2004年 


過去のひとりごとはこちら

11/29

お鍋囲んで
27日は恒例のホームパーティー。
今回はずわいがに&たらばがに
相方の友人が水産試験場水産加工会社にいるので
そこから毎年「カニいる?」と連絡が。
もちろん格安で購入♪
みんなでワイワイおしゃべりしながらカニをほおばります。
ワタシは数日前からあれこれメニューを考え
朝からキッチンに立ち当日はホステス(下宿屋のおばさん?)役に徹します。
自分の口に入るカニは少しだけど
それ以上にみんなとの時間が本当においしくて〜〜。
午後からスタートしてお開きは深夜。
片付け物など苦になりません。
スタートは日本酒&焼酎だけどワインの差し入れもあるので
洋風メニューも頃合いを見計らって手早くササっと。
「おいしいーーっ!」
「いつもありがとう!」
「たのしかった〜〜!」
いえいえ、こちらこそ♪
いつもありがとネ。

お外で食べるのも大好き。
でもおうちで食べるのはもっとすき。

そして28日は家族でカニ。
退院後伊豆に帰っていた母が父とともに上京してくる日だったので
一人暮らしを始めたyukaにもメールを送って全員集合。
昨日とはまたちょっとメニューを変えて楽しみました。
昨日は大人10人だったから大賑わいだったけど今日は6人。
余裕で準備ができます。
「今日はお父さん来るからアレ空けようね」
「うん!」
ワタシもゆっくり飲みました。
珍しく酔っ払った・・・かな。
両親も子供たちも楽しそう♪
相方も楽しそう♪
そんな風景を見ていてワタシはとってもうれしかったんだ。

この一年いろんなことあったなぁ。
でもみんなが元気で笑顔でこうやって過ごせる時間が
そんないろんなことの全てを埋めていくよなぁ。
ますます楽しいことに変わっていくなぁ。

戻るところがある、居場所がある、おいしいものがある、笑いがある
そこにあるのは豊かで芳醇な時間。
つらいことはそれらを引き立てるスパイス。
あんこにお塩をちょっと入れると甘さが倍増するのと同じね。
隠し味は隠してあるから意味があるってこと。



11/26

親子関係
仕事部屋にも書いたけど、最近はこころが痛む出来事が本当に多いです。
テレビを見ていてもため息が出る事件ばかり。
たしかに親って言うのはうるさい。
やろうと思っていたことも、実にタイミングよく圧力をかけてくるんですね。
「宿題やったの?」
「練習は?」
いわれたとたんにやろうと思っていた意欲が萎え、カチンとくる。
「うるさいなぁ。わかってるよ」」
「今やろうと思ってたのに」
「何!?その口のききかたは。」
親子げんかなんてこんな調子で勃発し、お互いの虫の居所が悪いと
もうそれは大バトルへと発展する。
ずっと内圧をかけられ、あるとき一気に爆発する。
それは「家族(身内)」がターゲットだったり「他人」だったりさまざま。
その「ふてくされ感情」は小出しにしていてリセットされる場合もあれば
そうでない場合も多分にあるわけで
同じ兄弟姉妹でも全くといっていいほど反応が違ってきます。
どんな環境でもまっすぐ育つ子もいればそうでない子もいる。
これはいつの時代も同じ。
目立つ子もいれば、目立たない子もいる。
リーダーシップを常にとる子もいれば、従う方がラクって子もいる。
扱いにくいって思う子も他ではそんなことなかったり。

そして、その子の「子供(赤ちゃん)」のときのことを知ってる人は
痛ましい事件を見聞きするたびに「信じられない」のが現実。
「なんでこんなになっちゃったんだろう」
「親が甘いから(厳しいから)ねぇ・・」
と、素直にその感情を口にする。

親だってつらいのよ。
子供だってつらいのよ。
「子育て」も「親業」もマニュアルどうりにはいかない。
ともに「思い通り」のはならないってこと。

ある程度の年齢になったら手放すことかな・・
それは動物の親たちがなめるように育ててきた我が子を
時期がきたら「離す」のと同じ。
巣立ちのとき、子離れのとき、親離れのときを
本能としてきちんと見極めるってこと。

