲気とするどい眼光を持っていた。

クレモナはスキーの板でも有名だった思うけれど、なんといってもバイオリン、あのストラディバリウスを生んだ「聖地」である。

ストラディバリウスは今から250年程前に活躍していた名工だが、それ以降もその技術を越えたものは生まれていない。

興味深いのは、ストラディバリウスは自分のバイオリンの「図面」やいろいろなデータを書き残していると事実だ。いきおいストラディバリウスを再現すべくあまたのマエストロが今もしのぎを削っているし昨晩の日本人の彼も、そこに終生をかけている。

最近こういった「トレーサークリエイティビティー」(わたしが勝手に名付けた呼び方で再現芸術性とでも思って下さい)にかけている人がうらやましくとしょうがない時が有る。

毎日の仕事が終わった後「今日は六合目まで登ったなあ」と思える充実感がわたしにはない。

海に出かけても「向こう岸」を目指すわけでは無い。いつも「帰りの燃料」を気にしながら、それでいて「放たれる」いや「放たない」とあたらしい魚には出会わない。

何年やっても「あそこにはああいう魚がいる」という事はあえて「記憶」しないし、「マーカー」をつけたりしない。ぼーっと漠然とわざとピントをぼかして普通であれば「左脳」に記憶すべきことをあえて「右脳」に覚えさせる。

その左に入るものを右にしまうのに疲れているのかもしれない。とにかく「なれ」は想像のさまだげてある。

ストラディバリウス的であれば楽なのにストラディバリウスに変わる、越えると思った瞬間から苦悩ははじまる。

そういいながらも結果は「秋田道夫的」なデザインになっているのだけれど、わたしにもあった「空白の10年」は、わたしを越えるものをあがきの時代だった。

「トレーサークリエイティビティー」を今はしているのかもしれない。






2005.3.22

佐藤章蔵さんにはお会いした事がない。工学部出身の異色のデザイナーという事、初期のブルーバードやトヨタのS800をデザインされた方と言う事、晩年ソニーの嘱託をされていた事ぐらいしか知らない。

わたしがソニーに入った時にはすでに退かれていたが、その影響力は大きかった。わたしよりひとまわり上の人たちにはその残像は「はっきり」見えていたようだった。

入社した時、わたしは佐藤さんのおかげで「得をした」。雰囲気が似ているそうだ。わたしよりお幾つ上か知るすべも無いけれど、当時すでに老境に入っていた佐藤さんと30代なかばの私が似ているのも変な話だけれど、ジャガーのEタイプに乗り優秀な頭脳をもったスーパーな人に似ている事が嬉しかった。

高校生の時だったか、「カーグラフィック」に昔のヨーロッパの自動車を描いた水彩画の冊子がついていた事があってわたしは普段買わない雑誌だったけれど購入した。それをばらして壁に何枚か貼っていたし、まねてスケッチした事があった。その水彩画を描かれたのが佐藤章蔵だと知ったのは、その壁のスケッチもなくなった、十年程前の事だった。

ソニーでレンダリング(外観予想図)を描いていたら、わたしの事を「水墨画家」と呼んでからかっていたマネージャーは、わたしの絵に佐藤さんの面影を見ていたんだなあ、と今日思った。

佐藤さんの絵は「絵画」であって外観予想図という殺伐としたものではない。同様に、今手元に有る「工芸ニュース」総集編に載っているデザイン評をみて驚いた。ロマンチックで皮肉屋、こんな文章がおかたい工芸ニュースに載っていたとは思いもよらなかった。

なにか自分がしていることがすべて、佐藤さんの大きな手の上でもがいているようである。

日産からトヨタそしてソニーにいらした佐藤さんが「君の未来は自動車じゃ無いよ」といってステレオの世界に入った様で有る。そしていま家庭用電化製品や医療器機そしてまた交通にまつわる仕事をしている。

わたしの運命というのは、あのスケッチにふれたところにあったんだな。








2005.3.21

昨日の情熱大陸はおもしろかった。直木賞を受賞した角田光代さんでしたが、以前コラムでもふれた若手ピアニストと同じ「かおり」というかライフスタイルを感じました。

すべてを「小説」だったり「演奏」にかけている感じがある。すべての時間経験「モノ」それらが自分の「天職」たるべきものを軸に動いているようだ。

どちらも女性というのは偶然なのかしらないけれど、男性の出演者にここまで純粋に見ているこちらが「感情移入」できる人はまだいない。男性はなにかに気づかいなにかに脅えている。

2チャンネルの「デザイナーになるには」といった掲示板で気になる書き込みがあった。「美術系の学校は一般大学にくらべれば学力は低くセンターで言えば偏差値45ぐらいだし、美術予備校に二年も通えば、入る為の方法論を徹底的に習えるから、はいれちゃうよ。」といった内容だった。

このコメントは「実に的確」に現状を言い当てている。ただ非常に「不愉快」である。このコメントを「部外者」が書く事は難しいでしょう。美術の大学生かインハウスの「若手」デザイナーではないでしょうか。当事者がまだ道のなかばにしてこういう「読み切った」感覚や感想で日々過ごしているのが「我慢出来ない」。

受験自体が「天職」だったらどんなに楽かと思うのです。(もちろん入学する事が前提ですが)

非常に明確に「目標」があるし日々やらなくてはいけないことも明快に決まっている。ひたすらそれをすることが自分に課せられた「仕事」を熱心にしていることになるわけですから。

特に美術系の場合共同では無いけれど、おなじ場所でおおぜいが集まって作業するのでおのずと会話もあるし友情も生まれる。まったく楽しい毎日です。

ただひとたび大学に入るとそうは行かなくなる。頂上が見えなくなり「なにがいいのか」判らなくなります。予備校同様みんなと一緒に作業するにもかかわらず「孤独」な気分が気持ちを支配するわけです。

そうなるとそこから先に目標が有るか擬似的に「入学試験」に課題を見立てる事の出来る能力がとわれることになります。

角田さんの場合、小学生のときから日々日記ならぬ小説を書き、すでに将来を「小説家」と決めていて大学も小説がカリキュラムに有る早稲田をうけたわけです。

本来はデザイナーもそういう人たちが寄り集まった「熱いグループ」だと思うわけです。










2005.3.20

ひさびさにフロッグデザインのサイトを見る。

1870年代が「マリオ・ベリーニの時代」だとすると1980年代はフロッグデザインいやエスリンガーの時代だった。

ソニーに私が入る直前までエスリンガーはドイツのテレビメーカー「WEGA」の外部依託デザイナーとして、彼はしばしば日本に来てソニーのデザインセンターで作業をしていたそうで、やって来ては猛烈なスピードでソニーステレオをWEGA仕様に変更作業をこなしていたそうだ。

WEGAが傾いた(その後ソニーに買収された)のは、エスリンガーが「金型代のかかるデザインをしていたからだ。」というもっともらしい逸話があった。

彼がいちやくスーパースターになったのはAPPLEの仕事であった事はあまりにも有名だが一括してデザインを請け負ったのはわずか一年にすぎなかった事実はわたしも最近になるまで知らなかった。

そのインパクトの強さははかりしれなかった。

ただエスリンガーの外観はおよそデザイナーという気がしないのが当時から気になって仕方がなかった。契約にまつわる話や、やつぎばやにライバルと思わしきコンピューターメーカーの仕事をどんどんこなすのを見てちょっとがっかりした覚えが有る。

APPLEでた「NEXT」をわたしはつかえもしないのに「買ってしまった」事が有る。

とにかくデザインがすばらしいので、買ってしまった。部屋の温度が「2度下がって感じるか」とにかく経験してみたかったのである。

わたしは「NEXT」でチェスを「数時間」遊んだだけで数年後売ってしまった。なんと高い「すけっと外人」なことか。ついでに言えば部屋の温度は下がらなかった。意外と「ぬる」かった。

わたしの「フロッグデザイン」はそのときに終わってしまった。

フロッグデザインは90年代の「ポストモダン」の「空気」をすってしまった。構造体がばらばらになった散漫なデザインがふえてきた。

ウインドウズメディアプレーヤーの「スタートレック」なフレームがフロッグデザインの2001年の仕事と知って「あーあ」という嘆きのためいきを思わず漏らしてしまった。






2005.3.20

略歴をデザインする。

領収書とレシートの境目は微妙である。この頃は簡略化が進んでいてあらかじめレシートに「領収書になっています」と書かれたものも増えている。まあどこかのゴミ箱から捨てられたレシートで経費を計上する人も少なく無いだろうし制度として必要なのかもしれないが、お昼時混雑しているスーパーのレジで領収書を要求する会社のおつかいと思わしき若い人を見ていると、その会社のありようまで想像してしまう。

履歴書はそういった意味では「曖昧」ではない。わたしも小学校の卒業から書いていたりするぐらいで、なんだかそのたびに「良い年してるのになあ」と思ったりするわけですが、曖昧きわまりないのが「略歴」という「やつ」。

略した履歴書が「略歴」だと思いますが、その「略し方」は人様々なんとでもうそでなければ書いて良いようなというか「はぶいて」いいようになっている。

本人に都合の悪いいや「かっこわるい」事はいっさい書かない。年齢の事も卒業した学校も就職した会社についてふれていなくてもかまわない。そこに書かれていなくて別の機会に「知ってしまった」経歴を比べて、「ああこの人はこのことを恥ずかしかったりコンプレックスと思っているのね」と思いをめぐらしたりする。

その反対に「受賞歴」については詳細をきわめたりしていると、見ているこっちが今度は逆に「恥ずかしくなって」しまう。

何十個もとったとか、多数受賞なんて書いてあるのを見ると「うーん」とうなったりする。

デザインて「自分一人」で出来ていない。多くの仕事を自力でできるわけもないし「企画力」やら「技術力」の背景を評価されている事もあるので「多数」なんて言っている人の事務所の内状に気が行ってしまう。

それに「賞」というのは「とれる人にはとれる」ものです。こつでは無いのでしょうがなにか「ツボ」みたいなのがあってそれをわかっていると取れてしまう。それは入試と同じようなものかもしれない。

そういうわたしは「ツボ」がわかっていない。ちがうなあ「ツボ」に満足しない。

グッドデザインをデバイスタイル一連の仕事がひとつも取っていない。

にもかかわらず「グッドデザイン受賞」とわたしは略歴に書いている。賞をうけたにもかかわらず「書いていない」ものも出て来ている。

つまり賞の「かっこいい、わるい」を気にしだしているのである。

わたしは「すてき」でありたい。そう考えるとがぜん略歴に「受賞歴」を書く事が「素敵じゃ無い」ことに思えて来た。ゆえにBIOから早晩「受賞」の項目が消えます。

追伸

毎日ID賞は24才で受賞した事、デザインだけの評価なので、わたしは「かっこいい」と思っているのでこれからも載せます。






2005.3.19

もし神様がいて「あなたを20才に戻してあげる」と言われても、わたしは断る。そのかわりに「30年戻す代わりに、今の50才を30回経験させてください。」とお願いするだろう。それぐらい20のころは自信もないし「なにもない」。大学に入れたのもラッキーだったし就職も恋愛もラッキーだった。わたしはこのラッキーをもう一度手に入れるのは難しいというか「不可能」だと思っている。

大学入試のとき母親が渡そうとした「北野天満宮の合格のおまもり」をわたしは「神頼みでうかったら自分の力かどうかわからないからいらない」と言ったそうだ。まったく親不孝者です、入社の願書にはった写真が気に入らないと締め切りの寸前までぶつぶつ言っていたと最近大学の友人に言われました。

最近は「やること」がなんとなく言語化され「体系化」されてきたような気がしますが昔はまったく「なにを考えてやってきた」のかわけがわからない。

でもそれは「今の有り様」に集約、収斂するためだったと思うのですよ。そういうフォーカスがあった時代たる「今」を大切に思わずにはいられないのです。





2005.3.19

作法前夜

インターネットを通してやっていることは、おおよそこれまでの時代に「なかった」事をしているわけです。メールは「手紙」「はがき」と似てはいるがその働きは微妙に違うし掲示板は「掲示板」と同じであっておなじじゃない。ホームページは宣伝の看板でもテレビのコマーシャルとも違う。

「人は初めて会ったひとに対してすでに知っている人や有名人に似ている事を手がかりに理解をしようとする」

それゆえにインターネットでの行いを、旧来有る「伝達手段」になぞらえて作法やルールを個人でつくろうと試みているが「共通のモラル」の領域に達していない。

昨日の「無意識な部分をその人の本質だと思っている。」という話はここにも関係するのですが、わたしはこのコラムであまり「今日」という事にこだわりなく書いています。

そういった意味では日付けがうってあっても「日記」ではない。

わたしは、ここに書く前に、ある「フィルター」をかけます。それは「だれにでも起きうる事」かどうか「共通認識」が可能かどうかと言う事と、もうひとつこういう「事故」や心の問題にぶつかったとき「泣き寝入り」や「自分が悪かった」と思ってふさいでいるのではないかという「不愉快」をここにわたしの体験と「処理方法」を知る事によって「愉快」もしくは「貴重なもの」に変換させる文章かどうかをふるいにかけています。

わたしは「だれと会ったか」ではなく「なにを感じたか」に重きをおいています。

ホームページは「家」なのか「城」なのか「お店」なのか人によって異なります。

ルイス・カーンは「樹の下に人々がつどい人生について語り合う時そこにスクールが生まれる」と言っています。

わたしはそういった意味では「広場」にしたいしちょっとした「広葉樹」一本はえた広場にしたいわけです。それも秋には赤くなり冬には葉がなくなる樹。常緑樹じゃなくて「感情のある」樹が一本あるだけの。








2005.3.18

「人は相手の無意識な部分をその人の本質だと思っている。」

そうなんですよね。どれだけお洒落しようが「かっこつけ」ようが、じつはみんなが見ているのはそんなところではなかったりするわけです。

男と女では、見るところが違うし、感じるところが違う。とつくづく(つくづくボウシと言うの名の蝉の格好してひがなつくづくつくづくと鳴きたいぐらいに)思うわけです。

「別れの原因」になった事が「あのことあの言葉」だとずっと思っていたのに相手に聞いてみると全然「そんなのは問題ないし忘れちゃった」と言われると吉本のコントみたいにかくんとひざが折れて「腰を痛めてしまう」わけです。

まあなんにも「通じていない」わけですが、じゃあなぜ「通じていない」同士が好意を持っていられるんでしょうね。

わたしの仮説は、相手の性格が「自分みたい」というのは重要なことであり、とどのつまりは「自分みたい」な人にしか好意は成立しない。という感じかな。




2003.3.18

デザインと言うのは「違うもの」をつくろうとする行為では無く「違ってしまう」ものでなくてはならないと思っています。デザイナーにはそういった意味では「違っちゃう」能力を持っていなくては本来はなれない職業なのかと思います。

それは別の視点から見ると「ぼくってデザイナーに向いていないのかなあ」という人に「チャンス」があるという意味かも知れません。

だって「人と同じ事」をしようとしているのに「再現」できないわけですよね。「違っちゃう」んですから。

自身の話にすれば、世間に出ている製品を並べて見ていると「このもの」と「あのもの」の間では買う人が満足しないという隙間がなんとなく見えてくる。一所懸命デザイナーがああでもないこうでもないとぐるぐる回る程、遠心力によって「核心」から離れて行ってしまう。そういうみんなが「円運動」をしているところにわたしが円の外側からとことこと歩いていって、ひょいとまん中のおいしいところを一かじりしてまた円の外側に戻って行く。そしてまた別の円運動をしている「銀河」を見つけてひとかじり。

食べ尽くさないところが「おしゃれ」だったり商売がうまくない理由でもあるわけですが。







2005.3.17

インターネットプロダクトデザイナーを標榜したわけですが、さりとてその興味がインターネットの仕組みや方法論、ましてやプログラミングに向かわず、ひたすらその倫理観というかモラルと言うかルールというか作法と言うかそういうものに向いています。

ITmediaのインタビューの後、いろんなところにその評論がのって中には「このおっさん知らないなあ」と書かれていたものがありました。(たしかにおっさんですが)

そのサイトへは「恐いもの見たさ」で今でも見たりしますが、結局「おっさん」という言語で一貫していて、タバコを道に捨てる、マックの包装紙を道に捨てる、空き缶を家の門扉の上にのっけて行くのと同じべ−スの彼なりの「モラル」に、わたしの文章が「あしを踏んだ」わけで、痛いという代わりに「おっさん」という言葉が「出た」にすぎないわけです。まるで電車の中であしを投げ出していたおにいさんの足を電車が揺れた時踏んだようなものです。

わたしは今でも自転車にかぎをかけない「主義」なのですが、どうようにすべてのことが慎重にしていても、プロの手にかかればどんなものでも「無力」だという諦観があるからです。セコムもアコムもなにもなくそれは「大事なもの持ってます」という意思表示になるのではないかと思っています。

インターネットは見て欲しいという気持ちと「みられて困る人もいるけれどそれぐらいの方がおもしろい」というせめぎあいです。しかしながら「見られない」とか「気がつかないだろう」という事を前提に、いやそういうことが可能と思うのは「まちがい」です。

「自分好き」のわたしは、一日に何度も自分の名前で検索をかけます。しかしながら人はわたしがそんな「下品なこと」するわけが無いと思い込んでいるかもしれません。いや思い込んでいるでしょう。でもねインターネットプロダクトデザイナーという事は「そういう事」を「上品かつ当たり前の行為」として認められるようにする「仕事」責任があると思っています。

毎日せっせとキーボードをたたいているのに、全然自分を振り返らないと言うのは失礼だと思っています。








2005.3.17

昨日は、竹島・竹の塚と「たけだけしい」一日でした。

トイレに貼ってある「日本地図」を朝『おすわり」しながら見ておりましたが、まことに微妙な位置にある島ですね。対馬の近くですが、韓国の島「うるるん島(どっかで聞いた名前ですが)」の方がもっと近い。まあ台湾のすぐ近くにある島が日本だったりなんともいえませんが、「漁業海域」というか資源の問題を抜きにすればだれも見向きもしないだろうにと思うわけです。島の外観はまるで「鬼が島」みたいです。(ちなみにわたし桃太郎みたいな女の子が好きです)

島根県庁には右翼の人たちが集結したみたいですが、北に「北方領土問題」あれば網走へ行き、尖閣列島問題あれば台湾の近くまで船をだし、竹島あればまだ寒い島根へ行き、あの重そうな(色だけかな)装甲車を運ぶのは大変でしょうね。

そんなことよりわたしは「トリビアの泉」でせっせと「自衛隊」を持ち上げるとおまわしの「サブミナル効果」をねらっているフジサンケイグループの方がおさむい。国を守る前に自分を一生懸命守っているし。(タモリはみんな人のせいにしていてこわい)

ちょっと朝からヘビーデューティー。まあすぐにこのコラム消えちゃうでしょうが。



竹の塚といえば「竹の塚歌劇団」を思い出すのですが、スマスマの中でも大好きなコントです。もっとひっそりしたところかと思っていましたが充分「しゃかしゃか」したところですね。いまAIKO(ちゃん)が歌っている「三国駅」は大阪の阪急電車宝塚線にあって庶民的な「十三駅」のとなりにあって「しゃかしゃか」したところです。でも曲はすばらしい。「竹の塚歌劇団」から「宝塚歌劇団」につながったところでおしまい。









2005.3.16

「生活感のない部屋にあこがれて、いろんなものを捨てたら生活出来なくなりました。ヒロシです。」彼はじつに適確にひとの心理をついてきます。

上の話はデザインの話だと思って聞いていました。

生活感と言えばきのうのポニーキャニオンの社長さんのインタビュー「よかった」話と思いがちゃんと「全身かけぬけて」口から言葉がでているかんじ。きついことを言っているんだけれど嫌味じゃ無かった。

もとビクターにいた方ですが、ビクターという会社は誠実な人が多かった。(まったく主観の感想です)ビクターのシンボルマークは「ワンちゃん」ですが、ビクターは「犬」でソニーは「猿」だなあ、と思っていました。べつに「犬猿の仲」ということではありません。




