1

 

 夜は静かにふけていく。

 両親は寝てしまったらしく、階下からは物音一つ聞こえない。

 ぼくは英作文の参考書を開いて、載っている例文を暗誦しようとしていた。部屋の中では、ぼくが英文を読み上げる声と蛍光灯のうなりだけが物音のすべてだった。深夜の静寂は散気の対象を消し去り、いやでもある程度の集中をぼくにもたらす。

 不意に、ぼくの机の上を照らしているスタンドの蛍光灯がまたたき始めた。最初はゆっくりと、だんだんと小刻みに大きくなっていく。

 ガタッ。

 音を立ててスタンドがはね上がった。

 ぼくは、しばらく椅子の上で金縛りにあったかのように、じっとスタンドを見ていた。

 またたきは止まっている。

 もう一度くるか?

 しかし何事もない。ぼくは手をのばしてスタンドにさわってみようと思った。

 そのとたん、机がグラッと揺れた。

 ぼくに机がかすかに持ち上がっているのだ。ぼくは思わず立ち上がった。よく見ると、机は床から二センチくらい持ち上がり、空中でゆらゆらとただよっていた。

 カタッ。

 何かが窓ガラスを叩いた。しかも外側から……。もう一度。カタッ。さらにもう一度。カタッ。あとは際限なく何かが窓を打ち続けた。

 それはまるで、ぼくの部屋の窓めがけて小石の雨が降り注いでいるようだった。ぼくは立ったまま両手で耳を押さえ、目をつむり、歯を食いしばった。やめてくれ。もうたくさんだ!。

 ドシッと大きな音がした。

 ゆっくりと目を開ける。どうやら机が落ちたらしい。音もいつのまにか止んでいた。

 窓の外で何かがちらっと光った。

 それは白銀色のストロボのような光だった。

 次の瞬間には、大きな光が部屋の中にさし込んだ。

 強烈な光は真昼以上の明るさで部屋の中を照らし出した。

 

    2

 

 所長が私の部屋を訪れたのは、五月のある朝だった。

 私は、たまたま前日航空便で届いたばかりの「パラサイコロジー・ジャーナル」を読んでいた。神経症の発症には、無意識的触れ合いによって一人の患者の症状が別の人間に伝播する場合があるのではないか。そんな研究をしている研究者がイギリスにいるという記事が載っていた。

 興味深くその記事を読んでいると、部屋の扉にノックの音がした。

「多田くん、いるかね?」

 所長の声だった。

 私はあわててパラサイコロジー・ジャーナルを机の引き出しに押し込めた。これも学会誌にはちがいないのだが国際超心理学研究会の機関誌なのである。

「はい!」

 私のかんだかい返事返事と同時に、所長は部屋に入ってきた。

「今日から患者を一人診てもらいたいんだ」

 中央精神医療センターの所長は、私の机の前にあるソファにその太った身体を押し込めた。

「急で申しわけないが、君は今あいとるだろう?」

 心理療法の患者を受け持っていないだろうという意味だ。

「はい」

「実はおとといの夜、足立くんから電話があってね。高校生の男の子を一人みてくれないかと言ってきたんだ。神経症の兆候があるらしいんだが、自分からはっきり症状を言わないそうだ。投薬してみたそうだが、まるで効果がないらしい。内科が専門の開業医の手にはあまりそうでね。こっちで分析でも受けてみたらどうか、ということなんだ」

 足立医師は所長の友人で、クリニックを営んでいた。

「どんな症状ですか?」

 症状の程度によっては、精神疾患の可能性も考えられる。もっとも、そう判断できるのならば足立医師は中央精神医療センターに照会してはこなかっただろうが。

「ごく軽いものらしいんだが、幻覚めいたものもあるらしい。何しろ患者が足立くんを信用しとらんらしくてね。君みたいな若い人のほうが、患者も打ち解けやすいんじゃないかと思う」

 私は一瞬黙り込んだ。今までにも幻聴が聞こえると訴えてきた中学生の女の子を受け持ったことがあった。オカルト・マニアのその子は、自分にとりついた霊が語りかけてくると言っていた。実際は学校の教師に対する恋愛感情が原因でそのような症状を起したのだった。

「どうかね、かまんわんだろう?」

 不安が胸をよぎった。

「ええ……大丈夫だと思います」

「じゃ、たのむよ。患者は今日の午後一時に来ることになってる。患者の名前は森川進。君が担当になったことは事務の方に伝えておくからね」

 それだけ言うと、所長は来た時と同じように不意に立ち上がり、太った身体に似合わぬすばやい動作で部屋を出て行った。

 あとに残った私は考え込まざるを得なかった。

 私は正式な精神科医ではない。資格の上からは市井のカウンセラーと変わらない。ただ一つちがう点があるとすれば、わたしが日本ユング研究所の数少ない卒業生の一人だということだ。日本ユング研究所はユング派の治療者や研究者たちの多年の努力によって創設された機関だ。スイスのユング研究所のシステムをモデルとしており、ユング心理学を用いた精神分析家の育成を目的としていた。

 私は中央精神医療センターに勤めて二年目になる。見習いの期間を終えたばかりの私にとって、今度の患者は少々荷が重すぎるような気がした。もちろん日本ユング研究所でも相応の教育は受けた。研究所では、担当教員のの指導を受けながら実際の患者の精神分析を行う指導分析を三百時間近くやった。しかし、そのことを思い出しても不安は払拭できなかった。

「一つの新しい症例は一つの新しい学説に匹敵する」

 ユングの言葉である。私にとって今まで出会った患者たちは、まさに生きた学説だった。おそらくこの先何年この仕事を続けても、余裕を持って精神分析を行うことなどできないだろう。常に全身全霊を傾けていかない限り、心の世界での戦いに敗れてしまうこともなりかねない。その意味では危険な仕事と言えた。

 大きく息を吸うと、気をとりなおした。

 午前中に片づけてしまうべく、昨日までかかっていた事務作業に取りかかった。

 

 近所のラーメン屋でまずい昼食をすませると、ぶらぶらと空の色などを見ながらセンターにもどった。五月初旬の晴れた空にはすでに夏の趣きがあった。

 今年短大を卒業したばかりの女の子が受け付けに腰かけていた。コンパクトの鏡で顔のチェックに余念がなかったが、私の姿を見ると急に「仕事用」の顔つきになった。

「あのー、多田先生。森川さんていう患者さんがいらしてますけど……」

 語尾のない話し方はやけに聞き苦しかった。

 私は反射的に腕時計を見た。十二時三十分。

「一時からだろう?」

「でもー、いらしてるんです。あちらです」

 女の子の示した方は待ち合いコーナーで、ベンチが並んでいた。その隅に、青い地味な服を着た太った中年の女性と、対照的にやせた学生服姿の、眼鏡をかけた少年が並んで腰かけていた。

「受け付けは終わってるの?」

「は、はい」

 女の子の返事を聞くと、私は受け付けを離れて二人のそばに近づいた。

「あの、森川さんでいらっしゃいますか?」

 まず少年が私の方を見て、続いて母親がこっちを向く。

「担当になってます多田ともうします」

 私が名乗ると母親は立ち上がった。息子もそれにひきずられるように、おずおずと腰を上げた。

「はじめまして。森川でございます」

 母親がていねいに頭を下げると、息子もまたそれに従った。

 「こちらへどうぞ」

 私は先に立ってゆっくり歩き出した。

 空気がよどんでいるかのように見える薄暗い廊下を進んで、私は親子を自分の研究室に案内した。

「こちらで少々お待ち下さい」

 二人に応接用のソファをすすめると、まず母親がついで息子が腰を下ろした。

 私は一度自分の机に向かった。机の上には受け付けの女の子が置いていった足立医師からの紹介状があった。それには患者の簡単な身上書が添えてあった。

 森川進。十七歳。公立高校の二年生。きょうだいはなく、両親と三人暮し。父親は商事会社に勤めるサラリーマン。母親は専業主婦。学校での成績は中の上。

 症状に関してはややくわしく書いてあった。

 幻覚が見えるらしい。本人には異常に対する自覚があるところから神経症であろうと思われる。足立医師の所に来るようになったきっかけは、両親がいない間に居間の家具を壊してしまったため。学校も二週間ほど前から休んでいる。両親が話を聞くと、幻覚を訴えたため連れて来た。

