上杉謙信出奔に関する直江實綱書状の新解釈

 既に、他の章や『信濃61巻第9・10号』で簡単に記述してありますが、上杉謙信の出奔の事情をク
ロ−ズアップします。誰にでも悩みはあります。若き謙信がいかに家臣の統率に苦労したか、その出奔に
ついては、紐解く史料が少なく、謎に包まれています。
 私は、上野原合戦を飯山市静間の上野近辺に当てる説を検討しているなかで、この問題について、ふと
気づきました。これはまったくの偶然です。何を言っているそんなこと解るもんか、と思う人が大半でし
ょうが、しばらく、私のいつもながらの暴言?に耳を傾けて下さい。
 弘治2年、武田氏の軍事圧力が飯山・中野地方にも及び始めました。飯山近辺(飯山城か近辺の静間)
に高梨政頼が中野小館より拠点を移したのは弘治3年という説が有力でした。しかし、次の史料(史料要
約1)により、弘治2年と推定したほうが矛盾が少ないと思います。

 史料要約1 直江實綱書状 ○〔高梨文書〕
(『信濃史料・第十二巻』)を改変

 お手紙のように、今度、不慮の題目により(高梨城が陥落したか、高梨氏の自落)、その地(飯山口)
に御在留の間、まず、ご返事を差上げるべきでありましたが、近日、東条(長野市松代近辺の雨飾城包含
圏)を、攻めることを(宗心様=謙信が)申されました。
  只今はその作戦の相談の最中であり、そのように取り乱れているゆえ、ご返事が遅れてしまったことは
疎略でご迷惑をおかけしました。然れども、お馬(宗心)が越中方面にお登りになり、過書(『上越市史
別編1』)の儀を差し越しなされました。それで、相調えて彼のお使いにお渡ししました。
 (高梨殿が)こちらに相応しい御用所(陣所か=飯山城か〈2014・10・19更新〉)の旨を伝え
てこられているので、どんなことがあっても、毛頭、御無沙汰をするつもりはなかったのです。さらに安
部修理亮差し越され、ご口上の趣、これまた具に承りました。詳しいその旨承知しました。どのように申
し述べてよいのか、この由、御意(ぎょい)を受けてください。恐々謹言。            

  (筆者推定の弘治二年)           直江與兵衛尉
  七月三日                     實綱(花押)
 
  高梨殿人々御中


              





