仙台市電の沿革(概要)

 仙台の市電が開通したのは、大正15年の11月25日。 大正天皇が崩御され、昭和天皇が即位する1ヶ月前のこと。 文字通り昭和史ともに歩んだ仙台市電の歴史について、 ちょこっと解説?。。。です。
黎明期
 仙台市電は、 仙台駅前〜大町一丁目2.1kmと、 東五番町〜荒町1.2kmの2路線で営業を開始しました。 当時の系統図を見ると、仙台駅前〜大町一丁目が南廻り線、 仙台駅前〜荒町が清水小路線となっています。
 車両は、1型電車を10両導入。 運転間隔はラッシュ時が7分、それ以外が13分と、 まぁそれなりのレベルですが、 運転時間の朝6時から夜の11時は、 時代を考えるとかなり立派! という気がします。 しかも、これは冬時間。 これが夏時間になると何と朝5時から夜の12時となり、 にわかには信じられない気がします。 当時の仙台の夜って、そんなに賑やかだったのでしょうか? (朝も早いし…) 
 開業当時の運賃は、 仙台駅前〜南町・南町〜大町一丁目・ 仙台駅前〜荒町の3区間制となっており、 一区間、4銭(早朝割引3銭)でした。

 その後、順調に路線を延ばし、昭和3年には循環線(6.0km)が全線開通。 さらに同じ年に芭蕉の辻線(0.3km)が開通し、 都心部をほぼカバーできるようになりました。
 ちなみに芭蕉の辻とは、中央通り商店街 (マーブルロードおおまち)から西へまっすぐ行った、 国分町との交差点のことです。 今でこそ、日本銀行仙台支店があるだけの何でもない交差点ですが、 藩政時代には、奥州街道(現在の国分町通り)が南北に貫き、 西へ向かうと仙台城(青葉城)大手門へ至るという、 仙台の街造りの基準ともいえる場所でした。
 交差点の四隅には龍の乗った城櫓風の建物があり、 旅行く人々に藩勢を示していたといいますが、 市電が開通した頃にも、そのうち1棟が安田銀行として残っており、 反対側にあったレンガ造りのドイツルネッサンス様式の七十七銀行本店との 対比が、仙台の名所の一つとなっていました。

 さて、仙台市民の期待を担って登場した仙台市電ですが、 折からの不況に加えて、仙台市街自動車(バス)の値下げ、 タクシーの進出などから乗客数が伸び悩み、経営が悪化してきました。
 スピードアップ、運転回数の増加、回数券の値下げ等の対策を実施したものの さしたる効果もなく、抜本的な打開策として路線を郊外へ伸ばすことで 乗客数を増やすこととなり、昭和5年に第二期工事として長町線、北仙台線、 八幡町線、原の町線の特許状を取得しました。

大正15年11月 昭和3年3月 昭和3年4月
拡張期と戦争の時代
 第二期工事として、まず長町線が着工。 もともと荒町までは開通していたので、 そこからの延長という形で工事が進んだのですが、 これがまたびっくりするほど小刻みに延伸しています。 略歴では、単に昭和11年12月に長町線全線開通とありますが、 詳細を見てみると、わずか3.0km伸ばすのに、 昭和8年2月の愛宕橋までの開通から、 都合8回の延伸を繰り返し、ようやく全通しています。
 なんとなく効率が悪いような気がするのですが…  どのような事情によるものか気になるところではあります。 そして、この延伸に合わせ新型の30型電車が逐次投入されています。
 この時期には増収対策として、盆踊大会、菊花大会、さらに 満蒙博覧会、満州事変記念博覧会 (満州事変には仙台の第二師団が深く関わっていました)など、 時代を感じさせるイベントも実施されています。 また、長町線が全通した昭和11年には、 市電の付帯事業として評定河原に動物園が開園。 記念割引切符や連絡乗車券を発売し、多くの市民に利用されました。
 これらの施策に加え、景気が若干上向いたこともあり、 乗客数も増え、市電の営業成績も次第に改善されていきました。

