第11章:癌だけでなく

がんだけに目を奪われないこと。こう自覚して初めて、ホルモン作用攪乱物質が人類に突きつけている脅威に、正面切って取り組むことができるのである。とはいっても、あらゆる危機に備えて、視野を広げておけばそれでよいという単純な話ではない。

有害物質についてじっくり考えるには、新しい発想がぜひとも必要なのだ。過去30年間まかり通ってきた毒性と疾病についての憶測は、的外れであり、多岐にわたる汚染物質を正しく理解する際の障害になっているのである。

いままでは、有害物質による被害というと、主に次の二点に絞られてきた。

1. 問題の化学物質は、毒物と同じように細胞の障害や細胞死を誘発するのか。

2. 問題の化学物質は、遺伝子の設計図であるDNAを攻撃し、発ガン性物質のように遺伝子変異を際限なく生み出してゆくのか。

毒物にさらされた場合、暴露したヒトや動物は、病気になるか死んでしまう。そして遺伝子に変異が生じた場合、がんが誘発されるのである。

ホルモン作用攪乱物質は、環境でごくふつうに検出される程度のレベルであれば、細胞死を引き起こさないし、DNAも傷つけない。この化学物質のターゲットは、ホルモンだけなのだ。ホルモンは、体中に張り巡らされたコミュニケーション・ネットワーク内を絶えず循環している科学メッセンジャー(科学伝達物質)である。

それに対してホルモン様合成化学物質というのはいわば、生体の情報ハイウェーに住みついて、生命維持に不可欠なコミュニケーションを寸断してしまう暴漢のような役割を演じている。

ホルモンのメッセージは、性分化から脳の形成にいたる実に多様な発育プロセスにかかわっている。その要所要所で、コーディネーターという大役を演じているのだ。だからこそホルモン作用攪乱物質は、出生前や出生後のしばらくの間は、特に危険な因子なのである。

今の科学界の最大の関心事といえば、ヒトゲノムをマッピングし、嚢胞性繊維症などの遺伝子病を引き起こす遺伝子を探り当てることだろう。そのためか、病因のほぼすべては遺伝子の中にあるという見解が世間に蔓延するようになった。しかし、遺伝子の設計図というのは、胎児を形作る要因の一つにすぎないのだ。

赤ん坊の知能も、遺伝子だけでなく、発育のポイントとなる時期に脳に供給される甲状腺ホルモンに左右されるのである。合成化学物質には、胎児のホルモン・メッセージを攪乱するだけでなく、その後の発育にも悪影響を及ぼすおそれがあるのだ。

ホルモン作用攪乱物質は、生殖能力や発育を知らず知らずのうちに蝕んでいる。しかもその影響が及ぶ範囲も実に広い。だからこそ、この有害物質には、種全体を危機に陥れる恐れがある。人類ですら安閑としていられないだろう。爆発的な人口増加に直面している世界情勢からすれば想像しがたい話かもしれない。

精子数の研究をふまえるなら、環境汚染物質がすでにもう個人レベルではなく、人類全体に甚大な影響を及ぼしているのだ。発育が傷害されることで、全人類の潜在能力が蝕まれている。生殖力が衰退することで、不妊に悩む個人の健康と幸福のみならず、数十億年にわたって生命の複製を支えてきた繊細な生命システムが冒されているのである