『ユウと白い金魚』

 

「あ〜あ、ついてないなぁ……」

 

中学三年生になる春休み。

本当なら私は、同級生達と一緒に、京都にいるはずだった。

けれども、出発の前の日、突然出た熱のために、

私は、あんなに楽しみにしていた修学旅行に参加することができなかった。



「お医者さんに注射打ってもらう! 薬持ってく! 向こうでもずっとおとなしくしてる!」

そう言って、どうしても行きたいということを、母に強く訴えたのだが……

 

「他の皆さんに風邪を移しでもしたらどうするの。迷惑なだけでしょう。

それよりユウ、早く良くなってちょうだい」

と、逆にお願いされてしまった。

 

よく考えればその通りなんだけど……でも、行きたかったよう、修学旅行!

 

 

幸いなことに、熱は一日で下がり、

私はベッドの中で、修学旅行二日目の予定を、頭の中でなぞっていた。

 

「今日は清水寺へ行くんだったよね。

ああ、清水の舞台ってどんなのか見たかった。

音羽の滝の水も、飲んでみたかったなぁ」

 

そんなことを考えながら、私は、午後の陽が差し込むキッチンへと視線を向けた。

 

私が寝ている部屋とキッチンの間には、

横幅三十センチ位の水槽が置いてあって、

その中に、金魚が一匹だけ泳いでいる。

私が小学校に上がる前、お祭りの夜店ですくってきた金魚だ。

 

最初、この水槽には、

一緒にすくってきたメダカくらいの大きさの金魚が十一匹もいたのだが、

だんだん減っていって、とうとうこの一匹だけになってしまった。

 

のびのびしたせいなのか、この金魚はそれからもどんどん大きくなり続けて、

体長十センチを越えた。

しかも、初めは赤かったからだの色が、だんだん白くなってきて、

今では、金魚なのか鯉なのか、わからないくらい。

 

今も、その大きなからだをもてあますように、

狭い水槽の中を行ったり来たりしているのを、私はぼんやり眺めていたのだが……

 

その時ふっと、金魚と目が合ったような気がした――

 

「ねぇ、ユウちゃん。音羽の滝へ行きたくない?」

「え? 誰!?」

「僕だよ。水槽の中の金魚――いや、実は鯉」

「鯉!?」

「いや、これは世を忍ぶ仮の姿。ほんとは僕は竜なのさ。

ユウちゃんは音羽の滝に行きたいんだろう?

いつも僕にいっぱいエサをくれるユウちゃんのために、

一肌脱いであげようかと思うんだけど」

 

私はびっくりした。

けれど、その金魚――いや、自称『竜』の言うことに、とても興味をそそられたので、

話に乗ってみることにした。

 

「いいかい。音羽の滝は三筋あって、それぞれの御利益が違うんだ。

頭が良くなる水、性格が良くなる水、健康になる水。

そのうち、頭が良くなる水を飲むと、僕は竜になって、天に昇ることができるんだ。

だから、ユウちゃん。

君を音羽の滝まで連れて行ってあげるから、その水を汲んできてくれないかな。

そして帰ってきたら、この水槽に入れて欲しいんだ」

「ふうん、そうしたら君は、天に昇って行っちゃうのね。

それは淋しいけど……君がそれを望むなら、そうしてあげてもいいわ。

でも、どうしたらいいの?」

「交渉成立! なら、ちょっと目をつむって……」

 

金魚に言われたとおり、私は目をつむった――

 

しばらくすると、耳元でひゅうひゅうと風を切る音がする。

目を開けた私は、鯉のぼりくらい大きくなった金魚の背中に乗って、雲の上を飛んでいた。

 

「ひゃあ! スゴイ! 君、今のままでも空を飛べるんじゃない!」

私は感激して、金魚に言った。

 

「ううん、これは実際に飛んでる訳じゃないんだよ。

幽体離脱、って知ってるかな。

魂だけが今、音羽の滝に向かってるんだ。」

私はぎょっとして、それ以上質問をするのを止めた……。

 

しばらく雲の上を飛んだ後、金魚は下に降り始めた。

 