 私は机を離れると、二人の向かいに腰を下ろした。

 親子はいずれも無表情だったが、その様子には大きなちがいがあった。母親の方が、婦人としての「すまし顔」であるのに対して、息子は表情だけでなく、身体全体に生気がないと言った方がよかった。影が薄いという表現がぴったりだった。

「幻覚がみえるそうだけど、いつ頃から?」

 私はうつろな少年の眼を見ながらたずねた。無感動を思わせる表情に当惑の様子が見えた。少年が口を開きかけると、母親が見かねたように口を出した。

「ひと月くらい前からなんです」

 その瞬間、少年の眼鏡の奥に不安とも不快ともつかない翳りがよぎった。おそらく母親に対して感じている強い呪縛だろう。家庭内で問題を起す子供たちの大半がそこからの脱出、独立を求めているのだ。

 この母親がいっしょではこの子は口を開かない。私にはそれがはっきりとわかった。

「最近は変なものは見えなくなったらしいんですけど、急に暴れて部屋の中の物を壊すんですよ」

「どんなふうにですか?」

「わたしや主人の見ていない時に限って、茶碗を割ったり、テーブルを叩いたり……。この前なんか金魚鉢をひっくり返したんです」

 母親は息子の症状を訴えるのに懸命だった。そうするのが当然の権利だと言わんばかりに。少年は、そうした母親の言葉に反発を感じている様子もなく無表情のまま光のない瞳を私に向けていた。

「なるほど、わかりました。お母さん、すいませんが待合室の方で待ってていただけませんか。進くんと二人で話したいんで……」

 母親は一瞬目を丸くして私を見た。それは自分の巣を侵され、雛鳥を奪われようとしている親鳥の目だった。

「はい」

 言葉の上では快諾だったが、あきらかに不承不承という態度で母親は立ち上がった。そして息子の方をちらちら見ながら廊下に出て行った。少年は母親が研究室のドアを開けた時に一瞬そちらを見ただけだった。

 二人になると、彼の存在感の希薄さがそうさせるのか、妙に研究室の中の空気が重くのしかかってきた。

「さてと、どんな幻覚が見えるんだい?」

 私は空気の重さを振り払うように少年に話しかけた。

 彼は少し眉をしかめ、考え込んでいた様子だった。

「扉≠ェ……見えるんです」

「扉=H」

 まるで他人の夢をのぞきこんだような印象を受けた。

「どんな扉=H」

「大きな、両開きの、取っ手のついた扉≠ナす」

 進は一言一言、しぼり出すように話していた。

「どういう時に見えるの?」

 進はしばらく眉間にしわをよせて考えていたが、やがてぼそりと言った。

「突然です。まったく突然に」

「見える前後に吐き気がするとか、めまいがするとかいったことは?」

「ありません」

 心身症の兆候はないらしい。

  不意に森川進の視線が、私の背後の壁に移った。その時の彼の目には、今までとはちがって生気が満ち満ちていた。しかし、その表情には畏怖が見て取れた。何かに恐れおののくことが彼に存在感をもたらしているのだった。私のことなどもはや眼中にないように、彼は背後の壁の一点をじっと見つめていた。

 私もうしろの壁に目を走らせた。そこにはいつもと変わらないクリーム色の壁があるだけだった。進の視線は、その薄汚れた壁にじっとそそがれている。

「どうかしたのかい?」

 私は彼の方を見てたずねた。

 進は、はっとしてわれに帰ったようだった。

「い、いえ……何でもありません」

 しぼり出すよな言葉が、ますます途切れがちになった。

「扉≠ェ現われたのかい?」

 少年は私の質問に、困惑したかのようにまた壁を見た。そして口を開けたときだった。

 ドンッ。

 壁が鳴った。

 彼の見つめていた壁が音をたてたのだった。それはまるでこぶしで思いっきり壁を叩いたかのような音だった。思わず私は立ち上がった。壁そのものは何の変わりもなかった。

「何だろう?」

 思わず口をついて出た。

 その壁の向うの部屋は資料室になっていていつもは人がいない。部屋の中に誰か入っているのだろうか?

 少年の瞳は、壁に向かって見開かれたままだった。

「どうしたの?」

 私はもう一度たずねた。

 進は急に険しい表情になって、苦しそうにあえいだ。

「扉≠ェ……見えるんです」

「どこに?」

 案の定、進は私の背後の壁を指さした。私はもう一度クリーム色の壁を見た。壁にはどこにも異常はない。あきらかに幻覚だ。

 ガタン。

 こんどはガラス窓が鳴った。何かが外からぶつかったような大きな音だった。私は思わず窓の方を見た。窓の外にはいつもと変わらぬ住宅地が映っていた。

 私は立ち上がると窓のそばにより、サッシを開けた。外はあいかわらず雲一つない、おだやかな日和だった。子供が野球かサッカーでもしているのかと思ってあたりを見回したが、それらしい人影はなかった。不審に思いながらもどった。

 森川進はふたたびもとの、存在感の薄い生気のない表情になっていた。

「変だね。ガタガタ鳴って……」

 少年は答えなかった。

「扉≠ヘ今みたいに急に見えるんだね?」

「はい」

 彼は小さくうなずいた。

 私は足立医師がこの子を持て余した理由がよくわかった。こちらの問いかけにとおり一遍の受け答えをするだけで、自分から進んで症状を訴えようという気がほとんどないらしい。

「扉≠ヘ、恐ろしくはないのかい?」

 私は少年の反応を見るためにたずねた。

「扉≠サのものは、こわくありません」

「えっ?」

 一瞬、彼が何を言っているのかわからなかった。

「じゃ扉∴ネ外に何かこわいものでも見えるのかい?」

 彼はまた眉をひそめて考え込んでいたが、やがて苦しげに言った。

「見えるんじゃないんです」

 私はますますわからなくなった。

「一体何がこわいんだい?」

 少年はますます苦しげな表情になり、目を伏せてしまった。

 時間がかかるな、と思った。この少年の内面に入り込むには、かなりの時間を要するだろう。長期戦の構えをとる必要がありそうだ。

「いいよ。無理しなくても」

 できるだけやさしく言ったつもりだったが、彼は顔を上げなかった。私は立ち上がって机の方へ行った。机の上から万年筆を取り上げると、立ったままでカルテに今日の記録を簡単に書きつけた。

「次は一人で来られるね。あさっての同じ時間に……」

 そう言いながら私は約束をメモし、万年筆を置いた。

 不意に、置いたはずの万年筆がピーンとはね上がった。それはまるで何かにはじかれたかのような飛び方だった。万年筆は私の足元に落ち、ピータイルの床をカラカラところがって止まった。

 私は凍りついたように床の上の万年筆を見つめた。まるでそれが一個の生物であるかのように思えた。もう動き出さないことを見きわめると、ゆっくりと腰をかがめてそれを拾った。私の手の中にあるのは、いつもの使いなれた万年筆だった。

 ふと視線を感じて、森川進の方を見た。彼はさっきの畏怖の瞳でこっちの方を見ていた。それは恐れ、おののくことで自分の存在を訴えるかのような表情だった。

 万年筆が飛んだことがどうしたと言うのだろう?

 たずねようかと思った時、彼は急にもとの表情にもどってしまった。私は追及をあきらめた。先は長いのだ。

「またあさって会おう」

 少年を母親のもとに連れて行き、今日の分析が終わったことを告げた。そして次回からは一人で来させることを約束させた。

 親子が寄り添って帰るのを見送っているうちに、不意に「ラップ」という言葉が脳裏に浮かんできた。

 

    3

 

 初めて扉≠見たのはいつのことだったろう?