自民党の年齢にくらべてやたらふけているおにいさんが、その謝罪会見上で「お酒は一生呑まない」と言ったそうです。

この人なんにも反省していないと思ったわけです。だってお酒が「なにをした」わけじゃないですよね。

だいたい「一生」という言葉を安易に使って欲しく無い。そういうふらちな事をしても「愛される」人柄を体得すべきでしょ?(体得すればそんな行為は考え付かないものです)

ダルビッシュ君も「一生タバコは吸いません」と言ったそうですが、どんどん吸って下さい。たばこは「未成年」でこそ「醍醐味」があるのであって、そんな高校生はごまんといます。

写真にとられて発表されてしまうようなありように問題があるのです。





2005.3.15

先週、大阪へ行った帰り道おみやげを買った、生八つ橋の代わりに八つ橋と同じようなサイズの「iPod shuffle」を。なにせ大阪のアップルストアーが素敵だったのです。

しかしながら買ってまだ一週間しかたっていないのにかなり「好きで無くなって」来ている。

それは録音出来る曲数が少ないとか、液晶がないとか、背面のスイッチがすべって使いずらいとかではなく「かたちのモラル」において見ていて使っていて不愉快なのである。

iPod shuffleのかたちは漠然と見ている分にはMac miniであり、以前から使っているiPod のスタンドとまったく同じデザイン言語なので気にもとめていなかったが、身につけるという距離感を考えるとはなはだ不親切な形状である。

とんがりすぎでかつ「繊細」すぎる。そしてもっとも気になるのが「「ぼくって賢いでしょう?」みたいなメッセージがびびーんとこちらに伝わってくる。

それなのに背面スイッチを触ると「ぐーっと」へこむのである。この信頼性のなさがすごくお嫌いです。

わたしは見た感じこれはもう溶かしこみで修理のきかない「かたまり」で出来ているものとばっかり思っていました。(熱の問題でそれは無理でしょうが)

こんなにうすぺったいのに、「裏事情」がひそんでいるとは思っても見なかった。

そうやって考えると、わたしはiPod miniにもなにかひっかかっていたのに気がついた。

あのデザインは「秋田デザイン」だなあ、と思っていました。アルミの押し出しと言い全体のフォルムといいとても近いものを感じますが、「わたしはしない」なぜならアルミの「たんめん」(切り口のことです)を見せるような事は「持ち物」のデザインにはしないなぜならアルミは意外とやわらかくてすぐにへこむし、そのわりには「手にいたい」からです。

とにかく「据え置き」には使えても「携帯するもの」には使っていけないデザイン言語をもとにかたちが出来ているのに、デザイナーたるわたしは「悲しく」なるのです。

これから買おうと思っている人はiPod を是非「最初のiPod 」にして欲しいなあと思います。あのデザインは「わたしには思い付かない」良く出来ています。やわらかいかたちなのにシャープです。手に持ってやわらかくこころにかたい。文化を買ったと言う喜びがじわじわと伝わって来ます。

息子の枕元に置いてあったiPod を見るにつけ「先代はえらかったなあ」と思うわたし。






2005.3.15

ひとの気持ちを知る為には、自分を掘り下げるしか無いなあ。と思うわけです。

どう客観的に掘り下げるか。自分を「マ−ケッティング」するわけですね。他人の分析が好きで自分の分析しない人がいますが、結局自分を覗き込まないと「愛有るマ−ケッティング」はむつかしい。

そうやって掘り下げると他人の気持ちが「少し」感じられるようになる。しかし大切なのは、そこから先で理解出来たからと「改善」はされないという「そこから先の顛末」を知る事です。

じゃあ「メリット」ないじゃん、と思うでしょうがメリットだったり自分が優位になる為に「マ−ケッティング」するわけじゃないのです。迷惑をまわりにかけている事を自覚する為の行為です。

掘り下げても掘り下げなくてもみかけは一緒です。ちょっとした「一言」に重みを加えるタダそれだけの為に「絶大なエネルギー」をそそぐのです






2005.3.14

フジとライブドアの抗争をまるで「対岸の火事」みたいに、新聞も雑誌も書いていますが実は「」「紙媒体メディア」も確実に時代に置いていかれようとしている危機感を感じていない感性が不思議な気がします。

マスコミ志望の学生たちの就職先ランクのトップがヤフ−やライブドアであって小学館でも朝日新聞でも無くなる日はそう遠く無いでしょう。

わたしはひょっとしたら日本初の「インターネットプロダクトデザイナー」かもしれない。それはホームページを宣伝の場では無く意識を解放し「すべての事にからまって」プロダクトデザインが成立している事を日々書き残していると言う意味です。









2005.3.14

デザインと言うのは「無駄をなくす」行為です。無理をしてでも無駄をなくす。(無理しちゃいけませんが)

無駄をはぶいてはぶいてはぶききって「はぶきすぎちゃて」寂しくなってしまったら、紙一枚、布一枚、線一本加える行為がデザインです。

小学生でも描けるような単純なかたちに落としこんでこそ本物のデザインです。技は認識のさまたげです。原始的に幼稚になってこそほんものです。

らくちんにデザインしたもの程「後世に残る」という皮肉がそこにあります。

ぼくは有名になりたい、日本一のデザイナーになりたい。それは二宮金次郎みたいに薪を背負ってロウソクの光でスケッチをしているのが「デザイナー」だと思っている風潮をくつがえしたいから。

わたしはカフェでお茶しながら、テレビで漫才みながらデザインを「真剣」に考えています。






2005.3.13

今日は、多摩美のテキスタイルの卒業制作展に行って来ました。といっても多摩美にとくべつ肩入れしているのでは無く、東京芸大も武蔵野美も造形大もみんな展示会がはやすぎます。

「まだ卒業のシーズンじゃないだろう」と思い込んでいたら2月にさっさと終わってしまうだから。やっぱり「桜」で入学して「梅」で卒業の成果を見たいものです。

多摩美のすごいところは「手あか」が残っていなくて「見せるもの」として完成しているところです。いったん作業が終わって「見せる事」にかける時間が充分あるというすごさです。

わたしは正直「テキスタイル」の善し悪しは判断出来ません。ただ今日観ていて感じたのは「カテゴリーを超える」意識のあるデザインは力と言うか才能があるんだなあという事です。布でできているけれど「建築」や「グラフィック」「映像」みたいなものが「インテグレート(統合化)」されて最終的に「布」で出来ているという感じでしょうか。

先週は愛知芸大の卒業制作展に「講評」に行って来ました。

ぼくは愛知芸大の卒業者にして大学の大ファンですからそういうつもりで読んでほしいのですが、「なにもしないでテーマ自体」を書いた紙を半月ぐらいずっと眺めていたんじゃ無いかしら、と思ってしまいます。そんなに悩まないでとにかく走り出してほしいなあというのが今年の感想でありました。走った後は「汗となみだ」がくっついていますから人に観てもらう前にお風呂に入ってあたらしい下着とおろし立ての「白いシャツ」を着て出て来て下さいね。

補追

ちなみにわたし自身はどうだったかといえば「採点の時に完成していなくて点がもらえなかった」(卒業したので最低点はもらえたのだと思いますが)経験の持ち主であります。かつ展示会には、それまでの展示パネルをすべて作り替えました。

A0のパネル9枚、原寸大の椅子と机3セット(テーマは小学校の為の学童家具でした)

まあそんな壮大な事をするものですから間に合わないわけです。(展示スペースをそんなにくれる大学も素晴らしいですが)

先輩と後輩を「働かせて」自分はこたつで寝ていたという「とほほ」な思い出がわたしの卒業制作でした。

まあその反省が、同じ年の毎日ID賞につながったのであります。





2005.3.12

今日は風がつよく吹くなか亀戸天神に「お礼参り」に往って来ました。まだ有名な梅も藤も咲いていなかったけれど雰囲気のあるいい神社です。

まったくこつ然と存在していてまわりにはすぐ住居やビルが林立しています。

残念ながら「参道」やら風情のあるお店もまわりにないのですがこの神社はいっぺんに

好きになってしまいました。(名前のとおり池には亀ありです。なんだか行く前に亀渕さんの事を書いたのがおもしろい)

さんざんいろんなところを歩いたあげく錦糸町の北口駅前にある「アルカキット錦糸町」というパルコ風の複合ショップビルに行きました。

ここには「アカチャン本舗」があり家族ずれでごったがえしていましたが、その上にある「100円ショップダイソー」が圧巻です。

ダイソーのショップとしては最大規模だそうで、100円ショップもここまで来たかと感慨すら持ってしまいます。

以前も無印良品の本来のありようは今ダイソーにあると書きましたが、これだけラインナップがそろい200円300円という商品まで出て来ると「あとはデザイン」だけではないか思わせるものがありました。

追伸

昨日「あとはデザイン」て書いたら、今日ほんとうに「100円プラスデザイン」なお店を見つけてしまいました。

名前は「NATURAL KITCHEN」www.natural-kitchen.jp

ついに来ましたね。お店の場所も「吉祥寺」「渋谷マークシティー」「「青葉台」など感度の高い女性が集まる場所においているし、ますます100円から目を離せません。





2005.3.12

ライブドアとニッポン放送の件は「まっただなか」の事なのであんまりこういうところで書くのもなんだと思っていたのですが、こういうだれでも見ている事をプロダクトデザイナーの私がどう見ているかを知りたい人もいるかと「架空のリクエスト」を感じてちょっと触れてみたいと思います。

今回の件で一番損をしたのはニッポン放送の亀渕さんだなあと思うわけです。

順調に上を見て「だけ」歩いて来たのにここに来て、彼が言うところの「わかもの」に足をすくわれようとしている。

以前から「大人」という言葉が嫌いと言う事を何度も書いていましたが、亀渕さん言語の「若者」という言葉も、とても「嫌い」というか「嫌悪」を感じます。

ライブドアの社長は「わかもの」ではない。年齢が下かもしれないが若いとはちっとも思わない。幼いかもしれないけれど若くは無い。

人はそれぞれ成長の度合いがちがう。小説家詩人を見れば判るけれど普通の人が一生かかる、かかってもなしえない事を20でできる人がいる。

何人かの天才的な人を知っているけれど年齢ではその「思想」の深さははかりえない。

おなじ「経営のトップ」でしかない。

というわけで「年齢」を持ち出した時点で亀渕さんは踏んではいけないものをふんだ。

なんか「別れ話」のときの彼の言動が目に浮かぶなあ。

ちっともプロダクトデザイナーの目じゃ無い?そうデザイナーの前に男なんです。







2005.3.11

デザインというのは「教育」と「言葉」だなあと痛感するわけです。

今日一日でいろんな人とお話していてそのふたつの重要性を改めて実感したわけです。

ここでいう「教育」というのは、躾とか「日本国」というなにか恐ろしい意味では無くて、デザインとは「なにをだれのためにしている」のかをわかりやすくかつポイントを明確に伝える事であり、会社だったら会社の歴史を伝える事だし、家に変えれば「とうちゃんは今なにをどういう意図でやっているのか」を話して理解されサポートされ、子供にも尊敬される事が「教育」です。

「言葉」は、そういった思いを「誤解をうまず」かつ相手の気持ちを引き出し「ともに生きている」事を確認する重要なてだてです。

わたしはそれらの意味において重要かつはじめてなしたのは、深澤直人という人だったと思っています。

今年になって彼を冷静に「俯瞰」できるようになって、やっとそういう言葉を書けるようになりました。

同時にわたしも彼から「恩恵」をもらったと思っています。わたしと彼とはデザインする事においてはそう変わり無いところが発想の根に有ると思っていて、最終的な見掛けが違いますが、わたしがデザインしたものと彼がデザインしたものの違いをいいあてられるユーザーは実はすごく少ないのでは無いかと思います。

それぐらいデザインというものが、一般大衆には「大衆的」ではないと感じていますしそう「感じられるように」客観的に見れるようになれたのがこの一年のわたしの「進歩」ではなかったと思います。

とにかく「デザイナー」というのは決定的にみんなは知らないし興味が無いというのが今のわたしの認識です。

こういうのは「白い巨塔」の派閥争いみたいなもので、そんなことで患者さんが危険な状態に陥ってしまってはなにをかいわいんや。です。

かたちをことばにする、ことばにしたことをかたちにする。そういうシンプルな事を丁寧に根気よくみんなで広めて行く事こそが重要である。と思った一日です。










2005.3.11

ぼくは苦労をしていない。そのかわり「苦心」をしている。

その苦心からデザインはうまれる。

苦心と言う字は苦労より「上位」にあるような「文字の組み合わせ」

なのにどうしてその意味はすこし「楽しさ」を含んでいるのか

ちょっとへんだなと思った朝です。







2005.3.10

いいデザイナーが生まれるには、何代も何十年もかかると20代の時から私は考えていた。子供が生まれる前から。学生時代建築家の父をもつ同級生の、コルビュジェの影響をもろにうけたコンクリート打ちっぱなしのおうちに遊びに行って衝撃をうけた。

同級生が「なに」という存在だったわけではない。でも背景に「そびえる」親そしてさらにおじいちゃんの「いい生活」はその器量にあらわれていた。

「ぼくがなにをしたんだろう」ただぼくは自由にかつ楽しくデザインを学んでいたし自信もあったけれど「それ以上」のものは何もない。

ぼくは決心した。子供の「インフラ」になろうと。生活に必要な「舗装した道路」になり「完備した上下水道」になり「電信柱」になろうと。

残念ながら「インフラ」にはなりきれなかった。道路には穴が開き。水道は「井戸」だし。下水もつまるし、停電にもなる。まったく「完成予想図」だおれである。

同時に「完璧なインフラ」は老朽化をまねくだけということもわかった。完璧なインフラは子供に「修理」をしいる悪癖があることも知った。

そう何代もかけていつもどこかが「工事中」でなければモチベーションはあがらない。

今、自分の子供が「工事」にかかろうとしている。ばくの理想ではない。ぼくの「思い」である。それは時代によってかたちが変化するのである。

インフラは自分たちだけのものではない。みんなを向上させるという気概があって完成する壮大な工事である。

ぼくと同じように「一浪」で終わってほっとした気持ちがこんなおおげさな言葉を書かせている。






2005.3.9

テレビのクイズ番組で「有線放送にはお世事チャンネルというのがあるこれは本当かうそか?」というのがありました。

再現フィルムで「やあ先輩はすごいなあ」とか「次の課長は先輩で決まりですね」なんていうのがごろごろ出て来たのですが、笑ってしまったのが「やっぱりすごいオーラでてますよ」というフレーズ。

わたしこの「オーラ」という言葉が大好き!大好物です。

いままで何人かの偉い人からオーラというか迫力を感じた事があります。テレビで見ると他の人とそんなに「サイズ」がちがって見えないのに、実際にあうとなにか人の二倍ぐらいの大きさに感じました。

マツケンサンバの松平健さんはすごいでしょうね。オーラ。テレビの画面からもぐわーっとして伝わるのですから本物はさぞかしすごそうです。

不肖わたくしと松平健は同い年なんですね。それを考えるとすごく若いなあ彼は。

ちなみにカルロス・ゴーンと落合監督、田尾監督も同じ1953年うまれ。

大物とならべてえつに入っている?ですね。オーラはどうやってきたえるんでしょう。








2005.3.8

なすがママなら、きゅうりはパパよ。なんて昔から言ってました。

わたしの体内にはビフィブス菌よりだじゃれ菌の方が多かったのですが最近「放出」していないものだから「善玉菌」が「悪玉菌」に変化しております。



自宅から事務所に向かうには勾配のきつい坂を一度どーっと下って百メートル程平らな道をへてまたぎゅーんと急な坂を登る事になる。このマテルの「スーパーチャージャ」みたいな道はわたしにとって「アクシデントウエイ」でもあるわけです。

以前乗っていたマウンテンバイクを買って三日後ぐらいにカドをまがって直進がはじまるところに急に幼稚園児が飛び出して来て、急ブレーキをかけたら、なにせ買ったばかりの自転車、むちゃくちゃブレーキの効きが良くて、つんのめって前に自転車もろとも前転してしまった。子供に空気投げされたのか、はたまた自転車に巴投げされたのか。

また別の時には、下り切ったところにある左から右方向への一方通行の道路から突然その一方通行の反対方向へ猛烈ないきおいで進む補助モーター付きの自転車と接触した。

前に幼稚園児(またですか)を乗せた若い奥さんですが、ずるっとこけてしまい子供がなげだされてしまいました。

そしてきのうの朝の出来事。その平たんな道になって坂が始まる手前にお花屋さんがある。みちをはさんで両側に同じお店があるので、しきりと店員さんがお花や植木鉢をかかえて往来する。困った事に左右を確認しない。「気がついていない人」にたいして「気がついている人」が避けなくてはいけないといういささか「理不尽」が世の中にはあって頻繁に往復する内に見につけた「スキル」なんだろうがこちらは一日に多くて二回往復する程度でそのたびに「しかと」されてぶつかりそうになるのはたまったものではない。

だいたい「お店はお客さん」でなりたっているのにね。(そういえばアパレルのお店では平気で店員の方が優先して店内を行き来するのを目にしますが)

そんな感情の「予行演習」があったうえで、お店の「ボスキャラ」たる女性と昨日ぶつかりそうになったのである。ふつうだったら「危ない」というところだけれど昨日はいささか「水があふれそう」だったのでわたしの口から出た言葉は「おい!」だった。

この「おい!」のあとにつづくのは「いいかげんにしてくれよ!」だけれどこの場合

「こっちも辛いんだ気を使えよ」というこころの言葉もあって「おい!」しか出なかった。

ふりかえったらきっとこちらを睨んでおりましたよ。補助モーターの君も「きっ」としておりましたよ。

ふたりの目にやどっていたのは、OL時代の不倫の上司なのかはたまた恋人なのか旦那さんなのか「自分にやさしくない男」の典型が目の前にいるという「思い入れのこもった」強いまなざしでした。

すみませんわたし本当に「やさしい」のでこういう「どっちも悪いかあえていえばそちらに問題」ある場合、男女のへだたりなくわたしは「やさしくない」。

わたしにしてみれば「問題」のありかを男性の問題にすりかえるそちらのこころの持ちようが男性をこわばらせる。と思っています。

にらむまえに「すみません」が自然と口をついて欲しいなあ。わたしはこういうとき目とともに口の動きも見ています。









2005.3.7

ぼくはいろんな事で「本気」になれない。そのひとつは年賀状、そして名刺をはじめとする「CI的な事務所にまつわるグラフィック」そしてインテリアデザイン。

年賀状。ぜんぜん気合いが入らない。ここのところ写真やスケッチでお茶を濁しています。ロゴマークやなんだかんだこれも全然気合いがはいらない。グラフィック事務所と思わしき大きな封筒にかっこいいロゴがはいったのを自慢そうにかかえている人を見るといいなあと思ったりするのですが、10分もするとその気が消えています。

いまさらながらのはなしですが、デバイスタイルのロゴタイプとマークはわたしのデザインです。やればちょっとは出来るでしょ。でも自分の為に考える気がしないのです。

そして「インテリア」気が重い。「星の王子ニューヨークに行く」の中でエディー・マ−フィーが住んでいたアパートみたいに外観が古くて扉あけるとどかーんみたいな部屋にしようと何度も思ったけれど、思っただけで終わっています。

先日、事務所の郵便受けに「無印良品」のフレシュマン応援キャンペーンのようなカタログが入ってました。

そこに写っている「モデルケース」たる部屋が事務所とそっくりなんでびっくり。壁が白くて鴨居と柱が茶色の典型的「築30年」アパート。こういう事務所にいるのが「ひねり」や「かえし」のつもりだったのに「流行」だったら困るなあ。無印のモデルケースにもならない部屋だしねえ。

四月にはてんてんてん。






2005.3.7

唐突ですが、わたしは堤義明さんの話し方が好きです。なにかさらーっとしていて心地がいい。今回の件をへてもきっと嫌いにはならないでしょう。

こうなる前にマスコミはわかっていたでしょうからなにか「事前に」言って欲しかったなあ。

堤義明さんと堤清二さんはわたしのなかではセットになって感じてしまうところがあります。「文化」をめざすお兄さんと「本家」をまかされた弟はまさに1970年から1990年まで時代をリードしていました。

