時の風吹く森で 

 

漆黒の暗闇の中で何かが光った。

光は安寧な眠りを破るように、鋭く差し込んできた。光と共に微かな風が吹きこんでくる。

目を凝らして白い光の方を見ると、二つの人影が動いていた。それはどうやら、男と女のようだった。

 

 

 ふらっと一人で旅に出て、寺や神社を見て回るのが好きだ。

 奈良県葛城を訪れたのも、そんないつもの気まぐれからだった。「一言さん」の名で親しまれている一言主神社(ひとことぬしじんじゃ)を参詣したあと、葛城の古道に沿って歩きはじめた。別にこれといった目的があったわけではない。晴れ上がった秋空と間近にそびえる金剛山を見ていると急にあたりを歩き回りたくなった。二十分ほど南に向かって歩くと、道路のかたわらに「刀岐神社」と書かれた古ぼけた看板が立っていた。一体いつ頃書かれたものなのか、黒い文字はかすんでいた。立て看板から、田んぼの中に道がのびていた。その先にはこんもりした森がある。

 ぼくは急にこの神社を訪れてみたくなった。

 何か見も知らないものが、呼んでいるような、妙な気分だった。

 森に向かって歩き始める。道は森の中に伸び、森の入り口には石造りの鳥居があった。森の中は静かで、時おり、鳥の鳴き声が聞こえた。

 「お参りですか?」

 眼鏡をかけた初老の男が、こちらに歩いてくるところだった。

 野良着というのがぴったりの、半袖の白いシャツと灰色の作業ズボン。やせた体に白髪頭が目立ったが、顔の肌はつややかだった。

 「は、はい」

 とりつくろうようなぼくの返事がうれしいとみえて、男はいかにも人好きそうな笑いを浮かべた。

 「どうもありがとうございます。わたしは刀岐神社の宮守をしております小野と申します。こんな小さな宮に、よくおいで下さいました。ご案内申し上げたいのですが、用事があって出かけなければなりません。娘がお宮の周りをそうじしておりますので、何かありましたらおたずね下さい」

 ていねいなことば使いと腰の低い態度に、ぼくの方がすっかり恐縮してしまった。小さな寺社によくあるように、この宮守りもおそらく農家との兼業だろう。

 「では、どうぞごゆっくり」

 宮守りは何度も頭を下げながら立ち去った。

 小さな森を抜けると、赤い鳥居と古びた社殿が見えた。狛犬も。社殿前に広場も、どれも小さくてかわいらしかった。

 鳥居の横に、場ちがいに大きくて真新しい案内板が立っていた。御所市のライオンズクラブが最近寄贈したものだった。この神社の由緒が書いてあった。

 刀岐神社(ときじんじゃ)。祭神は刀岐之大神(ときのおおかみ)。建立の年代は不明だが、平安時代の末期、承安年間にはもう存在していたらしい。伝えられる縁起は次のようなものだ。

 昔、この地方の百姓で彦次郎という者がいた。この男が満月の夜、ちょうどこのあたりを通りかかった。その時、光り輝く神が天下った。神は自ら刀岐之大神と名乗り、彦次郎にこの地に自分を祀れば、先のことを見通す力を授けてやろうと言った。

 彦次郎は神の下った地にその神を祀った。神を祀ったその日の夜、夢の中で三年後の秋に大雨が降って田畑が押し流される光景を見た。彼は村人たちにそのことを告げた。はたして三年後に大雨は降った。雨は三日三晩続いた。田畑は流されたが、彦次郎の村は前々から少しずつ蓄えを用意しておいたので、生き延びることができた。

 それ以来、彦次郎は作物の出来、天候、戦の動向を予言し、村は先手先手を打つことによって大いに栄えた。彦次郎は夢見の長者と呼ばれた。

 宗教的というよりは民話的なこの縁起は、いわゆる長者伝説に一種だ。神のお告げによって長者になったのだから、民話分類上の致富譚とも呼べるだろう。しかし、未来を予見する能力を神からもらうというのは、ひどくめずらしいケースではないだろうか。

 ぼんやりともの思いにふけっていると、社殿の方から竹箒を持った一人の女が近づいてくるのに気がついた。黄色のトレーナーに青いジーンズ。それにサンダルばきだった。その服装が実にあざやかで、背景の古びた社殿がいっそうくすんで見えた。宮守りの娘だろう。

 「ようこそいらっしゃいました」

 見ているとほっとするような笑顔で、話しかけてきた。親子そろって歓待してくれるくらいだから、参拝客はよほど少ないのだろう。

 ぼくはことばもなく頭を下げた。声が出なかったのは女の顔に見とれていたからだ。年は二十三、四だろうか。ショート・カットの髪はかすかにウェーヴがかかっている。やせた顔立ちで色は白く、何より大きな瞳が印象的だった。化粧をしていないその顔には多様な表情があった。現実的なしっかり者というイメージを与える半面、澄んだ両眼は何か霊的なものを見つめているかのようだった。

 「先ほど宮守りの方とお会いしましたが……」

 「ああ、そうですか。わたしは宮守りの小野の娘の由希子といいます。よろしかったら、ご案内しましょうか? と言っても、ご覧の通り大したことのない神社ですけど」

 「おねがいします」

 宮守りの娘と社殿の前に立つと、型通りの参拝をすませた。

 「このお宮の縁起はお読みになりましたか?」

 「ええ」

 「夢見の長者彦次郎が祀った刀岐之大神は予言の神さまでもあり、森脇の一言主神社に祀られている一言主大神や、風の森峠の高鴨神社に祀られている事代主命と同系列の託宣神と見なすことができます。夢見の長者の伝説には、南大和一帯に古くから伝わるこれら託宣神への信仰がその背景にあると考えられます」

