もくじ

ローマへの道 交通ルール スクーター ローマの松携帯電話 ぼられる ホテルがない 切符はいらない 乞食 ローマの休日言葉の問題 愛情表現 中国人か日本人 安全 SPQR 教皇 目印としての塔 発車時刻 大雑把さと荘厳さ 一人旅の食事 トイレがない アッピア街道 オペラ

 

    ローマへの道

   ローマ散策の初日の朝、ホテルを出てナツィオナーレ通りを歩き始めたとき、「遂に俺もローマに来たか」という実感を覚えた。思えば長い道のりではあった。

   塩野七生の「ローマ人の物語」を読み始めて7〜8年になるが、この本に触発されて古代ローマに関するあらゆることに興味をもった。また、ダヴィンチやミケランジェロなどのイタリア美術も昔から好きだった。クラシック音楽も好きで、ローマの教会でミサが響きわたるのを聴いたらどんなに感動的だろうと思っていた。キリスト教につては常識的な知識のレベルに留まるが、教会建築の荘厳さには魅かれるものをもっていた。そんなこんなで、ここ数年の私自身の思いは常にローマに向けられていた。後は、いつ行くかだけの問題だった。

   昨年、勤続30年となり、特典として3日間の休暇と金7万円が給付されることとなった。日頃まとまった休暇はなかなか取れないが、5月の連休と組み合わせれば、またとないチャンスである。ここを逃せば後はないと言う思いで、強引に実現させてしまった。

   準備に約半年を要した。「地球の歩き方」を始め、ローマを歩くためのガイドブックやローマに関する本を何冊も読みまくった。何回も何回も読んでいるうちに、ローマの地図は殆ど頭に入った。あの街角を曲がれば、あの建物がある。そこから、こういけばこの噴水がある。そして、・・・・と、行く前からすべてわかって、「もう別に行く必要もないんじゃないか」と自分でもあきれるぐらい調べまくった。

今回の旅行は、いわゆるツアー旅行への参加ではなくて、すべて一人で自分の足で歩くことにした。幸い、ローマは直径5kmほどの城壁(市壁)にかこまれた街なので、自分の足で歩くのにちょうどよい。一人旅の苦労はあるだろうが、どんな苦労に遭遇するかも楽しみの一つだ。航空券とホテルさえ予約しておけば、後は何とかなるだろうという思いであった。言葉の問題は、英語をここ10年ぐらいやっているので、かたことのイタリア語と合わせればサバイバルには支障はないだろうと思った。実際は、まだまだ語学力の不足を実感することばかりだったのだが、英語をやっていたからこそ、今回の「冒険」は実現したということは、強調しておかなければならない。

今回の旅行は、私自身にとって、普通の観光とは違う、特別の意味のあるものだった。あえて格調高く言えば、人生の節目に、歴史ある街で思いを巡らす旅であった。この企てに、一人旅の我侭を理解してくれた私の妻には、本当に感謝している。実際は、日頃の“調査好きの習性”から、ローマに憑かれたように隈なく見まくるというハードなスケジュールにはとてもついていけないと同行を断られた経緯もあるのだが、とにかく心から感謝している。Grazie!  

 

    交通ルール

   ローマに着いて、まず驚くのは交通ルールである。交通信号は、あるにはあるが、数は圧倒的に少ない。ローマの中心地テルミニ駅前の大通りですらそうなのだ。そこで車と人はどうするのか。ローマの人々は、ひどく初歩的な解決をしている。車と人が対等に交差しているのだ。車は遠慮なく飛ばしているが、人は車が止まってくれるのを待っていたのでは、いつまで経っても渡れない。そこで、人も遠慮なく渡るアクションをとる。すると、車が、すっと減速して、人はその間をぬうように向こう側に渡る。それがあたりまえのように行われている。なんの不思議もなくやっているローマの人々の表情をみると、歩行者優先だの、横断歩道を渡れだのといった交通ルールはないらしい。いや、多分「道路交通法」は、あるにはあるのだろう。たぶんそんなことは関係なくやっているだけなのだ。日本のきちんとした交通ルールの感覚ではとてもついていけない。せいぜいローマの人々の後について渡らせてもらうしかない。私も恐る恐るそうさせてもらった。そう言えば、英語の諺があったけ。When in Rome do as the Romans do.

