瞑想の想像力


心身一如が生み出すすばらしい想像力

 

まずは心身を静めていく


瞑想には、いろいろな種類がある。ヨーガから始まった東洋的な瞑想やキリスト教による西洋的な瞑想など、多種多様であるが、特に禅において非常に高度に発達している。

禅の瞑想中は、脳や身体の機能をできるだけ使わないようにする。知覚や記憶、感情、自然科学を理解する悟性や理性、そうゆう能力のすべてをある程度静める。止めてしまうのではなく静めていく。

脳の生理学からいうと、知覚、言語、理解、知的な判断などの活動が抑えられる。身体の随意運動もやめるので、大脳と小脳の働きはほとんどなくなる。

脊髄にある、手足や内臓からの情報を脳に伝える上行性知覚神経と、大脳からの信号を伝える下行性運動神経なども最小限の働きとなる。

このように、瞑想は外から見ると、とても静かで落ち着いていて、活性化とは逆のように見える。しかし、禅の修行のなかには、「生受」と「不受」という二つの面がある。「不受」=受けない、つまり、静かに動揺しないということと、「生受」=正しく受けるという積極性を表す一面である。

落ち着いて物事に対処すると、自然に身体の中から湧き起こってくるものがある。それが生受ということである。何もせず閑居しているという状況は、まだ修行が足らない状況で、禅の本当の姿ではない。

瞑想によって三昧(禅の非常に深くなった状態)になると、感情が非常に鋭くなる。たとえば、部屋の隅に花が一輪挿してあると、普通では匂いなどほとんど感じないけれど、瞑想によって非常に強く身体全体で匂いを感じることができたり、線香から落ちる灰のかすかな音を「ボソッ」と大きく聞こえたりすることもあるという。

しかし、何か特殊な神通力のようなものが禅が求めているわけではない。人間として最も高い能力が生まれてくるということだ。

 

活性化する脳幹網様体


大切なのは、一度全体的に静めた心身を統一的に使うことによって得られる非常に高い体験である。つまり、まわりの五感や想像力などが及びもつかない、自然科学から発見された悟性や知識では発見できない、もっと高い知的な能力、智慧といわれる能力が必要なのだ。

しかも、こういう働きが身体と離れて存在するのではなく、非常に深く身体と結びついている。だから、三昧では、高い能力が開発され、意識も無意識も身体も、全部を智慧が満たしてしまう。その結果、五感も非常に敏感になって素晴らしい働きをし始めるのだ。

このとき脳はどういう状態にあるのか。脳のほとんどの機能が活動を抑えているとき、脳のエネルギーが脳幹にある脳幹網様体に向けられ、ここが活性化される。網様体は脳全体の活性化に関係し、また呼吸などの生命活動にも関わっている。

瞑想によって知覚や感情、判断などが静められているにもかかわらず、脳幹網様体が活性化されるとき、体のリズムは整えられ、身体と心は一つになって活性化され、より高い能力である智慧を生むのである。

このような心身状態から働く想像力には、邪心から逃れ、我欲を絶った大きな力がある。美術にしても文学にしても、そうやって作られたものには、あらゆる人間を活性化し、人を引きつける力が湧いているのである。