 澄んだ声だった。

 「さすがにおくわしいですね」

 感心して言うと

 「ひまなものですから、よく調べ物をしてるんですよ」

 と言って笑った。その笑顔にはどこかさびしげなところがあった。ふと、ぼくはこの娘のことをどこかで見たような気がした。

 「こちらへはご旅行ですか?」

 ポロシャツ、ジーンズ、スニーカーというぼくの服装はいかにも風来坊然としていた。

 「ええ、そうです。気分転換に近場を回ろうと思いまして」

 「そうですか。このお宮に来て下さる方は本当に少なくて……。父は律儀ですから毎日そうじを欠かしませんけど。たまに、株をやってらっしゃる方や、競馬や競輪のお好きな方とかが、未来を見る力を授かりますようにとお参りに来られるくらいなんですよ。一言主神社のように古くからあるお宮なら人も集まるんでしょうけど、こんな観光案内にも出ていない小さなお宮ではね……」

 由希子は放心したような口調で言った。

 一言主神社に祀られている一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)は、たった一つだけ願い事を叶えてくれる神として知られ、多くの人々の信仰を集めていた。伝教大師最澄も入唐に際して祈願した宮である」

 由希子はしばらくの間、遠いところを見ていたようだったが、われに帰ってぼくを案内した。社殿の右側に空き地があって、そのかたわらに大きな銀杏の木があった。その根元には、人の頭二つぶんほどの石をのせた塚があった。

 「これが夢見塚です。夢見の長者彦次郎が刀岐之大神と出会ったのは、この場所だと言い伝えられています。この大銀杏は、彦次郎が刀岐之大神をお祀りするときに植えたものだと伝えられています」

 ぼくは塚の上の黒っぽい石に魅せられていた。

 「この石は以前からあるのですか?」

 思わず質問が口をついて出た。

 「ええ。でも建立のときからではありません。実は彦次郎が最初に建てたお堂がこの場所にあったんです。平安末期のことですから、神を阿弥陀仏と考えて、まずお寺を作ったんですね。そして隣に鎮守の社を建てました。お寺は朱鷺寺(ときでら)という名前で近在に知られていました。ところが、室町時代にお寺が焼かれてしまって神社だけが残ったんです。この石はその後に置かれました」

 女のことばが、ふーっと遠のいたようだった。

 いや、ことばだけではない。

 その姿も、刀岐神社の社殿も、目の前の大銀杏も、葛城の青空も。それらすべてが、僕自身から遠ざかっていく。

 塚の上の黒い石だけが、溢れる存在感をはらんでぼくと対峙していた。

 それは世界の他のものをすべて取り除き、ぼくだけに何かを語りかけようとしていた。

 「どうかなさいました?」

 遠ざかる世界の中で、宮守りの娘がぼくに声をかけていた。

 

 風が吹く夜だった。

 村の寄り合い帰り道、おれは松明で足元を照らしながら暗い道を歩いていた。

 空の月は満月だったが、月光菩薩のやさしさはなく、赤く、まがまがしく、魔界への入り口を思わせた。

 「こんな夜には天狗が飛ぶぞ」

 寄り合いの後、誰かが言った戯れ言を思い出した。たしかに金剛山の方から吹いてくる風は、魔物たちのささやきにも聞こえた。

 見なれた畦道にさしかかった。

 ふっと風がやんだ。

 頭上に黒々とそびえる金剛山の山陰から小さな白い光が現れた。星とはちがう。もちろん月ともちがう。白い光は生き物のように、ふわふわただよいながら、おれの方に近づいて来る。

 天狗だ。天狗火だ。

 走り出そうとしたが、膝が震えて腰が抜けそうだった。光が近づくと、急に甘い香りがただよってきた。鼻の内側をくすぐるような不思議な香りだった。吸い込むと、えもいわれぬ心地よさが脳天にまで達した。

 寺院にただよう抹香の香りより、はるかに気品に満ちた香りだった。話に聞く麝香の香りとはこのようなものだろうか。

 良い香りのせいで気が落ちついてきた。

 白い光は、ゆらゆら動きながらおれの頭上まで来ていた。よく見ると、光の周りから紫色の煙霧がたなびいていた。

 おれは以前、当麻寺の和尚から聞いた話を思い出した。神仏による奇瑞が現れる時には、決まった現れ方があるという。麝香の香りがたちこめ、紫の霞がたなびくと。とすれば、この白い光は……。

 さらにおれは、何年か前に村を訪れた旅の絵師のことばを思い出した。

 「阿彌陀佛は山の陰からおわしまする。ちょうど、ここ金剛の山々のような西方の山から衆生に救いの手をさしのべて下さいますのじゃ」

 おれは畦道にひざまずいた。胸元で両の掌を合わせて白い光をあおぎ見る。

 すると光は、おれに答えるかのように形を変え始めた。たてに長くなったかと思うと、陽炎のようにゆらめき、人の形をとり始めた。

 “汝、男よ。”

 頭の中に声が響いた。天人を思わせる澄んだ声だった。

 “我は是、刀岐之大神なり。汝、此の地に我が印たる石を祀るべし。されば我、汝に先の事共見通す力を授けん”