   以前、こんな話を聞いたことがある。一艘の舟が大海で嵐に呑まれた。その舟には、イギリス人、ドイツ人、アメリカ人、イタリア人、日本人が乗り合わせていた。人々は救命ボートに乗り込もうとしたが、乗れる人員が限られている。一人がどうしてもはみ出してしまうのだ。さて、問題は自発的にその一人の犠牲者を選出するために、どうやって、各国の人を説得するかという質問だ。答えは、イギリス人には、「これは紳士の行いです。」と言う。ドイツ人には、「これは上官の命令である。」と言う。アメリカ人には、「心配しないでいいよ。ちゃんと保険も弁護士もつけるから。」と説得する。そして、イタリア人には、「これは、法律に逆らう行為である。」すると「法律破りなら、喜んでやろうじゃないか」ということになるらしい。

信号や横断歩道など関係なく、ごちゃごちゃ交差している様子を眺めていると、「まさに、これか。」という感じである。ちなみに、日本人には、そっと近づき、耳元で「みなさん、そうしていますよ」とささやくのだそうである。

 

    スクーター

   ローマの街は、日本人にとって騒がしく感じる。車の交通量が多いせいもあるが、やたらスクーターが多い。アクセル音や警笛音とともに、小回りのきく動きが、よけいに騒がしく感じさせる。

オードリヘップバーンの「ローマの休日」に、女王役のヘップバーンが無邪気に、スクーターを乗り回すシーンが出てくる。あのシーンがなんとも魅力的で、ローマとスクーターは、切っても切れない縁になっている。しかし、それは映画の話で、今でもこんなにスクーターが多いとは思わなかった。実に多いのである。

なぜローマにはスクーターがこんなに多いのか。どうやら街の様子と関係があるらしい。ローマは、城壁に囲まれたコンパクトな大きさの中に凝縮して街が造られてきた。せいぜい直径5Kmの大きさである。こんなところに古風な石造りのビルがひしめき合っている。当然、道路も入り組んで狭い。こんな狭い路地を駆け抜けるには、スクーターが一番便利なのだろう。また、ローマは、七つの丘からなる、アップダウンのある街である。自転車には、結構きつい坂道である。それに、ローマは、地中海に面して雨も少ないのだろう。なによりもスクーターが最適な交通手段なのかも知れない。

 

    ローマの松

   ローマの地を踏んで、最初に目に入るものに、ローマの松の形がある。いや、ローマの地を踏む前に、飛行機が着陸しようとしてのローマ近辺を低空で飛んでいるときに飛行機の窓から最初に見えるのがローマの松の形である。

   この形、同じ松でも日本の松と枝振りが異なる。幹がすうっと伸びて、上の方に緑の枝が雲のように乗っかっている。一本の松もあれば、数本の松が連なっているところもあり、また、松の森となっている所もあるが、すべての松がこんな形の松からなっている。この松の形が、なんともユーモラスで、いい雰囲気を醸し出している。お伽話の絵本に出てくるような、心の休まるやさしい松の景観である。

   そう言えば、イタリアの作曲家レスピーギのローマ3部作の一つも、「ローマの松」だった。詩情溢れるローマの松の形が、人の心に安らぎと同時に、創作意欲を湧かせるのだろう。

 

    携帯電話

   空港からテルミニ駅に向かう鉄道でのできごと。空港で初めてイタリアの地に着いて、さあどうするかというのが、今回の旅の最初のハードルであった。あらかじめ送迎のタクシーを頼んでおくとう手もあったが、極力自力でトライしてみるというのも、やってみたいことであったので、あえてそうはしなかった。なんとか自動販売機で切符を買えてホームの列車に飛び乗った。発車直前で既にほぼ満員の乗客であったが、なんとかガラス仕切りの6人掛けのボックスに滑り込んだ。

レオナルドエクスプレスという直行列車だったので、ここまでくればローマには無事到着するはずである。ほっと一息というところで、まわりを見回した。向かいはパソコンのキーボードをたたいているビジネスマン、傍らは旅行者らしい老夫婦、その隣は若いイタリア人。

