漁師若者



遠い昔、遠い国でのお話です。



ある漁師の若者が、海で突然の嵐に巻き込まれました。

荒れ狂う波と風に、若者の乗った小さな船は木の葉のようにくるくると舞い、

方向を定めることができません。

若者はそれでも必死で舵を取ろうとしましたが、

とうとう海に投げ出されてしまいました――。

 


 


気がついたとき、若者は見たことのない砂浜に倒れていました。



「おお、俺は助かったんだ! しかしここはどこだろう……」



そこは海の真ん中に浮かぶ小さな小さな孤島で、

数本の椰子の木と、島をぐるりと囲む白い砂浜以外、何も見あたりません。

もちろん、食べ物も、そして水さえも……。



そんな若者を、空の上から見ていた者がいます。

月の女神様に仕える天使、沙那です。



沙那はいつも、月の女神様のお供をして夜の空を渡るときに、

この若者の漁の様子を見ていました。

そして、ひとりで船を操ったり、大きな魚を見事に釣り上げる、

若者のたくましさに惹かれ、密かに思いを寄せていました。



若者が海に流されてしまったとき、この島に導いたのは沙那です。

けれども沙那にはそれ以上、何もしてあげることができません。



沙那は、月の女神様に、若者への手助けを願い出ました。
 


月の女神様は、沙那をとても可愛がっていらっしゃいましたので、

その願いを聞き届けることにいたしました。
 


「沙那、よいですか。私が空を渡る間だけ、若者のところへゆくことを許します。

その間に、あなたが彼のために何をしてあげられるか、ご自分で考えてごらんなさい」





昼間の熱い太陽の陽射しを椰子の木の下でやりすごした若者は、

月が出るのを待って浜に出ました。



魚を捕るにも、その魚を料理するにも、手元には何一つ道具がありません。

どうしたものかと思案に暮れていると、空から突然ひとりの少女が舞い降りてきました。

金色の長い髪の毛をふわりとなびかせ、うす茶色の瞳で微笑みかける少女――

沙那です。
 


驚く若者に、沙那は言いました。



「私は沙那。月の女神様にお仕えする者。

あなたが漁をする様子を、毎晩空の上から眺めていました。

あなたがあなたの場所に帰れるように、どうか私にお手伝いをさせてください」



若者はとても素直な性格でしたので、こんな不思議な出来事をも、

すんなりと受け入れてしまいました。



「そうか、それは助かった。それでは、ここから脱出できるように、船を用意してくれないか」

 

