野尻城についてはその位置をめぐって諸説錯綜しており、研究者の持論によって根本史料に登場する野尻(城)
を野尻包含圏のどの城にあてるかが異なっています。
年未詳(私は永禄7年説支持) 四月二十日付の武田信玄書状案『奥州会津四家合考』に、「野尻落去」とある、
武田方の攻勢で陥落した城が、上杉方では「野尻島敵乗取候處、不移時日取返候」(五月七日付上杉輝虎書状 =色部文書)とあることにより、琵琶島(弁天島)とする考えが最近はやっています。
すなわち、いつの間にか琵琶島が野尻島に断定され、琵琶島を古文書に登場する野尻(城)に断定、野尻城と
する、現代の説ができたわけです。また、従来伝承の湖畔の野尻城は永禄12年ごろの野尻新地に断定し、これ を野尻新城と断定する人も出てきました。
ところがどっこいそうは行きません。小林計一郎氏・米山一政氏らは湖畔の城を野尻城として、琵琶島と一体的
な防御施設とみて、両者の総称を古文書にある野尻(城)とみておられたようです。
どちらかといえば、私は小林・米山説を支持し、新たに近隣の北国街道(通称)ぞいの土橋城を、永禄12年ごろ
の野尻新地に考えているわけです。また、古文書の野尻島については、伝野尻城(城ケ入)が半島状地形をな していることからその状態を野尻島と呼んだ場合も仮定したいと考えています。木島平村中島など、島状地形を島 と呼ぶ土地は各地にあります。そもそも野尻の語源が沼尻(ぬじり)、すなわち、湖沼の尻(岸辺)からきていること に注目すべきです。
『長野縣町村誌』北信篇、昭和11年刊行に、明治15年長野縣提出、上水内郡野尻村の古跡として次の記載が
あります。「【野尻城墟】村の東方字城ケ入にあり。東西二町、南北一町。甲越戦争の際、上杉氏の臣宇佐 美定行陣屋跡の由、土人云伝へたり、然れども今僅かに遺址を知るのみ、復た古時の景状なし。」現在説 は宇佐美定行は定満であり、野尻城主という根本史料もないが、江戸時代以来の伝承として大事にしなければな らないと思います。
伝野尻城はあくまで野尻城であり、これを野尻新城に改竄することはなりません。たとえそれが野尻新地に比定
する意見があっても歴史伝承の改竄は許されません。そういう人は伝野尻城ではあるが、野尻新地に考えたいと いう表現に留めておくべきです。ただし、私は天正年間の野尻新町が野尻新地の城下町とみて、土橋城を野尻新 地に当てる説を唱えているのです。あくまでも仮説であり、断定するには将来の発掘調査による確認が必要でしょ う。
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