 よく見ると白い光は薄れ、人型のようすが見てとれた。それは束帯姿の貴人だった。まちがいない。神だったのだ。神は貴人、老翁、童子のいずれかの姿で現れるという。

 「お、お祀りいたしまする」

 思わず地面に手をついて、ひれ伏した。

 神が手を動かすと、そこから橙色の火の玉がふわりと飛んで出た。玉はまっすぐ飛んでおれの前の地面に落ちた。

 “ゆめゆめ此の石、此の地より動かすべからず。もし動かさば、此の地に災いあるべし”

 おれは頭を下げたまま、神のことばに聞き入っていた。

 ふと、視野の隅に、もう一つの白い光が現れるのがわかった。頭を上げると、新しい光はやはり金剛山の山陰から刀岐之大神の方へ寄ってきた。そして、同じように形を変え、人の姿となった。

 女だった。おそらく女神だろう。もしかすると、刀岐之大神のもう一つの現身かもしれない。

 “時間が、時間がないわ”

 女神のものらしい別の声が頭の中に響いてきた。

 “しんごうとうはおろした。あとは、あの男が言いつけを守ってくれるかどうかだ”

 刀岐之大神が答えて言った。そうして、二柱の神はおれの方を見おろした。神々の顔が光の中からくっきりと浮かび上がった。男神も女神も黒い髪に白い顔だった。女神の大きな瞳が心に焼きついた。

 さわさわと風が吹いた。

 急に、目もくらむばかりの白い光が二柱の神を包んだ。光は真昼のような明るさであたりを照らし出し、金剛山の姿もくっきりとわかった。

 白い光に身も心もおおわれながら、おれは阿彌陀佛の名を唱えていた。

 

 ……遠ざかっていたものが、もどってきた。

 「だいじょうぶですか?」

 由希子がぼくの顔をのぞきこんでいた。自分が夢見塚の前に地面にひざまずいており、今にも倒れこみそうな状態にあることがやっとわかった。どうやらほんのわずかな時間だけ気を失っていたらしい。

 すると今見たのは幻覚だったのか?

 「だいじょうぶ……です」

 何でもありません、と言いかけて気がついた。いま見た幻の中の女神の顔が、目の前の女の顔とそっくりなことを。

 「お顔がまっ青ですよ。家がすぐそこですから、お休みになって下さい」

 由希子はぼくのことを本当に心配してくれているようすだった。彼女の好意に甘えることにした。

 「歩けますか?」

 「ええ、だいじょうぶです」

 娘といっしょに歩き始めた。赤い鳥居の前から道が分かれていた。森の中を少し歩くと二階建ての家と畑があった。一階の居間が開け放たれていた。由希子はぼくを縁側に腰かけさせると、自分は部屋に上がり、奥にばたばたと駆け込んだ。

 「お母さん、お水、お水」

 娘の声が聞こえた。どこにでもあるような農家の居間だった。大きなテレビ。緑色の絨毯が敷かれた床。灰皿と新聞がのったテーブル。渋い塗りの茶箪笥。特に目についたのは、部屋の隅に置かれた書棚だった。装丁のりっぱな分厚い本が並んでいた。

 ぼくは、青い空と森と畑をぼんやりとながめ、さっき見た幻のことを思い浮かべた。目の前の金剛山はまちがいなく、ぼくがさっき垣間見た山だろう。ぼくが見た幻は、夢見の長者彦次郎が実際に体験したことなのではないだろうか。

 娘が、両の手に水をくんだコップとしぼったタオルを持ってもどってきた。

 「どうぞ」

 「すみません」

 ぼくは水を飲み、タオルで顔をふいた。

 「貧血か何かですか? 今はずいぶん顔色がいいみたいですけど」

 娘はぼくのかたわらに腰をおろした。

 「幻を見たんです」

 その一言が、彼女の内部に微妙な変化をもたらしたようだった。それがどんな変化なのかはわからなかったが。

 「どんな幻ですか?」

 娘はことばをかみしめるようにたずねた。

 ぼくはさっき見た光景を話して聞かせた。由希子は黙って聞いていたが、その両眼はやはり霊的なものを見つめているようだった。ぼんやりと感じていたことが不意に口をついて出てきた。

