「あら、芽留(める)がピアノを弾くなんて何年ぶりかしら!」
母の驚いたような、そしてちょっと嬉しそうな声を背中で聞きながら、
芽留は買ってきたばかりの楽譜をピアノの前に立て、鍵盤に向かう。
昔、OLだった母は、ピアノ奏者になって、洒落たバーやレストランの一画で、
素敵な夜を演出するのが夢だった。
定職ではなく、あくまでアルバイト、というところが、なんとも彼女らしい。
残念ながらその夢は叶わなかったのだが、
その代わり、幼い芽留をピアノ教室に通わせはじめた。
しかしながら、世間一般でよくあるように、
自我の芽生えた娘=芽留はピアノのレッスンをいやがるようになり、
中学生になるのを期に辞めたいと言い出した。
「ま、将来、隠し芸で披露できる程度には弾けるようになったでしょうから」
母はそんなことを言って、芽留がピアノ教室を辞めることを許してくれた。
芽留は安心してピアノから遠ざかった。
これは、芽留自身の問題ではあるけれど、やはり母の思いも尊重したかったのだ。
芽留はひとりっこだったし。
それなのに、今頃になってなんでまたピアノを弾く気になったかというと、
芽留は、“星”を見てしまったからだ、昨日、夢の中で。
――宙(そら)に、芽留はいた。
天の畔(ほとり)に据えられたピアノの前に座って、まるでいつもそうしているかのように、
軽やかにある曲を奏でていた。
指先から音が生まれるたびに、次々と新しい星が生まれでて、蒼い夜空に散っていった。
宙(そら)の真ん中を横切って、天の川はさらさらときらめき流れる。
中央に浮かぶ白鳥は、時折大きな翼を広げ、ゆったりとくつろいでいる。
その時、芽留は気がついた。
白鳥が浮かぶもっと向こう、天の川の反対側の岸辺からの、まっすぐな視線に。
遠すぎて表情はまるで見えないのに、なぜだか微笑んでくれているような温かな感じ。
芽留の胸は熱くなり、呼吸は速くなり、鍵盤をすべる指の動きがいよいよなめらかになって、
生まれ出る星の数も輝きもますます増していくのがわかった――
目が覚めてからも、芽留ははっきりとこのときの興奮を覚えていた。
鮮やかな記憶として脳に印象づけられた。
芽留は信じている。
この曲を自在に弾けるようになったとき、きっとあの星に出逢える。
芽留の胸を熱くするもの、芽留が夢中になり、新しい何かを生み出せるもの、
それが芽留の星。
しばらく弾いていなかったから、すぐに上手に弾けはしないだろうけれど、
今日から芽留はこの曲――『星に願いを』――を、一生懸命練習しようと決めた。
祈る思いでピアノを弾こうと。
願いはきっと、あの星に届くはずだから。
Play, to pray.
そう、弾くことは、祈ることなのだ♪