そのイタリア人が、なにやら独り言を言っている。大きな声で遠く視線をあわせて叫んでいる。まわりの誰もが相槌を打つわけではなく、ただ詩を朗読するように叫んでいる。私には何を言っているかわからないので無気味である。精神を病んでいるのかとも思えた。無視するように初めてのローマの車窓風景を眺めていた。

まもなく向かいのビジネスマンの携帯電話のベルが鳴った。日本の常識では、ベルを切るかデッキで話すのだが、その場で声高く話はじめた。おっ、その声は、脇の若いイタリア人と同じじゃないか。するってぇと、あの若者も、さっきから携帯電話に話していたのか。見れば、耳元にイヤホンをつけて、手元の携帯に向けて話している。イタリアに着いてからの初めての驚きである。密室で大声でしゃべっているのを見ると、携帯電話のマナーやルールなどは何処にもないようである。

これ以降、携帯電話が堂々と大手を振ってやりたい放題な状況をいろいろなところで目撃した。美術館や博物館では、各部屋の監視員が仕事をそっちのけで外部と携帯電話の会話に耽っている。店のレジでは、店員が、客の行列を気にしないで、長々とおしゃべりしている。日本もかつてはマナーが悪くひんしゅくを買っていたが、どうもレベルが異なる。そういう繊細さをそもそも持ち合わせていないのだろうとしか思えない。

 

    ぼられる

   海外旅行での不安に「ぼられる」のではないかというのがある。事前に読んだ本の注意事項には、おつりはちゃんと確かめることというのがあった。イタリアでのおつりの渡しかたは、日本と反対に、小銭から出していく。小銭に気をとられている間に、大きな札を少なく渡されてしまうというものだ。また、日本人は、どうも人前できっちりと確認するのを遠慮してしまう。その場をはなれて後で確かめても後の祭りだ。

  まあ、この辺は、うまく切り抜けることができた。

   タクシーにも注意することというのがあった。これは、やられた。初めて、テルミニ駅に降り立ったとき、次の課題は、どうやってホテルまで着くかということだ。地図上では、歩いて15分の距離。歩ける距離だが、スーツケースがどうにも重い。まあ、タクシーを使うのが賢明だろうと判断した。駅前広場いわゆる5百人広場のタクシー乗り場で待つことにした。絶対にその辺でタクシーを拾わないことというのが鉄則だ。

待っている間に、すぐに2、3人がよってきた。「どこまでいくんだ?」「ホテルはどこだ?」「あっ、それならすぐそこだ。」「これにスーツケースを載せろ。」とまくしたてる。みると、手押しの台車をもっている。「タクシーより安いんだ。」「ほら、ほら。」とせきたてる。「ほうら、来たぞ。」と、こちらは頑と断る。まとわりつく虻を払いのけるように悪戦苦闘しているうちに、やっとタクシーがきた。救いの手が差し伸べられたように、一目散に乗り込んだ。「どこまで?」「ホテルイタリア!」「わかった。」とスムーズに出発。途中、「ここが共和国広場だ。」とか「これがローマ三越さ。」とか親しげに説明しながら、初めてのローマを「やっと来たんだ。」という気持ちで眺め回しているうちにすぐに到着した。 

   ここからが問題だ。「クワント、コスタ(いくら)?」「フィフティ(50)」「え!」すぐに法外なことを言ってきたなと思ったが、頑張って、聞きとれない振りをして、「ファイブ(5)か」、相手もしょうがない様子で「フィフティーン(15)だ」と言い直す。うーん、こちらも、後は何をされるかわからないので、しょうがないという思いで、15ユーロを払った。

   翌朝、ホテルの朝食で、テーブルを同席した日本人の夫婦にこのことを話した。「どう考えたって初乗り料金で5ユーロですよね」と彼らも言う。やっぱり、ぼられたかという確信をもった。初乗りにして、初ぼられ、傷は軽かったが、これ以降、タクシーの利用は考慮外とした。

 

    ホテルがない

   さて、ローマ初日のテルミニ駅からのタクシーでホテルの前に降ろされた後の話。ホテルについては旅行経費節約のため二つ星だったので、最初からあまり期待していなかったが、案の定、あまり綺麗とは言えない通路に面した、古い石造りのビルにあった。

