海のお話
「ねぇママ、あの子、いつもあそこに座ってない?」
目の前で珈琲を飲んでいた若い男性が、カウンターの中の私に向かってそう声をかけた。
「ああ、、、あの子ね。うん、そうみたいね」
私はそれだけ答えると、膝に広げていた本に視線を落とし、
それ以上知りません、聞いても答えません、というポーズを取った。
***
ここは海岸通りの小さな小さなコーヒーショップ。
さすがに夏は海水浴客やサーファーでいっぱいになったりするけれど、
シーズンも過ぎた今頃は常連のお客様くらいしか来ないし、私のそんな態度も許してくれる。
それでもときどきふらっと新しいお客様がみえることもあって、そう、あの時も・・・
***
浜辺に人影がなくなり、海が本来の色を取り戻した夏の終わりのある日。
ひとりのほっそりとした女の子がおずおずと店に入ってきて、
カウンターの隅の窓際の、あの海が一番よく見渡せる所に座ってぼーっとしてた。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」と、お水とタオルを差し出しながら尋ねると、
びっくりしたような大きな目でじっと私を見つめてから、
「珈琲ください。。」と小さな声でつぶやいた。
***
そうしてその日から毎日、あの子はこの店にやってきて、
いつも同じ窓際の席に座り、珈琲を注文し、
夕暮れ時まで黙って海を眺めていては、「ありがとう」と言って帰って行った。
そのうち少しずつ打ち解けて、
言葉を交わすようになった彼女が話してくれたところによれば、
どうやら海の向こうへ行ってしまった恋人の帰りをずぅっと待っているらしい。
「いつ頃帰ってくるの?」なんて野暮な質問などしたくない私は、「そうなの」と微笑むと、
ここには気の済むまでいてくれたらいいこと、ただし珈琲は私の奢りだと伝え、
遠慮するあの子に、「だって、うちの看板娘だもの」とウィンクをした。
***
それから何ヶ月かが過ぎ、
もうすっかり彼女がこの店の風景にとけ込んでしまったようになったある日のこと。
前日まで降っていた名残りの雪が砂浜をうっすらと覆い、
それでも海は春を思わせる青い色に輝き始めた朝に、
波の彼方から何かがこちらにやってくる気配がした。
ふと波打ち際に目をやると、
あの子が裸足で立っていて、そのまま海の中へと進んで行く。
思わず店から走り出て止めようとする間もなく、
彼女の足はまばゆい金色の尾びれとなって水を打ち、
美しい人魚の姿となって、ぐんぐん沖に向かって泳ぎ始めた。
そしてその先に待っていた、
艶やかな銀色の肌をした一頭のたくましいイルカに飛びつくと、
嬉しそうにこちらを振り返り、何度も何度もお辞儀をして、
そのまま波間深くに消えていってしまったのだった・・・
* * *
あれから何年も経つけれど、
今でも夏の終わる頃になると、人気のなくなった浜に立ち、
海の向こうを眺めては、あの子とあの子のイルカの幸せを祈っている。
もう離ればなれになんかなっちゃダメよ、と。
でも本当は私、もう一度、あの子に会いたいのかもしれない。
|