挑発としてのSF論

 

 

 第1章 言語ゲームとしてのSF

 

1 本質論をめぐる混乱

 

 SFとは何か?

 その問題提起に基づいて書かれた、いわゆるSF評論はあまたある。

 しかし、それらを一読して、なんとなくしっくりこない、という感想を持った人も多いのではないだろうか。

 たとえば、福島正実編集になる『SF入門』。この書物の中で福島正実は、「SFは、本質的に、他の文学ジャンルの小説類と、小説である限りにおいて、なんの変りもない」と述べている。SFは小説である。それは、わかる。しかし、今日の状況を見たとき、SF映画やSFアニメはどうなるのか? 『SF入門』にはSF映画やSF漫画についての記述もあるが、SF小説とのかかわりを明確に述べてはいない。

 また、福島は別の箇所で、SFは「イマジナティヴな文学の流れの、今日的なあらわれだと思うのです」とも述べている。だが、SFとは、そもそも伝統から自由になった文学だったのではないだろうか。

 この、いわば「もどかしさ」は、これだけにとどまらない。

 SF評論を読むとき、ある場合には当てはまるが、別の場合には当てはまらない、あるいは、当てはまるかどうか疑問だと思う。

 それは、なぜだろうか?

 私の場合、その答えのヒントは、哲学の中に見つかった。

 手がかりを与えてくれたのは、ウィトゲンシュタインである。

 ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889〜1951)はオーストリア生まれの哲学者で、主にイギリスのケンブリッジ大学で活動した。いわゆる分析哲学の形成に影響を与えた一人と言われている。初期の著書『論理哲学論考』で有名だが、後期は初期とは異なった思想を展開した。以下、述べるウィトゲンシュタインの思想は、後期の著作『哲学探究』などに述べられたものである。

 「SFとは何か?」という問題提起に対しての答えは、「SFとはXXである」という形になるだろう。そして、おそらく、その内容は、作品Aにも、作品Bにも、作品Cにも当てはまる、性質Dを言明する形になるだろう。言い換えれば、これまでのSF評論は「SFの本質」、「SFという概念」を求めていたのだ。

 しかし、ウィトゲンシュタインによれば、このようなとらえ方は誤っているという。

 

 2 言語ゲーム

 

 ウィトゲンシュタインは次のように述べる。

 すべての言語活動(これは、単に学術的な活動だけではなく、芸術的な活動、生活の活動もふくまれる)や行為には、合理的な根拠は存在しない。

 言語活動や行為の背景には、その時代、社会、文化に固有のルールがある。ルールが違えば、同じ言葉(たとえば単語)を言明するときでも、意味はちがって受け取られる。

 「石板、五枚」という文は、それが述べられている状況によってさまざまな結果と結びつく。工事現場で棟梁が弟子に言ったのなら、弟子は五枚の石板を運んでくる。月探検隊のメンバーが言ったのなら、仲間はそれを記録に取る。

 そして、ルールは具体的な生活の仕方によって規定される。言語活動と表裏一体となった人間の生活のあり方を「生活様式」と呼ぶ。そして、生活様式ごとに異なるルールによって営まれる言語活動のことを「言語ゲーム」と呼ぶ。

 種々の言語ゲームのルールには合理的な必然性はない。「われわれは、ただ、そうする」のである。そして、言語ゲームのルールや生活様式に、共通する本質や概念もない。

 例えば「ゲーム」という概念の本質を規定しようとしても、盤ゲームが共有する性質の多くは、球戯には当てはまらず、また球戯に当てはまる性質の多くは、カード・ゲームには当てはまらない。

 それは、あたかも大家族の集合写真のようなものだ。父親と息子は鼻と目が似ている。息子と叔父は目と額が似ている。このように、互いにどこかは似ているけれども、すべてのメンバーに共通する特徴があるわけではない。お互いに何かしらの点で似ていることによって全体のまとまりがあるような関係、全体に当てはまる特徴はなくても、相互に何らかの特徴を共有しながら形成される緩いネットワークを、ウィトゲンシュタインは「家族的類似」と呼ぶ。

 

3 SFにおける家族的類似

 

 SFもまた言語活動の一種としてとらえることは妥当だと思われる。もちろん、ここで言う言語活動とは、単に活字で書かれた作品のみを指すのではなく、映像、演劇、絵画、音楽等もふくむ。