 そう、あれは学校だ。授業中のことだった。

 数学の時間。微分の授業。平均変化率。声高の教師。式とグラフでいっぱいの黒板。むし暑い教室。窓の外の青い空。流れて行く雲。

 ぼくは窓際の席で、時おり外の風景に目をやることができるという特権を持ち合わせていた。

「森川、どこを見てる!」

 そんなぼくを教師は一喝した。

「窓の外に黒板はないぞ」

 そう言って、浅黒い顔の教師は授業にもどった。

 ぼくは窓の外を見るのはやめた。

 そのかわり、教室に目を配ることにした。無論のこと黒板を見ながらノートを取ることも怠らない。

 廊下のそばの机の列。前から二番目の席。そこに中田良子がいる。取りたててかわいいというほどじゃないけれど、よく見ると不思議な魅力を持った子だ。憂いをふくんだ目というのはああいう瞳のことを言うのだろうか? 他の女の子たちにまじって明るくしゃべっている時でも、仕草がどことなく悲しそうなのはなぜだろう? いつ涙が出てきてもおかしくない、そんな澄んだ目をした女の子だった。

 ぼくは彼女が気づかない程度に、その横顔をちらちら見ていた。

 その時、窓の外に何かが来た。

 思わず窓の外に向けたぼくの目に、扉≠ェいきなり飛び込んできた。

 澄んだ青い空。流れている白い雲。それを背景に、こつ然と宙に浮かんだ扉=B

 ぼくは妙に息苦しくなり、不快感に耐え切れず目をそむけた。その時のぼくは、自分でも信じられないほど異常なものを見てしまったにもかかわらず、驚くほど平静だった。

 ぼくは黒板の方だけを見ようと努めた。次に窓の外を見る時には扉≠ェ消えているように。そう思いながら、教師の声に集中しようと耳を傾けた。

 黒板の前では、教師が大げさとも思えるようなグラフを描くのに熱中していた。チョークをキーキー言わせながら、高い筆圧で黒板に向かっていた。

 急に教師の持っていたチョークがパキッと音をたてて折れた。教師は一瞬手を止めたが、折れたチョークを持ち直すと再びグラフと式に熱中し始めた。

 ぼくには、チョークが折れたことが、さっきの扉≠ニ何か関係しているような気がしてならなかった。どうしてかという深い疑問もなく、それは心の底から湧き上がってくる自然な思いだった。

 ゆっくりと窓の外に視線を転ずると、扉≠ヘあった。

 しかも、さっきよりずっと近くに……。

 扉≠ヘ近づいているのか?

 ぼくはその時初めて、鳥肌の立つ思いを味わった。わけのわからないものは、現前としてそこにあっった。

 全身から血の引く思いで、ぼくは必死でこらえていた。本当なら叫び出してしまいたかった。

 不意にぼくは、教室の中から視線を感じていた。中田良子だった。ぼくの方を不安そうなようすで見ていた。

 彼女にも扉≠ェ見えるのか? それとも単にぼくのようすが不自然なのに気づいただけなのか? ぼくは思わず助けを求めるように彼女を見た。

 彼女の深い瞳に驚きの色が浮かんだ。

 ぼくもはっとして窓の方を見た。

 扉≠ヘ消えていた。

 空には雲が流れているだけだった。

 急に疲労感がぼくを襲った。けだるさが体の内側からあふれ出てくるようだった。数学の授業はすでにぼくの意識の中にはなかった。恐怖が疲れをもたらしたのかもしれない。

 それでもぼくは、中田良子がじっとぼくの方を見ているのに気づいていた。

 

 その日以来、扉≠ヘぼくの前に現れるようになった。

 それはまったく突然に、何の前ぶれもなく始まるのだった。

 不思議な現象と、それに伴う恐怖をまき散らしながら扉≠ヘ現われる。そしてまた、突然消える。

 それはまるで、夢がこの世に現われているかのようだった。そう、まさに悪夢というのがぴったりだった。しかも扉≠見始めてから、妙に生々しい夢を見るようになった。ぼくはそれまであまり夢など見ない方だった。

 扉≠始めて見た日の晩も、ぼくはそれまでにない鮮明な夢を見た。

 どろどろした川があった。夜中である。真っ黒な水面を見ながらぼくは立っていた。するといつの間にか、小さな舟に乗って水の上にいた。

 ぼくはこの海――川はいつのまにか海になっていた――を舟で渡らなければならないと思う。重いオールで、どろどろした水を叩きながらぼくは舟をこぐ。一生懸命こぐのだが、舟は全然進まない。やがて水面がゆれ、波が立ち始めた。

 ぼくは内心不安を覚えた。怖い、と思うと同時に海を渡らなければ困るという思いにとらわれた。なんとかオールを操ってバランスをとろうとするが、ゆれはどんどんひどくなった。

 やがて脈打っていた波はうねりとなり、渦を巻き出した。ごうごうと音をたてながら、どす黒い水はいく重にも輪を作り、それを激しく回転させた。ぼくの乗っているちっぽけな舟はあっという間に渦に巻き込まれた。

 木の葉のようにゆれる舟に、ぼくはしっかりとしがみついていた。黒い水は、まるでぼくを引きずり込もうとしているかのようだった。うなる水がぼくの足をつかみ、体が沈み始めた。

 死ぬのか?

 胸のつぶれるような思いがぼくを襲った。ぼくは何とかしようとさらに強く舟にしがみついたが、舟はゆっくりと沈み始め、渦の中に飲み込まれようとしていた。水が肩まで達し、耳もとまできた。

 黒い水が視野をおおった瞬間、思わず叫び声をあげようとした。だがそれは声にならなかった。息がつまる、と思った時、ぼくは急に体が軽くなるのを感じた。目をあけると、ぼくは空を飛んでいた。眼下には雲が浮かび、それを透かして下には緑の草原が見えた。それは、まるで水の底を通り抜けて地下の世界に来たようだった。

 そのときのぼくは、さっきまでの不安な状態とは打って変わって晴れやかな気分だった。胸の底からの快感と、透き通った恍惚感に満たされていた。

 その時のぼくは心身ともに飛翔していた。手足を思いっきり伸ばすと、ぼくは青い空の高みへ飛んで行けそうな気がした。

 だがそれはできなかった。夢はそこで途切れてしまったからだ。

 飛翔の夢は、扉≠ノよる不安と緊張に悩まされているぼくにとっては一服の清涼剤となった。だが眠っている間の夢の中だけでしか安らげないというのは、何ということだろう。

 扉≠ェ見え始めてから三週間くらいたった時だった。日曜の朝、ぼくはおそく起きて、階下の居間と続いたダイニングルームへ行った。両親はとっくに起きて食事をすませ、父は新聞を、母はテレビを見ていた。時刻は十時を回り、ベランダに並べられた観葉植物の鉢と、大小十匹近くの金魚が泳いでいる金魚鉢には薄い陽が当たっていた。

 「片付かないから、早く食べてしまって」

 母が顔を洗っているぼくに言った。朝昼兼用なのだからあわてることもないだろうと思いながら、ぼくは食卓についた。トースターでパンを焼きながら、ブラックのインスタント・コーヒーを作っていると、急に父が言った。

 「あれっ、何だろう?」

 ぼくは手を止めて父の方を見た。

 父はソファに腰かけて新聞を読んでいたのだが、今は新聞を手元に置き、身を乗り出してベランダの外を見ていた。

 「どうしたの?」

 「今、何かピカッと光ったんだよ」

 「車か何かじゃないんですか?」

 母が言った。

 「いや、ちがう。こっちを照らしたような光り方だった」

 「ヘッドライトともちがうの?」

 ぼくはコーヒーを作りながらたずねた。

 「昼間のヘッドライトはあんなに明るくないだろう。見えなかったかい?」

 父はかたわらに腰かけていた母にたずねた。

 「いいえ」

 母は首を横にふった。

 「ちょっと見てくる」

 父は立ち上がって玄関の方へ行った。

 ぼくは焼き上がったトーストにマーガリンを塗り、食卓に置かれていたさめ切ったハムエッグで朝食を食べ始めた。

 「あら」

 今度は母の声だった。

 ぼくが思わず居間の方を見た時、母はやはりベランダの方を見ていた。

 「どうしたの?」

 「光ったのよ、ベランダの外」

 ぼくはベランダの外に目をやったが、そこには薄い日ざしだけしか見えなかった。

 だが次の瞬間、不意に白い光がぼくの目に突き刺さった。それは太陽の光とはまったく異質な、電気のスパークを思わせるような無機的な光だった。

 「ちょっと見てくるわ」

 母も立ち上がって玄関の方へ出た。居間にはぼく一人と、小うるさく鳴っているテレビだけが残った。

 ぼくは光に不気味さを覚えながらも食事を続けた。コーヒーを飲みながら、両親はどうしたんだろうとベランダの方をながめた。カサカサという音が聞こえた。なんだろうと思ってよく見ると、ベランダの前に並んでいる鉢植えの植物のうち、一番右はしに置かれているポインセチアの深緑の葉がゆれていた。

