獏



「どうした?怖い夢でも見たか?」
冷たく暗い廊下はどこまでも静かで、自分の立てる小さな足音に怯えながら兄の部屋の扉を叩いた。
開かれた扉から漏れる暖かな明かりと兄の言葉にほっと顔を緩ませて。
頷く。
にこりと微笑んで自分を手招きする兄に素直に従う。
よくは覚えていないのだけれども、一人ぼっちにされて悲しかったような、恐かったような夢を見た気がする。
兄のベッドにするんと潜り込んで、ふと思いついた事を口にする。
「兄上は恐い夢など見ないのですか?」
「見ない」
「どうしたら見なくて済むんですか?」
すぐ側の戸棚から一冊の本を取り出した兄が、それをラーサーの目の前に広げて見せてくれる。
「恐い夢は‘獏’が食べてくれるんだよ」


そんな生き物は空想上にしかいないのだと今は思えども、当時はこの上なく魅力的な答えだった。
人の夢を渡り歩き、悪い夢だけを選んで食べてくれるなんて。
悪い夢ばかり食べてお腹を壊さないかと心配すると、悪い夢を食べるとそれを腹の中で良い夢に変える事ができるから大丈夫なのだとこれまた兄が興味を引く事を言った。
悪夢を食べる獏の姿を想像しながら眠るのは楽しかった。
獏は他の人の悪い夢を食べるのに忙しくて、なかなか自分の所には来てくれなかったが、いつかその姿を見る事が叶うのだと信じていた時もあった。
やがて夜中に兄の部屋を訪れる事もなくなり、悪夢に魘されようとも独りで耐える事も出来るようになった。
それでも、ふとした瞬間に思い出す。
今夜みたいに酷い悪夢に魘された夜は―――。
「…っ」
文字通り飛び起きると身体が震えた。
酷い夢だ。
否、これは夢でなくて現実だ。
凍える峡谷の中をおぼつかない足取りで歩いて行く難民達。
彼らが拠り所にしていたプルオミシェイスを燃やす火、立ち上る煙。
ラーサーを気遣ってくれていたアナスタシス大僧正は死んだ。
そしてラーサーの心の拠り所であった父グラミスも亡くなった。
暗殺されたという父の最期を、この目で見た訳ではないのに繰り返し夢に見る。
元老院が父を暗殺したと報告を受けているが、夢で見る父の背中に刃を突き立てているのは兄だった。何度も、何度も。
「はぁっ…」
酷く、寒い。
パラミナ大峡谷の吹雪の中に居るかのように、肺に吸い込む空気が冷たく感じて息が詰まる。
強制的にプルオミシェイスから連れ帰られてから、もう何度同じ夢を見ただろうか。
こんな時にこそ‘獏’が存在すればいいのにと心から思う。
どうか悪い夢を食べて良い夢に変えてくれないだろうか。
起こってしまった悪い事も、ただの悪い夢なのだと。
父の亡骸の冷たさを思い出せば、そんな事はできはしないのだとわかっていても。
凍える肩を摩りながら、ベッドサイドに置かれた棚の引き出しを開けてその中をまさぐる。
幼かった頃に‘獏’の姿とはどのようなものなのかと尋ねた自分に兄が贈ってくれた本だった。
空想の生き物である獏の姿がそこに描かれている。
熊のような身体に虎の足と牛の尾。優しそうな犀の目に象のような長い鼻。
不思議な生き物の絵にそっと手で触れると、心なしか悪い夢を忘れられそうな気がして。

どうか僕の悪い夢を食べに来てください。
せめて夢くらいは良い夢を。
悪夢のような現実に立ち向かう勇気が湧くように。




白い雪が降る。
凍える人々が身を寄せ合って歩いていく姿をラーサーは見つめている。
彼らが向かうプルオミシェイスの希望の光は消えた。
人々が歩く道には点々と赤い血の跡がついている。
ああ、誰かの血が流れている。
血の跡を辿るように進めば雪のように冷たい父と大僧正がごろんと無造作に足元に寝転がっていた。
雪が彼らの上に降り積もっていく。
ああ、埋まってしまう。
こんなに寒く、寂しい場所に。
夢中で降り積もる雪を彼らの上から払い落とすが、いくらそうしても雪は止まない。
寒くて、悲しくて、自分の無力さに涙が出た。
「誰か…助けて」
父の力を、大僧正の知恵を頼ろうとしていたラーサーの前から二人は消えた。
もう自分に出来る事は何もないのではないのか。
こんな風に雪を満足に払い落とす事さえ困難なのに。
「誰か…っ」
そしてまた誰かの助けを求めている。
ザクサクと雪を踏みしめる音がして、ラーサーは振り返る。
大きな影がラーサーの上に落ちた。
ぬっと伸びた長い鼻が父と大僧正の上に積った雪を器用に払い除ける。
「?」
小さな黒い目がラーサーをじっと見つめている。
熊のように大きな身体と、虎のような足―――。
「き…みは…もしかして…獏?」
悪い夢を食べに来てくれたの?
無言で問いかけると、黒い瞳が一度瞬いた。
辺りの雪がすうっと消えて無くなる。
横たわっていた父と大僧正の姿も、身を寄せ合って歩く人々の姿も、遠くで煙に霞むプルオミシェイスの姿も無い。
長い長い鼻が慰めてくれるかのようにラーサー肩を撫でる。
暖かい。
優しくて、柔らかな感触にうっとりと瞳を閉じると思わず涙が零れた。
大丈夫、大丈夫だと繰り返し言うように、肩を撫でるそれは―――。
「…ロ…さん?」
覚えがある。
アルシドから父の死を聞かされた後、呆然とするラーサーの両肩を優しく撫でてくれた手。
ゆっくりと瞳を開けてみればそこに獏の姿はなかった。
変わりにあったのは。



久しぶりにすっきりとした気分で目覚めて、ラーサーは瞬く。
数日まともに眠れなくて淀んだ思考が明瞭になった感じ。
自分が出来る事が限られているならば、その中で出来る限り最良の事を根気強く続けるのみだ。
いつまでも父や大僧正の死を引きずっている訳にはいかない。自分は皇帝の血を引く者であるのだから。
戦争の準備を着々と進める兄を説得せねばなるまい。
それくらいしか出来ないけれど、ラーサーが諦めなければ可能性はあるだろう。
兄もまた悪夢に魘され続けているのかもしれない。
枕元に置いたままになっていた本をまた捲る。
獏は居た。
大好きな人の姿で。
彼女の事を思い出したから、きっともう悪夢は見ない。


■ モドル ■

なんだかシリアスに…?
子供の頃、悪夢を食べてくれるという獏にワクワクした一人です。
そういう歌がNHKのみんなの歌にあったような…
ラーサーの悪夢をパンネロが取り除いてあげられればいいな〜という妄想でした