「家のいる方がラクってことだよ。家にいれば親が何でもやってくれるじゃん。
でも、学校に行くと自分でやらなきゃなんないでしょ。
自分の意見も自分でいわなきゃならないし、誰もやってくれないもんね。
いじめられても自分で解決しなきゃならないんだもん」
「社会に出ればそれはもっとだよね。いやなヤツって学校の比じゃないよ。
思い通りにならないことばっか。」

これはある日のsakiと相方の会話

「でも、親は子供を全力で守ろうって思うのよ」
「守るのと、過保護はちがいますからー。残念!」

確かに、そりゃそうだわ。
あのyukaもどうにか一人暮らししてるようだし、
やっぱり自信持って(子供を信じて)
手放すことが子育ての仕上げなのかもしれないね。

親子関係は永遠の課題ってことか・・。



11/10

20年ぶりの再会
大阪に住む友人から電話がかかってきた。
父の教え子でもある彼女はワタシの高校受験時の家庭教師でもある。
歳が近いこともありその後も交流があったけど
直接会うことはほとんどなかった。
そんな彼女から電話があったのだ。
彼女のご主人は現在病床に伏している。
音楽で元気づけてあげたい。
彼女の願いは「ご主人を元気にする」ことだけに集中している。
良いと言われる事はすべてやった。
涙はもう流し尽くした。
現実を受け入れることもできる。
あとは残された時間を「穏やかに」紡ぐだけなのだ。
「声帯を切除してるから一緒に歌うことはできないの」
「モーツァルトのCDは持っていったけど」
・・・・・・・・・・・・・・・・
「大阪に行って来ようかと思うんだけど・・」
「ん、行っておいで。気をつけてね。」
こういうときのワタシの決断はとてもすばやい。
相方のレスポンスもはやい。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「今日レッスンないから遊びに行ってもいい?」
「ホント!?いいの?昨日電話してよかったー。待ってるね!」

15時に新大阪で待ち合わせて彼女の家へ
その後自宅レッスンを少しだけ手伝って
(これがまた次から次へと生徒ちゃんがくるのだ)
大阪城を眺めながらゴハンを食べて
おしゃべりして
お昼前の新幹線で帰ってきたワタシ。
幸い、ワタシのレッスンは夜からだったから充分間に合う時間。

わずかな時間だったけど会いに行ってよかった。
たくさん笑えてよかった。
レッスン見学&お手伝いできて勉強になった。
慰めの言葉よりも会って他愛もないおしゃべりをするほうがずっと元気になる
彼女が元気になればご主人だってうれしいはず。
「いろんなことを自分ひとりで決めていかなければならないのがつらいわ」
「仕事やっていて良かったって思うのよ。その時だけは気が紛れるし。
だってそれ以外はずっと考えてるわけだし。夜がイヤよね。静か過ぎて」
「さだまさしの詩が染みてくるのよ。いい歌たくさん書いてるのよ。
マイナーだなーって思うけど全部そろえちゃった。ハハハ」

「夫婦のいいところはくだらない日常会話ができるから」
これははるか昔に彼女が言った一言。

「もっと落ち込んでると思ったでしょ?」
「もうその時期は過ぎたんでしょ?」
「そうね。たくさん泣いたけどね」

彼女は一生懸命「元気」になろうとしている。
目の前にある現実から逃げることなくしっかり立ち向かおうとしている。
彼女は今日も病院へ行きご主人との時間を慈しみ
帰宅後は一息入れる間もなく夜までレッスンに追われるんだろう。

この20年いろんなことがあったよね。
喜びも悲しみも人生の勲章だから胸張っていこ。

未来を危惧しても始まらない。
「今」をどう生きるかだ。



11/5

ところ変われば
相方の伯父が亡くなり、急遽大館(秋田)まで行ってきました。
こちらだと葬儀もセレモニーセンターなどで比較的簡素略式で行われますがあちらの昔ながらのしきたりや独自の作法に驚きの連続。