 それは風などでゆれているのとはちがっていた。まるで誰かが手で葉をつかんでゆさぶっているような、そんなゆれ方だった。ぼくは飲みかけのコーヒーを食卓に置くと、立ち上がって居間の中をポインセチアの鉢に近づいた。

 不意に視界の中に扉≠ェ現れた。扉≠ヘちょうど、ベランダの手前に置かれたかっこうで、ぼくの視野をさえぎった。扉≠ヘ古いものらしく、取っ手は黒ずんで所々がさびており、茶色の板には細いひびが入っていた。

 扉≠フ背後からさっきと同じような、白い無機的な光がさし込んできた。たださっきとちがうのは、一瞬の輝きではなく、あたかもサーチライトで照らしたような強い光だったことだ。

 強烈な光は、背景の居間を薄ぼんやりした暗がりに変え、白い光の中に大きな扉≠フ影だけを投げかけた。それはまるで、ぼくに向かって何かを迫っているかのようだった。食卓に置かれた食器類が細かくカタカタと鳴った。

 ドンッ。

 扉≠ェ音をたてた。それは、扉≠フ向う側から響いてくる音だった。

 ドンッ。

 よく聞くと、それはノックの音のようだった。こっちに誰かがいることを期待して、扉≠開いてもらおうと叩いているようなそんな音だった。

 あけてみようか? 一瞬、そう思った。だが次の瞬間、その好奇心を打ち破る、何千倍もの恐怖がぼくを包んだ。

 ドンッ。

 さらに大きなノックの音が響いた。扉≠フ背後の白い光は、陽炎のように波打った。ぼくは扉≠見ながら動くことさえできない。白い光がひときわ大きく波打ち、部屋の中の家具の影が、壁の上に踊った。その瞬間、扉≠ヘ消えた。

 気がつくと、金魚鉢がひっくり返り、床のじゅうたんが水びたしになっていた。その上で金魚がパタパタはねている。倒れた物は金魚鉢だけではなかった。植木鉢も一つ残らず倒れ、濡れたじゅうたんの上を黒土でよごしていた。食卓の方を見ると、飲み残しのコーヒーの海ができていた。黒いしずくが食卓の脚を伝っている。

 「まあ、いったいどうしたの?」

 両親が外からもどって来た。あとで聞くと、家の中でとてつもなく大きな音がしたらしい。結局光るものの正体がわからず、何だったのだろうと話している最中に、ドンッという大きな音が家の中から聞こえたという。両親が家の中のようすに驚き、ぼくを問いただしたり部屋を片づけたりしている間も、ぼくは茫然と立ちつくしていた。母は際限なく小言を言い、父は黙々と部屋を片づけた。

 何もかもが生々しく、それでいて白昼夢のように不確かな出来事だった。母がぼくを医者に連れていったのは、その次の日だった。

 

    4

 

 森川進との二度目の面接は、当初の予想に反して思いがけなく進んだ。

 前回と同様に私の部屋のソファで向かい合った時、私ははっきりと彼の瞳の中に変化を認めた。

 「何でもいいから、話してみてくれないか」

 しばらくの沈黙の後、私が口火を切った。

 「扉≠フことなら何でもいい。どんなささいなことでもいいから話してみてほしいんだ」

 これは誘い水だった。この程度のことで少年の心が開けるとは予想していなかった。しかし、私の心配は杞憂だった。森川進は、自分から症状のことをか細い声で話し始めた。

 カウンセリングをやっていると、患者が自分の身の上、悩みなどを打ち明けていくうちに症状も自然と治ってしまうという場面によくいきあたる。だがこの場合は、そんなに簡単にはいかないかもしれない。初めて彼が訪れ、帰って行ったときにふと思い出した「ラップ(raps)」という言葉。それは心霊現象にともなって起きる音響のことで、ノックの音のような形で現れるという。私は前回の面接中に起こった現象をそれかと思った。

 無論のこと、少年の話の多くの部分が、あるいは全部が幻想であるのかもしれない。また、ただ単に自分が暴力をふるった結果をありもしない扉≠フ話で意味づけているのかもしれない。そして壁の向うから音がしたのも何かの偶然の一致だったのかもしれない。しかし、私が利用しているユング派の精神分析ではこの偶然の一致というやつにも注目する。人間の心と物理的世界が何らかの共鳴関係を持っているという前提に立てば、偶然の一致にも十分意味があると考えられる。何と何が共に起こったのか。そしてそこにはどのような意味における関係があるのか。それを考えていくと思いがけず治療が進む場合がある。

 「おとといの日に、ここで聞こえた妙な音も扉≠ェ起こしたの?」

 私の問いに、少年は黙ってうなずいた。

 「先生」

 進は瞳を開いて私を見た。

 「なに?」

 「扉≠ヘ、一体どうしてぼくの前に現れるんですか?」

 その時の彼の表情の中には、悲しみの中にも自分の存在を訴えようとする何かがあった。カウンセリングの教科書に従えば、それは君自身の問題だと言って突き放すこともできただろう。だが、彼の目に表れている真摯な思いを見るとき、私にはそれはできなかった。

 「それは……たぶん、君の心の奥からだろう」

 答えになっていないことは自分でもよくわかっていた。

 「心の……奥?」

 「そう。君の心の奥には君自身も気づいていない欲望や、怒りや、悲しみや、希望や、喜びが渦巻いている。それは誰にもあるものなんだろうけど、君の場合はその力が強く、君自身にそういう心の世界に目を向けるよう要求しているんだと思う」

 「扉≠ヘそのために現われるんですか?」

 「多分ね」

 私はちょっとの間言葉を切って、それからあとを続けた。

 「こんなことを言うと頼りないだろうけど、実際のところぼくにもよくわからない。それは君の心の世界のことなんだから」

 彼は考え込むように黙り込んでしまった。私もまた、この「手ごわい」患者について思いをめぐらせた。

 私の利用しているユング派精神分析の方法によると、心理療法は四つの段階に分かれる――もっともこれはきわめて便宜的な分類にすぎないのだが――。その四つとは告白、解明、教育、変容である。抑圧されたコンプレックスを治療者の前に吐き出してしまうのが告白。抑圧の仕組みを治療者が明らかにするのが解明。そして患者に社会への適応を教える教育。これに加え、ユングが最も重視したのが変容である。治療行為は、患者と治療者の全人格的なぶつかり合いから来る相互作用であるとユングは言う。つまり治療者と患者はともに変わることが重要なのだ。治療者は自分の権威や知識におぼれることなく、患者に向かって自分のすべてを投げ出す覚悟がいるのである。

 今まで私が受け持った患者たちも、多少は私を変えたが全人格的と言うにはほど遠かった。だがこの少年の場合は、下手をするとこちらが飲み込まれかねないほどの、すさまじい無意識の流れに突き動かされている。それは、少年の希薄な印象とは裏腹のすさまじい体験からもわかる。私のすべてが変わることを覚悟せずに治療を続けるのはむずかしい。

 「散歩に行こう」

 私は彼に声をかけた。

 「それほどいい天気じゃないけど、風が気持ちいいだろう。近所に公園があるんだ。少し歩こう」

 彼はびっくりしたように私を見つめたが、うなずいた。

 

 外に出てみると陽光は思っていたよりもあたたかだった。

 車の往来の激しい国道を渡って五、六分歩くと、遊歩道のある大きな公園があった。白い砂利を敷きつめた遊歩道は、緑のじゅうたんを思わせる芝生をぬって、公園の奥にある森の中へのびていた。私たちは、しばらくお互いの沈黙の中を歩いていた。