今回の件で、堤清二は全然マスコミの前に出て来てはいません。

どちらがなにを後世に残しえたのか。文化を残そうとした清二さんにシンパシーを感じはしてもなぜか義明さんにチャームを感じてしまう。

西武美術館はつづけて欲しかったなあ。




ソニーの出井さんが退任する。不思議と感慨は湧いてこない。自分が退社後就任されたからかもしれないし、それよりもちょっと遅かったかなという気持ちと後任選びがなんだか「自分の好み」で選ばたような後味の悪さが残る。

ついにソニーも「外人」社長になったんですね。でも三菱やマツダ日産と様子が異なるのはもともとその外資の影響をうけないで「ほんとうに個人として」外人を選んだと言う事実がおおきいですね。





2005.3.7

さっき渋谷に行った帰り道、松濤美術館で今日から始まった「渋谷区小中学校絵画展」を見て来ました。驚くんですよね。毎年すごいかっこいいというか素敵な絵が出ているんです。昔であれば写実が基本ですが、最近は「現代絵画」的な描画方法が導入されていてあたかもプロの現代絵画のようなおもむきの有る絵を小学校の一年生でもつくったりします。逆に言えばその児童がほんとうに絵が上手なのかは別問題でも有ります。

残念な事に、中学生になるとぱたっと元気が無くなるのです。まったく見事なまでに。

こういうのは小学生の時は返事を大きな声で「はいい!」と答えていたのが、中学生になると声変わりした小さな低い声で「はい」と返事をする変遷の様であります。

予備校生が「奇跡的なじょうずなデッサン」するのに会社に入ると全然スケッチが生きていないのと似ているのであります。

こころの持ち様ですね。などなど。





2005.3.6

昨日、ダイソン・コンペのポスターが届いた。A0はゆうにある巨大なポスターでシルバーにダイソンの掃除機の図面がシルバーの地にしろ抜きであしらわれたかっこいいポスターである。昨年も同じようなデザインのポスターが届いた。

これは私に参加してということなんでしょんでしょうか?それとも学校の生徒さんに呼び掛けてくださいという言う事でしょうか。はたまた事務所の若手に話して下さいということでしょうか。きっと「全部」なんでしょうね。

「もうコンペには出品者としては参加しません」とここで宣言したのでちょっと戸惑いつつなにかちょっとひっかかるなあ。

でも考えてみればベテランでも参加して「恥ずかしく無い」本気のコンペがひとつぐらいあってもいいかと思います。愛知万博なんていうのはそういう実験の場でもよかったんではないでしょうか。そこで使われるベンチやゴミ箱そして照明、時計などいくらでも可能性があったのに。大阪万博のときもコンペはひらかれないで当時の「主流」がもめることなくその利に与ったようなような印象があります。

本気のコンペ、すでに活躍している人が「受賞」しても恥ずかしく無いコンペお願いします。






2005.3.6

わたしは、最近とみに「性格が悪く」なっているそうだ、家人曰く。

「インターネットやりだしてからじゃない」と言われたりして。うーん、たぶんおそらく降水確率80パーセントであたってます。

どうもふだん「にこにこおじさん」なので、なにか「屈折」してるんでしょうね。内心。でもこのコラムは私のストレス解消の場で無い事は確かです。逆に「ストレス」生んでます。

まあそういう前置きを前提にお聞きください。

さっき多摩美術大学のプロダクトデザイン専攻の卒業制作展を見て来ました。

多摩美のプロダクト専攻は、大体35人ぐらいの学生さんがいますが、粒ぞろいという意味で現在日本最高のプロダクトデザイン教育の場では無いかと思います。

平野拓夫さんが教授をされていた事と関係が深いと思っているのですが「産学共同」でのデザイン授業もすでに10年以上前から行われていますし(トレンドを作ったわけです)すべての面で先端を走っているといっても過言ではないでしょう。

最近は、予備校の受験システムがかなり細分化されて多摩美と武蔵野美、国公立の美術大学は「分離」されて一年間カリキュラムが進められるので受験する頃にはほとんど「適正」が体得されているところがあると感じています。

この展示会にあるのは「自負心」です。それぞれが個性をもって課題にあたっています。自負心はテーマにあらわれています。「今世間でおきているプロダクトでザイン事情」をこの展示会からさぐることはできません。「流行以外」を意図的に選んでいるように思います。

教える側にとってもしわせだろうなあ。と思います。以心伝心、孝行息子でかしこい人ばかり。就職先の企業もうれしいだろうなあ。

みんな「迷っていない」それが総論です。このかたまりに「迷える大物」がまぎれこんだ時の波紋が見たくなりました。





2005.3.5

中村史郎さんのインタビュー記事を見つけました。
http://www.rikuryo.or.jp/home/people/shiro0.html

卒業した高校の取材した記事ですが、彼が私と同じ大阪の東淀川区の出身であることをはじめて知りました。ほんと大阪出身の人が多いなあと感じた次第。やはりこれは「自己顕示欲」と密接な関係があるのかもしれない。
わたしが生まれたところは彼の通った「北野高校」からほどないところだった。北野は学区一の進学校だったので、なんだかデザインの世界も、結局「賢い人」が生き残っている世界だと再確認した次第。

的を得ていると感じたのは、
「車のデザインに対するあこがれというものは非常に低い。なろうという人はすごく少ない。まず美術大学のデザイン学科に行く人がすごく減ってる。まず男性がね。花形職業て言われた時期もあるけど、今はぜんぜんだめですよ。コンピューター関係のほうが全然人気あるでしょう。車のデザイナーって今は誰も花形なんて思ってないもの。そこもひとつ私の課題なんだけど、だいたいデザイナーって扱われ方が地味すぎますよね。日本は特に。いわゆるスタイルだけに触れる人のほうが多いんですよ。基本的な考え方をしっかり作り上げる人が徐々に減ってますね。デザインが割と表面的な…いわゆるスタイリングに偏りがちになってる。それはそれで大事なんだけど。 でも車作るのはもうちょっとむずかしいんですよ。それにプラス、いろんな分析力とか、そういうのが備わってないとね。。 」

というくだりです。5年前のインタビューですがクルマのデザインに対する憧れが確実に減っていると言う実感がわたしにもあります。(ちょうど日産の落ち込んでいた時期と重なっているのも影響しているでしょうが)同時にサイトの反応を見ていてもWebに関わっている人が感性と知性が高いというのも実感でも有ります。
ひっくりかえせば「左脳」が優秀であるという自負がある人は「ねらい目」の仕事ともいえます。どこぞの重厚長大な企業の研究所にいたんでは「高め安定」ではありますが人並みをこえる事は難しいでしょう。そういえば中学から高校と進むにつれて「デザインに向いている」と思う人がどんどんその進路を取らなくなって「補欠」なわたしがこんなところにいて良いんだろうか?という気持ちが常に有ります。
「左脳派」としてわたしがあたまに浮かぶのは山中俊治・宇田川信学・三浦秀彦といった面々ですが、彼等に見られる(三浦さんの事はよく判らないのですが)のは形に対する執拗なまでの執着です。(あんまりいい表現じゃ無くてごめんなさいね)彼等のデザインは「レイヤー数」が違うなあというか、今はやりの「将棋に例える」と読む手の数がわたしと5倍ぐらいは違うのでは無いかと言う凄みがある。

ただデザインは研究では無いので(山中さんがじょうずなのは研究じたいをテーマにしているところだと思いますが)ユーザーがそれを理解するかと言うポイントからいうとその試行錯誤が理解されない事がある。そのギャップが「作り手の解釈は一般には理解されないものだ」という認識が「正当化」されるぐらいに「左脳優秀」であれば成立するが極端に「右脳」よりなわたしは「理解されない事」は致命的だと思っているのでいきおい形は「わかりやす」ものを指向する。

今回、毎日デザイン賞を山中さんが取りましたが、「かたちのわからなさ」は選者のメンバーにもあって「理解を越えているが故に優れている」となったのではないかと想像している。

一流になっても有名になっても「コンプレックス」は存在するものです。こういう感じはなんでしょう、小学校の「通知簿」にも言える事ですが「かしこい」という定評つくと「わからない」部分はすべて「出来た」ことになって「オールA」というとんでもない評価がいともたやすく手に入るのと似ています。ある意味「先生を生徒が越えている状態」ですね。

わたしは安藤忠雄・深澤直人といった人に親近感を感じます。それはどれだけ難しい事を言っても根の部分でわたしと同様に「きばっている」努力で知性をカバーしようとしているのが、なんとなく感じられるのです。あんまり深い事を言っていて自分が恐くなって来たのでこれぐらいにしますがまあ結論としては色々な方向性と価値観があってその「バリエーションの中で」賢い人が結局その世界で一流になって行くと言うちょっと切ないが真理でしょうか。

最後になりましたが、「日本のカーデザイナーの扱いが地味すぎる」と感じられている中村さんには日産が率先して「スターデザイナー」を作り上げる事をして欲しいなあと思うわけです。(山中さんが日産に残っていたらどういうことになっていたのが第三者としては興味のあるところです。)






2005.3.3

最新のJDN桐山セクションに「柴田文江」さんの登場です。

ね、すばらしいでしょう。柴田さんを知ったのは4年程前ですが、「事務所拝見」のインタビュー記事でしたが、そこに掲載されている作品を見てそのレベルと完成度のの高さに目を見張ったのが最初ですが、確実にそのデザイン力が発揮されているのを感じました。

いやすごいと思います。なにせ当たり外れがなくてちゃんと仕事を感じます。柴田さんはそれぞれの仕事でちがった側面を見せながら自分の意思と言うか個性を見せています。

プロダクトジャパンにはコンビのおまるちゃんとワインセラーが並んでいたし、JIDAの展示会でも隣同士に並んでいたしえにしを感じます。

今年は「柴田文江」さんの年であると、断言してもいいのではないでしょうか。





2005.3.3

昨日はお昼をたべに自転車で千駄ヶ谷にある「ダイナーズ」というハンバーガーショップに行ったのです。余談ですがここはコーヒーがとてもおいしい。ふだんコーヒーをのまない私が大きなカップに二杯ものんでしまいました。(雑誌にもコーヒーがおいしいお店として紹介されています)

お店に「Pen」の新刊が置いてあって読んでいたのですが、なだたる国内外の著名デザイナーのインタビューが載っていてこれはちょっとした「快挙」だと思ってみていましたがヤコブ・イエンセンとエンゾ・マリを見ていてちょっと「悲しい」気分になってしまったんですね。なぜだか。

エンゾ・マリの「悲しさ」はまた別の日に書くとしてわたしの気持ちを支配したのはヤコブ・イエンセンの事。

彼がB&Oの黄金期をつくったデザイナーであることは広く知られている事ですが、彼とB&Oがどうして「別れたか」についてはいっさいどこにも語られていない。

「Pen」の記事に彼のデザインしたものしか並んでいないのは、インタビューの都合だったのかもしれないのでなんとも言えないけれど「彼とは関係の無いもの」をどう選んで愛用しているかが「みもの」だったと思うので残念である。(登場したほとんどの人が自分がデザインしたものを挙げているけれどわたしあんまり使っていません、ごめんなさい)

ヤコブ・イエンセンがB&Oでなしたデザインは近寄りがたくレベルが高い、まったくこれから何百年たっても輝きがうせることはないでしょう。

ところが彼が去った後のB&Oのデザインは「想像の範疇」にとどまっている。言ってしまえばわたしが担当しても「なしえる」ものである。(そういうデザイナーが何人もいるということですよ)高いエンジニアリングと高い売価に支えられて成り立っている。

一方B&Oに「ふられた」ヤコブ・イエンセンも「レンメン」とし続けている。ここ何年かに発表された電話など見ていると「別れた恋人B&O」に対する未練でこぼれた涙で書かれた「稚拙なラブレター」に見える。

「どこかがどこかをまねしている」と以前に表現したけれどこれはもう「B&O時代のヤコブ・イエンセンをヤコブ・イエンセンがまねしている」ようなものだ。

そんなデザインですらやはり世間のレベルに比べて格段に高いのだからたいしたものである。

恋によって名作は生み出されたけれど、その後の生き方がわたしには素敵には見えない。自分に置き換えてみて考え込んでしまうと言う意味で「悲しい」記事であったわけです。

秋田道夫







2005.3.1

インタビューの写真にハイライトが写っているぐらいに「ハイライ党」な私ですが、たばこを吸い始めた時からハイライトだけを吸っています。さりとて市川昆監督みたいにずっとたばこをくわえているわけでもないし、タバコを吸っている写真は一枚も無い程度の「愛煙家」です。

そのハイライトが最近まずい。体調ではなくて、製造の「あたりはずれ」がだんだん「はずれ」の方にシフトしている感じ。

タバコはブレンドで出来ていて、かつ「添加物」によって風味が決定されているそうで月によって工場によって若干ばらつきがある。

それで「別のタバコ」を探そうとして、アメリカンナチュラルブレンドとかいうたばこにしようかと思ったけれど、値段が高いし「常習」するようになったとき、すぐに手に入らないのは困ると思ってためらっている。

デザイナーだったらデザインの良い「H・R・C」にすれば、という人がいるかもしれないが、あのデザインと言うかコンセプトそのものに、わたしは「反感」のようなものを覚える。

「たばこ」はすでに世間では「ノー」なものだと思っている。風邪をひいたりしたらてきめんに「からだがうけつけない物体」であることを自覚する。「今日も元気だたばこがうまい」というよりは、「今日も元気だからたばこに対抗出来る」ようなものだ。

悪いと知りつつ好きでハイライトを私は「ちびちび」まわりを見回して吸っている。たばこを吸う時はまわりに「吸っても良いですか」と聞いてからにしている。

そんな「毒」なものに最先端の素敵な洋服きせて「かっこいいだろう」といって、ファッションにしてしまうのに私は反対です。キムタクが劇中で吸ったらどれだけ影響力があったかを考えると、ぞっとする。ローレックスは「煙り」をださないから。

ファッションで吸っている人に限って「灰皿に置いている」時間が長い、この吸わない煙りが「吸わない人」に悪い影響があるというのだからまったく始末が悪い。

去年だったか「裏原宿」のキャットストリートにJTの「歩きたばこをやめましょう」キャンペーンのポスターが「ばちばち」貼ってあって、そのポスターそのものが、美観を損なっていると思った。またそのポスターがやたら「英語表記」が大きくてかつ簡単な英語じゃなかった。なんなんだろう、ここは日本じゃ無いのだいたいアジアをのぞく英語圏ではたばこの広告そのものが禁止されているし。(JTのホームページも明快じゃないです。まさにけむにまいている感じ)

だいたい「歩きたばこ」も「室外たばこ」も美味しくない吸い方である。風のあるところでは風味はたのしめない。

先日のカーサブルータスの携帯灰皿の特集は「不愉快」だった。自分の手に「灰皿」の絵を描いたデザイナーがいたことが救いである。

たばこが好きな人にはポイ捨てのキャンペーンも「携帯灰皿」も必要ないのである。








2005.2.28



ぼくは2チャンネルに「スレッド」が立たないものかと期待している。

「秋田道夫ってどうよ」みたいな。まあどこまで本気で言っているかは想像におまかせしますが、インターネットでこれだけ書いているプロダクトデザイナーは「いない」と思っているので、そういった意味で2チャンネルというメディアの中で登場するのはわたしの中では自然な事のように思えるのですが、これを書く事によって2チャンネルの書き込みするひとの特徴の一つが浮かびあがったような気がします。

驚く程保守的というか既成のことばの積み上げで出来ていてカーサブルータスやAXISで披露された「リファレンス」によりかかって作られている感じです。例えると「キョンシー(なつかしい)」の顔にはられたお札をお互いが至近距離で「叩き落としあっている」ような感じであまりにも言葉を読み取る間も無く「即座」に否定しあっている感じです。

ぼくは言葉と言うのは自分の背中もしくは手の内においてしゃべるべきだと思っています。ことばは防具で無くこころ模様の吐出であるべきだと思っています。

2チャンネルというインターネットで展開されていることが、インターネットの情報の積み上げで出来ていない事に不思議な違和感を覚えるわけです。2チャンネルをデザインするところからはじめないといけないのかしら。




2005.2.27

とびきりのうれしい知らせが電波にのってやって来た。

ぼくは嬉しい時程「下を向こう」と思っているのですが、その向き加減で表現するとおへそをこえて自分の乳首が見えるぐらいに「下を向いている」わけです。

友達がメールで教えてくれました。イギリスのデザイン誌「Wallpaper」に一本用ワインセラーが掲載されホームページ上に紹介されています。

http://www.wallpaper.com/lifestyle

それにしても私自身は最近とりまく様子をあんまり「把握」していない。AXISの記事も知らなかったし、JIDAの展示会の事もしらなかった。

みんなわたしの友人がメールでおしえてくれました。まあこういうの「美しく」て素敵かも。これぞシナジー効果です。


書店にて

マンスリーMにつづいて「TITLE」もプロダクトデザインいやプロダクトデザイナー特集盛り上がってます。どんどんプロダクトデザイナー目指す人が増えるように。

さっきまでいろいろ書こうと思っていましたがやめときます。

ただ一言。「コンペとは審査員が自分自身を選ぶ行為である」と私は思っています。最近「外観のグッドデザイン」が、大賞に選ばれない理由が、審査員の集合写真を見て納得した次第。

もう一言、こういった雑誌に出たの出無いので頓着していてはいけない「レベル」にいつのまにか来てしまったんだなあ、と実感した今日です。



2005.2.26

入試まっさかりである。予備校のカタログを見ると昨年合格した優秀な人たちの話が載っているわけですが、一人で三校も四校も受かっている人がいる。こういうのっていいのかな?と思うわけです。

そこまで力が抜きん出ているのなら受ける学校しぼってもいいんじゃないのと。まあ学校の方も対抗策として補欠を大量に採用しているので問題にはされないのだけれどなにかひっかかる。

そういう自分の家でも三つの学校四つの専攻をうけたのでなんともいう資格はないのだけれど本人の将来したい事とベストフィットするところがないのと「抜きん出ている」自信もないので結果そういう事になった。

でもこの「どこでも受かっちゃう打法」が受験に止まらず入社試験までもが「どこでもいい」感じてあちこち受けまくる風潮はどうもわたしは「好きでは無い」。

あるところに入社しても、どうしても受からなかった会社を受け直した人の話もきくしなあ。まあこの話には「おちどころ」はないのだけれどもっと「したい事」「なりたいもの」というのが明確に収斂されててもいいんじゃないのと思うわけです。

このままでは大学が「会社予備校」になってしまう。いやなっている。





2005.2.25

ぼくはちょうどその「カミングダウト」を見ていた。まさか「TRUE」だとは思っていなかった。ほんとうだったら「ひどすぎる」と思って聞いていた。ところがその「万引き」事件が本当だと告白した瞬間テレビの向こうもこちらも「ひいた」、同時にこういうの取り上げて良いのかと思った。

この事件をもとにさっきから頭の中で1時間ぐらいどう書こうか考え込んでしまった。以前からこういう風潮、「昔の悪かった事」を勲章みたいにあおることをよろしく無いと思っていたのでフル回転であたまが動いた。

結果としてはあんまり掘り下げないということにした。ただ昨年から起きている謝罪や失墜やなにかしらアクシデントを起こした人物は大抵ほとんど、ここのコラムで取り上げようと思った人ばかりである。なにかを起こす人は事前にそのきざしがある。

今も「起こしそう」な人を感じているが「予言」はしない。こんなのは自慢にならない。




2005.2.24

えらいブログを見つけてしまった。

http://xylocopal.exblog.jp/i10

もうほんと笑ってしまいました。苦笑です。

まるでここで展開しているお話は「わたしそのもの」名古屋と東京と言う距離をこえてつながっている。名古屋と言うのがまた意味深だなあ。

タバコが大好き。味噌煮込み好き、ホンダをいいと思っている。なんだかなあ。

ぼくはこれで楽になれました。「常習性の高いニコチン入り」の文章なので、どうも読みたくなる人もいるでしょうが上のサイトを見ていただければしっかり満足いただけます。というよりあちらのほうが本家であります。

