秘められた復元力・発達と再生

 

損傷された脳の機能代償とみずからを修復していく柔軟性。
驚くべき可塑性をもった、脳再生への謎を解き明かす。



人類は35億年の生物進化の中で、他の動物にはない、複雑で高度な精神活動を生み出す脳を作り上げてきた。高度な精神活動を支えるために、脳の機能を細分化し、ユニットに分けて、一つ一つ個別の能力を研ぎ澄まし、そして統合するシステムを人間は選んだ。この発達形態を脳が確保することにより、地球上の生物の中で、進化の頂点に立つことができたのだ。

人間の脳の機能分担はだいたい次のようになっている。

大脳は左右二つに別れ、左半球は一般に言語や計算、理知的な機能を分担している。これに対して、右脳は空間認識や芸術的な作業など直感的な機能に関わっている。脳を横から見ると、脳の後ろの部分、後頭葉という領域は視覚に関係しているし、側面の側頭葉は記憶、脳の上面の頭頂葉は皮膚感覚を身体の部分ごとに分担、その前には身体を動かすための運動野という場所が、これまた身体の部分ごとにきれいに並んでいる。そして脳の前方には、認知、判断、創造などをつかさどる前頭葉という部分がある。要するに、脳は複雑に機能を分担している精密機械なのだといえる。

したがって、もし脳の一部が壊れると、脳の機能の一部が失われて、重大な障害が発生する。視覚野が損傷すると視力を失い、言語野が損傷すると言葉を失い、運動野が損傷すると運動障害になり、体性感覚野が損傷すると外からの刺激を感じなくなる。

 

脳はどのように完成するのだろうか


成人の脳は、数百億から一千億個以上のニューロンからできている。その一つが無数の樹状突起を持ち、その突起にあるシナプスという連絡点で、他のニューロンの軸索から伝わってくるインパルス(情報)を受け止めている。

一つのニューロンには数十から数万ものシナプスがあり、そこに他のニューロンから情報が入力してくるわけだから、そのネットワークは、まさに想像を絶する数の組み合わせによって成り立っている。この複雑きわまりない脳のニューロン・ネットワークが完成するプロセスの裏には、ある整然とした順序と、ドラマチックともいえる不思議な現象が存在する。

私たちの体は、卵子が受精した後、分裂を繰り返して出来上がっていく。脳の始まりは、受精後19日目、胚子の中央部に神経板と呼ばれる脳の原形ができるときに遡る。その後、板状の神経板は管のような形になり、次第に脳と脊髄の形を作り始める。

神経繊維のネットワークは身体じゅうに張り巡らされ、そして受精後9ヶ月になったときには、胎児の脳は大人の脳とほぼ同じ形に成長している。出生時、脳の重さは平均で400グラム。その後。脳の重さは、生後6ヶ月までは急速に、その後は緩やかに増加し、3−6歳で成人の脳の重さの95%くらいにまで成長する。

この生後の脳の重さの変化は、ニューロンの数が増加するのではなく、突起が複雑に伸びたり、シナプスの数が増えたり、ニューロンの周辺にできるグリア細胞(ニューロンに栄養を補給したり、保護したり、ニューロンの軸索を包む髄鞘を作って、インパルスの伝導速度を高めたりする細胞)が増えていくためだといわれている。

子供の脳がさらに大きく育ち、やがて1400グラム程度にまで大きくなるということは、ニューロンの突起が豊かに張り巡らされ、脳の機能を支える膨大なニューロン・ネットワークが作られて行くからなのである。

人体のほとんどを構成している体細胞は、生まれた後も分裂を続ける。だが、ニューロンは他の細胞と違って分裂することがない。その代わりに、突起を伸ばし、つながりをみずから作っていくことによって、脳の機能のベースを作っていく。この意味でニューロンは、人間の寿命と同じだけ生き、私たちは同じニューロンと一生つき合っていくということになる。

 

脳はこうして壊れていく


脳のエネルギー消費量はすさまじい。その栄養は血液から供給されており、全身を巡っている血液量のおよそ八分の一を必要とする。成人の場合、脳の重さが全体の四十分の一くらいであることを思うと、脳がいかに血液を必要とする臓器であるかがわかる。酸素消費量を見ると、全身が必要とする酸素量の五分の一を脳が消費しているのである。

ある説によると、脳への血流が十秒間ストップしただけでたいていは意識を失い、脳全体の酸素欠乏状態が二−三分続いただけでも死ぬか、命を取り留めても正常な暮らしはできなくなるだろうといわれている。

脳への血液の供給が絶たれ、その下流の脳細胞に酸素やその他の栄養が行かなくなり、ニューロンが死滅する。その後に脳浮腫、内圧亢進、新たな虚血、ニューロンの死という深刻な悪循環が起きる。この悪循環の行き着く先は、脳幹の圧迫死、つまり脳死である。
脳は壊れやすく、いったん壊れたら再生しないという神話が生まれた。

 