 「このあたりは静かだろう?」

 「ええ……」

 落ちついて、くつろいだ気分になったのは私だけではないようだった。

 風がときおり吹くが、おだやかな日和だった。ふつうの仕事をについている人間が勤務時間中に職場をぬけ出して散歩をすれば、これは大変なことになるだろうが、私の勤務先では、カウンセラーに限って大目に見られていた。

 「ぼくがどうしてこんな商売をしていると思う?」

 妙に口が軽くなったのは、のどかとも言える天気のせいだったのかもしれない。

 「ぼくも、ちょうど君くらいの頃に急に学校へ行きたくなくなったことがあってね。まだ不登校なんていう言葉はなかった頃さ。それまで病気らしい病気もしたことがなかったし、特に成績が悪かったわけでもない。とにかく何の理由もなく学校へ行くのがいやになってね。先生や両親の手を焼かせたもんだった。

 その時から、自分とは一体何者なのかという疑問にとりつかれてね。それまでは科学や数学が好きだったんだけど、それ以来、歴史や文学を好むようになった。あげくの果てに大学で精神分析を専攻して、こんな仕事についたというわけさ」

 いつのまにか雲間が広がり、青空は大きくなっていった。私たちは遊歩道を森の奥へと歩いて行った。樹木を下から見上げると、光に透かされた青葉の群れが深い海の底を思わせた。しばらく歩くと砂利を敷きつめた広場に出た。中央には四角形の芝生があり、その中に円形の花壇があった。遅咲きのチューリップは赤や黄色の花で目をなごませてくれた。芝生を囲むようにしてベンチが四つあった。

 「すわろう」

 私たちはそのうちの一つに、並んで腰をおろした。

 「君は学校は好きかい?」

 「嫌いじゃありません」

 その言い方は妙になげやりだった。

 「どういう意味だい?」

 私の追い打ちに、彼は少し考えてから答えた。

 「学校には友達もいます。つまらない勉強もしなきゃならないけど、好きな教科もありますから……」

 森川進は吐き捨てるように言った。

 その時、不意に世界全体が光った。

 一瞬、目の前が白い光に包まれた。それはまるで、何の前触れもなく稲妻が走ったようだった。ただの稲妻よりずっと強い、目に焼きつくような光で。雷鳴は聞こえなかった。私は自分の目がどうかなったのかと思い、何度かまばたきをし、それからあたりを見回した。午後の公園には人影はなく、遠くから子供たちが遊んでいるらしい声が聞こえてくる。空はあいかわらず晴れ、どこにも稲妻を思わせる黒い雲などなかった。

 私は言葉につまったまま、森川進の方を見た。彼は大きく瞳を見開いて広場の中央をじっと見ている。それは私の部屋に扉≠ェ現われた時、彼が見せた表情だった。恐怖に貫かれながらも、なぜかいきいきとしたようすだった。

 「扉≠ェ現われたのかい?」

 私はできるだけそっとたずねた。

 大声で話しかけるのがためらわれるほど、彼の表情は緊張していた。彼は私の問いに大きくうなずいた。そのようすを見ていると、彼自身は扉≠フ存在をみじんも疑っていないように思える。彼にとって扉≠ヘ実在そのものなのだろう。だが私には彼が目をこらしている方向をいくら見ても何も見えなかった。

 「どんなようすだい?」

 「空中に浮いています」

 彼はゆっくりとかみしめるように言った。

 「どこに?」

 私はさらにたずねた。彼に扉≠フようすをたずねることで、彼にとっての扉≠フ持つ意味を明らかにすることができるかもしれない。

 「花壇の上です」

 「いつも現われる扉≠ゥい?」

 彼は軽くうなずいた。彼のまなざしは前方に釘づけだった。私も再び同じ方を見てみたが、やはり何も見えなかった。

 「どんどん……来ます」

 そう言いながら、森川進の呼吸はだんだん荒くなってきた。肩で大きな息をしながらも、金縛りに会ったようにベンチの上を動こうとしなかった。彼は今、自分自身と対峙しようとしている。私にはよけいな手出しをするのはためらわれた。

 「ああっ」

 彼は不意に叫んだ。

 同時にバリバリッという音が背後から聞こえた。ふりかえると、私たちが腰かけているベンチの後ろにあった樹木から、太い枝が一本落ちてきた。枝は地面に叩きつけられた。見ると枝の元の方は、たった今ねじ切られて、ひしゃげた白い切り口をのぞかせていた。

 森川進は脱力したようにうなだれている。

 私は地面の枝と彼を何度も見比べていた。

 

 彼が回復したあと、私たちはセンターにもどった。

 彼の話だと、扉≠ヘ彼の前に迫ってきて、まるで押しつぶされるかのようだったという。

 私は彼をタクシーで家まで送り届けた。心配そうなようすの母親に、気分が悪くなったから送っただけだと何度も言わなくてはならなかった。センターにもどった私は部屋で今日の出来事を記録した。彼の症状については、おおよその見当がついていた。

 まず扉≠セが、扉≠ニはそもそも開くべきものである。扉≠ェ現われる幻覚は、無意識が自我を中心とする意識に対して、何らかの「解放」を迫っている象徴であると考えることができる。人間の無意識には、常に抑圧したり、偏重したりしている傾向を補う働きがあり、それによって人間の「こころ」としての全体性を保とうとする。

 もし、意識と無意識が病的状況を引き起こすまでに分裂しているとすれば、統合の象徴である「マンダラ」の幻覚が現われてくるはずである。それは通常、円盤状のものとして東西の宗教のシンボルにもなっている。だが森川進の場合は四角形の扉≠ナある。ユングがよく用いる数秘術的な解釈によれば、四というのは完全を表す数ということになる。そうであるならば、彼の場合も完全であるものへの要請から統合へと向かうのかもしれない。

 森川進の心が危機的状況にあることは、彼の夢の話からもうかがい知ることができる。川や海は、ユング心理学では無意識の世界を意味していると考えられている。その無意識の世界に漕ぎ出し、渦に巻き込まれる。これは、彼が活発な無意識の活動に飲み込まれかけていることを示している。その後の飛翔が何を意味しているのかは私にもよくわからない。

 幻覚とともに森川進の身辺に起こる現象は「騒霊現象(ポルターガイスト)」と言われるものを思い起こさせる。アメリカのある研究者によれば、多くのポルターガイスト事件の中心には必ず思春期の少年少女がおり、彼らは二十歳を越えていることはまれだという。ポルターガイストとは、人間が潜在的に持っている念動力を、心身が不安定な時期にある少年少女が、無意識のうちに発現させてしまった結果である。その研究者そう述べていた。

 このような見方からすれば、森川進の場合も一種のポルターガイストと考えられなくもない。だが扉≠フ幻視がなぜそれと結びつくのか。幻視が起って、それが刺激となって念動力が働くのか。それとも念動力が働くことを意味づけようとして幻視が起るのか。

 彼について下しうる最も妥当な判断は、彼が潜在的に持っていた念動力と、日常生活の中で抑圧し続けていた感情が「観念的結合(コンプレックス)」を形成して、現在の時点で堰を切ったようにあふれ出てきたという解釈だろう。彼が抑圧してきたものが何なのか、今一つはっきりしない。だがおそらく、それは性的な感情の営みに対するせいしではないだろうか。

 彼のことを、仮名ででも発表すれば学界は仰天し、マスコミは無責任にはやし立てるだろう。うまくやれば、私も虚名をほしいままにできる。だが、私はとてもそんなことをする気にはなれない。これはすべて森川進という一人の人間の内部の物語なのであり、私はたまたまそれを垣間見ている傍観者にすぎないのである。

 森川進が彼の無意識とどう対決し、それをどうやって意識の中に統合していくか。それはあくまでも彼自身の問題なのだ。

 

    5

 

 自分でも驚いたことに、ぼくは扉≠待っていた。

 公園での出来事があってから扉≠ヘぼくの前には現われなくなった。もちろん、それにともなう不可解な現象も。ぼくにとっては扉≠ェ消えたことは、本来喜ぶべきことにはずだった。だが、ぼくは自分の中に何か欠けたものを感じていた。それは、もの足りないなどという生やさしいものではなく、自分のたましいの一部が欠けているような、そんなむやみに深い空虚感だった。

 だから、ぼくは扉≠待っていた。

 学校を休んでいる状態での生活は、うつろで味気ないものになりがちだが、今までは扉≠ニの闘いが、ぼくにそのことを感じるゆとりを与えなかった。しかし、今になってみると心の中にあいた穴は耐えがたかった。

 今までのぼくの日常というのは、なんと生気に乏しいものだったのだろう。この一か月ちょっとの間に起った異常な出来事。それは確かに体が引き裂かれてしまいそうなほど恐ろしいことにはちがいなかった。しかし、それに全力で立ち向かわねばならないという状況は、ぼくの生活に何かいきいきとしたものを与えてくれていたようだった。そして、それが不意に途絶えてしまった今、ぼくは日常の世界にもどってしまった。

 扉≠ヘ本当にぼくの心の中から来るのか?