ぼくが書いていることの80パーセントが「時代力」というか「世代力」であることがよく認識出来ました。「ちょっとななめ」に見ている様ですがそんなひとがぼくの世代には大勢いるわけです。(どうもぼくの話が同級生に通用しないと思っていたけれどみんな自負があったんですね)

ニッポン放送の亀渕さんはわたしの世代ですが「時代の優雅なヒーロー」でした。石坂浩二から森本レオとつながる「ソフトな語り口のインテリ」でしょうか。みんなそんな憧れを口にはしていなかったけれど、矢沢永吉命といいながら「綿々」と生き続けていた「スタイル」だったんですね。

だって「おじさん」を名乗るブログは語り口がみんなソフトなんだものなあ。

ちょっと自分とは「ちがう」かなあ。もうハイライト吸うのやめようかなと思った仏滅の午後でした。

もうちょっと読んでみよう。




2005.2.24

人間10分先の事もわからないものだなあ。

うーんと困ったりしていてどーんと来ていたのが一本の電話で突然「快晴」になったりする。

受験生たる長男が、以前つくった立体構成を持って来て「これどういうタイトルがいいと思う?」て聞いたから「そうねー、よどみをつらぬく希望という光の束。なんちゃって」まあまさか自分の感情が同じようになるなんてその時は思いもよらなかった。

なにせ去年の10月からどよーんと白くて透過率のよろしくないもやがずっとかかっていたので今年の暖冬と思っていたのに普段より寒く感じる冬がいやだったわけです。

昨日の春一番でなにかが飛んで行ったのかな。

まったくわたしは感情の人「感情奉行」と呼んでくれ。



わたし今日から「2005年」とします。




2005.2.23

日頃悪口みたいなことばかり書き連ねているので、人をほめる事が出来なくなっているのではないかと心配になっていたのだけれど、何通かメールにて「賞賛」の言葉を書いたので「おう、やればできる」と思ったわけです。

これでも昔は「ほめじょうず」だったんですよ。男にも女にも。

でもねやはり真実は「批判」というか「悪口」にこそあるように思えるなあ。お腹にためて「悪性のかたまり」を増殖させたく無い。

そんなわたしの鉾先は「パソコン」にむかう。へんな話しキャノンのプリンターかっこいいものだからパソコンも「良いデザイン」なのかと勝手に思い込んでいたけれど御三家たるNECも富士通もソニーもデルもなにもかも「ひどい状態」におちいっている。いやソニーはひとり気をはいているのだけれど、あんまりにも「良いデザイン」が売り上げにつながらないものだから「ふてくされている」感じである。ほんとアップルのイメージ上の「市場占有率」は50パーセント以上である。






2005.2.22

今日はお昼にロータス行ってましたが横にすわったアベックの男性が声が大きくて閉口した。会話の内容は声の大きさに反比例するのかしら。声の高い男は嫌いだけれど大きいのはさらにまして苦手である。

ロータスからほどないところに「ワタリューム」があって5年ぶりぐらいに店内に入る。先日までの展示会の名残りかプラスマイナス君がいくつか残っていて「15800円均一なのね」と値札を見て思ったわけです。

コーヒーメーカーいいなあ。なんてことなくて。これなら毎日見ていられる。ハッキリ言ってわたしの「サーモマグ」は毎日見ていられない。なんだかつらい。デザイナーが自分のデザインしたものに囲まれたいとみなさんは思うかもしれないがわたしは自分のデザインしたものに囲まれたく無い。「デザイン」を感じない部屋が「デザインを考える」のに最高である。(ぼくの押し入れには世界の名品デザインがいくつも眠っている、買ったわいいけれど何日かすると見たく無くなる)

そんなぼくにはプラスマイナス君のコーヒーメーカーはけっこうぴったしである。このデザインもぼくのデバイスタイルのコーヒーメーカーも「もとねた」はポルシェデザインによるボッシュの一連の家庭用品である。それがそれぞれの日本のデザイナーの体内に入って発酵した。

無印くんはいっそう無印化したし、ぼくは「フォルム」に特化した。それにしてもこれはまったく「無印」だよなあ。無印だったら「5800円均一」だったろうに「ブランド名」が入ってだけでどうして10000円も値上がりするのか納得がいかない。

「ワタリューム」というアートスペースが象徴的だけれど限り無くこのプロダクトはアートを目指している。プロダクトデザインはアートになりうると思うけれどアートを目指してはいけないというのがぼくのスタンスである。





さっき書いた文章でわたしはすっかり「プロダクトデザインの今」を掌握した気分になっていたわけです。(なにせワタリュームいったあとOZONEのJIDA展も一気に見に行ったのです。代々木公園表参道そして新宿、坂も多くて荷物も重めだったので自転車とは言え疲れきってしまいました)

そう、そのうえ探していた書類も見つかってもう天下向かうところ悩みなし状態だったのに余計なことをしてしまいました。

「ナガオカケンメイ」という名前が目に入った。なにしているか知らない人物が、たしかカーサブルータスだったかのグッドデザインの会場にいる写真で見覚えてるのだが「またブルータスが持ち上げている」(ぼくはそうとうブルータスに敵対心持ってますね)と思ったわけですよ。そしたらすでに数カ月前にセレクションに出ていた事がわかってしまったわけです。はっきりいってやっていることは「おもしろい」し「すてき」です。

昔あった「すぐれもの」をもう一度生産してもらって自分の運営しているショップで販売しているわけです。そのうち九品仏か大阪のお店に行ってみよう。ハリウッドランチマーケットか文化屋雑貨店(えらく懐かしい名前を思い出したものだ)の「グッドデザインバージョン」と思って下さい。




ソニーがPDAから全面的に撤退することになった。あーなんか悲しいと言うか。ソニー大丈夫かなと思ってしまう。先日「ジョージア5.1CHオークション」の紹介欄に「ケンウッドに在籍した秋田道夫」と書かれていてソニーの名前が出ていないのに驚いた。まあオーディオ製品だからケンウッドて書いておけばと思ったのでしょうが、まさかケンウッドのブランドがソニーを上回る時代が来るとは。







2005.2.20

プロダクトデザインの「コンペ」がすっかり後退してしまったなあと感じたわけです。

海南市で開催されていたコンペも昨年をもって終息してしまった。富山のデザインコ
ンペも数年前の覇気は感じられなかった。(こう書かないと正直では無いのです)

まあ私が若い頃すでに「衰退」していたので漫才ブームのごとく「再燃」する可能性
を信じているわけですが。

その海南のファイナルコンペを調べてみたら栄えある「最終回優勝者」が船橋慶祐く
んだったのでびっくりというかうれしくなったわけです。

富山のコンペの際親しくお話したのが、五十嵐広威くんと船橋くんというふたりの若
者でした。

船橋くんとは富山から夕方の特急で名古屋までぽちぽち彼のはなしわたしの話をしな
がら帰ったので「わがこと」のように嬉しいです。

「海南も最終に残ってます」と話していたのを思い出します。彼は「桐山セレクショ
ン」に出て来たデザイナーはみんな覚えているそうで、そんな勉強家な彼が結果を出
した事は「正攻法」好きの私にはこのましいわけです。

船橋慶祐くん 

おめでとう。そしてこれからの活躍を期待しています。





今日はおおげさなお話をしたいと思います。
「日本を代表するプロダクトデザイナー」で検索をしてくれた人がいたよ
うでまことに光栄にも私の名前が柳さんや以前のJIDAの委員長にまじって
入っていたそうです。これを読んだ人はあれFさんはKさんはだれそれさ
んは?と思うでしょうし私もそう思うわけです。(代表するつもりでやっ
ていたろうにいささか気の毒ではあります)

代表している自信はさらさら「ちょっと」しかないわけですが、自信を持
って言える事があります。それは自分がインハウス時代も含めてデザイン
に関係した会社の設計者やデザイナーや模型を作っていただいたモデルメ
ーカーの人には「そう思ってもらえている」自信です。

そんな自信がどうしてあるかと言えばいつも「課題違反」しないでデザイ
ンをし続けているからです。例えば年賀状のデザインになぞらえれば「定
型サイズ」から逸脱することなく「定型内」で年賀のデザインを一生懸命
考える。「年賀状ファイル」に入らないような迷惑はかけない。立体にな
るようなデザインはしない。
以前「石膏デッサン」の話で、「石膏デッサンはまったく同じ条件で腕前
を抽出する唯一の方法ゆえに大事なのだ」と書きましたが(唯一かどう
かは定かではないですが)ぼくにとって与えられた仕事は「石膏デッサ
ン」のごとく「テーマ」にどこまで準じて「違いを出せるか」と思って
している。

それがゆえに同じ仕事を同じ時間にともにするとぼくがいかに「特殊」
であるかを知ることになる。おそろしく仕事が早いし、変更に対しいて
もまったくフレキシブル(自在)に対応する。それをまのあたりにした
経験のある人には深く刻み込まれるのである。それは設計者も同様で、
変更せざるをえない「申し訳ない」状況の中で、何の苦もなく変更に応
じる姿をみれば他のデザイナーとのスタンスはあきらかである。それが
ゆえに最近は仕事としてかかわったものはほとんど100パーセント「製
品」になっている。

まあねこんな事は本人が言うべき事ではさらさらないのだけれど「自分
のフェアーな観察者」は自分しかないないと思うわけでして他のデザ
イナーがそんな発言をしてくれるとも雑誌がそこまで掘り下げるわけで
もない。

来週にもインターネット上にまたインタビューが出ます。「日本を代表
するプロダクトデザイナー」というエキセントリックな表現をぼくは「
あえて」望んだわけですが、「ほんとうにまっっとうに自分の信じるプ
ロダクトデザイナーの道」を進んできたつもりのぼくがそういう「定
冠詞」を持つことは、あえて「善」であると思っているのです。










2005.2.19

「よーく考えよ−、お金は大事だよ−。」と保険の会社がおしえてくれているわけです。

鶴の恩返しならぬあひるがそれを。

堀江さんの話をどうかこうかと考えていたらカメさんは出て来るし、霊長類のボスみたい
な森さんまで出て来てあげくには外国の鬼サンが出て来てまるで「現在の日本むかしばな
し」みたいになってきたわけですが、ひとつだけ渦中の人物が「命のつぎに大切なお金を
使った人物にあわないのはおかしい」という言葉になにか違和感感じた理由がわかりまし
た。自分の利益を追求する結果「投資」したのであって「寄付」したわけでも高邁な精神
がもとにあるわけでもなく「大切」という言葉を使って話をすげかえているのに「違和感
」したのでありますね。

今の話は「まくら」ですから。

「おんがえし」の話し

きのうのJIDA50周年の展示会に一本用のワインセラーが出たのはね、ぼくにとって恩返し
なのです。実は90年代のはじめにJIDA(日本工業デザイナー協会)の「正規会員」だった
事が4年程あります。「正規」というところに力が入っていますが、なにせぼくがものごこ
ろというかデザイナーになろうと思った時からJIDAの会員というのはかなり「ステータス」
があったわけです。

はいるころには状況は大きく変わっていました。まあそのへんは差し控えますが端的に言え
ば「会員」はなにも「保証」もされなければメリットというのは「無い」逆に自分から犠牲
になって他のひとに「為にならなくてはいけない」自分からお金払って。

名刺に「JIDA正規会員」て書いてあったらバーに言った時、お店のお嬢さんからまぶしい光
線もらえたら「サクリファイス」したかもしれませんが。ありません。そういうの。

というかなにしても「長くする」ことが出来ない性格言え「脱藩」したわけです。それなの
に展示会さそっていただいたりしていたので悪いな−と思っていたわけです。

だから、昨年の「デザインミュージアム」に選ばれた事はとても嬉しかったのです。

そして今回の展示会ということで「元会員」が面目を多少はらしたわけです。

ちなみに「毎日新聞」がちらしが少なくて不自由しているにもかかわらず購読しているのは昔
賞をいただいた「おんがえし」でありますよ。







2005.2.18

ジャック・タチの「ぼくのおじさん」のお話をふたたび。

あの映画をみながらすごくシンパシーを感じていたわけです。ジャック・タチ演じる「ユ
ロ伯父さん」は若くも見えるが年にも見える、すごく年齢不詳な感じが有る。その年齢不
詳さかげんがなにか自分に通じるものがあると思っていたら、1907年うまれのジャック・
タチは1958年に封切られた時まさしく「私の今と同じ」年齢だったのである。

「ぼくのおじさん」でアカデミー賞までかけあがった彼だけれど、ぼくにはあの映画に出
てくるジャック・タチがすごく不安定に見える。後で知った事だがこの映画の後「PLAY
TIME」という映画で大失敗をして破産してしまう彼だけれどその未来がかいま見える。

まあそんなことより大切なのは、映画に出てくる主人公の少年との「こころの接点」の話
し。8才の少年は不安な気持ちやいたづらをした時、そっとユロ伯父さんと「後ろ手」で
手を握りしめるのだ。映画の中で大切なキーワードの「手を握る」行為にぼくはこころが
きゅーんとなってしまう。

ぼくの次男は今10才。ふとんの中やいっしょに出かけた時お互いに手をよく握っている。

そういう経験が年とかさなり自分の事のように思えたのだ。





宣言通りOZONEの展示会、観て来ました。

こういうとき代々木公園に事務所があるといのはまことに便利。自転車で15分でついて
しまう。

展示会に「ワインセラー」並んでました。ついでに「ニッポンプロダクト」という本に
も小さく写真が出ていました。

でも「2000年以降の代表的デザイン」に選ばれるのは、なにか違うような気もするので
すよただよろこべば良い話ですが.。

話題を変えてサイトのおはなし

先日「デザインミュージアム」

http://blog.design-museum.jp/というデザインに関するブログサイトを見つけました。

非常に「センスの高い」選択をしています。管理者の見識の高さは「半端では無い」ものが

あります。デザインに詳しい人は是非「ためして」ください。大抵の知識では凌駕出来ません。

ぼくはまもなくこのサイトがデザインセンスのリファレンスになるだろうと予感しています。

まあそういう野心も願望もないがゆえに素晴らしいのですが。

そこのコメントコーナーでしばらくやりとりが続いていますので読んでみて下さい。









2005.2.17

昨日は、家に帰ると玄関に次男が出て来て「きょうのね、トリビア面白かったんだよ。
ムシキングをほんもののかぶとむしでやったの。ヘラクレスが優勝した。」

そう巷では「ムシキング」が大ヒット中。まちのゲームセンターでおじさんがカードめ
あてに熱中してたりします。

夜中に衛星放送でジャック・タチの「ぼくのおじさん」を観た。

すごかった。ものすごかった。今までデザイナー必見映画といえば「2001年」と言い続
けたわたしだけれどこの1958年に製作されたこの映画もまた必見です。

デザイナーにかぎらなくてもいいのだけれどこの「今どき感」はすごい。1958年はくし
くもグッドデザイン賞が制定された年であり、たしかイタリアのゴールドコンパッソ賞
もこの時期だったと思う。

いろいろ書きたくてしょうがないとにかくすごいすごいすごい。と感動したままの今日な
のです。

一目惚れの人に出会った感じ。しかも「彼女の良さはぼくにしかわからないだろうな」と
いう感じの一目惚れ。

別の話題

「OZONEで開催中のJIDAの50周年記念展示会にワインセラー出てました」とメールいた
だきました。 わたし「知りませんでした」。2/4のコラムで「片寄ってンじゃない」み
たいな事書いたぐらいですから。

あした見に行こう。







2005.2.16

かっこいいってなんでしょう。

「日清のチキンラーメン」にそそぐお湯の沸くのをまっているとき考えたわけです。

わたしは「辛味のゲソ」が大好物だし、セブンイレブンのおでんも好き。吉野やの牛丼も
好きでカプセルホテルも好きでまんが喫茶もすきで、ユニクロ愛用しているしデパートの
ひなびた屋上も好きで6帖の畳みの部屋にいる。かつバレンタインにはチョコレートを貰
っていないし生まれてからラブレターを一度ももらった覚えが無い。

なにが言いたいか。もっと「仕事」、そうデザインに集中しようよ。

みんな世間体に頭がまわりすぎ。

こういう文章を書くようになったら風邪も直ったようなもんだ。





今朝の地震にはいささか驚いた。

昨日からどうもわたしの風邪が伝わってしまって寝込んでいる家人が、飛び起きて台所の
食器棚を押さえに行ったのには二度驚いた。

そうこうしながら頭の中でわたしが東京で家を建てないのはいつか大きい地震が来ると思
い込んでいるのが「最大の言い訳だった」事を思い出した。

先日、知り合いから京都にあるデザイン事務所の人がデザイナーを探しているので心当た
りはありませんか。と問い合わせがありました。

結構「わたりに船」のようにふさわしい人がいたりするものだけれど今回は思い当たる人
がいないのでその旨を返事したが京都のデザイン事務所なんてなんだか夢がありますね。

わたしより幾つか上の男性が代表をしてますが、得意先には多くの企業が名を列ねていて
募集をかけているわけだから繁昌しているのだろう。

代表の方の名前でグ−グルしてみたらなにも該当しない。なんだかここで考えてしまう
(そんな必要なにのに)

デザイン勉強したからと言って「デザイナー」でなくてはいけない理由はさらさらないわ
けですが、どうも最近「弱って」いるので「社会的な成功」てなんなのか考えてしまうわ
けです。

わたしは最近「有名」という「かすみ」を食べて生活しているのですが、この「有名」と
いうかすみが全然不足していて食べていけない。

デバイスタイルと言っても知らない人があまりにも多いので疲れてしまう。一般の人が知
らないのならまだしも広告やデザインに関わるひとですら「知らない事を恥ずかしい」と
思わないレベルでしか無い。

はやく春がこないかと祈る寒さ嫌いのわたしです。





2005.2.15

日付けを入れる事すら忘れていました。

実は今年二度目の風邪をひいてしまいすっかり気持ちがストーンと下がり目です。

不思議な事に二回ともホームページの更新と時期が重なっています。実際作業してくれて
いるのは有馬君一人なのでわたしはなにもしていないのだけれど、やっぱり気にしている
のかと思うわけです。

実は昨年からずっと尾を引いている事があってまったくわたしの問題では無く相手の問題
なのですが「Mの悲劇」的に考えるとわたしにも責任はあるのかもしれない。いやそれは
ないなあ。信じるしか無いのだけれど楽観出来ないのが困った。結果「ふつう」のところ
に落ち着いたとしてもこの何ヶ月にもわたる不安感はどう埋め合わせられるんだろう。

とはいえ、風邪と同様に「なおりかけ」のような気もするのです。私はこれまで「心労」
することをあまりしてこなかったので「おとな」のゲートかもしれません。

クリアーするころには白髪だけではすまないかなあ。

そうそうサングラスまた無くしてしまいました。





2005.2.14

あなたは手にいくつの荷物を持てますか?

恥ずかしながらわたし「デザイン」ひとつしか持てない。

もちろん一つ持てれば上出来でありかつ生きているのだから最上です。

先日A君と話していてわたしは宣言しました。『もう充分な量とクオリティーのデザイン
は成した。秋田道夫回顧展やっても、今まで発売された品物とぼくのMacに残っている
世に出ていないデザインをプリントアウトしたら展示会は成立するだろう。だからぼくは
しばらく生活の為に仕事することにした』

自分のデザインは「わかりやすい」ようで「かわりにくい」。理解されている様で理解さ
れていない。

じっくり眺めてもらうしかない。

デザインの為にデザインするのと生活の為にデザインするのとほとんど差は無い。

生活の為と言うのは「ちょっと自己中心的」というか総体観や総体視するのをやめて主観
的に「主人公的」に物事を考えるだけだ。

ぼくは普通にしていれば普通よりはおそれられまつられ重宝されるのはわかっている。そ
のことにゆだねるのが嫌なのだ。自分から「雑巾がけ」させてくれと言ってしまう。

ライフスタイルデザインというからには「一貫性」「矛盾しないありよう」にこだわる事
である。

生活の為にデザインすると言うのは、自分の矛盾を都合によって「許す」ことである。

ふたつの事柄に対した差は無い。することはしてしまう。「みんなやっていること」と思
えるか、まだまだ修行が足らないと思うかの差でしか無い。






2005.2.13

いや、ほっとしました。ジョージアの第3回の抽選結果が出ました。

なんと22181名の当選者が出ました。

A46番と言う「わたしも書いてしまいそうな」番号が当たった事によって

一挙に一回目の7倍近い当選者数に跳ね上がった。

これによって今回のキャンペーンで当てたDVDシステムで映画や音楽を楽しんでくれる

人が3万人以上いることになるわけで、ちょっとした「ヒット商品」の誕生だ。

とにかく「プレミア」であることよりみんなで楽しんでもらいたいのだ。美術品にも

稀少品にもしたくない。

やすく買えて長く使えて飽きが来なくてまた買いたくなる。そんな当たり前を実現したい。

もう一度言います。ほっとしました。

DVDシステムについて詳細なリポートが出ています。参考まで。

http://allabout.co.jp/gourmet/junkfood/closeup/CU20050211A/



最近気になるコマーシャル

「バニラヨーグルト、バニラヨーグルト、なぜか食べたくなルナ−」

と言っているそうですが、このコマーシャルに出てくるキャラクターの男の子の
人形も「レベル高い」のであります。

「ものうげな20才前の青年」をのぞいて一家で合唱状態です。

ちなみに「日本ルナ」という会社が発売してましてキャラクター名もずばり「日本ルナ」ちゃん。

どうやら「女の子」のようであります。




2005.2.12

デザインメソード2はいかがでしたか?

