My Profile   last update 2003.10. 2

私の名前 岡田 宏基(おかだ ひろき)
今の仕事 香川大学医学部医学教育学講座教授兼医学部教育センター長
医学教育全般のお世話をする部門です。
どこでいつ生まれたか 兵庫県赤穂郡生まれ、未年、牡羊座
大学卒業後の変遷
1981.4 岡山大学医学部医学科を卒業しました。
1981.6- 岡山協立病院内科で研修を受けました。
中規模の病院でしたので、内科以外の先生方からも多くのことを学ぶことができました。私が今医師として存在できているのはここでの研修のおかげです。
1983.4- 九州大学医学部心療内科で研修を受けました。ここに至るまでの経緯は下に。
病棟での研修はわずか1年でしたが、面接の仕方、心身医学的治療法の概要を学ぶことができました。また、九大心療内科での、この領域の多くの先生方との出会いは、最も貴重な財産となっています。
1984.4- 長門記念病院(九大心療内科の関連病院;大分県佐伯市)内科に勤務し、主として多くの塵肺症の患者様の診療に携わりました。一方、心身医学の専門医も非常勤で数多く来られていたので、引き続き心身症の診療について教えを受けることができ、とても幸運だったと思います。
1986.4- 高松逓信病院内科部長(香川医科大学第一内科研究生)
卒後6年目で内科の責任者となりました。ここでは内科医として独り立ちする貴重な経験を積むことができました。また、ここでの人との出会いも、今に活きています。さらに、経営上の数値も頻回に「見せられ」たのですが、診療報酬の伸びより、人件費の伸びの方が大きく、幾分虚しい思いもしたことも事実です。
1990.7- 国立精神・神経センター武蔵病院精神科医師
ここでの経験も貴重でした。詳しくは、「心療内科での診療について」をご覧下さい。
1992.1- 香川医科大学医学部附属病院総合診療部講師
内科の中で心身症の患者様を診るためには、このポジションは大変ありがたかったです。ここでの生活は一言では語り尽くせないので、いつか別枠で。9年間お世話になった後、医療情報部に転出させていただきました。
1997.6 香川医科大学医学部附属病院医療情報部副部長兼任
2001.3 香川医科大学医学部附属病院医療情報部助教授
2003.10.1 大学統合により香川医科大学→香川大学に
2004.9.1 岡山大学病院 総合患者支援センター准教授・副センター長
2010.4.1 現職
何故医師になろうと思ったか  小さい頃は機械いじりや鉄道が大好きで、よもや人の命を預かるような仕事に就こうとは思ってもいませんでした。
 本を読むのは元々好きでしたが、高校の現代国語の先生の影響で、日本語に興味を持つようになり、純粋な理科系への進学をためらうようになりました。
 その後、理科系と文化系の接点として医学を意識するようになり、ちょうどその頃市内のデパートで行われていた麻酔展を見て、麻酔は一つの選択肢かなと考えるようになり、医学部への進学を決めたように記憶しています。
どうして心療内科を選んだか 心療内科との出会い
 日本で心療内科を創設された、故池見酉次郎先生が書かれた、「心療内科(中公新書)」を大学入学間もない頃に読み、自分の進む道はこれ、と心に決めました。
 うるしかぶれのある人に、似たような木の下を、これはうるしだよ、と言って通らせると、本当にじんましんが出たり(暗示)、たまたま午前2時にひどい喘息発作が出た後に、午前2時になると決まって喘息発作が起こるようになったり(条件付け)、という例が示されていて、本当にこんなことが起こるのだろうかと思う反面、人の心理にも興味があった私にとってはひどく魅力的な世界でした。
(あとで聞いたのですが、池見先生の本を読んで心療内科を志したものは途中で挫折をする者が多いということでした。となると、私は数少ない生き残りのようです)
精緻な体の仕組みに出会う
 しかし、入学して3年目以降に専門課程に進み、、体の仕組みを習ってゆくにつれ、人の体は極めて合理的に動いていて、「こころ」の入り込む余地はないようにも思えてきました。
児童精神科もいいかも
 その後、一時は子どもの精神科を目指そうかと思った時期もありました。将来がある子どもの道筋を修正することができるとしたら、それはとても意義があることのように思えたからです。
急性肝炎で入院
 最終的な決め手は、自分の入院でした。大学5年生の終わり頃に、A型肝炎で、大学病院に入院してしまったのでした。黄疸を示す血中のビリルビンが16まで上がるなど、それはかなりのものでした。白い便は出るし、尿は紅茶のように真っ茶色だし... 入院した頃は生きた心地がしませんでした。
入院生活は極めて暇
 血液検査データは華々しかったのですが、入院してしばらくすると、それまで家で1週間発熱や食欲不振で苦しんでいたのが嘘のように、体は次第に楽になってゆき、徐々に食事もとれるようになりました。黄疸が出ると自覚症状が改善してゆくと教科書に書いてありましたが、まさに典型例でした。
 ところで、肝炎の治療って、何をするのでしょう? 1日2本(後には1本に減った)の点滴をして、後は大人しく寝ているだけなのですよ。
 入院中に5年生から6年生に(勝手に)進学し、臨床実習は休んでいるし、卒業に向かって勉強をしなくてはと焦るものの、なかなか退院の許可はおりません。ゴールデンウィークも結局病室で過ごす羽目になりました。この時に、入院中にストレスを減らすような、リラクセーションやカウンセリングを併用することで、治癒が促進し、入院期間を短縮させることができるのではないかと考えたのです。
いざ心療内科へ 出身大学には心療内科はない
 私が在学していた岡山大学は、精神神経科は非常に有名で、他大学の精神科教授を数多く輩出していました。しかし、その研究内容は生物的精神医学という領域が中心でした。これは、平たくいえば、統合失調症などの精神病に対する薬物の効果を研究する分野で、精神療法をやっている先生はほとんどいませんでした。私はどちらかといえば、精神分析などの精神療法に関心があったので、母校の精神科では自分が望むものは得られないと思いました。
東大分院か九大か
 当時国立大学病院で心療内科があったのは、東大分院(今は本院に統合されましたが)か、日本での発祥の地、九州大学しかありませんでした。
 東京は日本の情報の中心地で、先生方も魅力的で心は動いたのですが、結局、岡山で2年間内科研修をすませた後に、受け入れ体制がしっかりしていた九州大学心療内科に入局させていただきました。
九大に行くにあたってお世話になった先生方
 九大の心療内科にお世話になるにあたって、お二人の先生方にたいへんお世話になりました。
 お一人は、日本に交流分析を導入された杉田峰康先生です。杉田先生の、交流分析とゲシュタルト療法とを組み合わせたワークショップには大学生の時から参加させていただいており、その魔術のような深層心理の引き出し方には心底「しびれて」いました。
 もう一人は、私の高校の一期生であった石橋慎一郎先生。その当時、何気なく同窓会名簿を見ていたら、九大の心療内科に高校の大先輩がおられることを知り、不躾を承知で、いきなり電話をして、受け入れていただけるか尋ねたことを覚えています。石橋先生には私の結婚式にも出席していただきましたが、その席上で、「いきなり電話をしてきたのでびっくりした」と言っておられました。
 お二人の先生方、本当にありがとうございました。
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