   ビルの壁に「ホテルイタリア」と薄汚れた看板がある。電光だが電気はついていない。さて、入口はどこだろうかと見回すと、看板の下に古いドアがある。んーん、ここが入口なのか、それにしてもみすぼらしいなと思いつつ、ドアを開けようとした。しかし、鍵がかかって開かない。びくともしない。看板は暗い。ひょっとすると、このホテルはつぶれてしまったんだろうか。

   ホテルは、事前にインターネットで直接予約していた。手続きは、こちらからの問い合わせに直ぐ回答が来てスムーズだったので、すっかり安心していた。もしかしたら、予約はネット上の架空で、実際はつぶれてしまったホテルの詐欺にあってしまったんだろうかと、一瞬本当にあせってしまった。

   うろうろとドアの周りをうろたえていると、どこからともなく、或る女性が来て、ドアの脇のインターホンを呼び出してくれた。「こうして、あなたの名前を言いなさい」と教えてくれた。ホテルは、ビルの入口のドアがいつでも施錠されていて、客はインターホン越しに名前を言って、開錠してもらうシステムになっているのだ。

   聞いた話だが、こういうピンチの時に、ふっと現れて助けてくれるのがエンジェルだそうである。今考えると、あの時の女性は、きっとエンジェルに違いない。

   ホテルがなかったら、どうしようかというところだったが、とにかくホテルになんとかたどりついて、ほっとした。このホテル、エレベーターが、白黒映画に出てくるような古風な手動式だったり、部屋もベッドとシャワーのみの上等とは言えないところだったが、今回のローマ散策の基地としては、駅にも近く、問題はなかった。

 

    切符はいらない

   ローマの電車やバスの切符のシステムは、変わっている。まず、切符は、キオスクなどの売店で買う。そして、改札口をとおってホームに向かうが、乗り込む前に、その日の日付と時間を刻印する機械を通して、自分で切符に日付、時間を入れる。ただし、改札口には、駅員もいないので、ただゲートをすり抜けるだけである。電車に乗るときにチェックを受けるわけでもない。降りるときにも、入ったときと同じようにゲートをすっと通って出ていくだけである。結局、切符は買わなくてもいいんじゃないかと思ってしまう。

   私の場合は、初日に電車、バスの乗り降りが1週間有効の切符を買ったが、結局、そのチケットは、日付を入れて以来ずっとポケットに入れたままで、駅員や車掌のチェックを受けることは一度もなかった。

   でも、よく調べるとこういうことらしい。たまに、係員が乗り込み、切符を厳しくチェックする。その場合、不所持だったり日付が正しくないと、相当の罰金を取られるということだ。当局は、乗客が、ただ乗りの得とたまたまばれてしまう罰金の損を計りに掛けて、きっと切符をきちんと買ってくれるだろうと判断しているわけだ。

   実際のところは、そう頻繁に係員が来るわけではないので、大方の乗客は、ただ乗りの得の方に引かれてしまうのではないだろうか。まして、イタリア人がどうみてもそんなにまじめそうだとも思えない。いや、そうまで言ってしまうのは失礼な話かもしれない。

   ただし、システムとういのは、どう考えるかの問題だ。日本のように、改札口に必ず人を配置して、きちんとチェックすれば、ただ乗りは防げるかもしれないが、その人件費がかかる。チェックマンの人件費とただ乗りの損失が、イコールならば、損得は同じになるはずだ。さらに、外国の公共交通は、ほとんど料金で賄われていないと聞く。公共交通は、利用者の料金収入と公共的な財源で維持されるので、両者の負担割合をあまり気にしていないのかもしれない。こうでなければならないという、硬直的な考えにこだわる必要はないのだと妙に関心してしまう。イタリア式合理性も捨てたものではない。

   蛇足だが、空港とテルミニ間の切符の購入に関しては、ホームの駅員からも買えるが、売店より値段が高いというのはどうにも納得できなかった。

 

    乞食

   子供のころ、日本でも乞食を見かけた。今でも、それらしい格好の人はたまに見かけることはあるが、それはホームレスで、いわゆる生業としての乞食ではない。勝手な思い込みかもしれないが、子供のころに見かけた乞食は、道端での物乞いや家を回って歩いて収入を得る一つの立派な?職業人で、今のホームレスは社会からドロップアウトしているだけの人々だ。