最初は円錐や正方形の分解をパート2にしようかと考えてましたが「方法論」を伝
えるのであればひとつでも充分かと思い「切り口」を変えて自作を「分解」するこ
とにしました。

サーモマグのコーヒーメーカーはあまりにもストレートにすべてのメッセージが伝
わりすぎて「語る」部分がありません。それにくらべると一本用ワインセラーには
隠れた葛藤やメッセージが多く含まれている事に私自身も気がつきました。





2005.2.11

カーサブルータスを見る。

うん、そろそろ春も近いし「新しいデザイナー」探しに行こうかなと編集者は思ったの
かな。

今さらリアルフリートでもプラスマイナスゼロでもデバイスでもないしね。

分散することは良い事です。ぎゃくにもっと新しい人にスポットライトを当てて欲しい。

武蔵野美や多摩美や東京芸大の卒業制作展見に行って(東京限定でごめんなさい)これ
はという人がいればその場で「発注」して欲しい。うーんおもしろそう。

「売り込みじょうす」より「才能」でお願いします。といっても才能の有る人はプレゼ
ンテーションが上手いので結果は同じかな。









2005.2.10

朝、いつものように豆腐屋さんで豆乳を立ち飲みしていたら、みかけない北欧系のデンマ
ーク人なのかしら女性が「それなんですか?」と聞いて来たので「ソイ・ミルク」うーん
「ビーンズ・ミルク」よくわからない絞ると言う英語がわからない。「おいしいですか?」
と聞くので「おいしいとは思わないけれど、身体にいいので」といったら「for healthy!」
と答えて一個買って坂道を降りて行く。今流行りのヨガマットを持っていたので健康指向
が高いのね。思わずわたし「広告塔」になりました。

なぜだか「アメリカ人」とは思わなかった。そういえばR25にアメリカ人とばれないよう
に「カナダ国旗の入ったT-SHIRTSが売れていると言うほんとうかどうかわからない記事
が載っていた。

その昔、高校時代に昨日まで「伊藤」さんだった同級生のおんなのこが、今日から「李」
さんになったことがあった、ずっと日本の姓を名乗る事に違和感を感じていたので決心し
ましたと話していたのを思い出した。

予備校で、友達の同級生をとおしてひとりのおんなのこを紹介された。みんなで「おとな
ごっこ」をしながらわいわいする中でふたりで予備校の帰りジャズ喫茶でお茶をしながら
彼女は「わたし実は在日の朝鮮人なの、だからこれ以上は付き合えないの」と言われた。
どういうニュアンスだったかは思い出せない。そこで「そんなの関係ないよ」と言わなか
ったと思う。

大学に入って次の年、予備校の後輩たちが大挙して下宿にとまりに来た事が有る。その中
にぼくの実家のすぐ裏に住んでいた一つ下の女の子と仲良く遊んでいた「野村」さんがい
た。

小さい頃からきわだって「元気」で可愛かった野村さんの印象は強烈だった。彼女の家はJ
R駅のすぐ目の前の大きな家だった。

彼女と予備校時代に付合っていたのが高校時代の同級生だった。かなり真剣に付合ってい
るようだった彼がぼくに話した「彼女は在日朝鮮人なのでいつ本国に帰らないといけない
かもしれないんだよ。

ぼくはまた「うーん」というまま慰めるでも励ますでもなくなんだかどーんとするだけだ
った。

彼女の駅前にあった家はもうない。15年ぐらい前にビジネスホテルに変わってしまった。

そういう場所でわたしが育ったという話です。






2005.2.9

サービスってなんだろう?

先日、夜の11時ぐらいに表参道にある良く行くカフェでお茶をして20分ぐらいで帰ろう
としたら最近お店にいる可愛い女の子と一緒になって「お店にいるひとたち感じが良いですね、きっとオーナーの人柄ですね」と話し掛けたら「でもすごく厳しいですよ」と返って来ました。

ぼくは「感じがいい」というのは育った家の雰囲気やそのひとの日頃の心構えを断片的に「カフェ」というところで垣間見ていると思うのでお店の教育やマニュアルで出来ているとは思っていないし「信じたく無い」これがクラブやギャバクラといったお店であればさもありなんと思うのですが、まさかそう「水を売っていない」カフェでそういうシステムがあろうとは思いたく無い。別になにがおこるわけでもないし。

きのう「ガイアの夜明け」でコンビニエンスストアーが取り上げられていて、それを見ながら毎日の天気気温にあわせて仕入れる商品の種類や量を考えたり、棚の商品を細かく手前に揃えたりラベルを手前に出したり、チラシを近所にくばったりするのが成功への秘けつだったり「サービス」なのであればぼくは結構好きだし得意かもしれないと思ったのです。

これらは、今までにセブンイレブンをはじめ各コンビニチェーンが蓄積した実績に裏付けられたノウハウだし、つまるところ商売の基本だろう。逆な言い方をすれば線路あって目標が見えている。

ところがプロダクトデザインは50年とか歴史があるにもかかわらずサービスのノウハウが見えてこない。ここを見てくれているウエブデザインでの「サービス」なんていうとさらに見えてこない。

ただ両者とも事使うものにとっての快適さや使い勝手がサービスであることは何となくそれに対して「すべきこと」というのは見えていて日々精進しているわけですが、クライアントの付き合方や「商売」という観点にたった「サービス」がなになのか全然未だにわからない。

「同じ商品」「クオリティー」「売価」であれば、お客さんに心地よく感じ良く迅速にかつ心配りをすれば「優秀」なんだろうけれどさっきあげたポイントは日々「揺れている」。

王道が見えてこない。この道は「旧街道」にいつのまにかなっていて新道には人もクルマもたくさん往来しているかもしれない。

以前、友人から「あった人にはかならず翌日にメールしてお礼するんですよ、とA先生に
教わりました。」という話を聞いてそれはすばらしい事と思ってしばらく実践していましたが返信をしてこない人も多くなんだが自分のプライドの「ある部分」が傷付いてしまってやらなくなってしまった。

「サービス」と思ったら続けていたかもしれないが「エチケット」だと思うと「個人差」によってそれは打ち壊されてしまう。

ちょっと文脈にずれが出て来てしまった。デザインを考えるより「サービス」を考える事の方がぼくには「苦手」だが嫌いじゃ無い。さらにいえばデザインをサービスにゆだねるにはシステムのシェルターが必要だ。ぼくは今そのシステムの準備に今年をさいている。






2005.2.8

受験まっただなか。いつも思う事ですがどうしてこう「雪が降ったり」「とりたてて寒かったり」しちゃうんでしょうね。

美術大学では10倍20倍の競争率はあたりまえ。わたしが受験した時も20倍の競争率だったと同級生が話してました。ぼくは全然覚えていない。なにを書いたかも覚えていない。

ただ思い出すのが合格発表の時の「合格者一覧表」が高いところに貼ってあった事。人数が少ないので全員「フルネーム」で書いてあった。その時の写真を撮っている人がいてその写真をみながら「この人たちみんな知ってる」と思ったというまったくとぼけた「おち」だけを覚えている。

どんな試験も実質の倍率は「2倍」だという話を聞いた事が有る。そうかもしれない。

会社入っても独立しても「競争」という思いは実はずっとつきまとっている。

「人との差はつけるのではなく、つくもの」と言っている私ですが「つくほど」の差をつけるのは容易では無い。

息子が通う予備校の案内書に笑顔のすてきな女の子が載っていた。「こんな笑顔でしかも優秀じゃまわりはかなわないよね」と思うわたし。そう松坂大輔の笑顔見る度に「器が違う」と感じるのでした。

笑顔が重要なんじゃ無い。笑顔になれる気持ちのありようが大切なんです。






もうすぐサイトが別のサーバーに移ります。

専用のドメインとりました。「michioakita.jp」。

スペシャリストのAくんのサジェッションにしたがってmichioとakitaの間をおかずかつ
「.com」ではなく「.jp」アドレスはわかりやすくそれでいて、オリジナルであってアイ
デンティティーがはっきりしている。というポリシーですね。

デザインメソードも追加します。今回は「一本用ワインセラー」を「分解」します。

「みんなが相互に影響しあっている」という事がテーマかもしれません。





2005.2.7

「かたちの整体師」秋田道夫です。

まがったかたち直します。こったデザインもみほぐします。



けさ事務所に来る時、郵便の集配車とすれちがった。気がつかなかったけれど郵便のシンボルカラーの赤が綺麗になっている事に気がついた。深い赤。郵便ポストの赤にくらべて一層深い赤色だった。そばに止まっていたトヨタのバンも同じような赤だったので、ひょっとしたらトヨタのカラーかもしれない(集配車もトヨタ車)真相はさておいてこういうなにげないところで綺麗になるのはとてもうれしい。

信号機のデザインをしていたときのテーマは「レゴになっても可愛いデザイン」。ミニチュアモデルで作られても意図が伝わってそれでいてキュートであってほしいわけです。



富士通の携帯電話に続いて松下電器からも「着せ替え」携帯電話が出た。

わたしはこれは「プロダクトデザイナーの敗北」ではないかしらと思った。

「みなさんのパーソナリティーが生かせるんですよ」というのが売りなんだろうけれど「純正」のベーシックデザインが「いかしてたら」そんなことは考えないんじゃないかなあ。たまたまカフェで見た「アイディア」の最新刊に携帯にスパンコールや彫刻をかぶせてしまう話が出ていたがこれはもうB&Oであろうがヤコブセンであろうが「自分をかぶせたがる」人はいるわけで論外だとしてデザイナーが判断したもの以外をはじめから認めると言うのはどうも「敗北」に感じてしまう。

視点を変えると携帯電話で重要なのは「内装」というべき操作面なのだが「キーレイアウト」の決定版が出てこない。

大昔「NECの携帯デザインは究極です」みたいなことを書いたように思うけれど、どうも地味なNECデザインに「究極」を感じてもらうのは難しかったようだけれど「公衆電話としての携帯電話のキーレイアウト」としては「これ以上やりようがない」という完成度まで一旦行き着いたという気がしたのです。






2005.2.6

最近、グ−グルに「プロダクトデザイナー」と入力して検索する事が多いのですが、プロ
ダクトデザイナーで名前があがる項目が40あるとすればその30までが深澤君である。そ
のあとを柳さん4票黒川さん川崎さんも喜多さんもそれぞれ1票という感じである。

わたしは一人のデザイナーがここまで圧倒的に支持を集めたのを見た事がない。

「支持が集まる」というところが重要で彼が「自らら名乗って生徒会長」をしているので
なく彼の話が聞いてみたい、デザインの方法を見たい、彼に会を任せたいという思いをさ
せるものがあるからである。

それはすでにデザイナーと言う囲いを通り越して生活を向上させようと言う運動の啓蒙者
である。なによりも彼のデザインするものが「やさしさ」と「わかりやすさ」を兼ね備え
ていてなおかつ「狭い視野」ではなく「広い見識」が背景にあることを感じさせるものが
あるからである。

彼のやさしさは重要なキーワードである。そして彼が提供するのは「行為」であり「しぐ
さ」であって、そのことを企業や社会に押し付ける事が無い。今まであったいろいろなデ
ザイン啓蒙はどこかに「自己肯定」と他者否定のにおいがあってその事をみんなが感じて
いた。

いろいろな企業が依頼するのはそういうデザイン啓蒙に我が社も参画していると言う「時
代認識」の早さを示す為であって決して自分達が今進めている事を180度ひっくり返して
しまう為では無い。

彼を学校の先生に例えれば課題を言う通りに作らなくても「怒られない」やさしさである。

ひるがえって自分を考えるとどれだけ安くてもそのモノが買った人の生活や哲学を問いか
けてしまう。「これを買う事は今までのモノを捨てろと言う事だ」という問いかけがくっ
ついてくる。

端的に言えば「我が家ではわたしのデザインは不評」なのである。生活者たるわたしの「
ずるっとした」生活に似合っていないのである。

それにくらべて彼がデザインしたものはどんなものを買っても「部屋の温度が2度さがる」
ような緊張感を与える事はないだろう。

わたしは先日「先達」たちに「あなたの後継者になります。」と書いたがほんとうの後継
者は幾つになってもその先達達の若き日のライバルを蘇らせてこころが落ち着かない事に
気がついた。

あたらしい時代のデザインを認めると言う事は反面「自分達の時代はあれで良かった」と
いう安心感を与える事に気がついたのは、私にとって「不幸な事」かもしれない。

でもわたしが「やさしい」デザインをすることをだれも望んでいない。遠巻きでも無関心
を装ってもそういう「ほんとうはそういうものをデザインしたい」と思っている体現者で
あり続けなくてはいけないのだと思う。


秋田道夫











2005.2.5

きょうはまったく言葉が不作ですね。

書いては消して消しては書いて。メモと言うタイトルさながらの有り様です。

そういえばmemoはmemoryの略なんでしょうがこのふたつのことばには大きな差が有る。

記録と記憶は日本ではまったくちがうニュアンスですものね。

record とmemory,今の時代メモリーがレコードしているし不思議に錯綜している関係。

記録媒体と記憶媒体。

「謙虚」と「謙遜」が同じ国だものなあ。




2005.2.4

論より証拠デザインし続けるしか無いな、と思います。

ここで「デザイン評論家」しているのも楽しいのですが、つづけさまに立続けに矢継ぎ
早にデザインしたものを世に問うしか無い。とにもかくにも「問いかける先」はユーザ
ーである。ソサエティーでも評論家でも無く、お金を出して買う人によろこんでもらう
ことである。

「太陽の塔」とわたしのデザインになんら「共通点」はないが残り続ける強さは持ちた
いと思うのです。

昨年も「海外の評価」と話をしたが「海外」も案外国内で評価と言うかその記事をつく
るのが日本サイドであったりして中立でも無いシステムが見えても来たが、それを知っ
て尚海外からの評価をたのしみにまつのであります。今年は12月が勝負かな。




2005.2.4

ぼくの予知能力はけっこうすごいなあと思うわけです。

きのう日本のデザイン史というかデザイン事務所の歴史のさわりを書いていたら、今朝
書店にデザインの現場の別冊で「プロダクトデザインの歴史」みたいなものが発売され
ていた。

昨日調べていて気がついたのだが、グッドデザインが設立されて50年の節目が近付いて
いる事だったが考えてみると戦後60年の節目にもあたっていてそちらからの視点で編纂
されたのかと思う。

この本の構成を「分解」すると日本工業デザイナー協会とグッドデザイン振興会の折衷
によって出来ている。

つまり歴史に名を残したものと表面上ほとんど知られないで見過ごされているものが案
配されていて破たんはないのだがすこしずつ「偏向」している。

「なつかしのメロディー」なんて番組が昔からあって自分が知らない歌手と歌が出て来
て親に「あんなうた流行っていたの?」と聞いたら「いやあ知らないなあ」と返事が帰
って来て、子供心に家の親はものを知らないなあ、とがっかりしたものだが、今にして
思えば本当に流行していなかったことがわかる。そういう感じ。

ちょうど「工芸ニュース」という戦前戦後をとおしてデザインを紹介した本(1973年
に廃刊された)の総集編を見ていて「デザイン活動の広がり」という7巻に紹介された
ものと符号が一致した。

「プロダクトデザインの歴史」の最後のページはプラスマイナスゼロでその前は「空想
家電」である。このふたつが「最新の時代」なのかと思い「運動」でないデザイン行為
を認めない風土がいまだに続いている事をため息まじりに再認識したのである。

知る事は大切だ。ただ総論あれたものには「操作」がある。若きデザインを学ぼうと思
っている人には例えばOZONEの資料室、大学の図書館にあるその時代に発行された雑誌
を読み解く「面倒で辛抱強い」勉強をあえてすすめるものです。

2005.2.3

ここのところデザインについて、「口に出して真剣に人に話す」機会が何度かあって自
分の今の有り様は「何に根ざしていたのか」がおぼろげにわかった気がして来たのです。

それは今朝書いた文に出てくるいろいろな先達、そして直接話してくれた尊敬する先輩
達の言葉にしっかり「答えて行きたい」という気持ちがわたしの根底にしっかりあると
いう事なのです。

なんでしょう小学校の夏休み近所のお寺の境内で早朝やっていた「ラジオ体操」へ首か
ら「カード」ぶらさげて通っていた途中で引っ越してしまってそのカードの半分ぐらい
が「白いままで」気持ちが悪いと言うか心残りがあって「ラジオ体操」はもうやってい
ないんだけれど自分ひとりで「赤い丸いスタンプ」作って「今日も早起きしてがんばり
ました」と自分の頭をなぜながら慎重に「また一日」埋まった。という喜びにかりたて
られている。

わたしには先人が実現したくて出来なかった「仮想線」が空気中に走っているのを感じ
る。その一点鎖線を「実線」にするのがわたしの役割だと思っている。

今の時代に表面では「アジャスト」しているが、私のデザインは先人が活躍していた時
代にも通用するものしかデザインしていない。

わたしは先輩達に「時代なんかなにも変わっていないし、あなた方が言っていた事は間
違っていない。安心してぼくに任せて下さい。きっと夢を実現させます。」と言いたい
のだ。

泣けて来た。





地下鉄半蔵門線にのって渋谷に着く前に目の前の広告スペースに川原亜矢子さんがにっ
こり笑う雑誌のポスターに「代々木上原そして代々木公園おしゃれな場所」みたいな特
集がくまれていた。ははは、代々木上原から代々木公園自転車で来ました。日本一おし
ゃれなプロダクトデザイナー。

お洒落ついでに今日はカフェでランチしながらインタビューうけます。実はそのインタ
ビューの前にちょっと「日本のプロダクトデザインの歴史」みたいな話を何人かの人に
お話しよう
と思って昨日下準備をしていたわけです。

1957年グッドデザイン賞が設立しました。なんていうとかっこいいですが種を明かす
とアメリカやヨーロッパから「日本の粗悪で安易な模造品が市場をあらして困る」とい
うクレームがあってその対策として「おこるよりはほめる事」に策を見い出したわけで
す。

トイレに「汚すな!」とはり紙するよりは「いつも綺麗に使ってくれてありがとう」と
書くようなものです。

まるでどこかの話みたいでしョ。中国と日本の関係ですね。人の土地はあらしても自分
の土地を荒らされたらむきになる。

ここは50年前の自分達を顧みて中国にグッドデザイン賞を制定する事に貢献するのが良
いのでは無いでしょうか。(わたしの行った中国はトイレ綺麗でした)

いかんなあ、えらく「建設的」なことを書いてしまった。

ところで「日本のプロダクトデザインの歴史」ですが、そのグッドデザイン賞の設立に
携わったのがGKを率いている栄久庵憲司(キーボードの入力に苦労します)とHDこと
平野デザインを率いている平野拓夫、そしてあまたいらっしゃとのでしょうが他のメン
バーは知りません。

