松澤芳宏の古代中世史と郷土史 
 
  日本古代中世史と郷土史を繋ぐ  


               総目次

四季の飯山地方の誇れる景観!(写真集)

松澤芳宏絵画一覧 。平凡な風景画で、飯山地方の四季を水彩その他で描いています。

松澤芳宏の絵画一覧 その2

私の好きな絵の雑感

松澤芳宏「雪晴れる街」の絵

名峰高社山は田神山か?銅戈・銅鐸埋蔵の謎

千曲市伝箭塚出土銅剣の疑問

銅戈より見た弥生時代中期の私的年代観と柳沢青銅器の時間的位置

福岡市岸田遺跡の年代表記の疑問

弥生時代実年代観の決定打はこれだ
  (鉄矛・銅矛・銅戈より見た弥生中期の実年代)  韓国九鳳里遺跡や北朝鮮貞栢洞1号墓の重要性

弥生中期後半前漢鏡埋蔵地の実年代私見

朝鮮半島系無紋土器について

鋳造鉄斧から見た弥生時代の実年代

大阪湾型・九州型銅戈への疑問 (樋分離式、樋結合式銅戈の提唱と大陸分布)

古墳の定義への疑問(墳丘墓名称廃止の提案についても記しています。)弥生古墳については平原弥
生古墳のような特別なものを指すのではなく、ここでもすべての弥生時代の墳丘墓所を指すことを考察しま
した。

ある地域で古墳が完成して、全国にその様式が波及したのではない
(古墳の定義と古墳時代の定義の再確認)

四隅突出型弥生古墳名称の提唱(四隅突出型墳丘墓名称の廃止について)

柳沢遺跡銅戈銅鐸追加発表への問題点

古墳の定義に国際性を持たせよう(古墳とは古代における墳丘のある墓所である。)

飯山市戸狩の岡峰遺跡出土の皮袋形土器

長野県史跡勘介山古墳(前方後方墳)について(勘介山の花々も掲載しました。)



北信濃北半古墳文化の真実の意義は何か(古墳定義の誤解から来る古代史の危険性について)。根塚
遺跡、法伝寺2号古墳、高遠山古墳の、新旧関係についても触れました。

中野市高遠山古墳の見方

上野原の戦い、飯山市静間田草川扇状地説(上野【うわの】と飯山城・亀蔵城との関係について記し、上
杉謙信出奔の事情を「直江實綱書状」で明らかにしました。この書状は、従来の写の古文書「長尾宗心書
状案」などの内容を検証する唯一の根本史料です。)
 
田草城(たくさじょう)

小田草城(こだくさじょう)

上野原の戦い、飯山市静間説を力説する訳

上杉謙信出奔に関する直江實綱書状の新解釈

信濃町野尻城と野尻新城(文献は野尻新地)比定地の新説

野尻城の伝承

飯山市綱切橋の由来を考える 

島崎藤村『千曲川のスケッチ』静間平の休み茶屋の推定地

飯山市静間大久保の静観庵せん(土偏に專)仏

中野市豊田北永江の高速道高架橋付近でカモシカ出現

静妻氏と村の起り( 静間館・北畑館などについても触れました。)

元禄八年静間村絵図(静間区所蔵)写真集

飯山市大字静間の大久保区の祭屋台について

松澤芳宏美術館を開館

清川流域の土砂崩れと清川氾濫の危険性について

飯山市静間山の神遺跡の魚形線刻画土器の魚類観察

縄文中期深沢式土器の再検討

縄文中期・深沢遺跡の概要



松澤芳宏略歴




 