 まず、この文書で注目すべき点は「爰元相應御用所之旨被仰越」と現飯山城を高梨方が長尾方に陣所と
して相応しいと進言していると見られることであります。長尾宗心(景虎)方が飯山口に入るとすれば、
越後軍の駐屯地が必要であり、それを御用所と言ったのでしょう。従って高梨方が飯山口に在留している
場所は頑強な山城に囲まれた賤間(志妻)郷田草村(飯山市静間)と推定します。そこは当時高梨領であ
り、田草城・小田草城が高梨氏の要害であることは明白です。たとえ、高梨氏と泉弥七郎に主従関係があ
るとしても、いきなり泉氏の館城に、安部氏など味方衆を引き連れて滞在するとは考えがたいのです(2
014・10・26更新)。
 高梨方が泉氏の本拠飯山館城の外郭を長尾方に御用所として進言していることは、6月中、長尾軍がま
だ飯山口に入っていない状況を示し、この史料が弘治三年ではなく、弘治二年であることは決定的といえ
ましょう。また、この文書は飯山城の位置を長尾景虎が陣所として利用することを物語る最初の史料とし
て、注目すべきものです(2014・10・19更新)。
 また、この文書は『信濃史料』では、弘治三年と推定しています。しかし、その後「市川良一氏所蔵文
書」の発見により、弘治三年の六月に、長尾景虎が飯山に居ることが明らかとなりました。そこで私は史
料要約1の書状を弘治二年と推定したのです。この年前後から高井郡の地元衆が一斉に武田方に投降し、
高梨氏は高井郡内では四面楚歌の状態になりました。これが中野小館の落城か高梨氏自落の理由です(2
014・10・26更新)。
 文面では書状の返答が七月三日であり、しかも實綱が返事が遅れてしまい申し訳ないと言っていること
から、既に六月中より、高梨政頼が飯山口の危機を訴えて、春日山城へ向けて越後の援軍を何回も求めて
いたことが分かります。
 ここで、注意したいのは、高梨氏(政頼)に対する返答は、宗心(上杉謙信)ではなく、直江實綱であ
り、しかも、宗心が東条攻めの策を練っていて忙しかったので高梨氏などに返答できず、さらに宗心が越
中に登ったと實綱が言っていることに重大な意味があります。
 先記のように、弘治三年の六月後半に景虎が飯山に居ることは、市河藤若宛の六月二十三日付の「武田
晴信書状」(『戦國遺文武田氏編』562号)で明らかとなっていますから、景虎と高梨政頼が飯山包含
圏で行動を共にしていることは明白です。
 弘治三年の六月に景虎が春日山城に居るはずもなく、ましてや景虎に政頼が援軍を求めるはずもなく、
従ってこの書状が弘治三年ではなく、弘治二年のものであると筆者は推定しました。弘治二年、春日山城
では、武田方に占拠されている東条(長野市雨飾城包含圏)の実情を知っていましたが、軍事行動が出来
なかったのでしょう。宗心と直江實綱がともに春日山城に一時居たことは、直江實綱が宗心の行動を詳細
に伝えていることで納得できましょう。
 これは、驚くことに景虎が出奔し宗心の号で直書を書いたとされる事件と一致します。出奔のとき比叡
山を目指したとか、妙高山にこもっていたとか、諸説がありますが、宗心が越中を目指したことなど、比
叡山説・高野山説などが現実味を帯びてきます。
 比叡山説は隠遁が取りやめになったことを示す上杉家文書の8月17日付け「長尾景虎書状」の付箋に
「弘治元年謙信比叡山ニ隠遁、同所ヨリ長尾政景ニ送ル書状」とあることを理由としています。この他、
高野山説は『上杉(羽前米澤)家譜』に「紀州高野山ニ赴カントス」とある間接史料に基づくもので、同
じく妙高山説も同書に「関ノ山妙高山ニテ景虎ニ追究シ」とあるからであり、宗心の目指した先はいずれ
とも断定できないのが現状ですが、史料要約1の宗心が越中を目指したことで、妙高山説は排除できると
思います。
 さらに、隠遁をめざした出奔の事情ついては武田方に占拠されている東条(長野市松代町)を攻撃する
作戦の討議中、越後の独立性の高い豪族の足並みが乱れたことが出奔の直接的な要因と判明します。
 史料要約1の書状が7月3日付けであることは、弘治2年8月8日前後の、雨飾城(東条包含圏現尼巌
城)の武田方真田幸綱などによる攻撃説を否定します。このことは米山一政氏の天文22年雨飾城攻撃説
(米山一政「第五章第三節―長尾景虎と武田信玄の攻防」『更級・埴科地方誌第二巻』更級・埴科地方誌
刊行会・昭和53年)が有力である証拠です。ただし天文22年に雨飾城が陥落したかは定かではなく、
弘治2年の5〜6月に武田方が雨飾城を占領したか、以前から武田方が占拠していたかは不明です。
 いずれにしても、弘治2年7月以前に雨飾城が武田方に占拠され、ふもとの東条に軍勢・軍馬が集結し
武田方の善光寺平の大拠点となっていたことは、間違いないでしょう。こうした拠点が後、海津城築城へ
と発展したと考えています。
 宗心が武田氏の大拠点をたたくことは、家臣にとっては重大な問題であり、ことさら長尾政景ら、不満
のある独立性の高い武将の反発を招くことは必定であったのです。上杉家文書「歴代古案」に謙信が出奔
した際の書状案(=写し)あり、他にもいろいろと隠遁に入る理由が書かれています。しかし、直接的に
は、東条を攻めることに対する有力武将の反発が原因であり、家臣をまとめるために出奔の行動に入り、
越中の手前あたりで踏みとどまったのでしょう。6月28日に長慶寺天室光育に書状を送ったのが歴代古
案の「長尾宗心書状案」であり、まさに、出奔直後の宗心の心情が吐露されています。
 直江實綱書状の7月3日と、宗心の6月28日以前の出奔の行動は、まったく矛盾がありません。宗心
は長慶寺あての書状とは別に、重臣の直江實綱(景綱)に書状を送ったことが明白です。
 つまり、いきなりの出奔で、過書(過所=通行許可証)を調えられず、實綱などに、調達を求めたこと
が宗心(のちの上杉謙信)の居場所を明らかにし、長尾政景らが宗心を春日山城にお連れ戻した事情が明
らかとなってきます。実はわざと宗心は居場所を明らかにし、家臣が向かえにくることを期待していたの
です。
 また、史料要約1の文書には、高梨政頼らに春日山城のお家の失態を知らせたくない事情が隠されてい
ると見たほうがよく、文面の背後の気配を、読み取らなければなりません。