両氏は1929年、1930年と生まれた年も近く東京芸大に学び最初の国費留学生としてア
メリカのアートセンターに学んでいます。

御存じの方もいらっしゃるでしょうがGKとは「グループ小池」の略で当時東京芸大で工
業デザインの教授であった小池岩太郎さんを「囲む会」が成長して出来たものです。そ
こに加わらなかった平野さんの心境やいかに、というところでしょうか。

なんだかわくわくしますね。でも同時にえらく大きい事を書き始めてしまったことに戸
惑いもするわけです。

1957年に設立されたグッドデザインの次に運命をわける大きなイベントが東京オリン
ピックだったわけです。先日も黒川さんとメタボリズムというお話をしましたがそのメ
タボリズム運動に工業デザイナーたる栄久庵憲司も参画していたわけです。外野たるわ
たしの見解では「メタボ」というのは細胞という最小ユニットの集合体たるものが有機
的に展開して最終的には「都市」おも形成してしまおうということなわけです。

そこで細小ユニットのデザインには工業デザインの手が必要だったのかなと考えたわけ
です。

東京オリンピックの基本プランをになったのが丹下健三でありそのグループと言うか影
響下にあったのが東京大学丹下研究室の磯崎新であり黒川紀章だったのですがオリンピ
ックの1964年ではまだ若すぎたのか実際プランに参画したのは栄久庵憲司のひきいる
GKだったのです。

きょうはここまで。




2005.2.2

「気持ちいい事しましょう」と書かれた「お誘いメール」が頻繁に届く。

そういう数有るメールの中から、この誘い文句は説得力有るなあ、とか上手いところ
ついて来たなと思ったメール二通に「文章が上手なので感心しました」と返事を出し
た。ところがその返事が来ない。こういうこと書く下心あるおじさんはいないのかしら。

昨日、今の仕事に参考になるものはないかと2000年に刊行された「Design One」と
いう色んなデザイン賞を受賞した製品を集めた本をみた。

そこにあるいくつかのものはいまでも通用する輝きをもったものもある。もっとも目
立つているのがzibaデザインの仕事だった。

新星のごとく現れてあっというまに世界一流のデザイン事務所になっていったがその
勢いそのままかたちに表現されていた。

ところ最近さっぱり名前を聞かないのでインターネットでオフィシャルサイトに行っ
てみた。もう出てから何年も経つ製品が掲載されていたりしてその落ち込み様は信じ
られない。同様にIDEO、ルナ−デザイン、スマートデザイン、フロッグデザインな
どまったといっていいほど名前を聞かなくなってしまった。

それがなにを意味するのかわからない部分も多いのだが「デザイン」というパートに
あきたらずインターフェースデザイン(GUI)マ−ケッティング、リサーチ(調査)ブ
ランディングとその活動範囲が広がって行ってデザインまでもが「拡散」してしまう。

デザイナーが「賢く」なっていく道すがらで「センス」と「エッセンス」がその手か
らこぼれて行く。

ぼくは広げられない。彼等の活躍を手をこまいて見ていただけだった。日本で台頭し
て来たムーブメントも乗り切れずに立ち尽くすばかりである。ただ道には自分の小さ
な「確信」を落とさずに歩いて来た。

まだまだ自分の出る幕とは思えないけれど「役づくり」にはまちがいはなかったと思
っている。





2005.2.1

「デザインは付加価値では無い。エチケットである。」と最近私は言っているのです。

でもこの言葉には「矛盾」があるわけです。もしみんなが常識としてデザインレベル
が上がって自分のデザインしたものが「埋没」したらわたしは必要とされなくなるわ
けです。どんなにわたしが常識だしエチケットだと言っても「それ以上のデザインが
出来ると思いこそすれ言えてしまうし読む側も「聞くべき言葉」として響くわけです。

今から10年ほど前につきあっていた現在もデザインが良い事で有名な企業の仕事をし
ていたときに担当のデザイナーさんにこう言った事が有ります。「今のわたしのデザ
インは採用されないかもしれない。いやその可能性が高い、それが理解されないが故
にわたしは必要です。もしすんなり理解され採用されるようになれば、逆にわたしが
必要無くなったと言う事ですね。」

自動車保険は「事故を無くす運動」をすすめ、内科医は生活習慣病の予防をすすめ、
歯医者さんは虫歯を無くす事に抽力する。さすがに葬儀屋さんは「死なないでね」と
は言わないけれどみな「生活の糧」である「困った事」を減る事を願っているように
見える。

でも「ゼロ」になったら保険もお医者さんも「困る」わけですよね。つまり「ほどほ
ど」に困って欲しいわけです。案配よく。

デザインの話に戻すと、例えば本にはたいていタイトルとイラストが入っている事が
多いのですがタイトルの文字がかっこいいとイラストが必要無くなり編集者がセンス
よければなにもデザイナーを使わなくてありものの文字を並べてそれですんでしまう
わけです。

なぜそんな事を考えるようになったかと言えば「あるプロジェクト」を進めようと思
っていたのですが、それをデザインしてしまうと「デザインの価値」の根幹に影響を
してしまう恐れも有るような気がして来たからです。いや進めた方がいいのかもしれ
ない。「付加価値では無い」と言う事は「私のデザインは付加価値ですよ」というよ
うなものです。

去年オランダで「デザインがいい」という状況はかならずしも「豊か」とは結びつか
ない事を感じてしまったのでなんとも大きな宿題をかかえた気分です。





2005.1.31

プロダクトデザインを受験するみなさんへ

いよいよ試験のシーズンが始まります。風邪に気をつけて前日はよく休んで下さい。

プロダクトデザインはすばらしい仕事です。みなさんが目標とするに足る仕事です。

デザインをすることは毎日がクリスマスイブのようなものです。友達に恋人になにを
送ろうかどういうものを作ろうか考えそして絵を描き、模型を作るのです。

愛情のこもったデザインをつくる仕事です。なにより自分が嬉しいものがみんなも喜
んでくれるすばらしい仕事です。社会貢献なんておおげさに考えなくても自分の愛す
る人をイメージしてなにが好きでなにがしたいか考えれば良いのです。

ほんとうは試験はどうでもいいのです。道はどこにでもあります。道の見つかる確率
が高いか低いかだけです。どんな道も王道では無いしどんな道も脇道ではありません。
どこまでプレゼントを手に持ち続けれるかです。

50才になってもこういうことが書ける人間が活動をしている素敵で不思議なワンダー
ランドです。






2005.1.30

さっき、そういえばミケーレ・デ・ルッキのデザインしたオリベッティ−のパソコ
ンプリンターに「円筒」をモチーフにしたものがあったことを思い出した。カーサ
ブルータスの別冊だったかに数年前載っていて。

小型プリンターゆえ一つの円筒に集約されていてすごくわかりやすい形状なのだが、
そのプラスティックの成形そのままのかたちはやすっぽくあまりにも安易だった。

ぼくは類似していることはすごく「不愉快」である。紙を扱う以上「ロール紙」を
イメージするの当然の造型だと思っている。そんな「コア」をこういう中途半端な
かたちで「先べん」をつけたかのような行いはたまらない。頂上極める手前50メー
トルぐらいにヘリコプターで乗り付けて「しれーっとした顔」で登頂記念の写真撮
って世界に発表しているようなものだ。

以前にもデ・ルッキを「後継者」に選んだ事がイタリアのデザインのミスジャッジ
と書いたが彼の仕事はあたまでこなしているという気がしてしょうがない。彼のデ
ザインした有名な照明器具を使っているがあれだけが「例外」である。(イタリア
でアルテミデの社長みずからぼやきを聞いた事もはくしゃをかけたのだが)

チッテリオもどうも疑問だしアレッシ−を手掛けるデザイナーも尊敬する気にはな
らない。

ぼくは「本気」で、むかし教わった「イタリアモダンデザイン」をそのイタリアに
お返しする時期が来た事を感じている。わたしを育ててくれたのはバウハウスであ
りイタリアモダンデザインなのだから。

オリベッティ−のサイトを見てみた。そんな製品はすでにどこにもない。そこには
もうオリベッティ−を思わせる製品はなかった。




昨日、最近見なくなっていたNBAの試合を見ていた。レーカーズ対ネッツ戦。

NBAのメンバーの移り変わりはものすごく激しい。バスケットは5人という少数で
展開されるのでメンバーが一人かわるだけで勢力分布ががらりと変わってしまう。
そしてドラフトも「一番弱いチームにもっとも有望な選手」がはいるまったくもっ
て「正しい」制度で出来ていてなおかつドラフトで選ばれた選手がすぐチームをひ
っぱるという事も珍しく無いのである。

数年前であればレーカーズは常勝チームでネッツは「お荷物チーム」だったのが今
年はその形勢は反対になっていた。

以前にたまたま見たNFLの試合が解説者が見て来た数十年でベストという試合だっ
たが昨日の試合も「数年に一度目撃出来るか」というプレーが飛び出した。

今年から「現在の選手で最高のダンク王」と言われるビンス・カーターがネッツに
加わったのだがその彼が最高のプレーをする瞬間を目撃した。

ゴール前を守るレーカーズの三人の選手をくるりと一回転してかわしてそのままバ
スケットに入れたのだった。

あまりのすごさに時間が止まった。レーカーズのホームゲームだったが敵味方関係
なく騒然とした。

歌手の槙原くんにサッカーの高原をちょっと加えたような風貌のビンス・カーター
だが彼の動きはすごくゆったりして見える。まずゴールの5メートル手前ぐらいで、
からだから遠くてドリブルしそしておもむろに動き出す。その動作はフランクシナ
トラや美空ひばりの歌いだしのようだ「わざと」ではないかと思えるぐらいにゆっ
くりとはじまる。そして「ちゃんとわたしを見ていますか?」と確認が終わったら
そこから彼のショータイムがはじまる。

もうこういうのは技術でもセンスでもなんでもなく天賦としかいいようがない。神
様マイケル・ジョーダンですら「練習の賜物」という気配を感じ取っていた私だが
ビンス・カーターはそれをこえた神の子というしかない。


追伸

ネッツは現在負け越しの地区4位、レーカーズは勝ち越しの地区3位
ネッツは故障者続出で力を出していません。


朝の新聞に「星野道夫」さんの奥さんが書かれた本が紹介されていた。

わたしの名前を検索すると「星野道夫公式サイト」というのが出て来てなぜだが「
道夫」つながりでわたしのサイトが掲載されている。前から気になっていたが星野
さんの経歴を見たらわたしより一つうえで慶応高校から慶応大学そしてアラスカ大
学を出てカメラマンと書いてあり私の時代のいわゆる「アメリカ好き」でその夢を
実現させる財力と両親の理解があったのね。というぐらいに思ってそこから先を見
なかったのだが、今から9年前に熊に襲われて死亡していた事を今日はじめて知った。




2005.1.29

ちかくにあるIDEEのカフェに昼食に行く。代々木上原はどんどん原宿や
青山に近くなって来ている。

おいしいサラダとおいしいパスタ、ペペロンチーノ大好き。以前青山のIDEE本店
のカフェで酔った勢いでメニューに無い「ペペロンチーノ」の頼んだら女性の店
員さんは喜んでそのオーダーを受けてくれた。後日聞いたところ彼女はそのコッ
クさんの、ペペロンチーノは「日本一」とまでは言わないけれどそうとう美味し
いので、オーダーを聞いた時嬉しかったそうだ。その話を聞いてからわたしは代
々木上原支店によく行くようになった。

きしめん風のおいしいペペロンチーノを食べた後、向いに有るローソンへ。

買わなくてもなんとなく缶コーヒーの並んでいる冷蔵庫の棚を見る習慣が出来て
しまった。当たり前なんだけれど寒い時にはコーラよりコーヒーの方が飲みたく
なる。そういうわけで頻繁に「新商品」が登場する。ジョージアでは無いけれど
いろんなメーカーがキャンペーンを展開する。今はアサヒのモーニングショット
ががんばっている。そういえばボスのレインボーマウンテンがいまいちぱっとし
なかったなあ。

お茶を飲んだばかりなのでなにも買わずにお店を出ようとしたら、なんと「R25」
が置いてある。渋谷のセンター街のコンビニは金曜日にはすでにすがたを消して
いたがここにはたっぷりある。

なんといってもこのコンビニは事務所に行く道でもっとも「近い」灯台元暗し。

今週のロングインタビューは秋元康。表紙の言葉で笑ってしまった。「自分がや
ったと口にする人は2流」あは、見事にわたし二流です。どこへいっても「ワイ
ンセラーコーヒーメーカー」と呪文やフランスの挨拶みたいに言って回っていま
す。

もうひとつ某AVメーカー社長の人生相談コーナーでの格言

「周りに期待されている役割を理解せよ!自分なんかとりあえず、しまっておけ。」

これはわたしの「最近」のテーマであります。「オリジナリティー」の崩壊解体
を続けてきたけれど当面わたしは「今」を展開する事にきめたのです。




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ぼくらは未来にいる。今のこの2005年は未来である。「2001年宇宙の旅」そし
て大阪の万国博覧会で21世紀はきたるべき未来だった。1953年に生まれたぼく
がカレンダーに「リアル」な数字として認知出来るのは1968年だったり1969年
だたったりして1970年と言う数字からすでにぼくの認識がついていけない。(不
思議な事に昭和と言う年号に対する認識がむかしから弱かった。)

2000年には40代の後半の年になっている「はず」だった。そしてそのとおり40
になり50才になった。ぼくはこの時代を見れている事をいつも嬉しく思い感謝し
ている。

今の子供達に夢が無くなったという人がいるけれどそんなの「あたりまえ」の事
だ。ぼくらの先人達が思っていた夢をしらみつぶしに「実現」させたのだからそ
んなに「夢」は残っていないだろう。

先人が夢を実現出来たのは別段優れているかとは思っていない。それはないとこ
ろから「有る」を作る事でありその目標にアメリカやヨーロッパのすでにあるも
のをまねればいいのだから。

それは10年前の韓国であり、今の中国でありもう少し将来のベトナムだろう。

ぼくたちは彼等に対して「寛容か?」まねっこ日本人に親切に教えてくれたイタ
リア人デザイナーのおじさんみたいに振る舞えているか?

そういう話じゃ無いな。子供の夢の話。

ないのは当然なんだ。モノと言う目指せるものではなく「こころ」というまった
くもってかたちのない「未来」なんだから。

夢なんて人に話せなくても「夢」はありえる。

ぼくの考える未来は「選択肢」というかたち。そべてが一つではないという環境。
(でもね「オンリーワン」という事では無いのですよ)

すべての家がコンクリート打ちっぱなしでも「木造」だけでもないありよう。

CDもLPもあってボーリングもゴルフもある日常。混沌はすてきな「未来」であっ
て未来が綺麗一方で無かった事を喜ばなくてはいけない。





2005.1.28

昨日、タカラの社長であった佐藤慶太氏が退任した。

感のいい人であればそれがなにを意味するのかわかるだろう。

わたしは昨日会っていた人から退任の話を聞いたのだけれど驚いた。退任を驚い
たのではなく先日コラムに書いた事があまりにも早くリアリティーをもった事に
驚いた。

今年はプロダクトデザインの年である。
そしてプロダクトデザインの真価が問われる年である。
今、トレンドと思ってみんなが見ているものの幾つかかのプロジェクトがほころ
びを見せる年になるだろう。でもそれは見る目を成長させ「デザインは付加価値
では無い」事を知る事になるのだ。

雑誌はどう扱うのだろう。もうほんとに心配。また「しかと」するのか。

ぼくがコラムに書いているのは「まのあたり」に今を書きそれを常識的に判断し
ほめる中に軽蔑を無視する中に「嫉妬」が隠されて言う事をたんたんと見せる事
だ。

書いた事が「現実」になったからといって予言じゃない。たんなるものの「道理」
を言っているだけのこと。かっこよくても売れなければ商売はなりたたない。「
かっこいいから売れる」のではなく「買ったものがかっこいい」のが美しい話です。



そのむかしプロダクトデザイナーは名前の出ないお仕事でした。「チームプレー」
が尊ばれる時代にあって「楽して名前が出てしまう」デザイナーだけが露出する
ことは許されなかった。

毎日ID賞で名前が出てその数年後、オーディオ製品のデザインで音響雑誌のイン
タビューで名前が出た私は当時としては異例の事だった。それがゆえに私の前後
世代に対する認知度は思った以上に高かった。GKがデザインしていたヤマハにも
優れたデザインが数しれずあったしテクニクスのデザインをしていたIIDそれから
ラックス、ナカミチなどほんとうにキラ星のごとくあらわれた多くの優れたデザ
インはそれを担当していたデザイナーの名前が出る事はほとんどなかった。

そういう時代に育ったわたしは「名前が出ない」こと、製品が評判になって特定
の人だけがデザイナーの名前を知っている事に納得させられていたというか疑問
をあまり持たなかった。

でも不思議なのは「プロダクトデザイナーにスターがいない」「名前のでる状況
を作るべきだ」という声も同時にあったのである。

わたしは「その時」がくるのをじっと待っていた。インテリアデザイナーや建築
家のデザイナーがいち早くたいした実績がないまま名前がとりざたされていくの
もぐっと我慢して見守っていた。

それが10年ぐらい前に「30代のデザイナー」というくくりでインテリアデザイ
ナーや建築家そしてプロダクトデザイナーが紹介されたのだ。

どこからしらべたのかどういう基準で選んでいるのかわからない人たちに将来が
「託された」のだ。

狼狽した。自分がスポイルされている「状況」が生まれている事に。ちょうどそ
の数年前「デザイナー人名事典」という本からアンケートがあり、その本を「見
た」という電話をいただいてわたしは「流れに乗っている」と安心したのがすっ
かり足下をすくわれた気分になった。

そしてAXISやら「FP」(そういうデザイン誌がありました)やらに載らないと
世間は知らない(それでも多くの人は知らないわけですが他の雑誌の参考にはな
るわけです。)そして私はAXISに取材されるように運動したりした。

わたしの今のデザインをとりまく状況が「いい」とは思っていない。片寄ってい
る。特定のデザイナーに取材が集中しすぎる。

わたしにも「集まっている?」そんなことはないけれどそうなったとしてもそれ
は数十年にわたって「実績」をつみ「飽きられない厚み」を持たせる為に我慢し
た事に対するデザインの神様のごほうびだと思っている。





2005.1.27

ロンダリング

昨日、家に帰ったら「督促状」が来ていた。文面を見たらどこかの情報サイトの
代金がまだおさめられていないので会社とか家に「取り立て代理人」が行くぞ!
とつまりやんわり「恐喝」しているわけである。家人が気がついていて話してい
たのは「港区芝浦」にある会社となっているのに消印が「中野局」になっている
こと。まあ誤解を恐れず「中野ブロードウエイ」によく行く私にとってこういう
「おはがき詐欺」みたいなのはなにか空気にあっている。

ちょうどタイミングよく「ニュースステーション」でまったくこういうITがらみ
の詐欺事件が多発している話をしていてオウムの事件から知られるようになった
有名な弁護士さんが「無視する事」と言っていたのでわたしもそうする。

オレオレ詐欺やこう言った事件また「ニセ札」騒動など、なにかこういう私にと
っては「不得手」で大変だけれどある人たちにはラクチンな詐欺が流行っている。

わたし「督促状」には慣れています。税金で。しょっちゅう「ディレ−」してま
す。一昔前だったらこういうのは「恥じ」な話で信用第一の仕事なので口にすべ
きでないのでしょうがシステムがおぼろげながら判って来るとどうもますます
「喜んで」払う気がしない。

税金のシステムは「おもしろい」んですよ(税務署は面白く無いけれど)。例え
ばわたしがデザインと言う仕事で生計を立てているわけですが、どうも税金のシ
ステム上では「もっと派手な生活をする」という前提でシステムが出来上がって
いるのをよく感じるわけです。「贅沢」とは違うんです。「はで」言葉を変えれ
ば「無駄」が発生するという前提に出来上がっているわけです。効率良く少ない
金額で多くの収入を得ると「ロス」している人の為に「効率分」が持って行かれる。

具体的に言えば、移動する為の手段としてクルマが使われる事が「許されている」
つまりクルマを使った時にかかる費用の一部が経費として認められている。はた
また事務所にかかる経費もそうであるし、さらにいえば人を雇う事は最大の貢献
になるわけです。