 精神医療センターの多田という医師はそう言っていたし、ぼく自身その答えで納得しようとしていた。しかし、頭ではその答えを受け入れようとしても、心が不満をもらし続けていた。扉≠フ向う側には別の宇宙、別の時間があるのではないだろうか? 扉≠ヘこの世界を越えた所から来ているのではないだろうか? 狂人と言われる人々、精神病患者とさげすまれる人々の中には、ぼくと同じようにこの世界と別の世界をつなぐ扉≠見た人がいたのではないだろうか? あるいは扉≠開いて、その向う側の世界へ行ったままもどれなくなった人たちもいるのではないだろうか? 多田医師が言うように、扉≠ェ心の中から来たものだとしても、きっと人間の心の奥深い所には他の世界と通じ合っている部分があるにちがいない。ぼくは、その「通風孔」にあまりにも強くふたをしすぎていたために、その反動として扉≠ェ見えたのかもしれない。

 だとすれば、ぼくは扉≠恐れるべきではなく、扉≠ゥら逃げるべきでもなく、扉≠ノ自分からのぞんで行くべきだったのだろう。扉≠ェ現われた時に聞こえた音は、扉≠向う側から叩く音ではなかったか。つまり向う側の世界からのノックの音――訪問の音だったのではないだろうか? それは、ぼくに扉≠開くこと求めていたのだろう。

 扉≠開くためには扉≠フ恐ろしさに打ち勝たなくてはならない。この次に扉≠ェ現われた時、臆せずそれを開くことができるだろうか?

 

 夢を見ていた。

 暗い、洞窟のような所をぼくは一人で歩いている。

 いつ果てるとも知れない、長い道だった。

 とぼとぼと歩いていたぼくは、ふと前方に小さな白い影を見つけた。それは誰かのうしろ姿だった。

 ぼくは追いつこうと思い、洞窟の中を走り出す。かん高い足音だけが壁に当たってこだました。

 白いうしろ姿が大きくなり、ぼくが声をかけようと思ったその時だった。白い人物がぼくの方をふり向いた。

 白い女だった。

 全身からかすかな白い光を発しながら、目も鼻も口もない、のっぺらぼうの女がそこに立っていた。それはまるで白いドレスをまといながら、まだ顔を描き込まれていないマネキン人形のようだった。殻をむいたばかりのゆで卵を思わせるその顔は、かすかにほほえんでいるようだった。

 ぼくは言うべき言葉を失って、その場に立ちすくんでしまった。

 女はまた正面を向いて歩き出した。

 「待ってくれ」

 ぼくは声をかけた。彼女はぼくを無視するかのように、ずんずん闇の中を歩いて行った。

 その先に、扉≠ェあった。

 白い女は扉≠ノ向かって歩いて行き、こともなげに取っ手に手をかけた。そして、まるで自分の部屋にでも入るように扉≠開いてその向うに入って行った。

 彼女がうしろ手にしめた扉≠ェぼくと対峙した。

 ぼくがどうしようかと迷っていると、急に洞窟が回転し始めた。暗闇の中に轟音が響き、足元の地面をふくめた世界全体が回り始めた。

 はっと息を飲んだ瞬間に目が覚めた。

 しばらくの間、夢から覚めたことを確認するために、自分の部屋の暗闇をじっと凝視していた。

 寝汗をかいていることに気がついた。胸元がじっとりと湿って、顔もあぶら汗でべたべたしていた。このままでは眠れそうにない。ぼくは起き上がって部屋の灯りをつけた。部屋を出て、階段を降り、両親の部屋の前を通った。父のいびきだけが聞こえている。

 洗面所へ来て、蛍光灯をともした。洗面所の鏡の中に、顔色のよくないぼくの姿が映る。両眼はにごって光がなかった。

 真夜中に鏡を見ると自分の守護霊が見えるという話を聞いたことがあったが、別にぼくの顔以外何も見えない。水道の蛇口をひねり、勢いよく水を出してまず手にせっけんをつけて念入りに洗った。そして顔を洗いにかかる。せっけんのついた顔を何度も水で洗うと、さすがに顔が冷えて気持ちよかった。

 タオルで顔を拭く。

 蛍光灯がまたたき始めた。

 白い光が小きざみに途切れた。

 蛍光管の接触が悪いのかと思い、灯りの方へ手をのばした時、それは消えた。あたりが闇につつまれる。手探りで蛍光管にさわって、接触部を強く押しつけてみたが何の反応もなかった。スイッチを押しても同じだった。闇の中にひとり残された。

 目の前の暗闇の奥に何かが見えた。

 それは白い光にふちどられた扉≠セった。扉≠ヘ漆黒の空間の中に座して、その向う側からまばゆい光をあふれさせ、じっとぼくと向かい合っている。

 まるで夢の続きのようだ。

 次に瞬間に扉≠ヘ等身大の大きさになってぼくの前にあった。

 四辺からもれていた光はゆらゆらとゆれていた。ぼくはしばらく扉≠じっと見つめていたが、やがて、ためらうことなく手をのばすと扉≠フ取っ手をつかんだ。

 今まで何度も目の前にしながら、さわったことさえなかった扉=B

 胸が高鳴るのを感じながら、両手で扉≠開いた。

 白い光の洪水だった。

 前も後ろもわからないほど、あたり一面が光っていた。それは大きな光のうねりとなってぼくを押しつつみ、扉≠フ中へといざなっていく。

 ぼくはゆっくりと一歩を踏み出した。

 不意に光がやんだ。ぼく自身の体までつつんでいた白い光が嘘のように消え果ていた。

 ぼくは宇宙空間の中に立っていた。

 暗黒の空虚。きらめく白い星々。

 前後。左右。上下。

 星。星。星。

 天の川。銀河。天体の流れ。

 ここはどこだ? どこなんだ?

 不意に星々が後退していく。ぼくの視野の奥に向かって退いていった宇宙空間はやがて四角形の枠組の中におさまった。

 「宇宙雲と呼ばれる水素ガスは、宇宙空間に広く存在し、これは星の光をさえぎったり散乱させたりしている。宇宙雲が渦巻き、のちに太陽となるガス球をとりまいて回転しながらしだいに原始惑星ができる……」

 地学教室。スライドを見ながらの授業。しゃべっているのは地学の若い講師。

 「宇宙雲は光をさえぎる影。その影が集まって太陽という大きな光ができる」

 スライドのスクリーンの手前には、いっしょに授業を受けている生徒たちのうしろ姿が並んでいる。ぼくの三列ほど前に白く光る人影を見つけた。白い女だ。ぼくは立ち上がる。回りの生徒たちをかき分けながら彼女のそばによろうとした。

 「君の心の奥には君自身も気づいていない欲望や、怒りや、悲しみや、希望や、喜びが渦巻いている……」

 地学の講師の声はいつしか多田医師の声に変わっていた。

 「あの……」

 ぼくが声をかけた時、白い女はすっと立ち上がって部屋のすみの方へつかつかと歩いて行った。

 「待ってくれ」

 彼女が行った部屋のすみには扉≠ェあった。女はこっちを見ると、夢の中と同じように表情のない顔でにやっと笑ったようだった。

 薄暗い部屋の壁にはりついた扉≠開くと、女は外へ出た。ぼくもあわててあとを追う。

 外は森だ。

 木漏れ日の舞い降りる木々の中にぼくは立っている。樹木の香りが鼻につんとくる。

 見ると青々とした雑草の上を、白い女が森の奥に向かって駆けていくところだった。

 追いかけようとしてぼくも走り出す。

 ぼくの前に、樹木が両側から動き出して立ちふさがった。

 樹木には真紅に輝く一つ目が幹の上方にあり、太い枝はみな腕であり、緑の木の葉は触手か指のようにうねうねと細かく動いていた。森じゅうの木がすべてぼくのまわりに集まり、その不気味な姿態を動かしていた。