損傷した脳がときには機能を取り戻すことがある。


脳の機能の代償が起こるためにはいくつかの条件がある。

まず、損傷を受けた脳が発達過程の未熟な脳であること。次に、損傷が大脳半球のどちらかに限られていてしかもも大きいとき、損傷を受けなかった側の大脳半球の機能代償につながる。

大脳半球が反対側の機能を代償できる年齢は、男性で五−六歳、女性では十二−十三歳だという。また、脳に対する環境刺激の効果も女性が高いという。

ある程度年をとったあとの脳損傷は、極めて治りにくいといわれている。たしかに子供の脳に比べてその回復力は非常に遅く、また、回復などまったく望めないように見える場合も多い。

しかし最近の研究では、亡くなった老人の脳のニューロンの突起の広がり具合を見ると、ニューロンの数は減少しているものの、残されたニューロンから出ている突起は、若い人を上回るものも見られるという。また、老人のニューロンに神経栄養因子を与えて培養すると、突起を伸ばしていく様子も観察されている。

これは、脳がたとえ老化しても、残されたニューロンの突起が作るネットワークを豊かにすることで、脳の機能を高めていくことができることを示している。

脳が機能を回復するときにはいくつかのレベルがあるように思われる。まず、眠った回路が呼び覚まされて機能が再生するというメカニズム。これは比較的短時間で起きる。

次に、失われたニューロンの近くのニューロンから発芽が起き、新しいネットワークが作られるというメカニズムである。これには少し時間がかかるが、ニューロン・ネットワークの構造そのものが変わるというダイナミックな現象である。そして、この二つの現象は複雑に絡み合いながら、脳の機能の再生を呼び起こすのである。

 

ネットワークの再構成


脳損傷が起き、それに伴って発芽によるニューロンのネットワークの再構成が起きるとき、ミクロのレベルでは何が起きているのだろうか。

まず、衝撃によってニューロンの軸索が切れるか、特定のニューロンが破壊されると、今までニューロンを保護して栄養などを補給していたアストロサイトは突起を縮め、丸くなって傍らで待機する。損傷を受けたニューロンはミクログリアによってきれいに掃除され、食い尽くされる。

ミクログリアはニューロンの残骸を食べながら、サイトカインなどの物質を放出。これが引き金となってアストロサイトが分裂を始め、ニューロンの死滅で隙間となった脳組織を、アストロサイトが固め、補強する。それと同時にアストロサイトはNGFなどの栄養因子を放出し、近くのニューロンの軸索からの発芽を促す。

発芽を起こした近くのニューロンの軸索はまるで無数のヘビのように周囲を動き回り、もとからあったネットワークの受け手側のニューロンに接続して、新しく沢山のネットワークを形成する。ここまでが脳の機能の再生の第一段階である。

脳の機能の再生の第二段階は、次のようにして起こる。

一つのニューロンにいくつもの軸索が接続して、とりあえずそのうちのどれかが正しい接続だと仮定しよう。もともとニューロンの接続部分(シナプス)には、シナプスのつながりを維持する不思議なメカニズムがある。

あるニューロンから情報が流れ、シナプスを経由して次のニューロンに情報が伝えられるとき、情報をもらった側のニューロンから情報提供側のニューロンにおかえしとして、NGFなどのニューロン成長因子が放出されるのだ。

ニューロンは一本では生きていけない。生きていけないというよりも、複数のニューロンが手をつないで、より複雑な情報ネットワークになることこそ、その生物の情報処理能力を高め、激烈な進化のゲームで勝ち残っていける基本的な要因となる。

あるニューロンを取り合うようにランダムに接続した多くの軸索があるとする。リハビリによってその中のもとのネットワークに最も近い軸索に強い情報(インパルス)が流れてくると、当然その部分で大量のNGFなどが放出される。

さらに、高頻度のインパルスが流れるシナプスからはある種の抑制物質が放出され、まわりのインパルスの頻度の少ないシナプスの活性を下げる。その結果、インパルスの多いシナプスはさらに強くなり、インパルスの少ないシナプスは弱体化して、ついにははずれていく。こうして、使われるネットワークが残り、さらに強化されていくのである。

これがリハビリをすると脳の機能が再生され、能力を蘇らせていくことの、ミクロの世界の仕組みである。


誕生、発達、再生、成熟。深遠な脳宇宙に息づく生命の力


脳が心を作り、心が脳を育む。私たちの脳と心は、時として、信じられない力を見せることがある。発生、発達、分化、代償、再生。そうした素晴らしいドラマを垣間見るとき、私たちはある種の感動を禁じ得ない。

その脳宇宙の深遠、秘められた創造力、人智を越えた摂理の素晴らしさは、私たちにつねに希望を与え続けてくれる。そして、かけがえのない脳と心を維持し、あるいは取り戻そうとする試みは、しばしば奇跡をもたらしてくれるのだ。

脳の不思議、心の可能性。そして、生命の仕組み。これらの奇跡の源を、私たちはまだ解明してはいない。だが、秘められた力、奇跡を呼ぶ力は、脳自体が持つ可塑性と、私たち一人一人の心の中に、確かに存在しているのではないだろうか。