1945(昭和20年)長野県下水内郡秋津村静間(現飯山市)に生まれる。
1964(昭和39年)県立飯山北高等学校卒業。東京芸術大学の日本画科を2回受験し失敗す
る。その後、郷土に帰り、会社勤務の傍ら郷土史研究等も続ける。
1971(昭和46年)「雪国の風景」油彩、北信展NHK賞(一般最高賞)、「田植えの頃」
(のち焼却)、長野県展初入選、以降県展他で「田植えの風景」雪の風景画などを連作。
1974(昭和49年)飯山市内の清水けさ子と結婚。
1975(昭和50年)、「待春」(油彩)北信展で北信美術会賞(一般最高賞)。
1983(昭和58年)北信美術会会員に推挙される。このころ東忠男・駒村久弥・岡田千春氏
らを中心とする地元絵画グル−プのサロン・ド・ジュエの事務局長に長年従事する。
1984(昭和59年)この年の豪雪を描いた「雪晴れる街」が北信展で信濃毎日新聞社賞。
「雪解け」日本水彩展で初出品初入選、平成4年までに同展入選8回。
1985(昭和60年)「春への日ざし」(水彩)、長野県展信州美術会賞(一般最高賞)、翌
年の中国河北省での「日中友好長野県展」に選抜出品。日本水彩画会長野県展で「五月の丘」が
奨励賞
1986(昭和61年)「冬日快晴」日本水彩画会長野県展でテレビ信州賞
1987(昭和62年)信州美術会会員に推挙される。
1988(昭和63年)「春雪」(アクリル・水彩)が北信展市長賞、長野市買い上げ(青少年
練成センター所蔵)。
1989(平成元年)「早春の斑尾山麓」が日本水彩画会長野県展で上田市長賞
1990(平成2年)「五月の丘から」(アクリル・パステル)が北信展NHK賞。
2001(平成13年)初個展、 ―自然との対話―(ギャラリ−山幸洞・飯山市)。
2004(平成16年)飯山の美術家展(平成16年度飯山市美術館企画展)に出品。
2012(平成24年)飯山市美術館開館15周年記念企画展「北信濃逍遥の画家たち」に出品
2013(平成25年)8月3日、私設の松澤芳宏美術館を開館、入場無料。

 郷土史研究については、小学校時代から土器・石器採集を友とはじめ、飯山市立秋津中学校時
代に、教頭先生の石澤三郎先生に郷土史の手ほどきを受ける。飯山北高時代は深沢遺跡の研究に
没頭する。中学生時代のフィルドワ−クにより、深沢遺跡・山の神遺跡・田草川尻遺跡・北畑館・
勘介山古墳などを発見し、その後勘介山古墳(飯山市)蟹沢古墳(中野市)を前方後方墳として
発見報告した。
 また、中野市高遠山古墳を田川幸生氏らと確認し、いずれも前期古墳の可能性を論文に発表し
既成概念にとらわれた北信濃北半の文化の後進地説を打破したが、しばらくは、学界に等閑視さ
れた。それは、むやみな発掘は控えていたからで、後年、高遠山古墳の世間の認識不足から、同
古墳が壊滅の危機に瀕し、中野市教育委員会の発掘調査となり、前期前方後円墳であることが証
明された。高遠山古墳の発掘と前後して、飯山・中野地方で、前期前方後方墳の発掘調査が相次
ぎ、松澤説が正しいことが証明された。
 学界の松澤説に対する偏見は完全になくなったと見てよいだろう。だが一部に筆者らも確認に
加わった飯綱町庚申塚前方後円墳を小丸山古墳にする声が聞かれるが、これは現地を調査すれば
明らかな誤りであることに気づかれるであろう。ウェブ上の記載も訂正願いたい。
 筆者は、その後弥生墳丘墓名称の廃止を説き、古墳の定義に言語学に準ずる考え方を示してい
るが、大局を失った日本考古学界では、その意味が理解できないらしい。
 また、最近の弥生年代遡上論に反対し、弥生中期の始まりを、B.C.100年前後(±30
年)とする旧説の支持を表明し、大阪湾型・九州型銅戈の分類方法にも異論を唱えている。考古
学の誤った分類病が蔓延し、一つの分類を神聖化し、とんでもない妄想となっているのが、20
世紀の大阪湾型・九州型銅戈の分類や古墳定義である。この点についても、世間が気づいていな
い。松澤説をとことん議論し、真理を見抜いてもらいたいと願う。


 主な著書(分担執筆)に『飯山市誌歴史編上』『大岡村誌』『角川地名大辞典長野県』『日本
城郭体系8』『北信濃の城』『図説奥信濃の歴史』『須坂・中野・飯山の昭和史』『歴史の道飯
山道』『長野県史主要遺跡』『須坂・中野・飯山の今昔』『飯山北高等学校のあゆみ』『須坂・
中野・飯山の太平洋戦争』『信州の古城』『昭和の街角―須坂・中野・飯山―』、その他『各遺
跡報告書』・各雑誌論文・新聞エッセイなどがある。

      *現在 信州美術会々員・日本考古学協会々員・農業 


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