そう言う風に出来上がったシステムに照らし合わせると、わたしのようにクルマ
を持たないで自転車で打ち合わせに行って、家の一部で考えて6帖の作業場でぽち
ぽちパソコン打って、そして一人でデザイン作業している事は「反社会的」で「
贅沢」な行いと言う事になる。

なにかすごく理不尽。国土計画が借りなくてもいい巨額な「借金」をして税金対
策していたのを考えるとどうも「無駄のない」ことはいけない事のように思える
のは教育上よろしくない。(はなしは飛ぶけれどそういう会社を組織していた人
がライブドアのモラルや服装をあれこれ言っていたのはなんなんでしょう。まあ
社会的にも制裁された人に追い討ちかけてもいけませんが)

話はもどって「督促状」のこと。わたしは届いた不粋な督促状と税務署から届い
た督促はがきはたまたNHKの回収員の「NHK見てるでしょう」という言葉にあま
り差を感じないわけです。




あんまり辛い話題ばかりは好まないので別の話題。

以前からソニーのクリエ「PEG-TH55」を使っていますが、ついにその実力を発
揮する時が来た。ほんとうにデザインは無骨で不粋でちっとも色気のないデザイ
ンで未だに好きにはなれないのだけれど、そのポテンシャルの高さと値段の「正
当性」からあえて、すでに満足していた別のクリエをもっているにも関わらず購
入したものであります。

最初に魅了されたのは「スケッチ」できるスペースの大きさ、そしてあんまり使
い物にならないけれど一応デジカメが付いている事だったけれど「神秘のベール
」に包まれていた「無線LAN」がついにその真価を発揮する時が来たのだ。

先日、秋葉原に行った時通りから一本入ったところにある「リナックスカフェ」
へ行ってみた。以前からあることは知っていたし普段だったら近くに出来たエク
セルシオールに行くのだけれどなにか「無線LAN」がつながる予感がして行って
みたのだ。

ココア(好きです)買って、すぐ横の席に座って「無線LAN設定の説明書ありま
すか?」と親切そうなお店の女性に聞いたら「これです」と渡された説明書をみ
ながら設定しようとしたら自働設定であれよあれよというまにすっと立ち上がっ
た。ヤフ−につながった時は正直感動しました。

いやいいなあすごいなあ、しかも速い。ちょっと背面に有るスクロールバーはこ
の場合にも不便なのだが「表示出来ている」だけでもすごい事だ。

メモリースティックを大容量にすれば音楽も動画も楽しめる。みんなこのすごさ
判っているのかな?なにかすごい人物が古い家の奥で生活しているとみんなが思
っていたら実はドアを一枚あけるとゴージャスな生活している。とうぐらいにこ
のデザインは「内容を示していない」。良いデザインしたらかなりヒットするん
じゃないでしょうか。

同じ日ふだん歩かない道を進んだら「PDA専門店」がみつかった。その「整理箱
」にどさっと入れられたPDAケースの中にヒューレット用の革ケースがあって合
いそうだと思ったらTH55にぴったり。とってもラッキーでハッピーなクリエの
日でありましたよ。




2005.1.26

器械には心が有るなと思う事が有る。さっきW8400の事を書いたら今使ってい
るプリンターがへそをまげてしまって、ずっと警告のランプが点滅している。
たっぷりお世話になったプリンター。あの絵もその絵もこのプリンターから生ま
れたものだ。

「心配しなくても買い替えたりしないよと」となぐさめても「ぱくぱく」したま
んま。参りましたマ−フィーの法則につかまってしまった。「急いでいる時にか
ぎって何かが起きる。」

急きょ、自宅に有る小型のプリンターを取りに帰る。

プリンターを積んで普段とは違う「平たんな道」を行くと小田急線の代々木八幡
の踏み切りにぶつかる。電車が行ったばかりなのに同じ新宿行きの方向ランプが
点滅したまま踏み切りが開かない。そう思って普段より間の開いたころ合いで
「すごい電車」がやってきた。

先日電車の車内吊りで見た「新型ロマンスカー」だった。やたら「かっこいい」
このやたらという表現は「かっこいいかな」という奥ゆかしさで無く、あからさ
まに「かっこいいでしょ」と自分から表明している「かっこよさ」の事。

たしかに「かっこいい」です。でもね、先頭車両の正面やや斜前に力点がはいり
すぎていて「そのつぎ」の面にあまりつながっていないのであります。でも上等。

考えてみれば人間が普段見れるプロダクトデザインとしてはもっとも「大きい」
ものが車両のデザインである事に今日気がついた。

べつだん「電車フェチ」ではないのだけれど、小田急にあたらしいロマンスカー
が導入される度に箱根や沼津に出かけていた。

ロマンスカーは「ロマンスかー!」という感じかな。

新型ロマンスカーをみながら「リニアモーターカーが目の前を走ってる」という
はしゃいだ電話の向こうの声を同時に思い出した。

もうすぐ愛知万博がはじまる。ちょうど微妙な日程で大学の卒業制作講評会があ
る。万博の初日の三日前かな。おしいなあ。





一昨日、「もうすぐ新しい製品が出ますよ」と予告したら不思議な事に書いたそ
の日に新製品が発表されていた事を今日知った。まったくどういうテレパシーか
ぴったしてある。

それはキャノンの大型プリンターImageGRAFW8400
http://cweb.canon.jp/imageprograf/lineup/w8400/index.html

キャノンのデザイナーの方との共同デザインで、コンセプトを出してそれをうま
くまとめていただいた。

送り出しと巻き取られる紙ロールの形状をそのまま外観に表現した。一本用のワ
インセラーを2本並べたようなかたちだが、この機械が「なにをするものか」端
的にわかるように「セマンティック」したわけです。

「ソニーがソニーをまねしている」と批評したわたしが「秋田が秋田をまねした」
という声も聞こえて来そうだけれどこれは強引では無く「そういうかたちが見え
た」のである。

六本木ヒルズのゲートを見ながら同行した人に「デバイスのトースター似てるで
しょ」と話しする事があります。その逆にトースターをみながらゲートとの関連
を言う事もあります。

こういうシンプルかつ基本形を使う事を専売特許とは思っていない。それはバウ
ハウス・イタリアモダンがずっと続けていた視点であり「よけいなこと」をしな
くてもいいデザインはできるんですよと言うささやかな「講義」のように思って
いる。

かつてインフォバーの形状について、五十嵐威暢さんの置電話がそのもとである
と書いたがその五十嵐さんもまたスーパースタジオの「スーパーグリッド」がイ
メージベースでありそのスーパースタジオも「方眼紙」がイメージのもとである。

それを知っても尚、インフォバーはデザイナーのオリジナルであると思っている。
それに彼は充分過去のいきさつも知ったうえであえてそれを選んでいると思って
いる。

わたしはそういう「引用」はもっとすべきではないかと思っている。50パーセン
トインフォバーが出てもいいし「折り畳みのインフォバー」が出てもかまわない。
オリジナルと言ってへんてこりんな形状が出るよりはまっしである。

そう簡単に、6ヶ月もしたら姿を消すかもしれない携帯電話のデザインに「オリジ
ナル」はありえない。

プロダクトデザイナーは、目的を満たす形状をもっと源流に遡ってイメージをふく
らませようという事である。卑近なコピーで無く「哲学有る引用」をしてほしい。





2005.1.25

今日、突然運命の出会いがある予感がした。




2005.1.25

所為、現代美術は行為の発見である。その発見した行為と行動を記録する事である。

戦後、あらわれたアクションペインティングはその最初にして最も過激にその行為を
「定着」させた。第一人者ともいうべきジャクソン・ポロックの「床」はそのままア
ートである。というか作品と同じ行為の「切れ端」たるパッチワークであり何年にも
わたって積層された行為の痕跡であり処女作と遺作が同居しているわけである。

しかしながら見のがしてはいけないのは「肌合い(マチエール)」というものがそこ
には厳然と存在していてその厚み感やシミの具合等本来であれば現代美術とは関係が
無いであろう「価値観」がそこに存在するのである。たしかにそこに「人」が存在し
たと言う手ごたえを実物を見て確認する行為がどうしても見る側に残ってしまう。

それはレオナルド・ダ・ビンチが「筆跡」を消そうとした行為とは反対のものである。
ダ・ビンチはひょっとしたら写真が発明されていたらモナリザは「写真」でも良かっ
たのかもしれない。

フェルメールが巨大なテレスコープの箱に入って「トレース(写し取り)」をしてい
た事は有名だが彼もまた「行為しない行為」を目指していたのかもしれない。

強引だがダ・ビンチもフェルメールも「デザイナー」を目指していたのかもしれない。
そしてもっとも行為の先端に位置すると思われるジャクソン・ポロックが案外「デザ
イン的ではない」というなんとも不思議な結論が導きだされるのだ。

いつもそうなのだがわたしは書き出した時にこういう「結論」が導き出されるとは思っ
て書き出しているわけでは無い。事務所にくる道すがら「現代美術は行為のレイア−で
ある」と言ったキャッチ−なワンフレーズだけ用意してパソコンに向かって書きはじめ
る。時には結論にする場合もあるのだが、今日の場合、昨日エスクアイアの広告欄に出
ていた「LUCA」という本の表紙になるだろうジャクソン・ポロックの「床」の写真が
キーワードになりリー・ウーハンの雫の絵が浮かびそしてオランダの美術館で見たフェ
ルメールの絵が浮かびどんどん文の流れが変わってくる。

わたしはGOLIVE5.0のhtmlに直接書いている。以前はワードで書いたものをペースト
していたりしたが「秋田道夫のかたち」で始めた時のように「生書き」に戻って来た。

だから今このページに行き着いた人は私が数行書き進めては「保存」する行為をまのあ
たりに見ている事になる。「アクションペインティング」ならぬ「アクションライティ
ング」の様なものだ。

わたしは今日の話を、デザインもその「行為」を定着出来ないものかという話に結び付
けるつもりだった。ましてや「プロダクトデザイン」の世界で「行為」や「プロセス」
によって成立させると言う荒唐無稽な話は刺激的だと思ったのだがそれは難しいと書き
ながら飛行思考した結果が今日の文である。





2005.1.24

我がこころの中のジョージア

今日打ち合わせに行った会社のロビーにジョージアの自動販売機が設置されていた。
どうもこういう社内設置の販売機の方が手厚くメンテナンスしているようで街では見
かけない「第二回目の抽選結果」を知らせるステッカーが貼られていた。

一回目が3000台と少し二回目が5500台程でまだ9000台しか世間に流通(とは言わ
ないなあ)していない事になる。一万台というのは決して少ない台数では無いけれど
キャンペーンの規模からすればそう多い数では無い。申し込みの数が少なかったと思
う人がいるかと思うので補足すると当選した番号がB組みで60とか70とかを書くひと
が少ないようでもし応募数の多い(やはり若い番号を普通予想しますものね)番号に
当たれば当選者数はとたんにどかんと増えるそうである。

11月1日キャンペーンの応募開始に合わせて雑誌にもいろいろ掲載されて東京ウオー
カーの発売日にはくだんのI君と打ち上げと言うかキックオフと言うか「全国区」に出
たお祝を男同士でしんみりとしたものだ。

全然わたし自身は変わらなかった。昔から雑誌に出る度に「もうこれでぼくらの手に
届かない人になるんですね。」と昔からの若いお友達は言ってくれるのだが(学生か
らの知り合いはけっしてそういう事は言ったりしませんが)

結果から言えばなにも変わった為しがない。手が届かないどころか背中までお腹まで
しっかり触れるままである。

でもね、人の視線は感じるようになりました。それも男性の。こないだも向こうから
来るちょっと業界っぽいおじさんがしっかり見てました。「あいつどっかで見たんだ
よな」的な視線。カフェで若いアベックがこっちみながらひそひそしてたりします。
「ねえ、あの人こないの本に載ってたぺけぺけじゃない?」「そうかなあ。」「そう
だって、ね」といった感じ。

まあね。そういうの嫌いじゃ無いです。大好き!

もうすぐジョージアのキャンペーンが終わります。そうこうする間に別の新作が立続け
に出ますのでお楽しみに。





今日発売の、エスクアイアを買って事務所についた。

わたしがちょっとコメントした記事が載っています。「誘惑するクルマ」。あんま
りこういうところで載ってますと言うのは「下品」な話ですが「わたしがやりまし
た話しました感」がないのであえて紹介させてもらいます。

記事の内容はともかく文章を書かれた小川フミオさんにお会い出来た事がわたしに
とって非常にうれしい出来事だった。

小川さんは「言葉のデザイナー」だ。

以前、自動車雑誌NAVIの編集長をされていて海外のクルマを紹介するムックの翻訳
もされている。静かにして熱い人だ。吟味された言葉の中に「なにかを思っている」
感じのする人で「和音」というか「複数の音」が言葉に隠されているようだ。

「仮説の人」秋田道夫が論拠も証左も無く「感じている」事を話すとそれが「言葉の
模型」として眼前に明らかなかたちになってお互いの間の空間に出現するのだ。

まったく最初にテレビゲームをさわった子供のごとく「面白くてしょうがない」。

ふたりして「最も好きなクルマ」がランチャストラトス。というのが嬉しかった。

同じ雑誌にわたしの近所に居を構えている指揮者の方も載る予定だったが記事が無く
てそれはちょっと残念だった。音楽家とプロダクトデザイナーのコントラストを私自
身も楽しみたかった。

かわりに代官山に有る「SIGN」というカフェの存在を知った。さっそく行ってみよう。



昨日、コラムで触れた六本木ヒルズの森美術館で開催中の「アーキラボ」展を粉雪の
舞う中見て来た。

感想を言えば「照明が暗くて展示がよく見えなかった。」老眼になった私にはこの照
度はかなり辛い。いいの悪いのを言う前にその気が無くなってしまう。

2000年だったに東京都立近代美術館で開催された「20世紀の建築」展が私にとって
最高の建築の展示会だった。もちろん展示内容も良かったが照明というか「空気」と
いうのもその印象をあげるに役に立っていたと思う。もちろん暗いセクションもあっ
たがまったくオープンな外の光が満ちているセクションも有りそれが印象に残ってい
るのかもしれない。

森美術館は53階という高層にあるにもかかわらず「穴蔵」のように感じてしまう。

前置きが長くなったのですが、展示会の内容ですが、すでに話したように「環境」の
力が大きすぎてあまり印象に残っていない。NHKの日曜美術館の紹介とエピソードが
素晴らしすぎて「本家」のほうがぼやけてしまった。

もうひとつセレクトが「片寄っている」。30年間にわたる「建築ウオッチャ−」を自
負するわたしから見ても「凝り過ぎ」である。そりゃだれも知らないだろうし本当に
「影響」があったのかはなはだ疑問だ。

「そういう知らなくてすごい人がいた事を教えてくれてありがとう」という感謝の気
持ちがすなおに出てこない。

ただ1970年頃からの内容はすばらしい。アーキグラムからはじまりアーキズーム、ス
ーパースタジオにつながるあたりの模型屋スケッチは当時雑誌で目にしていたものが
眼前にあってちょっと感激だし現在でも通用するパワーを感じる。

とくに「よく取り上げてくれた」と思ったのがアメリカの建築グループ「SITE」がデ
ザインした「BEST」というスーパーマーケットへの一連のシリーズである。

今ではほとんど触れられる事のない仕事だが、最初に見た時の衝撃は忘れられない。

ザハ・ハディドのスケッチも良かった。

日本の最近の建築家の仕事もなぜ彼なのか判らない事も多かった。

とはいえ収穫はあった。若き日の槙文彦の模型だ。メダボリスムという「わさわさ」し
た運動の中にあって冷静に思考していたのが感じられる。模倣では無くそしゃくを感じ
させる。それはその後の「ポストモダン」の運動の中でもそうだった。アカデミックな
教養と造型力の中から自分にあったものを確実に釣り上げるセンスを感じる。

そう「メダボリスム」のコーナーで上映していたモニターの中の黒川紀章は今も元気そ
うである。これならば当分わたしも本気で彼を批評しても大丈夫そうだ。





2005.1.23

今年はプロダクトデザインの年である。

そしてプロダクトデザインの真価が問われる年である。

今、トレンドと思ってみんなが見ているものの幾つかかのプロジェクトがほころび
を見せる年になるだろう。でもそれは見る目を成長させ「デザインは付加価値では
無い」事を知る事になるのだ。

デザインが良いと言う事は「エチケット」であり「サービス」である。施すことで
も自分の優位性を示す事でも無い、つとめである。デザインのレベルが意識として
低いジャンルのレベルアップをはかり「共にいいものをつくることの幸せ」を喚起
しなくてはいけない。

プロダクトデザインはまた「アノニマス(無名性)」に向かっている。それはデザ
イナーが知られていなくて良いと言う事で無く「有名」であることが良いデザイン
につながらない事を再認識する意味において必要な「目隠しテスト」である。その
テストを経て尚生き残る名前、知りたくなる人物のみが「名の有る人」である。

くり返します。今年は淘汰の年です。今が何なのかなぜそれがもてはやされたか。
トレンドウオッチャ−、デザインキュレータ−を自負している人たちは1998年か
ら2005年を総括する準備をはじめて欲しい。






人生は生きている限りのネバーエンディングストーリーと書いたけれどまったく
そのことを実感するこの3日。

今日も黒川さんであり「中銀カプセルタワービル」なのだ。朝「日曜美術館」を
見ていたら今六本木ヒルズの森美術館で「アーキラボ」展が開かれていて、戦後
の実験建築の回顧展なのだが日本の代表としてまたまた「中銀カプセルタワービ
ル」が取り上げられていた。

ほんとうに恐ろしい程の偶然。興味深かったのは「玄関が無い」事「狭い」事な
どはじめて見た人の感想が美術デザインに興味があろうが無かろうか発せられる
感想がほとんど同じと言う事。

それに対して「受けて側」の言い訳が「完全な住宅としてではなく郊外で働いて
いるビジネスマンがセカンドハウスとしてこの便利きわまりない地域的有利をう
まく生かして使っている」という論理。そこでわたしが大好きな「カプセルホテ
ル」の登場。カプセルホテルは既存の建築の中にメタボリズムの「理想」を差し
込んだものだ。先日もソニータワーの事を「巨大なプロダクトデザイン」と表現
したが、中銀も同じである。「風雪」や太陽光そして紫外線から保護されるため
巨大なドームの中に建築されればそれは今でも美しく「プロダクト」として保存
されたかもしれない。

多くのプロダクト製品は「雨風」に弱い。そして雨風に強いプロダクトデザイン
は「無骨」である。わたしはこの話はこういう展開にするつもりはなかった。

展示会にある「アーキグラム」や「スーパースタジオ」といった建築運動がいか
に日本の建築のデザインやプロダクトデザインに「引用」されたかという話をす
るつもりだった。

しかしながら「ソニータワー」や「中銀カプセルタワービル」がプロダクトデザ
インと気がついた今もっと重要なキーワードが建築とプロダクトデザイン、「野
外デザイン」「室内デザイン」そしてクルマのデザイン、オーディオのデザイン
の関係とありようを解きあかす重要な「レイヤー」をみつけたような気がするの
である。




2002.1.22

話の流れというのは恐ろしい。今朝情報バラエティー番組を見ていたら「銀座の格安
物件」というコーナーに「中銀カプセルタワービル」が登場したのである。およそ
4.5畳63000円。

http://www.mediawars.ne.jp/~m921320/a_map/map_of_tokyo_03.htm

わたしは昨日の「ソニータワー」の話にあえて「中銀」のことは触れなかった。汐留
めの新しい高層ビル群がとなりに出来てあまりにも「みすぼらしい」姿をさらしてい
る。高層ビルができるまでは実は簡単に近付かない場所だった。新橋からは遠くに見
えて新幹線から「ああまだ元気で建っているなあ」と思っていた。「中銀」という1
970年代を代表するスターは銀座からの「視線」だけ気をつければ良かったのである
。右からの「視線」には自信があった。

ところが状況はここ三年で急速に変わった。人の導線がかわって建物のすぐそばを多
くの人が往来するようになった。無惨である。丸窓には紙でかくされそのうしろにス
クラップが積み重ねられているのがわかったり主人を失ってたたずんでいる部屋もあ
る。