 SFを言語ゲームの一種としてとらえるならば、それは家族的類似で特徴づけられるだろう。

 それは、先の言い方で言えばこうなるだろう。作品Aと作品BにはD1という共通点があり、作品Bと作品CにはD2という共通点がある。しかし、A、B、Cともに共通するDはあり得ない。

 先の本質をめぐる議論の混乱を解決するのに有効な視点だと思われる。

 つまり、すべてのSF作品に共通の「SFの本質」、「SFという概念」は存在しない。あるのは、個々の作品同士の家族的類似のみである。あえて、言えば、あるのは家族的類似におけるさまざまな「類似の傾向」だけである。

 

 

 

 第2章 類似の傾向の分析

 

4 類似の傾向をどう見るか

 

 ブライアン・オールディスは『十億年の宴』の中で、サイエンス・フィクションには二つのビジョンがあると述べている。それらは、分析的ビジョンと空想的ビジョンである。

 オールディスの言い方を借りるならば、それらは「ウェルズのもの」と「バローズのもの」である。

 すなわち、前者は、科学、技術、政治体制などを分析し、批判する小説群であり、後者は、この現実の世界から離れた別世界での冒険譚である。

 「類似の傾向」として、まず考えられるのが、この「分析性」と「空想性」だろう。これらは、いわばSFの伝統的な傾向だろう。これに加えて、SFの歴史から言えば、ほとんど最近付け加わった傾向として「写実性」が挙げられるだろう。そして、考えられうるもう一つの傾向は、SFと言えば誰でも思いつく「科学性」である。

 もちろん、類似の傾向は、この他にも多く考えられうる。「宇宙」、「未来」、「超能力」、「ロボット」など、細かく見ていけば、いわゆるSF用語がほとんどふくまれてしまうだろう。しかし、ここで考えるのはSFに固有の傾向である。言い換えればSFという「大家族」の構成員同士における類似の傾向である。

 以下、これらの傾向について、科学性、分析性、空想性、写実性の順で考えていく。

 

5 類似の傾向としての科学性

 

 まずはじめに考えておかなければならない点がある。

 それは、SFで言う「科学(サイエンス)」が、本当の意味での科学か、という問題である。

 ジュディス・メリルは、その著『SFに何ができるか』で、SFの読者は、サイエンス・フィクションのサイエンスとはテクノロジーを意味するという無意識的な順応を行っていた、と述べている。

 類似の傾向としての科学性とは、技術性と言い換えてもいいかもしれない。

 20世紀のSFの主流を最初に作り上げた言えるヒューゴー・ガーンズバックが、最初に編集していたのがアマチュア向け電気専門雑誌『モダン・エレクトリックス』だったというのは象徴的である。

 しかし、SFにおける技術とは、多くの場合「超技術」である。

 すなわち、宇宙船、ロボット、タイム・マシン、ワープ航法、等々。それらの中には、その後の技術的な発展によって実現化されたものもあるが、多くのものは小説化された時点では空想の産物である。

 それらの「超技術」が、あたかも実現可能であるかのような錯覚を(少なくともそのSF小説を読んでいる間は)覚えるのは、その作品に用いられている科学を思わせる修辞によるためだろう。言い換えれば、SFにおける類似の傾向としての科学は、技術と超技術の間の連続性を保証する要素としてのものだと考えられる。

 

6 類似の傾向としての分析性

 

 ここで言う分析性とは、言い換えれば批評性、批判性である。

 典型的な例は、前記のオールディスが述べているようにH・G・ウェルズの諸作品である。

 勃興する科学・技術がこのまま進むとどうなるか。また、この宇宙の中での人間の地位とはどのようなものなのか。これらの問題に対しての洞察を込めて、ウェルズは小説を書いた。

 このような視点は、科学・技術に対する識見と、何より社会に対する考察がなければ書けないだろう。言い換えれば、この傾向はSFの社会性である。

 この傾向は、SFの歴史の中でも伝統的なものの一つだと言い得るだろう。

 

7 類似の傾向としての空想性

 