 この文書の信濃史料他の『直書』と解読した部分を、過書(=過所)と読む上越市史別編1(平成15年)説の支持
を表明するわけは、直書(じきしょ)では文章の意味が通じないし、 書体から見て過書(過所)のほうが適切である
と判断したためです。
 ただし、『上越市史』ではこの史料を天文22年に当てていますが、 高梨氏の中野小館退去の時期に合致しない
ばかりか、お馬(宗心のことを間接的に表現した)の行動と合致しません。長尾景虎の上洛は天文22年の秋です。
 通行許可証である過書の発行は、普段は實綱などが体裁を整えるのであり、宗心が直接書いては、過書所持者
が宗心だとばれてしまいます。まさしく、上杉謙信出奔の事情が「過書の儀差し越し候」の文言にかくれていること
が分かります。
 また、越中に向けて出奔した際、使者を春日山城に使わしたと認められる点は、先の『歴代古案』の「長尾宗心書
状案」に二人の使者を使わしたと、宗心が書いていることで、完全なる一致を見ます。
 この書状案の冒頭に次の意味のことが記されています。「謹んで申し上げます。このたび、宗心身の上の儀に、両
使をもっていろいろ申し述べましたので、定めしお聞きになったでしょう。なお、皆様によくお聞かせくださるように一
書を差し上げます。」
 つまり、宗心のこの書状は、出奔時に書き残したものではなく、ある程度の旅先(越中の手前あたりか)で、二人の
使者に託したものであることが判明します。二人の使者が、常に行動を共にしたかは明らかではありませんが、一方
は直江實綱など春日山城の重臣に向けて口上し、 一方は長慶寺天室光育に隠遁意思の真相を語ったものと、推
察されます。

  以上、私は上杉謙信出奔の事情を、このように考えました。史料要約1の文書から汲み取れることは謙信出奔以
前の6月中、上杉謙信と直江實綱ら重臣が春日山城で一時居住を共にし、 高梨氏が春日山城に飯山口の援軍を
要請していることです。この基本的な事情を把握しないかぎり、この書状の年月日と内容を正確につかむことはでき
ません。ご批判をよろしくお願いします。

参考文献

小林計一郎『川中島の戦』信濃教育会出版部 昭和40年

花ケ前盛明 『上杉謙信』 新人物往来社 平成3年

松澤芳宏 「上野原の戦い、飯山市静間説の新展開(上)(下) ―弘治二〜三年甲越合戦の真相―」、雑誌『信
濃』第61巻第9号・10号 平成21年

松澤芳宏 「直江實綱書状からみる長尾宗心出奔の事情 ―高梨氏飯山口応援依頼の越後方返答から―」、雑
誌『信濃』第63巻第9号 平成23年




(2010・8・26記、9・11更新、2011・10・11更新。2014・10・19〜26更新)



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