これって、あり?

うっそぉ
            

                セントポールズ大聖堂はすばらしかった。そしてあの全体の雰囲気がいい。荘厳で、見ているだけで 歴史が感じられ、圧倒される。地下聖堂で、有名な画家や作家の記念碑を見る。
展望台は、あきらめた。小雨がぱらついていたし、もうお昼だった。
通りの屋台で、胚芽米などの入ったブラウンのサンドイッチとミルクのパックを買って、聖堂の庭の隅の ベンチに腰をおろして食べた。おいしいものは一人で食べてもおいしいものだ。
 私は「パン大好き人間」で、毎日ずうっとパンでも、ちっともかまわない人なのだ。
海外旅行に、日本の食べ物を持って行ったことはないし、恋しくもない。
その地では、その地のものを食す、When in Rome, do as the Romans do (郷に入っては郷に従え) というのが、私のささやかな旅の『ポリシー』

      ベンチの前に、アガパンサスのような、
        ポワンとした紫の花がいくつも咲いていた。
          ロンドンも5日目、心も体もすっかり旅モード。

 さて、テムズ川の遊覧船に乗ろう、と地下鉄に乗り込む。着いたのは地下鉄の Embankment 。
薄暗い地下鉄の通路からエスカレーターを上がって、改札を出る。
紙製の Weekly travel card は、使うたびにポケットから出し入れするので、もうよれよれしてきている。
改札口の機械に入れると、ピシッとしていないので、機械が読み取れず、ピピッと鳴って返ってくるよう になった。
 2日目からは脇に立っている駅員に見せて、別の通路から出たり入ったりすることになった。 駅員はカードのしわを指で伸ばしながら、「もっとていねいに扱わないと、読み取れません」。

 そうじゃなくて、これを買った人は最低1週間、毎日、何度も使うのだから、もっと上質で硬めのポリか なんかでコーティングしてよ、と私は言いたい。
構内を出て、横断歩道を渡る。
「川が見えてきたぞ。あ、晴れてきた、やっぱ私は晴れ女だね」なんて思いながら、チケット売り場が 近づいたので、財布を出そうとウェストバッグに手を伸ばす。
 あれ? あ、そうそう、さっき、トイレで外して、バックパックに入れたんだったよ。
背中からバッグを下ろしたら、軽い。見ると、ファスナーがパカンと開いている。

「あら、ま?」 中をのぞく。

使い慣れた茶色のウェストバッグが、ない!。

「うっそぉ」

   一瞬「コレハ、ナンダ」と思った。あたりを見回した。どこかへ落とした? もう一度バッグをのぞく。
中に見えるのは折り畳みの傘、ガイドブック2冊、小さなメイクアップポーチ、ペットボトルの水、 底の方に紐につけた Mercia の家のカギ。
川岸の柵にもたれて、自分の手の平を見る。開いた指の指紋を見る。
起こったことの意味がしっかりとわかるまで、しばらく時間が必要だった。

大きく息をつく。「試練だ」と思った。
さぁ、これこそ「どぉする?」の場面だよ。
映画ならここで、、泡吹いてぶっ倒れて、
泣き叫ぶ場面が想像のシーンで出るだろう。

  空を仰ぐ。
これって、私のこの素敵な旅に、あり、だったわけ? 
ねぇ、神様。

私が、もう一人の私に言う。
「あんたはこの何年か、英会話を勉強してきた。旅に出て、何かあった時にでも何とかできるって いう自信が、少しだけどできたから、こうして出かけてきたんじゃないか。
これこそ、あんたが普段言ってることがほんものかどうか試される時だ。
 しっかりしなさいよ。あんたは、よく子どもたちに言ってきた。起きたことはもう取り返せないし、 もどらない。
それをいつまでも、ああしたらこんなことにはならなかったのに、とかこうすればよかった とか、『たら、れば』を繰り返すのでなくて、これからそれにどう対処するか、でその人のほんとの 価値が決まるのだ、と、ね。その言葉がほんものかどうか、今試されているんだよ」

でも、落としたかもしれないじゃない、と地下鉄の駅にもどりながら、おなかのあたりがすぅっと 冷えてくる。どきどきしはじめた胸の鼓動は、人にも聞こえそう。
下を向いて、さがしながら、思っている。
「あるわけないんだよね」
さっきの駅員に「落し物は?」と尋ねると、届いていないと言う。届いてるわけはないヨ、とすぐ納得。
万が一、誰かが拾って届けてくれたら、いずれ Baker Street の Lost Property (忘れ物、拾得物センター)に集まるのだという。

「日本にいる時、ガイドブックでおさらいしたね、『もしもの時』のことを。
こんな時は、まず警察に行く。そして、Police Report (盗難・紛失証明書)を書いてもらう。
それを日本大使館、総領事部へ持って行かなければパスポートは再発行してもらえないんだよ」