   そんな思い込みをしているせいか、ローマで乞食を見かけた時は、妙に懐かしい思いがした。ローマでも、そんなに多いという訳ではないが、結構見かけた。路上で、小銭の入った空き缶をチャリンチャリンと鳴らしながら歩いている乞食。それから、教会の入口には、必ず一人はいた。教会に来る人々は、施しをするような心がけの人々なのだから、きっと実入りがいいに違いない。しかも、入口に複数の乞食がいて施しを競い合う訳ではないので、事前に縄張りの調整はちゃんとできているのだろう。

   ちなみに、西洋の某国の乞食は、恵まれてもけっして「ありがとう」とは言わないそうである。逆に、人々に喜捨させることによって、神のおぼえめでたくして、その魂を天国の門に近づけてやっているのだということらしい。お礼を言うべきは、施しをした人のほうだ。そこまでくると「おい、ほんとかよ。」と言いたくなるが、なんとなく粋な考えではある。

   ラテラーノ教会に行った時のことである。ちょうどこの時、新教皇が来ていて宗教儀式が行われていた。ために、教会内には入れず、多くの群集が教会前に集まっていた。巨大なモニターが、儀式の様子を写している。群集はそれを興奮ぎみに眺めている。熱気も漂う異様な雰囲気である。私の方は、教会内へ入れない残念さと、たまたまこういう状況に巡り会ったことの奇遇さを感じながら、しばらく眺めていた。

   すると後ろのほうで、女性二人の甲高い声が聞こえてきた。明らかに怒鳴りあっている。その二人の脇には、乳飲み子を抱えた貧しそうな女が二人の口論の行末を心配そうに眺めている。どうやら、こういうことらしい。口論している女性は、老年のお金持ち風と、もう一人は、若い美人である。老女は、乳飲み子を抱えた女が、この群集の中で、子供のミルク代にと手に缶を持って物乞いをしているのを見て、「ここは、新教皇が神聖な儀式をしているところです。こんな所で、物乞いするなど許されません。出て行きなさい。」と言った。すると美女は、「何を言っているんです。この方も、この小さい子供のために一生懸命なんです。きっと神も許してくれるはずです。追い出すなんて絶対許されません。」と食って掛かった。双方、一歩も譲らない。ますます、声は大きくエスカレートするばかりである。物乞いの女は、ただ行末を眺めているしかない。

   イタリア語はわからないので本当にこういう喧嘩だったのか確信はない。でも、教会前でいい大人の女性二人が本気で言い合っているんだからきっとこういうやり取りであったに違いない。きっとそうである。この激しい口論は、どちらが勝った負けたと言う決着なしに周りの人たちになだめられて、ものわかれで終わったようだったが、ローマの乞食をめぐる思い出深いワンシーンで今でも鮮明に覚えている。

 

    ローマの休日

   ローマの旅への大きな誘引に、映画「ローマの休日」があったことを告白しないわけにはいかない。映画「ローマの休日」は、学生時代に映画にのめり込んでいた頃に初めて見た。もう30数年前にもなるが、それ以来、オードリ・ヘプバーンやグレコリー・ペックに魅せられ、その舞台となったローマの地にずっと憧れを持ち続けてきた。是非この地に行って自分の目で一度は見てみたいものだと思い続けてきた。最近も、DVDが発売されて改めて数回見直したが、さらに、その思いは深まるばかりであった。たとえ、ミーハーと言われようともしょうがない。スクーターで乗り回していた通り、スペイン広場や真実の口、パンテオン前のカフェ、夜のダンスパーティの川辺、・・・・などどれも一度はこの目で見てみたいところであった。