白い雲の下には、淡いピンク色をした、もうひとつの雲海が広がっていた。

匂うように咲き誇る、満開の桜だ。

そして、その桜の雲の間に、清水寺は厳かにそびえていた。

 

「きれい……。私は、清水の舞台よりもっと高いところから、これを見てるんだわ」

 

夢のような景色にうっとりしていた私は、思わず金魚から落ちそうになり、

慌てて、しっかりと金魚の背びれをつかみ直した。

 

そんな私にはお構いなく、金魚は、清水の舞台から下ったところにある、

音羽の滝に近づいていった。

 

そこには、ひしゃくですくって滝の水を飲もうと、たくさんの修学旅行生たちが、

列を作って順番を待っていた。

 

「ね、あの中に、ユウちゃんの友達がいるだろう?

その子に念を送って、頭の良くなる水を持ち帰るよう、頼んでよ」

「え? 念を送るの? そんなこと、私にできるかなぁ」

「大丈夫! ユウちゃんは今、魂なんだよ。さぁ、自信を持って、僕のために、お願い!」

「うん! じゃ、やってみる!」

 

私は、行列の中に、私の一番仲の良い友達、ケイちゃんの姿をさがした。

ケイちゃんは、列の前の方にいて、もうすぐひしゃくを手にしそうだった。

私は急いで、ケイちゃんに念を送ろうと意識を集中した――

 

 

「ユウ、起きなさい。夕ご飯よ」

「……え?」

 

目の前に、母親の顔があった。そして私は、自分のベッドの上にいた。

「お熱は下がったんだから、後は栄養のある物をしっかり食べて、体力を回復しなくっちゃね」

「はい……」

 

――私、ケイちゃんにお水のこと、頼みそこなっちゃった……。

 

開けっ放しのドアから水槽の方に目をやると、心なしか金魚は元気がないように見えた。

 

 

翌日、すっかり元気になった私は、

修学旅行の帰りに寄ってくれると約束していたケイちゃんが来るのを、楽しみに待っていた。

 

そのケイちゃんは、夕方になってから、お土産を持って訪ねて来てくれた。

 

「ユウちゃん、ぐあいはどう?」

「ありがとう。もう大丈夫みたい。ケイちゃんと一緒に行けなくて残念だったな」

「うん、私もユウちゃんがいなくて淋しかった。

京都ね、桜がすっごくきれいだったよ。

特に清水寺の舞台から見た景色はもう、最高だった!

ユウちゃんにも見せてあげたかったなぁ」

「うわぁ、いいなぁ。そんなきれいな景色を見られて、ケイちゃん、良かったね!」

 

――昨日、私は、空の上からそれを見てたんだよ、とは言えなかった。

 

「そうだ、ユウちゃんにお土産!

はい、舞妓さんの携帯ストラップでしょう、清水寺の、合格祈願の御守りでしょう、

それから、音羽の滝の水!」

 

ケイちゃんは、他のお土産と一緒に、小さなペットボトルを私にくれた。

 

「え、滝の水、汲んできてくれたの? ありがとう! これ、頭が良くなる水?」

 

――やった! 私は金魚を思って、心の中でガッツポーズを取った。

 

「うん、それにしようかと思ったんだけど……

来年試験受けるときに、ユウちゃんがまた熱を出したら大変じゃない?

合格祈願はこちらの御守りがあるから、健康の水の方にした」

 

そう言ってケイちゃんは、にこにこっと笑った。

 

――ケイちゃんって、いい友達だな、大切にしなくっちゃな。

 

私は熱の後遺症なのか、涙が出そうになって困った。

 

ケイちゃんが帰ってから、私はお土産のボトルを持って、金魚の入っている水槽に近づいた。

 

「金魚ちゃん。友達が音羽の滝の水を持ってきてくれたよ。

でも、頭の良くなるのじゃなくて、身体が健康になる水だったよ。

竜になれなくて残念だけど、どうか健康で長生きしてね」

私は、ペットボトルの水を、とぽとぽと水槽に注いだ。

 

 

そのせいなのかどうか、私が高校生になった今でも、金魚はずっと金魚のまま。

今日も、のんびりゆったりと、水槽の中を泳いでいる。

そして、ケイちゃんと私は、今も、そしてこれからも、ずっと仲良し。

 

(おわり)

 

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