 奔放な空想性もまたSFの伝統的な類似の傾向である。

 オールディスも述べている、いわゆる「スペース・オペラ」と「ホース・オペラ(西部劇)」との類似性にも見られるように、この傾向は、神話的類型性とも言うべき特質を示す。

 それは、同時に「記号的」と言ってもいいだろう。

 「記号」としての主人公が、「記号」としての試練に立ち向かい、「記号」としての褒賞を得る。

 そこには、古代から中世、近世、近代、現代に至るまで一貫しているとも言える類似の傾向が見られる。

 

7 類似の傾向としての写実性

 

 この傾向は、種々の類似の傾向の中では、もっとも歴史が浅いと言えるだろう。

 これは、言い換えれば、物語を「本当らしく」見せる傾向である。

 空想科学小説と訳されるSFにしても、語っている内容を本当らしく見せる傾向を持つ、言い換えれば自然主義的であり、写実主義的である。これは、大塚英志も指摘するとおりである。

 この傾向は、人間の空想したものを、まるでそれがあたかも実物であるかのように描きたいという、いわば人間の本源的な欲求から起こってきたものであろう。

 

 

 

 第3章 日本のSFは実在しているか?

 

8 日本SFの特殊性

 

 日本のSF、わけても現代のそれに至る道は、欧米に比べるとかなり特殊だったと言えるだろう。

 アイザック・アシモフは「“ソヴィエト・サイエンス・フィクション”序文」の中で、アメリカSFの発展は次の三段階に分けられると述べている。

 第一段階(1926〜38)―冒険主流

 第二段階(1938〜50)―科学技術主流

 第三段階(1950〜?)―社会学主流

 そして、日本SFの場合、第二次大戦後、SFを根付かせる活動を通じて、このうち第三段階のSFが意識的に輸入された。

 つまり、日本SFはアメリカSFの伝統的な発展段階を経ないで成立したのである。そして、そこには日本独自の文化的、文学的事情もあいまって、大宮信光も述べているように、いわゆるファンダム(SFファンの世界)は、アメリカ的共同体幻想に浸り、プロダム(SFのプロの世界)はヨーロッパ流の非凡な作家たちで構成されている。日本のSFはそのような独特の特殊な世界を築き上げたのだった。

 

9 日本SFの本質

 

 先に述べたように、「SFの本質」は存在しない。同様に、「日本SFの本質」も存在しない。あるのは、「日本SF」を特徴づける家族的類似であり、個々の作品間の類似の傾向である。

 近年、日本のSF界で進行している現象があると考えられる。

 それは、先の言い方にならって言えば、「大家族的類似」から「核家族的類似」への移行である。

 すでに、ジャンルの無効化が言われてひさしいが、それは「日本SFの冬の時代」が言われて始めて以来変わらぬ基調のように思われる。

 かつて日本のSFは、既成の常識をくつがえす、新しい発見の文学だった。福島正実らが日本に根付かせようとしていたのは、必ずしも科学にはこだわらない、「ものの見方」の変更を迫る作品群だった。

 そして、そのような「既成の価値観を打破する」という一点においてのみ集結した作家たちの文学をSFと呼んだのだった。文字通り、梁山泊的な「SF一家」だったのである。特にいわゆる第一世代のSF作家たちにおいてはその傾向は顕著で、擬制的な家族集団と言ってもよかった。このことは、日本のSF作家たちの親睦団体である日本SF作家クラブにおいて、全員一致の決議のみが有効であるという慣習があることからもうかがえる。

 言い換えれば、初期における日本SFは、来るものを拒まない、大家族的類似を持っていたと言える。

 

  10 近年の類似の傾向

 

 ひるがえって考えると、近年の傾向は「SFの核家族化」とでも言うべき現象が進行していることである。

 「SF」というジャンル自体が無効化し、個々の作品のみが存在するという状態である。言い換えれば、かつて大家族としてあったSFが、小さく固まり核家族化したと考えられる。

 これは、小川隆の主張する「スプロール・フィクション」の概念に相当する。それは、「ピラミッド構造でもなく、未来に向かって進化していくという流れの構造でもなく、ただ拡散しながら融合し、現実を吸収しながら新しい領域を模索する小説群」である。具体的には、「主流小説(メインストリーム)のなかにも主流とはいえない、いってみれば伴流(スリップストリーム)といってよい作品の系譜がある」。そのスリップストリームを小川はスプロール・フィクションと名づけているのである。共通の作風などなく、どのジャンルにもとらえがたい作品群を指しているのである。

