第3章  科学の使者

 ミズーリ大学の生物学者フレデリック・ブォン・サールが行ったホルモンの作用機序の研究は、優れた科学研究だった。

ネズミを使った一連の動物実験でサールは、胎生期のホルモン量の変化が重大な問題であり、その影響はのちのちまで尾を引くという事実を突き止めた。この研究のおかげで、ホルモン作用撹乱物質の危険性が注目されるようになったのである。
 
サールの研究室での日課はマウスの飼育であった。そこでサールは、マウスをケージからケージへ移し変える際に見られるある現象に強い関心を抱くようになった。それは、メスが6匹入ったケージにメスを1匹戻してやると、それを攻撃する個体が必ずいたのである。攻撃的な個体には、ある共通した特徴が見られた。この乱暴者は、おとなしい個体に対しては、尻尾を威勢よく振り回して威嚇したり、尻尾で激しく打ち据えたのである。
 
サールは、この違いがどこから生まれてくるのか見当もつかなかった。その後、さまざまな実験を考案し、ほぼ同じ遺伝子を備えたマウスがなぜこれほどまでにかけ離れた行動をとりうるのかを解きあかそうとしたのである。
 
サールは、胎生期には、性別を問わず個体を決定づける遺伝子以外の強力な力が確かに働いていることを突き止めた。結局のところ、遺伝子はすべてではないのだ。

こうしてサールは、マウスの胎生期の状態について思いをめぐらすことになった。

マウスの子宮は、角のような形をした二つの部屋からなっており、それが膣ないしは産道の上部で左右に枝分かれしているのである。胎児は、この狭い角状の子宮の中にちょうどさやに詰まった豆のような格好で収まっている。普通、角状の子宮一つには、胎児が六匹入っている。ということはつまり、二匹のオスの間に挟まれるように成長していくメスもいるということである。
 
誕生の一週間前になると、オスの胎児の精巣からは、男性ホルモンのテストステロンが分泌されはじめ、以後その刺激によって性発達が促される。ひょっとしたら問題のメスは、二匹のオスから分泌されたテストステロンにどっぷり漬かっていたのかもしれない。
 
持論の正当性を立証するために、サールはマウスの帝王切開を行った。マウスは普通、19日で出産する。そこで、その直前に、子宮から胎児を取り出すことにした。そして、取り出した胎児が子宮のどこに収まっていたのかを注意深く観察した。
 
帝王切開で取り出されたメスのマウスが成熟するにつれ、オスに挟まれて育った個体には過剰な攻撃性が現れてきたのである。
 
興味深いことに、母体の身体的条件によっても子宮内のホルモン・レベルは変動し、その影響は胎児にもおよぶ可能性があるとの研究結果が出ている。

妊娠期の後半に絶えずストレスにさらされていた母体から生まれた子供には、子宮内でオスに挟まれて育ったメスに見られるような身体的特徴および行動特性が現れるのだ。その結果、生まれた子供はすべて気が荒くなってしまうのである。
 
その後サールらは、胎生期に女性ホルモンのエストロゲンに暴露されたオスには、やがて過剰な性行動が現れるという内容の研究論文を、「サイエンス」に寄稿することになる。1980年6月のことだった。
 
オスの場合は、子宮内でメスの胎児から分泌される高濃度のエストロゲンに暴露されたオスには、成長すると、並外れた性行動以外にも驚くべき特徴が現れた。子供の中にこうしたオスを入れやると、子供を攻撃し、殺したのである。逆に、子宮内で高濃度のテストステロンにさらされて育ったオスは、「マイホームパパ」になることが分かった。驚くべきことに、メスに負けないほど熱心に子育てに励んだのである。
 
ヒトの場合でも、胎児の成長はホルモン・レベルの変動に大きくい左右されていると考えられる。もっとも、なぜホルモン・レベルに変動が生じるのかという点は、まだ完全には解明されていない。しかし、その一部は母体に蓄積された脂肪に、ホルモン作用攪乱物質が含まれている可能性も考えられる。