沙那は少し恥ずかしそうに答えました。



「ああ、そうしてさしあげたいのは山々ですが、私にそれほどの力はありません。

私にできるのは、ほんの小さなこと。

例えば、魚を突くモリを出すとか、火をおこせるような薪を出すとか……」 



それを聞いた若者は、日焼けした黒い顔をほころばせて、ニッコリしました。



「ああ、そうなんだ。いや、それでもとてもありがたいよ。

では、モリと薪を出してくれるかい?」

「喜んで!」



沙那は、あっという間に、鋭い切っ先を持つモリと、良く乾いた上等の薪を一抱えほど、

目の前に出現させました。



「やぁ、ありがとう! さっそくこのモリで魚を捕ってこよう」



若者は、沙那の出してくれた木ぎれを上手に擦り合わせて火をおこし、

小さなたき火を作りました。

そして海に入り、モリで仕留めた何匹かの魚をその上にかざして焼き始めました。





若者の豪快な食べっぷりを見届けてから、沙那は満足そうに、

月の女神様の元へ帰りました。



「女神様、あの若者は、あそこで食べ物を手に入れることができるようになりました!」

「そう、それは良かったこと」



月の女神様は、ふんわりと微笑んで、沙那の髪の毛を優しく撫でました。





その明くる晩。

再びやってきた沙那に、若者は、

今度は太い丸太と 頑丈な縄を出してくれないかと頼みました。

船がダメなら、筏を組もうと思ったのです。



「丸太と縄ですか。わかりました。でもいっぺんにたくさんは……。

今日は丸太一本と、丈夫な縄だけです」

「ああ、それでも充分だ。毎日一本ずつ組んでゆけば、筏はいつかできあがる」



その晩から幾日かかけて、沙那は若者のために、

海を渡るのに充分耐えられるような、 丈夫な丸太と太い縄とを用意しました。
 




若者は、モリで突いた魚と、椰子の葉に集まる夜露で、飢えと乾きをしのぎながら、

沙那が訪れる時刻(とき)を、楽しみに待つようになりました。

夜になり、月の出と同時に沙那が姿を現すと、筏を組む作業を続けながら、

自分のふるさとがどんなに素晴らしいところかを、沙那に話して聞かせました。



やさしく咲きにおう春の花。

陽気にはしゃぐ夏の海。

あでやかに装う秋の山。

つつましく雪化粧する冬木立。



四季それぞれの美しさを自慢げに話す若者の瞳は、

星を宿したようにきらきらと輝いています。



「俺は絶対、ふるさとへ帰ってみせる!」

「ええ、きっとあなたはふるさとへ帰れます!」



筏のできあがってゆく様子を見守りながら、沙那は若者を励まし続けました。





何日かすると、立派な筏ができあがりました。



「明日はいよいよ満月だ。俺はそれを待っていた。

明日、筏に帆を取り付けたら、大潮に乗ってふるさとへ帰れる。

これもみな、沙那、君のおかげだよ。今までどうもありがとう」

「いいえ、私こそ、あなたのお役に立てて、とても嬉しいわ。

それじゃ、今夜はこれで帰ります。また明日」



沙那は、若者に「おやすみなさい」と微笑んで、いつものように天界へ帰ってゆきました。





「沙那、どうしたのです。元気がないようですね。あの若者がどうかしましたか?」

「はい、女神様。あの方は明日、筏に乗ってふるさとへ帰ることになりました」

「まぁ、それは良かったこと。それなのになぜ、

あなたはそんな暗い顔をしているのですか?」

「それは……」

「沙那。あなたはあの若者から離れるのがつらいのでしょう」



沙那は、ハッとして、女神様の顔を見上げました。



「ああ、女神様。やはり女神様は何もかもわかってしまわれるのですね。

そうです。私はあの方とお別れするのが淋しいのです。

最初は、あの方が無事に帰るお手伝いをできればいいと、それだけを考えていました。

けれども、毎晩毎晩、あの方のおそばまで行って、

あの方のきらきらした瞳や、生き抜こうとするたくましさにふれるうちに、

離れがたくなってしまったのです。

かといって、いつまでもあの方を島に引き留めておくわけにはいきません。

明日、女神様がお空におでましになられたら、あの方は、あの筏を海に浮かべ、

ふるさとに向かって漕ぎ出されるのです……」

「沙那……」



沙那の潤んだ瞳を見て、月の女神様は、美しいお顔を曇らせ、

そっとため息を漏らされました。



「沙那。

あなたが悲しい顔をすると、私まで悲しくなります。

あなたは私の娘も同然。

そんなにあなたがあの若者を行かせたくないというのなら、

南風に命じて、雲を呼ぶことだってできるのですよ。

そうしたら、あの若者は海に出ることはできない。

いつまでもあの島にいて、あなたの助けにすがらなくては生きてゆけない。

沙那、どうしますか?」

「……」



そんなことをしてもいいのかしら――。

沙那は心の中で必死に考えました。

――若者を行かせたくない。

でも、あの島に引き留め続けるなんてことを、

自分の気持ちだけのために、若者を足止めするなんてことを、してもいいのかしら。

あの若者はあんなにもふるさとに帰りたがっているというのに……。



「沙那。明日、南風に雲を作らせます」



なかなか決心のつかない沙那を見かねた月の女神様は、

そうおっしゃって、その夜のお勤めを終わられました。




次の日の夜。

若者は、帆を張るばかりになった筏のそばに立って、月の出を待っていました。

ところが、今夜に限って厚い雲が空を覆っています

沙那も姿を現しません。

それでも若者は、辛抱強く、月の出と沙那とを待ち続けます。

そのようすを、天界から、月の女神様と沙那が、じっと見つめていました。



やがて若者は、がっくりと腰を落として、つぶやきました。



「どうしたんだろう。

俺がこの島に来てから、空はずっと晴れていた。

沙那も夜毎訪ねてきて、俺を励まし続けてくれた。

それなのに、今夜に限って月も沙那も現れないなんて……。

こうして筏も仕上がって、後は一緒にふるさとへ帰るだけなのに!」



そのつぶやきを聞いた沙那は、ドキリとしました。



「一緒に……? 一緒に帰る……?」



ふいに、沙那の肩に、月の女神様の手が置かれました。

振り仰いだ沙那に、月の女神様はおっしゃいました。



「沙那。あの若者は、あなたを一緒に連れて帰ると言っています。

良いのですか? このまま空を雲に覆わせたままで」

「女神様、でも私は……」



月の女神様は、身につけておられた、輝く銀色のマントを、肩からはずされました。



「さぁ、これをあの筏の帆になさい。

あなたは、天使としての力を失うでしょう。そして、この天界へも、もう戻ってこられません。

けれど、空を見上げれば、いつでも私の姿は見えるのですよ。

そして、沙那、私からもあなたが……」

「月の女神様! ありがとうございます! 私、あの方の元へ参ります!」

 

月の女神様は、東風に命じて、さっと雲を払わせました。

空の真ん中に、それはそれは明るい満月が浮かび上がりました。



若者の作った筏に、月の女神様から贈られた銀色の美しいマントの帆が張られました。

二つのシルエットが並んで映っています。

沙那と漁師の若者です。



ふたりは、力を合わせて筏を海に押し出しました。

そして、潮が満ちてくるのを待って沖に漕ぎ出し、そのまま潮の流れに乗りました。



月の女神様は、筏の上で寄り添いながらこちらを見上げている、

幸せそうなふたりをご覧になりました。

そして、ご自分も、たいそう幸せな気持ちになり、たくさんの流れ星を放って、

ふたりの行く手にある夜空を彩られました。
 


(おわり)