 「あれは、昔実際にあった出来事なんじゃないでしょうか? ぼくは、そんな気がしてしょうがないんです」

 娘は、ぼくには見えないものを見るように、仏像を思わせる目で、話のなりゆきを見つめていた。やがて、ふっと息をついた。

 「あの塚には“氣”が残っているんですね」

 そびえる金剛山を眺めながら、つぶやくように言った。

 「思念が残るという意味ですか?」

 「ええ、そうです。はるか昔の、夢見の長者彦次郎の思いが残っているんですよ。“氣”を感じることのできる人だけが、そのときの光景を見ることができるんです」

 娘は静かな瞳でぼくを見た。

 「幻の中で、ぼくはあなたを見た」

 「ただの幻ですわ。夢と同じようなものです」

 「でも……」

 ことばが続かなかった。

 その時、奥の襖が開いてエプロン姿の太った婦人が盆を持って出てきた。母親だろう。

 「ご気分は、もうよろしいんですか?」

 「はい、ご迷惑をおかけしました」

 「いいんですよ、気にしなくて。由希子、上がっていただいたら」

 娘が思い出したようにぼくを見た。

 「気がつきませんで。どうぞ上がって下さい」

 ここまで勧められているのに遠慮するのは、かえって失礼だろう。

 「失礼します」

 ぼくは靴を脱いで、部屋に上がった。

 「さあ、どうぞ」

 娘の母がテーブルの上にお茶と駄菓子の鉢を置いた。

 「どちらからいらしたんですか?」

 「大阪です」

 「はあ、それにしてはお言葉がちがいますねえ」

 「ええ、こちらに移ってから三年くらいです。その前は東京です」

 「お母さん。いちいち身の上調査をしなくてもいいじゃない」

 由希子が母に向かってものを言うときは、なぜか甘ったれた子供の顔だった。

 「別にそんなつもりじゃないんですよ。でも参拝のお客さんが珍しいもんですから」

 母はぼくに向かって笑いかけた。

 「どうぞ、ごゆっくりなさっていってください」

 母はそう言って奥の襖を開けて、部屋を出た。

 「いいお母さんですね」

 ぼくがそう言うと、由希子はあいまいに笑った。

 「おや、これはどうも」

 宮守りの小野が縁側越しにあいさつした。どうやら用事を済ませて戻ってきたようだった。由希子がぼくがここにいるわけを父親に話した。

 「それはまた、ご災難なことでした。どうぞ、ごゆっくりなさっていって下さい」

 小野は深々と頭を下げて、玄関の方へ回って行った。

 「お茶をどうぞ」

 由希子がすすめた。ぼくは茶碗を手に取って、香ばしい緑茶をすすった。不意に鼻の奥に、幻の中でかいだ甘い不思議な香りがよみがえってきた。そして、まばゆいばかりの白い光が浮かぶ光景も。

 「あの……」

 ぼくは由希子に話しかけた。

 「はい」

 「長者が建てたお寺は室町時代に焼けたと言われましたよね」

 「ええ、そうです」

 「では、長者が神から受け取った印の石はどうなったんですか?」

 由希子は目を細めて少しの間考えていた。

 「御本仏のことかしら?」

 そう言って首をかしげた。

 「うちに御本仏として伝わっている石仏があります。それは、夢見の長者彦次郎がお堂を建てたときに祀った阿弥陀仏なんです」

 「祀ってあったのは、あの、夢見塚のあったところじゃないんですか?」

 「ええ、そうです」

 「それについては、どんな言い伝えがあるんですか?」

 由希子は大きな瞳で、ぼくの方を見てから言った。

 「あなたが、幻の中でごらんになったとおりですわ。彦次郎は神の印として石を授かりました。彼は当麻寺(たいまでら)の和尚に相談しました。和尚は彦次郎の見たものの意味を解き、刀岐之大神は阿弥陀如来が姿を変えたものだと教えました。そして村人から勧進を募り、神から授かった石に奈良から仏師を呼んで阿弥陀仏を刻んだのです。このことは当麻寺の古文書にも残っています」

 その時、奥の襖が開いて宮守りの小野が姿を現した。こざっぱりした部屋着に着替えていた。

 「どうも。元気になられましたか?」

 「ええ、おかげさまで。ご迷惑をおかけしました」

 ぼくはあらたまって頭を下げた。

 「お父さん。いまこの方にお話ししてたんだけど、御本仏を見せてあげたらどうかしら」

 「朱鷺寺の御本仏をごらんになりたいと。それはそれは」

 見てくれる人がいるのが、うれしいようすだった。

 「ごらんになりません?」

 由希子がぼくの方を見て、たずねた。

 「ええ。ぜひ、おねがいします」

 ぼくのことばを聞いて小野氏は、それはそれはにっこりした。

 「少々お待ちください」

 小野氏はいそいそと奥の部屋に引っ込んだ。

 「よかったかしら」

 由希子がぼくの方を見て言った。

 「何がです?」

 「父は御本仏や、お堂の由緒のことをしゃべり出すと止まらなくなってしまうんです。あなたに聞かれたもので、つい見せるように言ってしまったんですけど……」

 「別に気にしませんよ。第一、本当に見せてもらいたいんですから」

 「あんまりしつこいようでしたら、用事があるとか何とか言ってください。そうでないと止まりませんから」

 「わかりました」

 ぼくは由希子の細やかな気遣いがうれしくて、思わずにっこりしてしまった。

 襖が開いて小野氏がもどってきた。両の手に大きな木の箱をかかえていた。

 「どうも、お待たせしました」

 テーブルの上に大きな箱を置いた。紫の紐をほどくと、箱の蓋を取った。中には白い布があり、それを取ると高さ五十センチほどの黒い石仏が現れた。小野氏はそれを大事そうに箱から取り出すと、テーブルの上に置いた。

 「これが、朱鷺寺の御本仏です」

 それは、阿弥陀仏というよりは道端の地蔵という方がぴったりくる代物だった。黒くくすみ、いくぶんはっきりしなくなっているが、その表情には如来の慈悲が感じられた。

 「この御本仏は、この宮を建立した夢見の長者彦次郎が、最初にお祀りしたものです」

 「御本仏の説明はさっきしたからね」

 説明し始めた小野氏に、由希子が釘を刺した。

 「この御本仏の石は、長者が神から授かったものですか?」

 「そうです。彦次郎が神と出会ったのは境内の夢見塚の所だと伝えられています。神は彦次郎にこの石を祀れば先のことを見通す力を授けようと言ったのです。彦次郎は当麻寺の和尚に……」