 この「スプロール化」は日本SFにおいて、近年急速に進んだと思われる。その背景にあるのは先に述べた日本のSFの特殊性である。

 日本のSFには、SFの歴史的伝統(言い換えればサイエンス・フィクションの伝統)が欠けていた。そのため「スプロール化」が急速に進んだと考えられるのである。

 

  11 SFファンの生活様式の変化

 

 第1章でも述べたように、すべての言語ゲームはその担い手たちの生活様式と切り離せない。近年の日本SFの変化は、日本SFの担い手、それも単に作家だけではなく、真の担い手であったSFファンの生活様式が変化したことと不可分だろう。

 小川隆は書いている。

 「SFファンであっても、実際にどこかのサークルに属している人はいまどれだけいるだろう? 属していたとしても、頻繁に会合は開かれているだろうか? そもそも自分をSFファンと言い切れる読者がいまどれだけいるのだろうか?」

 具体的例としては、SFファンが集まって行う催し、いわゆるSFイベントの開催件数の減少が挙げられる。また、すぐれたファンジン(SF同人誌)に贈られるSFファンジン大賞が2003年を最後に中止となってしまったことも、この傾向の一環と言えると思われる。

 この傾向は、SFの作り手の側では一層顕著である。

 映像作家の押井守が山田正紀との対談で述べているところでは、アニメ制作の現場ではあえてSFを意識してSFアニメを作る者は、まったくいないという。

 

  12 核家族化と概念の解消

 

 ここで言う「SFの核家族化」とは、大家族としてくくられた作品群が分化し、サブジャンル化していく過程としてとらえられる。それは、究極的には一作家一ジャンルとなる状態にまで行き着くのでないかと思われる。

 つまり、今の日本のSFは一作家一ジャンルとなるまでの過程の途上にあるのではないだろうか。

 核家族化が押し進むことによって、「日本のSF」という概念は、その本来の姿であるように解消の道をたどるだろう。繰り返すが、本来、共通の概念としてのSFは存在しないからである。

 星新一は福島正実との対談で、次のように述べている。

 「ぼくの考えだとSFというのはないのじゃないかということです。あるものは作家と作品だけで、SFの世界などはないのじゃないかと思うのです。各、個人個人のSF的手法における世界はあるけれども、SFという一つの世界はないのじゃないかという気がしてきたのです。」

 これは、1970年の対談だが、日本のSFはその初期から活動してきたパイオニアである星新一が考えるとおりの、本来の姿に戻るだろう。

 

 

 

 第4章 出会いを組織する

 

  13 SFの基層

 

 前章で、日本のSFが解消していくだろうと述べた。

 しかし、解消していくことと個人がそれにこだわることは別である。「個」としてSFにかかわり続けることは、各人の自由である。

 ただ、共通の概念が持てない以上、各人が自分の指針を持たなければならない。そのためには、自分にとってのSFの「類似の傾向」を自覚している方がのぞましいだろう。

 これから述べるのは、私にとっての類似の傾向であり、いわば私見である。

 SFにとってもっとも基層にある類似の傾向は、「内部と外部の出会い」ではないかと思う。

 「内部」とは個人であり、「外部」とはそれ以外のもの、例えば自然であり、宇宙であり、時間であり、社会である。

 小松左京は、SFが「個人としての人間」を超える領域を対象にする文学だと述べた。それは一面で正しい。しかし一方、巽孝之は、「主流文学は個人の人生を描き、SFは架空の世界を構築するなどという区分は、まったく便宜上の条件設定でしかない。」とも述べている。

 自分という個人が、外部の世界とどうかかわるのか。そこには葛藤があり、衝突があり、和解があり、調和があるだろう。想像力と経験によって、それを作品に投影したものこそSFだと思うのである。

 

  14 原点への回帰

 