お通夜に当たるものが「湯かん、納棺」そして盛大にお食事会
「お通夜」とはいいません。
この時点では祭壇はまだありません

翌日が火葬、拾骨
(二人でひとつの骨を、っていうんじゃなくて一人が数個の骨を拾います)
そして自宅に戻り再び盛大にお食事会
帰宅すると祭壇ができていました。

その翌日が葬儀、法要、(墓地まで行列で歩いていき)納骨
各家長のみのお食事会(お膳が用意されます)
そして再び自宅に戻りこれまた盛大にお食事会。
私たちはこの食事会の前に失礼させていただきました。

すべて自宅で行いました。
ご近所が手間をするというより、そのご近所がほとんど親戚だったというから
それはそれで驚いたワタシです。
最初からの段取りや諸々をこなしていた長男のお嫁さんは
さぞかしたいへんだったろうと思います。
私たちが参加したのは出来上がった中のほんのさわりだけ。
これで疲れたなんていったら罰があたります。
そのわずかな中でも作法もいろいろでした。
ワタシには初体験ばかり。

親族の女性は老いも若きもみな頭部右側に
ガーゼで作った白いリボンをつけ(かわいいですよー)
男性は背中(襟のところにはさみます)にガーゼを張ります。

そのたびに母に「これからどうなるの?これは?」とコソコソききっぱなし。
結婚式もお葬式も今まで何度か出席しています。
でもそれらはみなこちらでのやり方なんですよね。
物の本にも宗派別に記載されているくらいで
細部にわたって事細かに書いてあるわけではありません。

そしてやってしまいました。
順番にお写真に手を合わせる場面です。
流れるような合掌までの一連の動作。

え・・・?祭壇脇に水の入った桶が。
目の前には三分の一くらいお水の入ったコップが4つ。
どうすればいいの?水をいれればいいの??
わかんな〜〜い!
背中越しに手順が見えるわけでもなく
ワタシのところで時間を食うわけにも行かず。
気持ち少なめにひしゃくでお水をすくい
一番すくないコップの中へちょろちょろ・・・

そうです。そのまま注ぎ足したんです。
ごめんなさい!
古いのから捨てて、改めて注ぐんだったのね・・。
ワタシが手に取った手前にあったのは一番新しいやつだったのね。

あぁ、知らないってのは罪だわ。恥だわ。しかもこの歳で・・。

「これでも随分略式なんだってさ。うちの方はまたちがうみたいだよ」
って、誰かが死んだときじゃ遅いんだよー。
・・・・・こればっかりは事前学習はできません。

マナーの本には書いてないことばかりの三日間でした。




11/1

段取り力
社会で生きていく上で最も必要で大事なのがこの段取り力。
数日前テレビでもやってました。
何をするにもこの「段取り」ってのが要求され
これが優れている人は仕事も家事も勉強も人間関係もスムースで円滑。
なのに学校ではとりたてて教えてくれない。
生きる力はまさにこの段取り力の有無だといっても過言ではないでしょう。
先読み能力、イメージング、シュミレーション
物事の結果(完成)とそれを作り上げる(使う)素材をいかに結びつけるか
これがきちんとわかっていれば仕事は早いし正確で利益につながるわけ。
まさに料理と同じ。
でも、この段取り力って経験でしか得られないんですよね。
本を読んだり、人のやってることをみているだけじゃ得られない。
実際にやってみて初めて獲得するもの。
経験を積むなかで、たくさんの失敗とわずかな成功をくり返しながら
失敗と成功の比率に一喜一憂し徐々に体得していくもの。

「レッスンするときはいつもその先の完成図を考えながら
今日はここまで、とか、コレも教えておこう、とかやってるよ」
「それを頭の中で把握してるだけじゃなくて
ちゃんと文書にまとめるとマニュアルになるんだよ」

そんなもんなのか・・・

段取りってその人独自のやり方と一般的なやりかたとあるじゃない。
どっちがいいかなんてやっぱりそれぞれだと思うんです。
人によって段取り力はちがうけどまさに「何事も経験」ですね。
考えているだけじゃ力はつかないってこと・・・だ。