 「それも話した」

 由希子が言った。小野氏は咳払いを一つすると、続けた。

 「当時の農民が、そのような、言わば超自然的な体験をしてもですな、その意味をどう解釈するかという段になると、やはり仏教僧の知恵を借りなければならないわけです。当麻寺は奈良時代からの寺院ですから、そのような現象を解釈する知識もありました。それでこの地にお堂とお宮が作られたのです」

 「お堂は焼けてしまったんですか?」

 「ええ、室町末期の一揆で焼けてしまいました。実はその時に、この御本仏も一度奪われているのです」

 小野氏のことばに、ぼくは幻の中で聞いた神のことばを思い出した。

 “ゆめゆめ此の石、此の地より動かすべからず”

 「この御本仏を、この場所から動かしてはならないという言い伝えはなかったんですが?」

 「いえ、そのようなことは伝わっておりませんが……」

 “もし動かさば、此の地に災いあるべし”

 寺が焼けてしまったこと自体、大きな災いと言えるかもしれない。

 「その時のことは、文献にも出てきます。『大乗院寺社雑事記』(だいじょういんじしゃぞうじき)という書物があるんですが、それに出てきます」

 「そこにあるわ」

 由希子は立ち上がると、書棚の並んでいた一冊の本を持ってきた。黒い装丁の、古めかしい本だった。日頃よく読んでいると見えて、ところどころに付箋がはさんであった。

 「『大乗院寺社雑事記』は、興福寺の問跡尋尊の日記です。室町時代から戦国時代にかけての歴史を知る上で貴重な史料となっています」

 小野氏はページを繰りながら説明した。

 「ここです。長禄三年といいますから、西暦で申しますと一四五九年ですな。室町時代も終わりの頃で、応仁・文明の乱は目前に迫っておりました。幕府の統制はもはやきかず、このあたりでは、筒井順永と越智家栄という二大豪族が、河内の守護職めぐる畠山家の内紛の言わば代理戦争をしていたのです。この長禄三年の七月、筒井順栄は越智家栄を大和の国佐味に破っています。このあたりの農民にしてみれば、戦乱による社会的な不安を感じていたことでしょう。それに加えて、この年は春から夏にかけて日照りが続いておりました。一揆が起きた旧暦九月頃には、このままでは大きな飢饉が起きるという予感が農民たちの間にあったのだろうと思われます。今の橋本院が一揆で焼かれ、さらにこちらのお堂も焼かれました。そのときの記事がこれです。九月二十七日です。

 一、カツラキノ高間寺、炎上す。徳政のゆえなりと云々。また聞く、カツラキノ朱鷺寺、炎上す。朱鷺寺の本仏、失われおわんぬ。この仏、霊験有りと云々」

 小野氏の読む古文書の文句を聞きながら、ぼくはふと由希子の表情に目をとめた。

 彼女はどこか、とてつもなく遠い所を見ていた。それもふつうの人間には見えない、不思議な光景を見ているようだった。その表情には隠しきれない悲しみがのぞいていた。

 「そのようなわけで、御本仏は一度失われてしまったのです」

 「それがよく戻りましたね」

 「まったくです。この争乱から十年ほどのちの文明二年。この近在の高間の村の者が長谷寺門前の地蔵堂で見つけたのです。高間の村人たちが初瀬の村人とかけあい、御本仏はめでたくこの地に戻りました。以来、代々宮守りを務める当家に伝わっております。背中をご覧なさい」

 仏の背中を見ると小さな字で四行、何か刻んであった。形もはっきりせず、よく読めなかった。

 「伝わっている拓本には、和州葛上郡。願主・彦次郎。仏師・円光。承安何年。とあります。承安のどの年かは、字がつぶれていて読めません。しかし、おそらくこの銘文が決め手となって高間の村人の主張が認められたのだろうと思います」

 「なるほど……」

 ぼくはあらためて目の前の石仏を眺めた。そうして見ると、素朴で小さな阿弥陀像にもどこか霊妙なものが感じられた。いくら見ても見飽きない何かがあるようだった。

 もっとここにいたい気がしたが、気分が悪くなったので休ませてもらうにしてはずいぶん時間がたっていた。

 外はもう日が傾いていた。

 「貴重なものを、どうもありがとうございました」

 礼を言うと、小野氏もていねいに頭を下げた。

 「それはそれは。もっとゆっくりしていって下さってもよろしいんですが……」

 「わたし、そこまでお送りするわ」

 ぼくが立ち上がると、由希子もいっしょに立った。

 「どうぞ、お気をつけて」

 小野氏は何度も頭を下げて、ぼくを見送ってくれた。

 ぼくと由希子はもと来た道を、淡い夕日に照らされながら歩いた。

 「ご退屈だったんじゃないですか?」

 「いえ、面白かったです」

 歩きながら話す由希子は明るく装ってはいたが、悲しみのこもった瞳はやはり消えていなかった。

 社殿の前の赤い鳥居の所へ出た。

 「御本仏は、動いてしまったんですね」

 立ち止まってぽつりと言うと、由希子は目を見開いてぼくの顔を見た。

 「幻の中で神が言ったんですよ。印の石はこの地から動かしてはいけない。さもないとこの地に災いがあるって……」

 由希子は黙って聞いている。

 「しかし、彼らは平安時代の人間から見れば神なのかもしれないけれど、現代のわれわれから見れば、ちがう存在なのかもしれませんね。今、思い出してみれば刀岐之大神も女神もずいぶんあわてているようすでした。何より、彦次郎は暗い夜道を歩いていて、えらく心細かったんですよ。当時の人間にとって、夜の闇はとてつもなく恐ろしいものでしたからね。そこで見たものを怪異か神仏と思う下地は十分だったんですよ。特に彦次郎は当麻寺の和尚と懇意でしたから、信心深かったんです」