この近くには1970年代のもう一人のスターが住んでいる。新幹線の線路ぎわリクル
ートビルの向かえに位置する狭い三角コーナーに建っている「静岡新聞東京支社」ビ
ルである。こちらはオーナーが安定してなおかつ「人に見られ慣れている」ためいつ
までもかくしゃくとしている。床にべったりと手をついてからだの若さを強調してい
た鈴木前都知事のようである。(丹下さんと鈴木さんが親戚にあたることは御存じだ
ろうか)この二つのビルの「その後」はあまりにコントラストがありすぎる。

築30年と言うのは鉄筋としてはまだ「壮年期」だと思うのだが。

銀座と言えば4丁目の交差点から築地に向かって左にある白井晟一の建てた親和銀行
東京支店は今や廃虚になっている。松涛美術館のように「水をはったかのような静寂
感と神秘性が持ち味だったのが嘘のように「乾燥」している。

建物は「人」ではない。別にどうなってもそれはしょうがない事だろう。しかしなが
らその当時の「賞賛」はいったいなんだったのか。

ビルは建築家に反乱しない。反乱の鉾先は利用する人、住む人に向かう。それはプロ
ダクトデザイナーも同様だ。どんなデザインをしても「売れない」「世間の無視」と
いう「鈍感な人」にはなんの痛くもない話だ。別のジャンルそして日本がだめなら海
外に行けば良い。という逃げがある。仕事があれば「評価」されていると思いこめる。

ほんの二年前売り出された、あるステーナリ−シリーズがその会社のホームページの
どこにもない事に今日気がついた。

それを最初に目にしたのが有楽町ソニータワーから少し歩いたところにある当時でき
たてのソフマップだった。





2005.1.21

このあいだ、間違えて自分のホームページのアドレスをグ−グルの検索欄に入れてし
まった。入れたついでにボタンをクリックしたら不思議な事にわたしの名前をインプ
ットした時と同じ件数が表示された。

これはどうゆうことなのかな?わたしの名前でなく「ホームページ」が一人歩きして
いることかな。その先には「言葉」だけがひとり歩きしているという事実があるのなか。

あるサイトで本人が忘れちゃっていた言葉が書いてある。それも旅行の欄に。

「わたしはパリを愛してはいない。恋してもいない。ただ魅力的なだけだ。」

うまいこと言うなあ。感心。

もうわたしの手元にはこの言葉をはじめほとんどの言葉は残っていない。みんな捨て
てしまった。ひとつの言葉に答える為にすべての言葉を両替えしてしまった。

検索にかかるほとんどの項目が2チャンネルであってそのほとんどが携帯電話にまつ
わる話題である。

ピカソが今生きていたら「デザイナー」になっていて「携帯電話」のデザインをして
いたかもしれないなあ。と想像する。

ジャコメッティーはどんな携帯をデザインするんだろう。ミース・ファン・デル・ロ
ーエはどんなかたちになるんだろう。

そういえばソニーの回転式携帯S505iはそんなに傑作か?という書き込みがあった。
今考えてもやっぱり良く出来ているという気持ちは変わらない。そしてその企画者が
わたしが会社にいる時オーディオの企画をしていた人物であることが最近わかった。

2003年10月22日に「いいこと」を書いていたらしい。だれか教えて。




ソニーが売り上げの下方修正というニュース。不思議なのは昨日家に戻ったらソニー
の広報誌が届いていた。その中でもっとも関心をひいたのが大阪のソニータワーが閉
鎖されたというニュース。機能は大阪駅前に出来たあたらしい商業ビルに移管される。

1976年4月に心斎橋に建てられたこのビルのデザインはわたしは「大好き」だった。
良い建築と言った「つきはなした」表現ではなくてエモーショナルに「一目惚れ」な
感情。「かっこいい」の一言につきる。

黒川紀章という人に「造型力」というものをあんまり感じない私ですが、このソニー
タワーだけはもう手放しにすばらしいと行く度に見る度に思うのです。

これは「建築」ではなくて「巨大なプロダクトデザイン」のようです。悪くいえば「
中身」の事はおいておいて外観至上主義です。でも不思議なのは「建築は機械」とい
ったコルビジェも黒川さんも「機能主義である」と言い張るのですが階段室やトイレ
に人一倍気を使った結果狭い敷地に建っている分展示スペースが狭くなっているわけ
です。

名作は不便である事によって生まれる。というキーワードにまた行き着くわけです。

でも今話した事は「真実」ではあっても「大好きだ」という気持ちには変わりがない。

「一目惚れ」した人に逢って話していると喧嘩になってしまうのに別れたとたんにま
た逢いたくなるような感情です。じんわり。

名作は何度見ても初めてみたような「うぶ」な感情をかりたてる。

広報誌のやや茶色くなった竣工当時の写真にあっても、今建築雑誌に載ってもおかし
くないような衝撃力を持っている。頼むから「オリジナル」なアイディアであって欲
しい。(ジェームススターリングのロイド生命保険ビルには似てないよな)

今朝、以前にブックマークした建築関係のサイトに安藤さんが設計した前田建設の大
阪支店の新社屋の竣工した事を知った。手元に資料がないのでさだかではないのだけ
れど安藤さんが一流に駆け上がる時につきあっていた施工工務店の次に大型の「ライ
カビル」とかの工事を手掛けられたのが前田建設ではなかったかと思ったわけです。

そうだとすればあの「宝石」のようなコンクリート打ちっぱなしの仕上げとともに会
社も大きくなったのかと勝手に頭の中で「ネバーエンディングストーリー」を組み立
てていたわけです。




2005.1.20

ライブスタイルデザイン

Macのminiのことを考えていたら、ひょっとしたら「事務所」がいらない時代
がほんとうに来たのではないかと「仮説と先走り」の私は思ってしまったわけです。

Macのminiを背中にしょって自転車で「マンガ喫茶(ちょっとちがうなあイン
ターネットカフェ)」へ朝からいそいそ出かける(なんといっても24時間営業)

そこで使われているDELL(が多いのです)の本体からキーボードとモニターの線を
はずしてminiにつないで手持ちの「マイマウス」で操作する。そこで3時間ばかり
お仕事して打ち合わせが入れば近くのカフェでミーティング。

いいかな、そうでもないかな。

確か、PowerBook買う前に「買ったら代々木公園のベンチでお弁当持って仕事しよ
うかな」なんて言ってたのに一度も「仕事した事」がない。

Macminiライフは夢かな。でも一度してみたいと思っていた液晶モニターと据え
置きのマシンを持ってオークラホテルで仕事をするというのはminiであれば一歩実
現の可能性が出て来たな。

こういうの考えるのは楽しいなあ。





2005.1.19

キーワード

名作は不便である事によって生まれる。のかなあ。
原宿の裏、つまり裏原宿にあるインテリアショップの階段を上がりながら思っ
たわけです。世界的著明女流(へんなことば)建築家の手になるそのお店の階
段は「上がりにくい」日本人としては「ちょっと長め」の脚を持つわたしも行
く度に上がる度に「踏み外しそう」になる。考え事をしながらは上がれない。
その白くて段差を感じにくい「2001年宇宙の旅」なその空間は人を慎重にす
る。

3階建てのフロアーの右端から左端そしてまた右端に移動して左端に動くよう
に設計されていて、ようするに階段を上がろうとするとそのフロアーを全部眺
めるように考えられている。プランの「主旨」は良くわかっている、その犠牲
になっているのが「階段のステップの幅」という「だけ」の事である。これは
「床」から発想されていて、たまたま「高さ」が程よく無かったという事であ
る。

名作は「目」でうまれる。ということだ。決して「体感」が「名作」を生むわ
けでは無い。(なにか人間にもあてはまる話ですが)。

タルビーやインフォバーのテンキーではメールが打ちにくいという話を聞いた。
携帯電話を買う時に「実体験リポート」によって購入を決める人はほとんどい
ないでしょう。その使い勝手を教えてくれた方に「あれは比較的安く購入でき
るアートです。細かい事はなしで鑑賞するものでは無いでしょうか」といった
内容の返信をしました。
タルビーとインフォバーは何十万枚と印刷された「リトグラフ」だと思ってい
ます。(画面だけれどサインも入ってるし)多くのインハウスデザイナーは
「あんな課題違反が許されるならわたしにも出来る、絵も描いた」という人が
大勢いると思いますが「丸描いてちょん」という絵程「描いた人」によって価
値は決まるものでありそういった意味では、デザイナー本人が「役割」を良く
こころえていたと言うべきでしょう。

デイリースタイルのインタビューでも話していますがタルビーやインフォバー
は「携帯電話はこれでいいのだ」という警鐘や皮肉がデザイナーの意図にこめ
られていることをユーザーは感じなくてはいけない。それはユーザーへと言う
より携帯のデザインに携わるデザイナーに発せられている事を感じなくてはい
けない。(インフォバーの人気に反対的なコメントを発したあるキャリアーの
企画者の、その受信力というか感受性を私は疑ったわけです。)

今、マイクとスピーカーの性能は格段に進歩して「黒くて長い棒(白くてもい
いですが)」の両端に針の穴がちょこんとついていれば充分その役割をはたせ
るところに来ています。ソニーの超小型携帯のように耳にさえ本体がくっつけ
ば話を出来るわけですから。

あとは「デザインしにくい」テンキーをどう配するか。その一点につきます。
ミューテックをデザインした岩崎君が携帯では「すぱーっとした」キーデザイ
ンがしない(できない)のは私は良く判るのです「シスコン(システムコント
ロールキー、携帯の場合だとテンキーをさします)」の大切さを企業での経験
で身にしみているので「割り切る」「課題違反」出来ない感情のリミッターが
働くのだと思います。

早い話が二つの携帯電話がテレビの「リモコン」だとしたらみんなはどう思う
かという事です。どうしても「使う頻度」によってキーのサイズをかえたりし
たくなりますし重要度によって「文字の色やサイズ」を変えたくなるのが人情
です。インテンショナリーの別売「リモコン」は「デザインできるけれど」わ
たしはしない。それは「見る」ものでなく「使うもの」という思考が働くので
出来ないのです。ブリオンベガ(イタリアの電気メーカー)やB&Oでリモコン
の名作はいくつかありますがインテンショナリー「見たい」ではあってもキー
のサイズは全部同じではないと思います。

このふたつのお話から獏然とした使い勝手に対する「モラル」といったものが、
人によってデザイナーによって違う事がわかると思います。「これは生活にお
いては持たなくても言い道具に過ぎない」と思うのと「これによって恋人とす
ぐとなりにいるように思える魔法の杖だ」と思うのではまったくプロダクトデ
ザインに対する取り組みが変わって来ます。

恋人とは直にあって「感触」をたしかめるのが一番で「四角い棒」に人生は託
したくはわたしもありませんが「デザイナーは役者だ」という観点から言えば
どちらかにすぱーっと割り切って演じなくてはなりません。執着したデザイナ
ーの作ったものが「これでいいのよ」とデザインされたものに「おいしいとこ
ろ」を持って行かれるのは「不合理」かもしれませんが「努力」だけが人生で
はないのも真理です。努力は「デザイン以外の事」に使うべきだと言う、書き
はじめの主旨とは違うところに落ち着いたわけです。













2005.1.18

マテリアル

新しい素材を発見できなければ一流のデザイナーにはなれない。
とずーっと思っているのですよ。学生時代から30年も。いやー難しい。だめで
す、わたし。デザイナーの何人かに「秋田さんはかたちに今でもこだわってい
るでしょ?」「若さにこだわっているでしょ?」とか「細部のデザインに人一
倍うるさいでしょ?」とか言われるわけですが、全部当たっていません。
(面白いのはそういう疑問をそのまま問いかけたデザイナーにお返しした方が
「適切な質問」のような気がするのであります。)

わたしはひたすら素材をもとめて彷徨っているのです。その挙げ句、求める事
を全然していないというものぐさで「矛盾」した男です。
そういう「本質」を追求できない自分のふがいなさが「爆発」して今までのデ
ザインが出来上がっているわけであります。

先日考え付いた事。
安藤忠雄さんに「壁」だけ設計を頼めないかなと思ったわけです。まったく
「壁」だけ。たとえば細長い南向きの「土地」があったとしたらその敷地の隣
のお家との境にあたる「側壁」だけお願いして、後は玄関側と庭に面する窓は
「ガラス」で出来ていて必要と予算によって「サッシ」をはめる。そういう
お家。

建築家でないわたしの「暴言」としてお許しいただくとして、わたしは「家は
壁で出来ている、内装は家具で出来ている」と思っているのです。

側壁と天井と床さえできればあとはなんとかします。坂茂さんの「家具ユニッ
トの家」のように二階までもが「セット」になっていればまったく「プロダク
トデザイン」としてデザインが可能だと思っているわけですよ。

なぜ「壁」だけ安藤さんに頼むかと言えば「他の人には出来ない」素材感が安
藤忠雄作の家には感じられるからです。顔が映るのでは無いかとおもえるほど
の表面の平滑さ、そして紙が切れるのではないかと思えるようなシャープなコ
ーナーの仕上げ。それは安藤さんと施工する工務店の人たちの間で築き上げた
「ひとつの新しい素材」の領域に行き着いているからだと思っています。

じゃー全部頼め? そこは微妙なのですよ。どこかわたしの有り様とは折り合
わない。「素材を求めて行き着かない」わたしの有り様と。こんな自分ではあ
りますがこうしたいなあああしたいなという漠たる思いがあるわけです。

壁が「壁」なわたしであるわけです。














2005.1.17

以前このサイト上で一部を紹介しましたデイリースタイルのインタビュー記事が

「dailystyle.net」に全文掲載されましたのでお知らせします。

http://dailystyle.net/interview/




「話すプロダクトデザイナー」はいないものかと思っていたら三原昌平さんの
サイトに行き着きました。
http://www5.ocn.ne.jp/~netjapan/index.html

三原さんは1947年生まれ私より6歳上で姉と同い年なんですね。ベビーブーム
まっただなか。団塊の世代であります。川上元美・黒川雅之・喜多俊之とい
う「コア」な世代からは5年ぐらい年下になりますが、ことさらインハウスの
人が多く名前を残しているフリーランスは私の記憶では三原さんぐらいしか思
い浮かびません。
お会いした事はないのですが、印象に有るのは、25年も前「プロダクトデザイ
ナーになるには」という単行本を古書店で見つけてその中に私の「毎日ID賞」
の作品が載っていて(本人には全然連絡されてませんでした)その後に「現役
プロダクトデザイナー」として三原さんが紹介されていました。
なぜ印象にあるかといえばプロフィール写真のうしろに「ガラスの障子」が写
っていて「あれ、ふつうのアパートだ」と思ったのです。デザイナーは「素敵
な部屋」に居るものだと思い込んでいたのでちょっとがっかりしたのでありま
す。(そんなわけで自分がインタビューで載った写真の後ろにホワイトボード
やださいクーラーよれたブラインドに読者が注目したのは良くわかります。が
っかりさせてごめんね)。

話がそれました。コラムが多く載っているので見てください。わたしは後輩の
デザイナーに「がんばれ」とエールを送る気持ちには、6年経ってもなれないだ
ろうな。と自分の心の狭さをあらためて感じた次第。


今日「CATALOGER(カタロガ−)」という雑誌が発売されました。デザイン雑
貨のムックですが「サイゾ−」という目線の変わった雑誌を作っている出版社な
ので「ふつう」のカタログでは終わらないと思います。一本いりが表紙に出てい
たので買いました。






2005.1.16

デザイン家電に関する記事ですが「機能」があってのデザインという視点に
立脚していて出色の内容です。それにしてもシャープの「ヘルシオ」がグッド
デザインの昨年のグランプリだったという思いが日増しに強くなっております。

http://www.foodrink.co.jp/backnumber/200501/050108.html




姿勢

かなり以前コラムに磯崎さんの言葉をかりて「大文字のプロダクトデザイン」
というお話を書いた事が有ります。
もう一度簡単におさらいすると「ささいな事を手がかりにデザインのヒントを
えるのではなく、どうすることが人々のしあわせにつながるのか高いところか
ら考えるようにしようではないですか」という意味です。

例えば、今から4年程前にあるインテリアショップで開催されたデザインコン
ペがありましたが、そこで受賞したソファーというかベンチがあったのですが
なにが「デザインポイント」だったかといえば1メートル80センチぐらいの座
の部分の片側に「丸い穴」が貫通しているのです。その30センチぐらいの丸い
穴はなにをするかといえば、うつぶせに寝てその時穴を通して床においた雑誌
が読める。というまるで「とほほ」なアイディアが評価されて受賞していたわ
けです。審査のウエートの何分の一かが「アンケートの人気投票」だったので
わたしは審査員もアンケートした人たちもなにを考えているのかよくわからな
かった。
べつの例えをすると、椅子があって「リモコンが良く無くなるからリモコン入
れをひじ当てのところにポケット作りました。」とか、その昔流行った「カウチ
ポテト(ソファーに寝そべってポテトチップを食べながらテレビを見ている様
のことをそう呼んでいました)」の為のソファーを、デザインする時に「ポテト
チップが湿気ない為に乾燥ボックスとコーラを冷やす為の小型冷蔵庫を手すり
にビルトインしました。」(便利ですね確かにワインの栓抜きぐらいのポケット
があるのは有りかもしれません)とデザイナーが誇らし気に「コンセプト」を
説明してもわたしは評価しない。ここに例として書いたぐらいなので自身考え
られるけど「してはいけない」事だと私は思います。

「ライフスタイルデザイン」というのはスマートで矜持を持って生きる様を言
うのであって「ずるずるしている様子」にアジャストすることではない。
自分でもそういう「だらしのない楽ちん」な瞬間もあるけれど「好い事とは思
わないプライド」は必要だと思っています。

「王様のアイディア」というお店があります。何年ぐらい続いているんでしょ
う。私が学生のころからあったように思いますが、さっき例えで出した「ゆる
い生活をもっと便利にしましょう」というのをジョークをまじえて製品化して
いて景品やプレゼントにして「話のねた」になるのがコンセプトかと思います。

この「王様のアイディア」なのか「プロダクトデザイン」かという例えは私の
学生時代から引き合いに出されて「君のこのデザインは王様のアイディアだ
ね」と評価されれば「もうちょっと深く人間を見ようね」と言われたようなも
のである。

「3畳の下宿に住んでいてこたつの中に入ればほとんど生活用品が手が届いて
しまうのですが一息手が長ければ完璧なんでマジックハンドを使うんですけれ
ど、もっとかっこよくデザイン出来ないかと思って軽量化の為、継ぎ手にアル
ミパイプ、滑り止めにゴムを使用しました。」というのは王様のアイディア。

「先日駅のホームで手袋の片方を線路に落として、駅員さんに言ったらそこの
柱にあった箱の中にマジックハンドがあって、線路の下に落ちた手袋を線路に
降りないで取れるのを見て感謝の気持ちともっと軽量に女性でも使いやすいよ
うに改良してみました。」というのはプロダクトデザイン。

売り出されれば「同じデザイン」かもしれません。(業務用は高くなるのでマ
ニアしか買わないでしょうが)でもねそこには「小文字」と「大文字」の違い
があるのです。

いつまでも「3畳」の生活を続けたいのならしょうがないですがそこから抜けた
いしかりそめと思っているのなら「今のかたち」は不便な方がいい。そして抜
け出したいと言う「モチベーション」を高めてほしい。

知り合いに「サーモマグのコーヒーメーカー欲しいんですが今の住んでいる状
態ではちょっと買えないんです。」という人がいます。わたしはそれで良いと
思っています。部屋をかたづけて(場所もこころも)きれいな状態の中にあの
コーヒーメーカーが似合う環境を作りたい、と思って欲しい。まちがっても「
寝そべってもコーヒーこぼさないで飲めるように出来無いですかね」というリ
クエストには答えたく無い(そういいつつもこぼしにくいデザインになってま
すが)。

わたしはプロのデザイナーまでもが「ぬるい生活の利便性」に手をかしている
ように思っているのですよ。学生と同じような6畳のアパートでこういう「び
しっと叱る」ような文を書いているのもなんか不思議ですが。