春は名のみの [3]


 伏見、寺田屋。
 春介は歩みを止めた。
 そこは騒然としていた。
 ざわめき、泣き声、そして死臭。
 春介は人をかき分け、その場を見た。
「有馬・・・。」
 六つのむしろの中の一つから見知った顔が覗いている。
 思わず何刻か前のその人のように刀の柄を握りしめる。
「新七がぁー、『おいごと刺せ』って言ったでぇー。」
 むしろの側で返り血を浴びた男が半狂乱で泣き叫ぶ。
「おいも死ぬ。死なせてたもんせぇ。」
 自分の腹に脇差をつきたてようとするその男の腕をもう一人の男が無表情で掴む。
「久光公は我々を裏切りもしたなぁ。」
 絶叫が天を刺す。
 人だかりが、同士討ちを噂する。
「久光公が・・・。」
 衝撃であった。
 藩を信じる純粋な心は、薩摩藩士だけのものではない。
 春介は魂の抜けたような彼らから目をそらし、その場を去った。
 何刻か前に自分に対峙していた、生身の人間が、あの声が、あの腕が、あの思想が、今は屍となって自分の目に映っている。
 有馬は何のために命を捨てたのか。
 犬死か。
 それでも、ここで自分が消えてなくなるのに比べれば、何倍もの意味をもつのかもしれない。
 春介は歩いた。
 せめてあいつがこの世にいなくなった証を感じなくなるところまで。
 蕾をつけた桜の幹にぶつかって足を止めた。
 向こうに見える天誅の血の舞台の四条河原も今朝は穏やかな春の風を運んでいた。
 春介はそこで、有馬から預かったわしを開いた。

 鳥が鳴く吾妻の空へとぶ鷹のつばさをがもよ翔りても往かも

 朝日の中に翼を広げた鷹が一瞬、きらめいた気がした。
 その眩しさから顔を背け、有馬の心がしたためられた和紙を握りつぶす。
「何故、死に急ぐ・・・。」
 有馬の行動は春介に近いようで遠いものに思われた。
 同藩の者の息の根を止めるために、自分の命を犠牲にするなど馬鹿げている。
 やはり、有馬は犬死にだ。
 藩を動かす権力のある者でなければ、足掻いていたってどうにもならないのだ。
 春介は自分の頭に言い聞かせる。
 しかし。
 春介の中にあるのはそんな大義名分ではなかった。
 死への恐怖。
 春介は志士ではない。
 国のために命を投げ出すことをためらっている、単なる浪人だ。
 巣から飛び立てないひなに過ぎない。
 有馬は翔んだ。
「つばさをがもよ翔りて往かも・・・。」
 思わず口に出した。
「素敵な句でございますね。」
 背後からの女の声にはっとして身を固くする。
 早朝の薄明かりの中で、藤色の着物に笠をかざした女が立っていた。
「急に、お声をおかけして、失礼致しました。」
 そう言いつつ、顔を覆っていた笠をはずした。
「!」
 春介は仰天した。
 女は日本髪を結ってはいたが、みごとな赤毛で瞳は青色だった。
「私を殺めますか?」
 女は眉ひとつ動かさず、言い切った。
「・・・いや、殺めん。」
 春介は攘夷論者である。
「私の名はふじ。国は宇和島です。」
 女は深々と頭を下げた。
 朝日に照らされたふじの髪は、黄金色に輝いていた。


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