 「どけ。じゃまだ!」

 ふと気がつくと正面にそびえる二本の樹木の間に白い女の姿が見えた。走るのをやめてこちらを見ているらしい。

 まわりの樹木が太い枝をのばしてぼくの体を押さえにかかった。

 「放せ!」

 急に冷たい風が吹いてきた。

 黒い煙のようなものが風にまじって吹きつけてきた。

 黒い風。視野をさえぎる漆黒の霧。かん高い悲鳴。白い女だ。白い女が風に巻き込まれ、体が空中に浮かんでいる。女は黒い風にのって見る見る遠ざかっていく。

 「放せ。放すんだ!」

 ぼくは枝に体を押さえつけられたまま身動きできない。

 「何してるんだ。バカ!」

 誰かがぼくの背中を小突く。

 雑踏。森は消え失せ、都会のの人ごみの中にぼくは立っている。

 ビル。ビル。ビル。薄よごれた灰色の空。灰色の地面。灰色の人々。みんな背をまるめて会社へ、学校へ急いでいる。

 「早く歩け!」

 「立ち止まるな!」

 道行く人々がぼくを小突きながら声をかける。

 「教えてくれ!」

 ぼくは通りすがりの男の肩をつかむ。

 「白い女はどこだ?」

 男はサングラスをかけている。ぼくの手をふりほどいて歩き出す。

 「教えてくれ!」

 ぼくはあらん限りの声で叫んだ。

 足早に歩いていた群衆がぴたりと止まる。全員がこちらを向く。一人残らずサングラスをかけている。表情を見せない、顔。顔。顔。

 「足元を見ろ!」

 群衆が声をそろえて言った。

 「足元を見ろ! 足元を見ろ!」

 ぼくは思わず自分の足元を見る。灰色のコンクリートの地面に蓋を取ったマンホールのような、丸い穴があいていた。

 群衆が笑い出した。

 まるで穴に見とれているぼくが、おかしくてたまらないとでも言うように。サングラスをかけた顔が一様な笑顔で笑っている。

 ぼくはもう一度穴を見る。意を決してそこへ飛び込んだ。

 落下……。

 闇の中を落ち続けていく自分。

 どこへ行くのか?

 足が地についた。ほとんどショックを感じない着地。見上げると、ぼくが飛び込んだ穴は彼方の星の一つとなっている。星? そう星だ。見ればきらめく星々が暗闇の空間の中に輝いている。気がつけば、上も下も、ぼくの回りをつつむ空間はすべて星が輝いている。

 白い女はどこだ?

 ぼくは歩き出す。星々のきらめく空間の中を。とぼとぼと一人で歩く。

 どれほど歩いただろうか。

 散りばめられた銀のしずくの中で、ぼくは自分の脚が鉛になるのを感じた。

 「おい、どうした?」

 目の前に一人の男が立っていた。

 背が高く、全身をすっぽりと銀色のマントでつつんでいた。精悍な顔立ちで目が鋭く光っている。

 「誰だ、あんたは?」

 ぼくは自分でも意識しないうちにひざまづいていた。自分の声が疲労でふるえている。

 「おれは銀の騎士だ。竜を狩るために旅をしている」

 「銀の騎士……竜……」

 ぼくはぼんやりとつぶやく。

 「お前は?」

 「白い女を探している」

 「なぜ探している?」

 「あることを聞くためだ」

 「何が知りたい?」

 「ここがどこかということを。扉≠ェどこから来るのかということを……」

 「その女はどうした?」

 「黒い風にさらわれた」

 銀の騎士の表情がけわしくなった。

 「黒い風を見たのか?」

 ぼくはその語気の強さに気圧されながらうなずいた。

 「どっちへ行った?」

 騎士はぼくの胸ぐらをつかんでグイと引き上げ、ぼくを立たせた。

 「どっちへ行ったと聞いてるんだ?」

 「わ、わからない」

 男はいきなり胸元から手をはなした。そして宙空の一点を燃えるような目で見つめた。

 「竜だ」

 ぽつりと騎士はつぶやいた。

 「えっ?」

 「竜にさらわれたんだよ。その女は」

 ぼくにはそれがどういうことだかよくわからなかった。

 「行くぜ」

 騎士はぼくの方を見ずに声をかけた。

 「その女を探したいんだろう? だったらいっしょに来るんだな。竜のやつはよく黒い風に姿を変えて獲物を集める。それを住処へ持って行って喰うのさ。早くしないとその女も喰われちまうぜ」

 ぼくは奥歯をかみしめ、全身に力を込めて立ち上がった。銀の騎士はすでに一人で歩き始めている。ぼくは何も言わずにあとを追った。

 どれほどの時がすぎただろうか。銀の騎士とぼくは、星くずの川と、銀河の谷間をわたり、暗黒の砂漠を歩き続けた。

 「ついたぜ」

 銀の騎士がいきなり立ち止まった。

 「見な」

 そう言って指さした先には、暗黒の空間の中に黄金の泉が湧き出していた。それはさざめくように光ながら、何もないはずの空間からこんこんとほとばしっていた。

 そこから涌き出る水そのものが黄金色なのか、それとも水の底に黄金があるのか、その区別さえはっきりしないほど、きらきら輝いていた。

 「あの泉の中に黄金の剣がある」

 「黄金の剣?」

 「そうだ。黄金の剣だけが竜を倒すことができる唯一の武器だ。それを竜の眉間に突き刺すことが竜を倒すただ一つの方法だ。

 女を救い出したかったら泉の中に手を入れて剣を取るんだな。ただし、泉に手を入れると想像を絶する苦痛に襲われる。それに負けて手を引き抜くと、こうなる」

 銀の騎士はマントの中から自分の右手を出して見せた。それは透き通った水晶と化した右手だった。黄金の泉の光が散乱していた。

 「どうだ? きれいだろう? でもまるで感覚がないし、動かせない」

 「それなら、どうやって竜を倒すつもりなんだ?」

 「なに?」

 騎士は意外なことを聞かれたという表情になった。

 「竜を狩るために旅をしていると言ったじゃないか。腕が効かないならどうやって竜と闘うんだ?」

 ぼくが問い詰めると、騎士は自嘲的な笑いを浮かべた。

 「そうさ。

 おれには闘う方法がない。黄金の泉の苦痛に耐え切れず手を引き抜いた時から、竜と闘う方法を失ってしまった。臆病者だよ、おれは。だが竜に対する執念だけは捨てられず、やつの足跡を追っているのさ」

 そう語る騎士の目は、まるで暗黒の虚無の中に己自身を見つめているようだった。

 「どうするんだ? 女を助けたいんだったら、さっさと剣を手に入れた方がいいぜ。このあたりは竜の住処に近い。いつ通りかからんとも限らない。

 それとも苦痛に耐える自信がないか?」

 たしかに自信はない。しかし、ぼくにはためらっているゆとりもない。

 黄金の泉のそばによった。

 泉の中は光の渦だった。それは水が湧き出すたびにゆらゆらゆれていた。ぼくはそのようすにしばらく見入っていたが、やがて思いきって右手をその中にさし込んだ。

 切れるような冷たさが、指先から体全体にひろがった。やがて、それはすさまじいしびれとなって腕全体の感覚を奪った。腕を泉から出してしまいたいという誘惑にかられながら、渾身の力を込めてさらに腕を押し入れる。今度は急に燃えるような熱さが右手に伝わった。指が溶け落ちるのではないかという思いに襲われながらも、指先に神経を集中し、その熱さの源を握りしめた。