 妙だった。自分でも知らないはずのことをしゃべっていた。幻の中でさえ、はっきり認識していなかったことをどうして知っているのだろう。

 「あなたは不思議な方ですね」

 由希子は立ち止まったまま、あの透き通った、霊的なものを見るような目でしばらくぼくを見ていた。

 「あなたは何かご存知なのではありせんか?」

 ぼくは思いきってたずねた。しかし、由希子はぼくを見つめ続けるだけだった。

 「知っているのであれば、教えて下さい」

 ぼくは思わず語気を強めて言った。

 「幻の中にわたしが出てきたとおっしゃいましたわね?」

 不意にぼくの方から視線をそらして言った。金剛山の山陰に沈もうとする夕日を見ていた。

 「ええ」

 「たしかに、いたかもしれませんわ。そこに……」

 遠い遠いところを見つめながら、女は語り始めた。

 「一人の女がいて、最愛の恋人と共に旅に出たのです。

 時間を越える旅にです。

 二人の住む世界には、時間をあやつる術がありました。人間の無意識の中にある、時間を超越する力を機械的な方法で増幅して、旅をするのです。女が愛した男には、人並み以上の時を越える力がありました。その力を使うには厳しい資格試験を経なければなりませんでしたが。

 二人は幸せに旅を続け、さまざま時代、さまざま場所をめぐりました。そして平安時代も末近くの頃、この葛城の地に着いたのです。ここが二人にとって旅の最後の場所でした。でも、二人がこの地に着いた時、恐ろしいことが起こったのです。

 時を操るには、その土地その土地にある“氣”を制御しなければなりません。地形や気候などの物理量と“氣”のバランスを機械を使って計測します。そしてそれにあわせて、人間が本来持っている“氣”を制御する力を機械的に増幅して時間を跳躍するのです。ところが、この土地の“氣”はとても強かったのです。二人がたどり着いた時に、機械に“氣”の脈動が検出されました。それは、最初はわずかだったのですが、徐々に大きくなりました。

 時間を超越した後の人間の身体はしばらくの間安定していません。“氣”の変化の影響を受けやすい状態になっているのです。“氣”の脈動が大きいと機械の力では制御しきれず、再び時間を跳躍してしまうのです。

 二人はあせりました。

 どうしようかと思っていると、機械が一人の人間が近づいて来ることを告げました。そのとき、男は一つの方法を思いつきました。

 このままでは制御不可能な時間の跳躍に」巻き込まれてしまう。そうなったら二人ともいつ、どこに飛ばされてしまうかわからない。それならば、この時点、この場所に非常用の信号灯を設置しようと言ったのです」

 「信号灯?」

 「そうです。時間の流れ―時間線とは、無数の可能性の分岐点から枝分かれして成り立っています。その中の一つの時間線を特定するために、特殊な波動を発信し続ける信号灯があるのです。その時間線の宇宙には存在しない波動をです。時を旅する者は、事故にそなえてその装置を持つことになっていました。信号灯の発する波動があれば、それを頼りに救援を待つことができます。しかし、その信号灯は物理的に地球上のある地点から動いてはならないのです。もし動いてしまうと、そのことによって新たな時間線が生じてしまうからです。

 男はその時代の、この土地に住む人間に信号灯を託そうとしたのです。その人間は幸いにも“氣”を感じやすい性質でした。男は、当時の人々が神に対して持っているイメージをその人間の脳裏に送り込みました」

 ぼくは幻の中で聞いた風の音と神の声を思い出した。

 “しんごうとうはおろした。あとは、あの男が言いつけを守ってくれるかどうかだ”

 「それが夢見の長者彦次郎だと?」

 由希子はうなずいた。

 「彼も“氣”の波動の影響で、予知能力を得たのです」

 「その女が飛ばされてやって来たのが、現代のこの世界なんですか?」

 ぼくの問いに女は答えなかった。

 「でも、小野さんはあなたを娘だと……」

 「わたしは養女なんです」

 その時、ぼくはこの娘の顔をどこで見たのかを思い出した。

 三年前、ぼくが大阪に移ったばかりの頃、奈良県で記憶喪失の娘が保護されたというニュースをテレビで見たことがあった。それは新聞にも出ていたはずだ。この娘の写真入のビラが大阪市内の各駅にも貼られていた。

 そのことを言うと、由希子は目を閉じてかすかに笑った。

 「気がつくと、ちょうど今みたいに夕陽の照りつける中に立っていました。ちょうどこのあたりですよ」

 ぼくは思わず自分のまわりを見渡した。

 朱に染まった空と、境内の森、鳥居とその向こうに見える社殿。そして夢見塚。

 「茫然と立ちつくしているわたしを、最初に見つけたのが、宮守りの小野さん―今の父だったんです。

 わたしは必死で記憶を失ったふりをしました。この時代の人たちに時を操る術のことを話しても無意味だとわかっていたからです。それにそんなことをすれば、よけいな時間線を作ってしまいます。何回か心理検査を受けましたけれど、ひどく幼稚なもので、あざむくのは簡単でした。