 「内部と外部の出会い」という言葉を目にすると、一定の年齢以上のSFファンはJ・G・バラードを思い浮かべられることだろう。

 バラードは1960年代に、「新しい波(ニューウェーブ)」とよばれたSFの革命運動を唱道した。

 その要点は、SFは外部の世界にのみ目を向けるのではなく、内部と外部の出会うところ―内宇宙にこそ目をむけるべきだ、というものだった。

 私は、運動としてのニューウェーブの結果は別問題にしても、バラードの先見性には今、新たな光を当てるべきではないかと考えている。

 いわばSFの原点の一つとしてバラードをとらえ、そこに帰っていくこともまた必要ではないかと思う。

 

  15 出会いの組織

 

 文化人類学者の山口昌男は大宮信光との対談で、SFと人類学の共通性は、ともに「出会いを組織するもの」であると述べた。

 また、文化人類学者は「すべてがちがっている中で、相手が持っているコードみたいなものを解読していくことによって自分がやっていることに筋を作っていく」。その意味では「SFの主人公みたいな所がある」と述べている。

 これは、1984年の発言だが、その内容には普遍性があると思われる。

 つまり、内部と外部の出会いには、自分の居場所を確認し、そこから自分のあり方を認識していく機能があり、それを意識的に行うという意味において、SFと文化人類学は共通している。

 これは、これからのSFを考える上で有効な視点であるだろう。

 自分の経験における内部と外部の出会いにこだわりながら、私はSFを続けていくだろう。

 

 

 

参考文献

第1章 言語ゲームとしてのSF

*福島正実編『SF入門』(早川書房、1965年)

 福島からの引用はこの本の冒頭、福島正実「SFの定義をめぐって―序にかえて」より。

*ウィトゲンシュタイン『哲学探究』(大修館書店、1976年、ウィトゲンシュタイン全集8)

 ウィトゲンシュタインの思想の詳しい内容に関しては、次のものによった。

*貫成人『哲学』(ナツメ社、2002年)

 

 

第2章 類似の傾向の分析

*ブライアン・オールディス『十億年の宴 SF―その起源と歴史』(浅倉久志・酒匂真理子・小隅黎・深町眞理子訳、東京創元社、1980年)

*ジュディス・メリル『SFに何ができるか』(晶文社、1972年)

*大塚英志『キャラクター小説の作り方』(講談社現代新書、2003年)

 

 

第3章 日本のSFは実在しているか?

*アイザック・アシモフ「“ソヴィエト・サイエンス・フィクション”序文」

 福島正実編『SF入門』(前掲)所収

*中島梓『道化師と神』(早川書房、1983年)

*大宮信光『SFの冒険』(新時代社、1984年)

*巽孝之編『日本SF論争史』(勁草書房、2000年)

*小川隆「スリップストリームからスプロール・フィクションへ」SFマガジン568号(2003年6月号)

*小川隆「猫化する人間」(同)

*押井守・山田正紀「対談・天使の質量は誰がはかるのか?」SFJapanVol.04(2002年)

*星新一・福島正実「対談・SFと純文学の出会い」別冊奇想天外No.4(1978年)

 

 

 

第4章 出会いを組織する

*小松左京「拝啓イワン・エフレーモフ様」

 福島正実編『SF入門』(前掲)所収

*巽孝之『現代SFのレトリック』(岩波書店、1992年)

*山口昌男・大宮信光「対談・文化人類学的宇宙探検」

 第23回日本SF大会EZOCONU公式アフターレポート(1985年)所収

              (文中敬称略)

 

 

 

  あとがき

 

 この評論を完成させるにあたっては、二つの要素がなくては出来なかった。

 一つは、私の妻の友人である神戸在住のSさんご夫妻からSF評論関係の本を寄贈していただいたことである。これらの本には、現在では入手がむずかしいものもあり、SF評論を書いてみようという決意をする上での原動力となった。Sさんご夫妻には、心より感謝したい。

 もう一つは、やはりSF評論関係の本を入手するに当たって利用したインターネット・オークションのフリーマーケットである。現在では絶版の本もかなり効率よく入手することが出来た。言い尽くされた感はあるが、現代のネットの力はやはりあなどりがたい。

 私としては、本論を生涯唯一のSF評論とするつもりで書いた。生涯唯一にしては大したことがないという評価が下されるのならば、ひとえに私の力不足である。はたして、本当に生涯唯一で終わるのかどうかは、今の時点ではわからないこともお断りしておく。

 

                                            了

                                                  2004年5月執筆

 

 

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