 昭和12年には、国鉄仙山線の全線開通にあわせ、 北仙台線が開通。こちらは、長町線と異なり 距離が1.2kmと短いということと、期限があったためか、 一気に全線開通しています。
 ただし、続いて着工した八幡町線は、やはり細切れ延伸となり、 1.4kmが4回に分けて開通しています。 特にすごい?のは、 八幡町一丁目まで延びた僅か2日後に隣の八幡町二丁目まで延びていたりして、 この辺はやはりよくわかりません。
 ただ、この頃には既に日中戦争が本格化し、 当初15両製造される予定だった 45型電車(単車ながら半流形で、割とカッコイイ)が3両で打ち切りになったり、 ここまで芭蕉の辻線を除いて全線複線で建設されていたのが、 八幡町線は単線となり、 更に次に予定されていた原の町線の工事は休止となるなど、 仙台市電にも次第に“戦争の暗い影”が忍び寄ってきました。

 昭和16年12月の太平洋戦争開戦により、 日本はあらゆる面で国の統制下に入ることとなりました。 ガソリンが統制されたことにより、市街バスの運行に支障が出始め、 その結果、市電の乗客数は増加の一途をたどりますが、 前述のように、新車導入は打ち切りとなったため、 やむなく他事業者から中古車(60型)を購入することで 輸送力の確保を図りましたが、肝心の職員が応召されたり 軍需産業へ転職させられ欠員が多数出るなどし、 運行そのものに支障がでてきました。
 そのため、昭和18年の5月と9月に欠員を募集しましたが、 定員を確保することはできず、 苦肉の策として車掌から転じた女性運転手が登場しました。 昭和19年には芭蕉の辻線が廃止されましたが、 彼女たちの活躍もあり、市電は市民の足としての役割を果たし続けました。 さらにこの時期、営業時間の終了後には、野菜などの食料や 防空壕建設用の木材の輸送業務もこなし、 戦時下の市民生活に大きな役割を果たしたのです。
 しかし、その市電も昭和20年7月10日未明の仙台空襲で 大きな被害を受けることとなります。 その日、仙台を襲ったのはB29戦略爆撃機が123機、 25回に及ぶ波状攻撃により焼夷弾約13,000発を投下、 死者は1,066人を数えるに至りました。 その中、市電は車両にこそ損害は出ませんでしたが、 線路などの施設に被害を受け、一通り復旧したのは終戦後の 8月20日のことでした。

昭和11年12月 昭和12年10月 昭和16年10月 昭和19年3月
戦後期
 長かった戦争の時代がようやく終わりました。 復興にむけ息を吹き返した仙台市電ですが、 昭和20年10月の時点で、保有車両中51両中 稼動しているのは僅か18両、修理可能なものを含めても 25両というありさまで、軌道の状態も最悪、 更に人手不足も続くなど、現実は厳しいものがありました。
 それでも、市民の足を取り戻すための努力が続き、 車両の不足は東京都から購入した中古車(70型)で補いつつ、 さらに休止されていた原の町線の工事も再開され、 昭和21年12月に榴ヶ岡まで開通、昭和23年5月には全線開通。 悲願の二期工事が完了し、市電のネットワークが完成しました。

 また、この年の12月には待望の新車80型(後に100型と改称) が導入されるなど、しだいに活気が戻ってきました。 80型は仙台市電初の2軸ボギー車で、 その大きく近代的な車体とスピードは復興の象徴とも言えました。
 その後、昭和29年に200型、昭和34年に400型と、 大型車両を次々と導入。さらに昭和30年には、 1型2両をくっつけた日本で唯一の木製連接車、 300型なる珍車も登場。輸送力の強化が図られました。
 その後、事故をきっかけに木造車両の淘汰が進められ、 昭和43年までに300型も含む全ての木造車両が姿を消し、 東北一の都会として発展を続ける仙台市にふさわしい、 近代的な路面電車へと変貌していくこととなります。
 しかし、皮肉なことにこの頃から、 市電を取り巻く環境に変化が現れます。 人口のドーナツ化現象と言っていましたが、 都市化が進み次第に暮らしにくくなった都心を離れ、 郊外のニュータウンに移り住む人が増えだしました。 これにより都市部を走る市電の沿線人口が減り始めたのです。
 さらに輪を掛けたのが、全国共通の現象ですが モータリゼーションの到来でした。 急速に増えだした車はたちまち車道にあふれだしました。 一部事業者のように軌道への乗り入れを禁止できなかった事が 仙台市電にとって致命的だったかもしれません (市電が走っていた通りは、都心部の一部以外の区間が 市電の軌道を除くと上下それぞれ1車線分の車道しかなく、 車の交通量を考えると規制はほとんど不可能だったと思われます)。 軌道上を占拠した車に市電は行く手を阻まれ、 定時運行も困難な状況に陥っていき、 公共交通機関としての地位は次第に落ち込んでいくこととなりました。