 そうなのだ。私はパスポート、現金(アルバイトでコツコツ貯めたものだったノダ)の入った財布、 トラベラーズチェック、日記用ノート、ボールペン、クレジットカード、娘が車で空港バスの停留所まで 送ってくれる間に写した写真と手紙、目薬、つめやすり、スーツケースの合いカギ、KDD ( KSD、ではない)スーパーカード(海外へかけられるテレフォンカード)、そういう“海外旅行では 命の次に大事なもの”の一切合財が入ったウェストバッグを、なくしてしまったのだった。

どう考えても落としたとは思えなかった。
これまでの生涯で最大のピンチだ。

 だれかれに警察はどこにありますか、を繰り返した。
誰もが親切にあっちの方にあったと思うとか、こちらだとか教えてくれたが、残念ながら多分、 だれも正確には知らなかったのだ。
同じ道を行ったり来たりしているように思えてきた。

歩きながら、呪文のように繰り返していたことば。
それは時実新子さんの川柳

  『私には 私の道の まっくらがり』

 また、細い雨が降り出した。肌寒くなってきた。さっきから、私は一体どれくらい歩いたのだろう。
ふっと道端に座り込んで、“穴を掘りたい”ような気になった。
しかし、今それをしたら、際限なく掘って、私はもうその穴から這い上がっては来られないだろう。
 疲れたんだ、休もう。休むのだって素敵な場所がいい。花屋さんの店先の壁によりかかった。
水を一口飲んで、時計を見ると、もう3時を過ぎている。
 お昼を食べた後でよかった。おなかは大丈夫だ。

今、もしだれか「連れ」がいたら……。その人はきっと心配したり、混乱するだろう。
その人のプランを少しだめにするかもしれない。悪いな、と思うことで、旅の間の望ましい関係、 フィフティ・フィフティのバランスが崩れるかも知れない。
あるいはこのことを帰国してから、だれかれに私の本意ではないような感じで話されるに違いない。

  私には、そういうのが一番耐えられないことだ。
“連れがいなくてよかった”と心底、思った。
このことの責任は私が一人でとればいいのだから。

おしゃれな若い人たちが歩いていくのを、ぼんやりと見るともなく眺めながら、唐突に思った。
『いいなぁ。この人たちはみんなお財布や、カードを持っているんだ』
それにしても、警察をみつけないことには、始まらない。
再び、歩き出そうとして。
マテヨ 「今、もし心臓発作とか、くも膜下出血などを起こして、ここで倒れたら、私は身元不明の中年女だ。
何も身元を特定できるものを持っていないのだから、警察も処置に困るだろう。
Yoko も Mercia も、大げさに言えば、世界中の誰一人として、私が今ここにいることを知らないのだから」
私は、左手の指を一本ずつ折って数え始めた。

ひとつ  白い薄手のコートのポケットには Weekly travel card が入っている。

ふたつ  私の別のバッグには、帰りの航空券が入っている。

みっつ  パスポートのコピーと、必要な写真2枚も持っている。

よっつ  今ここに渇きを癒す水を持っている。部屋には、昨日残した果物やチョコなども残っている。

いつつ  日本円(4万円足らず)が、荷物に入っているので、明日両替できる。

むっつ  これから、6日間あたたかく清潔な寝泊りできるところもある。

ななつ  これから必要なお金は・・・あさっての夕方、電話をかけてくれる約束のYokoに頼もう。
きっと、何とかしてくれる。

やっつ  これが一番なのだが、なにより私は、元気だし、怪我もしていない。
これからなんとかしなくてはならない「言葉」も多分、何とかなるだろう。

    もう一つ、付け加えたい『グリコのおまけ』
このスリ君(男とは限らないんだけど、ね)は、立派なプロだった。実に上手に pickpocket してくれた ので、私は少しも恐怖を感じなくてすんだ。
おかげでトラウマのようなものが全然残らなかった。
これはのちのち、実にありがたいことだった。
 (とは言え、この旅の間、もう一度あの Embankment に行く気には、どうしてもなれなかったけれど)
数え終わった時、私は空を仰いだ。

  さぁ、こんなところで「まいご」になってる場合じゃない。
Yokoのくちぐせを借りれば、まったく『きもちよーく』すべてをなくしたけど、よれよれの Weekly travel card が、残っているョ。

これで、あの Marble Arch へ帰ろう。
あそこで、 Police Office をさがすのだ。

POLICE OFFICE

 Marble Arch へ着いて、見慣れた駅や、まわりの店を見たら心底ホッとした。
迷わず、最初に目に入った大きなホテルへ入った。
警察はどこにありますか?
ああ、大丈夫ですよ、マダム。その道をこう行って右に曲がって、20メートルほどのところに ありますよ。