 ひとしきり騒ぎがすんだあと、子供のいない小野さん夫婦が、わたしを引き取ってくれたのです」

 急に金剛山の方から風が吹いた。風はさわさわと森をゆらした。

 「でも、朱鷺寺の御本仏が信号灯だとしても、もうこの場所から動いてしまっている……」

 ぼくに一言は、由希子の中に大きな悲しみをよみがえらせたようだった。

 「そうです。この森が同一地点示す範囲限界なんです。朱鷺寺の御本仏は長禄三年以降、信号灯としての役割は果たせなくなっているんです。だから、機械とともに飛ばされた男に迎えに来てもらうことも、もといた世界の人たちに助けてもらうことも出来ないんです」

 また風が吹いた。

 ぼくは、目の前の娘の突拍子もない話をなぜか素直に信じることができた。葛城の空の下、小さいながらも深みを感じさせる森を見ていると、時間を越える人々の話もあり得ないことではないという気がしてきた。

 「おかしなものですね」

 由希子はまるで独り言のように言った。

 「人間て、だめだとわかっていることにでもつい望みをかけてしまうものなんですね。実は先日も森脇の方へ行く用事あったもので、ついでに一言主神社にお参りしてしまったんです」

 「ぼくが、今聞いたことをよそでしゃべったらどうしますか?」

 どこからそんな問いが出てきたのだろう。しかし、由希子は、軽く笑って答えた。

 「また記憶喪失になりますわ」

 ぼくも思わず笑ってしまった。

 「どうも、お世話になりました」

 ぼくは不器用に頭を下げた。

 「お参りありがとうございました。本当にお気をつけて」

 由希子も深々と頭を下げた。

 ぼくは女の視線を背中に感じながら歩きはじめた。

 畦道を数メートル歩いた時、背中に何かの気配を感じた。振り返っても誰もいなかった。由希子の姿もなかった。

 朱に染め上げられた風景の中、黒々とした鎮守の森はぼくを呼んでいた。

 誰かが、ぼくを刀岐神社に導こうとしていた。抗いがたい力が、ぼくの体を動かそうとしていた。そうするのが、ここへ来た目的でもあるかのように、ぼく自身の意識とは関係なく、足が動いた。

 鳥居をくぐり薄暗い森を抜けて、ぼくは夢見塚の前へ出ていた。あの石は、やはりずっしりとした存在感でぼくに迫っていた。それは、多くの物語をはらんだこの森に宿る“氣”というものだろうか。

 ぼくは夢見塚の前にたたずんだまま、目をとじた。風が吹いてきた。風は、ぼくの背後から吹きつけた。

 さわさわ。さわさわ。

 風は脈打つように、強くなり弱くなりしながら吹き続けた。時の波動をもたらす、“氣”の風だろうか。

 瞼の裏から、あたりの残像が消え去っていった。闇の中で、ぼくはだんだん強くなる風を感じていた。不意に体が浮き上がるような気がした。

 自分の体が、遠くは遠くへ飛んでいくのがわかった。

 

 夢を見ているようだった。

 一つの風景を、正面から、真上から、すぐそばから、遠くから、同時に眺めていた。自分が肉体を持たずにその場にいることがわかった。

 森があった。山が見えた。これは刀岐神社の森だ。そして山は金剛山だ。森の中に二つの板張りの建物がある。これがもとの刀岐神社と朱鷺寺だ。昼間だった。空は晴れわたっていた。

 青い空に一筋の雲が立ち上っていた。森の中から「わーっ」という声と馬のいななきが聞こえた。そして、二十人以上の人間が森の中に走りこんできた。五、六人が逃げ、残りがそれを追っていた。逃げているのは蓑を着て笠をかぶった男たちで、追っているのは胴巻きをつけ、手に脇差しや弓を持っている侍たちだった。そのうち三人は火のついた松明を持っていた。侍たちのあとから一頭の馬に乗った、侍たちの頭らしい人物が現れた。口髭を生やした、堂々たる侍だった。この男だけが槍を持っていた。

 ぼくには、これが長禄三年の光景であることがわかった。逃げているのは一揆を起こした農民たちで、追っているのは筒井順永配下の兵たちだ。

 農民たちは次々に殺された。侍の中には、斬られて倒れた農民の蓑に松明で火をつける者もいた。激しい悲鳴を上げ、煙と炎に包まれていく農民に、侍はとどめを刺した。肉の焦げるいやな匂いがあたりにたちこめた。

 一人の農民が必死で逃げ回っていた。やせ細った、もう老人と言ってもよい年恰好だった。男は朱鷺寺の方に駆け寄ると、堂の扉を開いた。侍たちが追いつく前に、老人は堂に入り、内側から扉を閉めた。侍たちが駆け寄り、扉を開けようとした。だが、なぜか扉は動かなかった。

 「火を放て!」

 馬上の侍頭が叫んだ。松明を持った兵たちが堂の周りを取り囲んだ。

 ふっと、ぼくの視野が変わった。

 視点は堂の中に転じていた。薄暗い堂の中で老人が震えていた。堂の中にあった大きな箱を扉に押しつけ、不安な面持ちで体を震わせていた。外の侍たちが退くのが気配でわかった。箱を押しつける手をはなし、堂の奥を見た。板造りの素朴な須彌壇の上に朱鷺寺の本仏がのっていた。老人は須彌壇の方を向いてすわり直すと両手をついて頭を下げた。

 「非礼をお許し下さいませ。わたしたち高間の村の者は、金貸しをしている高間寺のやり方に抗し、徳政を求めて一揆を起こしました。一揆は潰えましたが、村にこれ以上の災いが及びませぬよう、何卒、御願い致しまする」