   今回の旅には、勿論これらの所を極力入れ込んだ。制作から50年近くも経っているにもかかわらず、それはローマのこと、ほぼ同じように残っている。ただ、映画と大分違っているところもずいぶんあった。最初に女王と記者が出会うのは、フォロ・ロマーノの神殿の前だが撮影当時からその後発掘が進んで、そこの道路はなくなっている。記者が住んでいたアパートも、マルグッタ通りにそのままあるというので、わざわざ歩いてみたが、どこなのかは確認できなかった。最後に、女王を送って別れる大使館は、バルベリーニ宮殿の門で映画と同じようにあったが、中は大使館でなく美術館だった。ヘプバーンが脱け出した大使館の内部は、別のところにある国立東洋美術館で撮影されたということだが、ここは残念ながら行けずじまいだった。

   これらの映画「ローマの休日」を巡る旅の中でも、何と言っても白眉はコロンナ宮殿だった。映画のラストシーンは、記者会見が終わり、そして全てが終わってだれもいなくなったホールを、ペックが一人感慨深げに、静かに靴音を鳴らして歩く姿であった。うたかたのように消えた恋に対する寂びしさ、特ダネを捨てたにもかかわらず溢れる満足感、・・・・映画を最初に見た時から、このラストシーンが大好きで、男の生き方のようなものを感じてきた。そのラストシーンが撮影されたのがこのコロンナ宮殿である。

   コロンナ宮殿は、現在、私営の美術館となっていて、土曜日の午前中にしか公開していない。ここをどうしても見たくて何とか日程を調整して土曜の朝一番に行った。到着が早かったので9時の開館前に少し早く入れるか、受け付けの人に尋ねてみたが、厳しく「ノーヴェ(9時から)」と言われてしまった。

さて、9時になって入館してみると、これがなんともすばらしいところだった。映画は白黒で色彩のイメージはなかったせいか、現実に見る宮殿内は、煌びやかでしかも上品な美しさに満ちていた。映画のラストシーンが、まざまざと蘇ってきた。女王と記者が最後の会見をして、二人が対峙していた位置はこの辺だな、あっ、それからステージの高さは、このステップか、なるほど。等など。そして、ペックは、最後に、このフロア、ここからあちらに歩いたんだな。ようし、俺もペック気分でコツコツと足を鳴らして歩いてみよう。コツコツ、コツコツ、コツコツ、・・・。完全にペックになりきってしまった。一度では、勿体無いので、結局、5回も往復してしまった。

 

    言葉の問題

   外国へ旅をするからには、言葉はやはり重要である。本からの情報があれば、殆ど支障はないともいえないが、全く無言では通せない。乗り物への乗り降り、ホテルへのチェックイン、買い物、食べ物の注文など最低でも片言なりの意思疎通の会話が必要である。

   たぶん英語で大丈夫だろうという思いで、イタリア語は、本気で勉強しなかった。イタリアに興味を持ってテレビのイタリア語講座をずっと見ていたが、イタリア語は主語を省略してしまうぶんやたら動詞の変化がややこしくて実用のレベルにはなかなか入れないでいた。にわか仕立てで、イタリア旅行会話付きの電子辞書やCD付速習本を買い込んだが、しょせん安心代でしかなかった。

   では実際、今回の旅ではどうだったかというと、英語については、ホテルや公共施設などのちゃんとしたところでは、英語でまあまあ大丈夫だった。が、その辺の店や路上では、やはり英語だけでは無理だったようだ。ちょっとした土産物を買うときやその辺のレストランではジェスチャーでカバーするしかなかった。

   だいたい看板や表示にしても、日本なら、国際化と称して必ず英語が併記されていて、全ての国がそんなことだろうと思っていたが、英語の併記はほんの限られた所でしかお目にかかれなかった。思えば、大体が親戚の言語なんだから、似たような表記をする気にもならないのだろうし、訪れる旅行者が普段アルファベットを使っていない国からも来ているなどということもあまり考えられないのかも知れない。また、ローマそれ自体がそのままで人々を惹きつけているので、いかに旅行者に親切にして観光客を増やそうなどと言う動機も働かないのかも知れない。

   最近、日本ではユニバーサルなどと言う言葉が流行っていて、公共施設はじめあらゆることに万人にやさしい配慮をすべきだということになっているが、そんな配慮はあまり感じられなかった。ユニバーサルなんていう発想は、もともと劣っているものがキャッチアツプしようとして付ける付加価値なのかもしれない。本体価値だけで十分輝いているところではなかなか生まれない発想なのだろう。こちらを訪れたいなら、どうぞ、こちらにお合わせになってお出でくださいということか。