 何かをつかんだ、と思った瞬間、熱さも冷たさも腕を刺していた痛みも嘘のようにひいた。ぼくはそのまま思いっきり右腕を引いた。

 泉の中から現われてきたのは、ぼくの手に握られたまばゆいばかりに輝く黄金の剣だった。

 黄金の剣から一条の光が闇の中にのびた。

 その光は四角いフレームを暗幕の上に投げかける。

 気がつくとぼくは再び地学教室にいた。

 スライド。地学講師。居並ぶ生徒たち。

 しかし、ぼくの手には黄金の剣がしっかりと握られていた。

 「生物の世界において古生代と中生代の末期には、それぞれ急激な変化が起った。中生代の末期にはそれまで栄えていた恐竜が絶滅した……」

 スライドのスクリーンには恐竜の骨格標本が映っている。

 「気をつけろ。竜が来たぞ!」

 銀の騎士の声。大いなるスクリーン。恐竜の骨が動き出す。生徒たちも地学講師も消え失せ、恐竜の骸骨がぼくに襲いかかってくる。

 夢中で剣をふり回す。

 急に熱風が頭からふりかかった。

 いつしか恐竜の骨は一匹の竜となり、口から赤い炎を出してぼくに迫っていた。竜の眼は、吐き出している炎と同じく爛々と真紅に輝いている。全身は白銀のうろこにおおわれていた。鋭い氷柱のような髪。尾までのびている長い髭。熱気を吐き続けている大きな鼻。そして前に突き出た顎。あぎとからむき出した長い牙。その口は時々大きく開いて真紅の炎を宇宙に吐き出す。長い肢体をおおう白銀のうろこは一枚一枚が鋭くとぎすまされた鎌のようだった。

 竜は胴体のわりにはやけに細い四本の肢を持っていた。右の前肢には、白いドレスの女がぐったりとなったまま白い爪の間に握られていた。

 竜は怒っているのか一吹き炎を出したあと、大きく口をあけて吼えた。その声は突風となってぼくの体に当たった。耳をつんざき、ぼくの立っているこのわけのわからない宇宙がぐらぐらとゆれた。

 「竜の眉間を刺せ。早くしないと行ってしまうぞ!」

 銀の騎士がどなった。

 「どうやってそばによればいいんだ?」

 ぼくは剣をかまえながらどなり返す。

 「流星を呼べ。剣を持ったまま念じれば、流星が来て黄金の剣を持つ物をどこへでも運んでくれる」

 ぼくは目をつぶって念じる。すでに竜はすぐ近くまで迫っている。

 ゆっくり目をあける。

 緑色の流星。長い尾。降下。

 竜は目前まで迫っている。流星はぼくを乗せて浮かび上がる。

 接近。

 ぼくはふり落されないようにバランスをとりながら、黄金の剣をかまえた。

 竜は真っ赤な両眼を動かしてこっちを見た。そして、あいている方の前肢を動かして鋭い爪でぼくを引き裂こうとした。だが緑の流星は一瞬早く攻撃をかわした。正面からかかっても勝ち目はない。

 竜の背後に回る。

 このまま頭上に出て一気に眉間を突こうと思った。流星は竜の背びれにそってゆっくりと上昇する。竜は目標を見失ったらしく、炎を吐きながら左右を見回している。

 このままなら勝てる。

 動いていた竜の首が止まる。そして体ごとぐるっと後ろを向いた。逃れる間はない。長い牙の生えた顎が開いたかと思うと、竜はぼくの左腕をくわえていた。

 鮮血が宇宙空間にしぶきを上げる。痛みを通り越した苦しさがぼくの胸元をしめ上げる。それでもなお右手には黄金の剣をしっかりと握りしめていた。

 「眉間を刺せ!」

 銀の騎士のこえがひびく。

 うすれていく意識。奥歯をかみしめる。

 燃えるような竜の両眼。その間めがけて黄金の剣をふりおろす。金属どうしがぶつかり合う、かん高い音がひびいた。

 だめかと思った。

 だがよく見ると、黄金の剣はたしかに竜の眉間に突き刺さっていた。

 竜は長いうなり声を上げると、顎から力を抜いた。ぼくは竜の口からすべり落ちる。いくばくかの衝撃とともに暗黒の平面に叩きつけられた。

 ふと見ると、銀の騎士が横たわるぼくのそばに立っている。

 「よくやったな。竜を倒せたのはこの世界でもお前が初めてだ」

 もう一つの顔が視野に入ってきた。黒い瞳の少女だった。白いドレスを着ている。その両目からは涙があふれている。

 激しいめまい。意識がうすれていく。

 ぼくの視野には、銀の騎士と少女と、なぜか竜の姿が渾然一体となって焼きついていた。

 

    6

 

 「すると彼の扉≠ヘ対決を通じて統合されたというわけかね?」

 「はい、そのとおりです」

 私は所長室で森川進の件を報告していた。

 扉≠フ向う側の世界の幻想を見て以来、扉≠ヘ彼の前に現われなくなった。彼があの幻想を見た翌朝、彼の両親は洗面所の前の床の上で眠っている彼を発見したのである。それから二日おいた昨日、私のもとへやってきた彼は、彼が体験した別世界での出来事を話してくれた。それを話している彼の表情は、憑きものが落ちたように晴れやかだった。その時私は、彼が自分自身との対決に打ち勝ったことを確信した。

 私は分析の結果をまとめ、今朝所長のもとに報告することにした。所長と向かい合って腰をおろし、私はメモを片手に説明した。

 彼の幻想の世界での旅は、個人的無意識から普遍的無意識への旅と言うことができる。地学教室、都会の雑踏などは個人的無意識に属する。白い女はその旅を導く者であり、森川進のアニマ――無意識の中の理想の女性であろう。

 竜との闘いは神話的モチーフであり、洋の東西を問わずに見られる。それは人類が共通に持っている無意識の深層から来るイメージである。竜とは「母なるもの」の象徴だろう。ユングによれば、神話に現われる竜はほとんどが母親であり、竜とは無意識の奥底に潜む母性の象徴と考えられるという。それはアニマよりさらに心の深い部分から来るイメージであり、すべてを包容する大きさと衝動的に何もかも飲み込んでしまう無秩序さをあわせ持つ。ユングはこの原初的な母性に「太母(グレート・マザー)」という名を与えている。

 森川進の竜は、この「太母」の否定的な側面であり、彼の感情の営みを妨げていたものだろう。おそらく彼の母親と彼自身の無意識的なかかわりにおいて形成されていったのだろう。

 銀の騎士とは、おそらく私のことだろう。彼の宇宙を旅している者とは、心の世界を旅している者のことであり、分析家としての私の立場を暗示しているようである。結局のところ、彼に対して助言しかしないのも役割としてよく似ている。

 「人間の脳の中に恐竜がいるという話を聞いたことがあるかね?」

 所長はタバコに火をつけながらたずねた。

 「いえ……」

 「人間の脳は大きく三つの部分からなる。中脳のまわりにあるR複合体と呼ばれる部分。その外側をとり囲む大脳辺縁系。そしてその回りにある新皮質。R複合体は爬虫類複合体とも呼ばれ、これは人間以外の哺乳類にも爬虫類にもある。おそらく進化のごく古い時期に得られたと考えられている」

 「それが恐竜時代に得られたものだということですか?」

 「そう考えられなくもないらしい。人間にはR複合体の働きを押さえる抑制中枢がある。人間が起きている間はその働きで爬虫類の脳は活動を止めている。しかし眠っている間はさかんに活動しているらしい」

 「竜のイメージを見せたのは、その爬虫類の脳だと?」

 「いや、そうは言わんよ。人間の無意識の古い層をつかさどる脳があるんじゃないかとおもっただけだ」

 所長は苦笑してタバコをもみ消した。

 紫の煙は陽光のさし込む窓の前を泳ぎ回った。

 「今回はごくろうだったね。急に仕事を押しつけてすまなかった」

 「予想していたほどてこずらなくてすみました。じゃ、くわしい報告書はのちほど提出します」

 私は立ち上がって所長室を出ようとする。

 入ってきた時とはちがう扉≠ェそこにはあった。

 ノックがひびく……。

                              了

 

 

=>感想メールを送る

=>作品一覧へ戻る

=>メインページへ戻る