 老人のことばを聞くうちに、ぼくは自分の中に何か響くものを感じていた。自分が何のためにここにいて、この光景を見ているのかはわからなかったが、こここそ自分の目的地だという自覚があった。自分の肉体が少しずつ形をともなって、堂の中に現れようとしていた。堂の中の土ぼこりの匂いと老人の体臭さえ鼻に感いていた。

 気がつくと、体から白い光を放ちながら、ぼくは老人の前に立っていた。老人は堂の床に額を擦りつけ、震え上がっていた

 “我、汝を助けん”

 ぼくの中から、ぼく以外のものの声が出た。

 “恐れず外に出るべし。我、汝を守らん”

 ぼくにはもう自分の体、自分の行動を支配する力はなかった。第一、その場にいるのが果たして本当の自分なのかどうかさえ、とうにわからなくなっていた。

 老人は震えながらもゆっくりと立ち上がり、箱をどけて扉に手をかけた。外のようすを窺いながら押す。ぎーっ、と音がして扉が開いた。松明を持った筒井の兵たちが、堂を取り囲み、今しも火を放とうとしていた。その周りには、脇差しや弓を持った者たちがいた。どうやらこのあたり一揆狩りは、あらかた終わったようだった。

 老人の背後から出てきたぼくを、侍たちは呆然と眺めていた。ぼくは白く、ぼんやりと輝きながら宙に浮かび上がった。

 “此の地を犯すなかれ”

 ぼくの中から、太い声が響き渡った。侍頭の乗っていた馬が急にいななき、前脚を上げた。鬚面の侍頭は馬にしがみつきながら叫んだ。

 「ひけー!」

 その声が合図となって、自失していた侍たちが一斉に逃げだした。あとには、斬り殺されたり焼き殺されたりした村人の死骸が残されていた。

 ぼくの体はそのままさらに浮かび、老人の頭上にとどまった。

 “ゆめゆめ本仏、動かすべからず”

 老人はその場に土下座し、さらに胸元で手を合わせた。

 ぼくは、体が大きく飛び上がるのを感じた。あたりの景色が一変する。眼下に、刀岐神社の森が広がり、それを囲む高間の村の田畑も見えた。ぼくは、いや、ぼくの中の何ものかは、やるべきことを終え、えらく爽快なきぶんだった。ぼくの体は金剛山を横に見ながら、北の方へ飛んでいた。目の前に葛城山が迫ってきた時、ぼくは、ぼく自身は、自分を動かしていたものが何であるかを悟った。

 葛城山の麓に落下しながら、意識が薄れていくのがわかった。ぼくもえらくうれしい気分だった。

 

 もどった所は、夢見塚の前だった。

 もう、あたりには夕闇が迫っていた。長い長い夢からさめたようだった。

 全身に軽い疲労をおぼえながら、ぼくは大きく息をつき、塚に背を向けて歩き始めた。

 「あの、あの」

 鳥居を出て少し歩いた時、前から走ってくる人影があった。由希子だった。片手に厚い本を持っていた。

 「まだ、いらしたんですね」

 「何だか、名残り惜しくて……」

 「わたしも、あなたがまだ近くにいらっしゃるような気がしたんです」

 由希子は固く思いつめた何かを、ぼくに向かって打ち明けようとしているかのようだった。

 「家にもどって、部屋の片づけをしていると、父がへんなことを言い出すんです。あなたは、近ごろめずらしい人だ。わざわざ朱鷺寺の御本仏を見に来るなんて。そう言うんです。わたしが、たまたまお参りによって下さっただけよ、と言うと、前もって手紙をくれたって言うんです」

 ぼくは黙って聞いていた。遠くでからすの鳴く声が聞こえた。

 「もしかしたら……そう思って、父にそれとなく色々聞いてみたんです。そうしたら、朱鷺寺は明治の廃仏毀釈の時に焼かれたって言うんです。御本仏はそれ以来ずっと家に伝わっているって……」

 薄暗いので、よくはわからなかったが、由希子の目には涙があったようだった。

 「わたし、もう一度『寺社雑事記』を調べてみたんです」

 由希子は持っていた本を開いてぼくの方に差し出した。それは、さっき小野氏に見せてもらった『大乗院寺社雑事記』にまちがいなかった。かろうじて字が読める明るさだった。

 『一、カツラキノ高間寺、炎上す。徳政のゆえなりと云々』

 長禄三年九月二十七日の、該当の箇所にはそれだけしか書かれていなかった。

 「あなたですか? あなたが時間線を修復して下さったんですか?」

 由希子はぼくを見ながらたずねた。

 「ちがいますよ。ぼくではありません。ぼくといっしょにここに来た、神ですよ」

 「神?」

 「お参りしたっておっしゃったじゃないですか。神だからこそ、時間線を直しただけじゃなくて、ぼくとあなたをその新しい時間線に移すことができたんですよ」

 女は目を見開いた。

 「実はぼくも、ここへ来る前にお参りしてきたんです。たぶんその時、ぼくの体に憑いていっしょに来たんですよ」

 「信じられない……」

 「もしかすると、あなたたちが時間を越えてこの地に降り立った時から見ていたのかもしれませんよ。それに、たった一つの願いなら叶えてくれると言うじゃありませんか」

 金剛山から風が吹いた。空には星が光り始めていた。

 ぼくと、時の神を待つ女は、夕暮れの森の中に立ちつくしていた。

 

             了

                             1990年執筆

 

 

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