第10章:運命の転機

「人類と動物は、運命共同体である」30年以上も前、レイチェル・カーソンは「沈黙の春」にそう書いた。

「沈黙の春」は、合成殺虫剤の危険性と人類の思い上がりを告発した古典であり、今日の環境保護運動の原点とも言うべき書物である。同書は、長年、環境保護論者や野生生物を研究する生物学者、さらには進化や環境までを射程に入れて考える研究者のバイブルとなってきた。

フロリダ、英国の河川、バルト海、北海、米国の五大湖、シベリアのバイカル湖…・・、現在地球規模で野生生物に起こっている異常事態は、われわれ人類にも直結する問題である。実験動物や野生生物に現れた身の毛もよだつような被害は、いつ何時、人類の間に蔓延するとも限らないのだ。

ヒトと動物は、環境とともに生命進化の中で培われてきた特性を共有している。人工的な環境の中で暮らしていると、自分の健康や幸福が実は自然界のシステムに深く根ざしているという事実をつい忘れてします。ところが、人類がさまざまな企てに精を出せるのも、そもそも生命を支えてくれている目には見えない無数のシステムがあるからこそなのだ。人類も、この地球の生命ネットワークに深く織り込まれているのである。

過去50年間の、残留性化学物質に関する苦い体験から見て、この世の中が深遠で複雑な相互作用から織りなされていることは明らかである。ヒトの脂肪組織の中には、残留性合成化学物質が蓄積されている。この種の化学物質は、分かちがたく織りなされた相互作用をネットワークを通じて、人類一人ひとりの体内まで忍び込んでいる。

こうした事情から、鳥類をはじめ、アザラシ、アリゲーター、ヒョウ、クジラ、ホッキョクグマでも同じである。同じ生理機能を備え、同じ汚染状況に身をさらしていることを考えれば、この先、人類だけが独自の運命をたどることはまずないだろう。

内分泌系の攪乱という問題が表面化したのはごく最近のことであり、危険信号となるような被害状況をすべて把握するのは困難なのが実状である。とはいえ、科学および医学のさまざまな研究領域の研究結果に広く目を配れば、人類が危機に瀕しており、おそらくはすでに相当な影響を被っていることははっきりするはずだ。結局のところ、この科学版パッチワークキルトの切れ端一つ一つは、たしかにバラバラに見えても、いったん一つに織り合わせれば、実に興味深い重大な意味を帯びてくるのである。

1991年7月、ウィスコンシン州レイシンにあるウィングスプレド会議場で開かれた内分泌系攪乱に関する会議で、以下のような現状認識が急務であるとする「ウィングスプレド宣言」が公にされた。
人類は、野生生物および実験動物を脅かす有害物質に日々さらされていること。化学物質の管理ができなければ、胎児の発育障害や、生涯尾を引くことになる被害を回避する手だてはないこと。この二点の認識が急務とされたのである。

さしあたりの問題となるのは、すでに半世紀にわたって、内分泌系攪乱物質にさらされてきた人類は、その深刻な影響を被っているかどうかという点である。合成化学物質は果たして、正常な発育を促す科学メッセンジャーを攪乱することで、すでに人類一人ひとりの運命を左右しているのだろうか?

ホルモン作用攪乱物質がすでに人体に甚大な影響を及ぼしているという事実は、過去50年間にもわたって精子数が激減し続けてきたという現象に、劇的なかたちで現れている。

デンマークの研究グループによれば、精子数の平均は、1940年に精液1ミリリットル当たり1億1300万個だったものが、1990年には、わずか6600万個にまで落ち込んでしまったという。これは45%の減少である。同じく、精液の量も25%減少していたことから、結果として1ミリリットル当たり2000万個といった極端に精子数の少ない男性が全体に占める割合は、6%から18%へと3倍もの伸びを見せたのだ。また、精液1ミリリットル当たり1億個を越える精子を備えた男性の数は減少してしまった。

1993年5月には、シャープとスカッケベックは、英国の著名な医学雑誌「ランセット」に、男性の精子数の低下と生殖器の奇形は、胎内でエストロゲンに暴露した結果だとする論文を発表した。この論文では、出生前に高レベルの合成または天然エストロゲンにさらされた男性には、精子数の低下や、精巣の下降不全、尿道下裂、精巣の腫瘍などの増加傾向が見られると論じた。