昭和23年5月
そして終焉
 悪化する軌道事業の業績に、ワンマン化等の施策がとられましたが、 大きな流れを変えることは出来ませんでした。
 その間にも、廃車となる木造単車の代替車が必要となりましたが、 既に新造車両作る余力はなく (結果的に昭和38年の400型第4次増備車が、 仙台市電最後の新車となりました)、 再び他事業者からの中古車でしのいで行くこととなります。
 昭和39年に琴平参宮電鉄から180型が、 翌昭和40年に茨城交通から130型が、 そして昭和43年に呉市交通局から 2000型と3000型がやってきました。 そして、これが仙台市電最後の増備車でした。

 この頃から管理人にもうつろな記憶があるのですが、 その中では市電は相変わらず市内をのんびりと走っていました。 小中学生だったこともあり、朝夕のラッシュなど知る由もなく、 今一つ実感がなかったのですが、 現実の世界では、ついに最初の廃止区間がでます (戦時中に廃止された芭蕉の辻線は除きます)。 昭和44年3月、廃止の議案可決から僅か3ヶ月余りで、 北仙台線が消えることとなりました。
 北仙台線が走っていた東二番丁通りは、 当時人口が急増していた泉市(現仙台市泉区)から中心部へ至る 唯一の通りであったことから、 最初に白羽の矢が立った、と言うことだと思います。

   北仙台線の廃止で余剰となった130型と180型が相次いで姿を消し、 ラッシュ時を除けばほとんどオリジナル車で運転されていた仙台市電ですが、 いよいよその最期の時が近づいてきました。 昭和50年10月、市議会は市電全廃を正式に決定。 廃止日は翌昭和51年3月31日となりました。
 廃止日が近づくと一部の車両に「さよなら」と書かれた装飾が付けられ、 街行く市電の最期の姿を撮影する市民も急増。 ほとんどお祭り状態となっていきました。 最期の3日間は、全区間全電車が無料で開放され (これは他の都市ではあまり例がないのではないでしょうか?)、 乗客には「おなごり乗車券」が配布されました。

 そして昭和51年3月31日、市役所前でお別れのセレモニーが 賑々しく行われ、仙台市電は会場に集まった多くの市民に見送られ 半世紀に及ぶその役目を終えたのでした。



昭和44年3月


昭和51年3月
その後の仙台市電
 廃止後、架線は外され、電停は撤去、 そして軌道はアスファルトで埋められ、 瞬く間に仙台は「路面電車の無い街」へと変貌してしまいました。
 車両も次々と解体されていきましたが、 修復された1型が1両、100型が1両、200型が1両、400型が2両、 仙台市によって保存されることになりました。
 これ以外にも100型5両が遠く長崎へ行き、 第二の人生を歩むことになったのはうれしい出来事でした。 長崎では、仙台(1000代)から昭和50年代に来た電車ということで、 1050型という形式が与えられ、車内にもその由来が掲示されました。 現在(平成16年12月)、5両のうち1両は既に解体されてしまいましたが、 1両が佐賀県の保育園、1両がさらに遠くのシドニーへ渡り路面電車博物館に保存、 そして残る1両は故郷仙台に戻り市内の秋保温泉の入り口に保存されました。 因みに保存された場所は秋保電鉄の秋保温泉駅の跡地です。
 仙台市が保存した5両のうち200型と400型の1両は、 その後、状態が悪く解体されてしまいましたが、 残る3両は地下鉄富沢駅近くの「仙台市電保存館」に安住の地を得て、 市民がいつでも市電に会うことができます。
 
 
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