  何が大丈夫ですよ、だ。
やっぱりすぐにはわからなかった。サインも看板もなくて、外からはほんとにわかりづらいのだ。
日本のみたいに大きく看板に書いといてくれ。駆け込む人が、これじゃ通りすぎちまうョ。
 中に入る前に手鏡をのぞく。あんまりひどい顔では日本人としての“沽券”にかかわるし、 すりへってはいるけど、若干のプライドもそこそこ残っている。

 ロンドン中心街の Marble Arch の警察署、これがまたウソみたいに小さなオフィス。
女性警察官を相手に、若い男性が、いいかい、おれぁ、買ったばかりの大事なレザージャケットを 忘れてきちまったんだ。○○に電話してくれ、みたいなことを大げさな身振り手振りで、踊るように まくし立てている。
髪の毛を500本以上に細かく編んで垂らしているので、頭を振りながらものを言うたびに前後左右に 揺れる。この Young guy の長い指やしぐさ、声を私はいつまでも忘れられないだろう、と思いながら 見ていた。

 数人が2列に並んでいる。誰もみな無口で、ブッチョーズラ。
ここまで来たら、早くしてほしいような、あんまり早くしてくれなくてもいいような、気分。
 あの女性警官だといいんだけど、と気弱くも思いながら、待つこと15分ほど。

 「Next, どうしたのですか」と私の前に来たのは、黒人の30代くらいの男性警官。
 ハァ。あなたですか。しかたない。実は・・・と話し出す。
私の英語は(決して謙遜ではなく)大したことはない。
 しかし、 Police Officer に話し始めた『この瞬間』、フツーの Travel English から、 Survival English にモードが切り替わった。
 必死になって説明しなければならなかったし、まちがいを気にしたり、カッコいい英語を、なんて きどってる場合ではなかったから。
そばの人の耳も意識しなかった。
落ち着いて落ち着いて、と言い聞かせながら、順序を追って話す。

 私が英会話を、ケッコウ本気で何年も勉強してきたのは、『今、この時』のためだった、とすら思えた。 不安が徐々に消えていき、何とかできるぞ、という力が湧いてくるのを覚える。
大きな鋭い目で黙ってうなづきながら、私の話を聞いていた彼が、口を開いた最初の言葉。
 「マダム、あなたが今日のお昼まで、お金やカードが入った茶色のバッグを持っていて、 それをすられたか、落としたかして、今それを持っていないという証拠はありますか」
 何イッテンダイ。んなもん、あるわけないじゃないか、と思いながら、
 「証拠はありません。でも本当です。信じてもらうしかありません」
(ったく、誰がうそを並べにこんなところへ来るんだョ、
 と思ったのは、かなり後になってからのこと、で)
じっと目と目を見合わせて数秒。ここで、ヨヨと泣けばいいのかい?

 OK. こちらの部屋へ・・・と右手のドアをあごでしゃくる。
よかった、という安心感で、この人は『ダイハード・1』に出たドーナツの大好きな、あの黒人警官 を10キロばかり、ダイエットさせたらこんな感じだよ、と思ったりしてしまう。
 どこで、気がついたか、どこの国から来たのか、連れはいないのか、どこに宿泊しているか、 宿泊先の人とはどうして知り合ったか、これからのお金はどうするつもりか、パスポートのコピーを 持っているか、とかいろいろと聞かれて、結局、彼は Report(紛失証明書) を書いてくれた。
彼は誠実に「仕事」をやってくれた。
そして、日本大使館に電話をかけて、何時から何時までに行けばいいか、ということまで確認してくれた。
 「いいですか、これを持って明日、日本大使館へ行きなさい。まだかなり London にいるのなら、 “仮”でないパスポートがもらえるでしょう。大使館は2時で閉まりますから、それまでに行くように。 場所は知っていますか?」
いいえ。
 Piccadilly にあります。 地下鉄の Green Park で下りて、右へ行くとすぐわかりますよ。
  気をつけて。
 ハイ。 Thank you.

 なが〜い一日が終わった。もう5時だ。
ペットボトルの底の方に残った水を一口飲んで、痛みかけた右足を引きずるようにしながら、 Mercia の家をめざす。
もうすぐだ、と思ったころ、ある家から道に出て来たベレー帽をかぶった初老の男性が、 車にキーを差し込みながら、ちら、と私を見た。車のドアを開けてから、もう一度私を見た。
とがめるように見返すと、彼はふっと私に微笑んだ。私にはまだわからない。
 彼は、「Oh、私はあなたのことをすっかり忘れて出かけるところでしたよ」などとボソボソ言いながら、 先に立って、フラットのドアのカギを開けた。
そのドアを見て、やっと私は思い出した。
この人は Colin だ。私も彼の顔をすっかり忘れていた。
今朝会った時は、ガウンを着ていて、髪の毛が薄い人くらいしか覚えていなかったのに、今、 彼はしゃれた臙脂色のベレー帽、襟元には赤いスカーフなどのぞかせて、ジャケットを着て、 まさに英国紳士なんだもの。
ありがと。Colin.