現在の女性の健康にとって、最も憂慮すべき問題は、乳癌の増加率だろう。乳癌は、女性がいちばん罹りやすい癌である。世間はここのところ、乳癌遺伝子の話題でもちきりだが、研究者によれば、遺伝的要因による乳癌はわずか5%にすぎない。大半の乳癌は従って、後天的な要因によって誘発されるのである。一般的に、乳癌による危険性は、一生の間にどれだけエストロゲンに暴露するかにかかっている。初潮が早く、閉経が遅ければ、乳癌の罹患率もそれだけ高くなることになる。

エストロゲン暴露量の総量が、乳癌を誘発する唯一重要な危険要因である以上、この総量を増やすエストロゲン様化学物質は、過去半世紀の間、乳癌を増加させてきた有力な容疑者といって良い。

1980年から1989年にかけての米国における乳癌の症例数は、32%も跳ね上がっている。50年前の米国では、乳癌になる女性は20人に1人だった。ところが現在ではそれが8人に1人となっている。

増加する乳癌の中でもとりわけ目に付くのは、エストロゲン反応性の腫瘍が閉経後の女性に急増しているという事実だ。この腫瘍には、エストロゲン・レセプターがうようよしているため、エストロゲンに暴露するとたちまち増殖をはじめるのである。研究によれば、50歳以上の患者の場合、エストロゲン反応性の乳癌の増加と、腫瘍内で増大するエストロゲン・レセプターの密度とは相関関係にあるという。

1993年、増え続ける乳癌の発症率の謎を探っていた研究チームが、乳癌発症率および高年齢層に見られる乳癌死の増加要因はホルモン様合成化学物質にあるという理論を発表した。

癌で亡くなる米国民のうち、乳癌と前立腺癌による死亡者が圧倒的に多い。いずれのがんもホルモンの影響によって生じるもので、その発症率は米国のみならず諸外国でも増加の一途をたどっている。こうした癌に対するホルモン作用攪乱物質の影響の研究は、癌遺伝子の研究よりも優先されるべきだろう。癌を誘発する環境要因が特定できれば、猛威をふるう前立腺癌および乳癌の予防策も見つかるかもしれない。

最近問題になってきていることに、合成化学物質の体内蓄積量が、誰の目にも明らかな病気や先天性欠損を引き起こすレベルに達するはるか以前に、学習能力や多動症のような行動面での劇的変化が生じてしまうことである。

米国では、5〜10%と見られる学齢児が多動症や注意散漫などの症状から、学習に支障をきたしているということである。

胎生期と幼児期における神経発達がPCBによってどのように阻害されるかについては、科学的にまだまだ不明の点が多い。しかし、PCBが、内分泌系の甲状腺ホルモンの作用攪乱を招くことで、脳に損傷を与えることを裏付ける証拠は続々と挙がってきている。

最近の研究によって、甲状腺ホルモンが、脳の正常な発達に不可欠な微妙なプロセスをつかさどっていることがわかってきた。
さらにダーリーらのラットの実験で、汚染魚を食べさせたラットは、それほどストレスのたまらないような状況であっても、過剰反応が現れたという。

1995年5月、オスウィーゴの研究チームは、現在もなお進行中の人を対象とした研究成果を初めて公にした。これによれば、オンタリオ湖の汚染魚を食べていた母親から生まれた子供には、行動および神経障害が現れていたことが明らかになったのである。

この最新研究によれば、オンタリオ湖の汚染魚を大量に食べた女性から生まれた子供には、異常反応が多数見られた。ごく単純な自動性の反応すらおぼつかなかったり、めまぐるしく変わっていく環境変化にもなかなか馴化できなかったのである。

乳癌、前立腺癌、不妊症、学習障害。現代社会にすでに蔓延しているこうした病理傾向やパターンの解明に取り組む際には、ぜひとも以下の点は肝に銘じておくべきだ。

合成化学物質の中には、ごくごく微量であっても、人体に生涯にわたって甚大な影響を及ぼすものがあるという事実はいまなお、科学研究によって次々に立証されている。人類を脅かしている危険は何も、死や疾病だけに限らないのである。ホルモン作用や発達過程を攪乱する合成化学物質は、いまや人類の未来を変えつつある。とすれば、合成化学物質こそ、われわれ人類の運命を握る鍵だといえるだろう。