 このあたりは観光地ではなく住宅地なのだ。だからいわゆる白人以外はあまり通らないので、 Colin は私を思い出したそうだ。のちに訳を書くが、Colin がドアを開けてくれた、
これが「ここのつ目のラッキー」になった。
  Mercia がもうすぐ帰ってくるよ。僕は遅くなるけどね。
  あ、電話をお借りしたいのですが。
  どうぞ。場所はわかりますね。
電話をかけてクレジットカードをストップ。 これで、よし。

 ここでヒトツ、白状します。
 私は旅に出て、我が家へ電話をかけたことはなかった。
しかし、人生最大のピンチに遭遇したこと、この家に誰もいない解放感、今日やるべきことはやった という安心感で、ふと、自宅にコレクトコールをかけてみたりしちゃッたのだ。日本が夜中の3時ごろだ、 とはわかっていたが。
 二階の息子の部屋に子機があったっけ。

 ルルル・・・ 眠そうな息子の声。

 私    「もしもし、おかあさんです。こんな夜中に、ごめんね。」
 息子   「ああ、いいよ。」(やさしいなぁ。ここでちょっと沈黙)
 私    「 ・・・・・」
 息子   「どうした、元気で楽しんでいる?」
 私    「ウン、みんなは元気?遅刻せずに会社行ってる?」
 息子   「うん、何とかやってるョ。」
 私    「そう、じゃ、みんなに元気だからって伝えてね。」

自分の部屋へ入って、バッグをベッドに置こうとして、
  あらっ。
   今朝出かける前に、Mercia に渡そうと財布から出した£180が折りたたんでベッドのふちに ころがっている。
 わぁ、よかったぁ。ここに忘れて行ったんだ。これが「ラッキーの10番目」。
 冷えている体、こわばった心。
とりあえず温まろう。シャワーを浴びながら、足をもみほぐしながら、マッサージ。今日は一体、 何万歩あるいたかしら。
足よ、おまえは偉かった。
 バスローブ姿でキチンへ上がり、熱いアールグレイの紅茶を入れる。
カップは、お気に入りのイチゴ模様のマグ。
部屋から持ってきた果物とビスケット、ロールパンを食べる。
ロンドンの真中のこの家に私は一人でくつろいでいる。

           2杯目の紅茶のカップを手に、
            この時、何を考えていたのか・・・
             思い出せない。
食器を洗ってから、部屋へもどる。少し寒いのでベッドにもぐりこむ。

 このベッドカバーの模様はとても素敵で面白い。
(毎日、この上に寝転んで書いたり、読んだり、 電話をしたりしたので、とうとう私はこれと同じ模様のピロケースを帰国前に自分のために一枚だけ買った。 Oxford 通りのデパートの寝具売り場で同じ模様のを見つけた時は、感動ものだった。 Jane Churchill というブランドらしいけど、知ってる?)
 2つの枕を背に当て、何かのパンフレットの裏に明日することをメモ。
ガイドブックで大使館の場所と、地下鉄を確認していたら、いつのまにか、イシキフメイ。

 フッと、目がさめた。一瞬「ここはどこ?私は誰?」。
腕時計を見ると明け方の4時前。
あら、スタンドをつけたまま寝ちゃったんだ。だんだん、記憶がもどってくる。
 「ひょっとして、昨日のことは悪夢で、この部屋の中にウェストバッグを忘れて行って、 もう一度よくよくさがしてみたら、何だ、あったわ。よかった、って笑い話にならないかしら」
  私は、ほんとに起きだして、その辺のものをまさぐった。
 しかし。
夢ではなかった。
こんなとき、ドラマ「北の国から」の純なら、多分こんなセリフ。
「昨日のことなど、思い出したくもなかった。しかし、それは…ほんとうにあったことだ」
それからまたうとうとして、しっかり目が覚めたら朝の7時だった。 外は晴れ。

  Mercia に昨日渡し忘れたことを謝って、このお金を渡そう。
もちろん、彼女に『バッグ紛失事件』は秘密にするつもり。
 トラベラーズチェックを止める手続きも、(昨日は電話がつながってもちょっとお待ちくださいと、 言われた後、音楽が鳴り続け、待っている間に切れてしまうことが数回だったのであきらめた)、今日は もう一度トライ。
 朝食の後、どこかでこの4万円弱をポンドに両替すれば、しばらくの間のお昼と夕食は何とかなる。
今日は日本大使館へ行かねばならぬ。