      話がとりとめも無くなってしまったが、言葉が何とかなったのかという話に戻すと、何とかなるにはなったが、そんな時でも、是非マスターしておくべきだと思ったのは、数字である。金額や日時また時間などは、きっちりと把握できないととんでもないことになる。代金の支払いや電車の時刻等なにかと心配でならなかったし苦労も多かった。旅のサバイバルの道具の一つには、是非現地語による数字を加えておかなければならない。これも今回の旅の教訓である。

 

    愛情表現

   古代ローマ帝国の初代皇帝アウグストス帝の廟と平和の祭壇は、普通の観光コースにはないが、must-seeの一つであった。廟は、簡単に言うと墓でかなり大きいが、初代皇帝の割には、あまり手入れもされずにあった。アウグストスの平和の祭壇は、その傍にある。アウグストスにより確立されたローマによる平和、すなわちパクス・ロマーナの象徴とも言うべきもので、その祭壇を囲むレリーフが必見のものだ。塩野七生の本にも詳述されていた。ただし、ほんとうに残念なことに修復中で工事の大きな塀と屋根に囲まれて、中を覗くこともできなかった。工事の説明によると、大規模な博物館として生まれ変わるらしく、是非とも再訪したいところである。

   それはさておき、かなり大きなアウグストスの廟の空堀を歩こうとしたとき、ある障害にぶつかってしまった。廟の傍らで、若い二人が昼間から抱擁している。他の通行人も何ら気にすることもない気配なのだが、見慣れない日本人には、脇を通るにもはばかる。そのおかげで廟を一回りすることができなかったのが残念である。

そう言えば、イタリア人は、ここに限らず、どこでも気にせず、愛情表現豊かに振舞っている。でもそれなりに様になっているのだから、自然な行いとして定着しているのだろう。アウグストスも、きっと墓の下で「平和の祭壇」が「愛の祭壇」になっていることに苦笑していることだろう。

 

    中国人か日本人

   ローマの街を一人で歩いていると、声をかけられることも多かった。中には心からの親近感をもったイタリア人もいたのかもしれないが、路上で声をかけようとしているのは、だいたいが怪しげだから、なるべく巻き込まれないように無視していた。

   気安く「ジャポーネーゼ!」とか声をかけてくる。時には、「ハイ、ナカタ」と言うのもいた。また、イタリア人にとっては、日本人も中国人も韓国人もあまり区別がつかないらしい。「ニーハオ!」などとも言われた。そんな時は、“俺を中国人と間違いやがって、失礼な”と思ってしまう。イタリア人にとっては、大差ないのだが、“俺は日本人だ、中国人なんかじゃない”という日頃の潜在的な差別意識が呼び起こされてしまうのかもしれない。

   夏目漱石がロンドンに留学していたときの逸話がある。漱石がロンドンの街を歩き回りながら、ふと見ると、背の低いみすぼらしい男が視界に入ったそうだ。長身で彫りの深い顔立ちのイギリス人に取り囲まれている時間が長くなるにつれて、人の容姿はそんなもんだと思ってしまったせいか、漱石にとってその人は、ことさら醜く見えたそうだ。しかし、よく見ると、どこかで見覚えのある容姿である。目を凝らしてみると、なんとその人は、ショーウィンドウに写っている自分の姿だった。漱石は、ロンドンでノイローゼになってしまったが、こういう些細なコンプレックスも影響したのだろう。

同じ人間、中身の優越は容姿にかかわらないとは言うのだが、それは建前、やはりかっこいい西洋人からみると、東洋人はみすぼらしく見える。イタリアは、外国から多くの移民を受け入れているらしく、街中でも、アジア系、アフリカ系それに最近増えているというアラブ系の人々を多く見受ける。路上で貧しい身なりをしているのは、ほとんどそういう人たちだった。いろんな事情で良い職を得られず、そういう層に甘んじているのだろう。身なりで差別するつもりはないのだが、ちゃんとした職についてないそういう人たちは、素行も怪しく思え、近づいてくると無意識に身構えて持物を改めてぎゅっと握り締めてしまう。

地下鉄のホームで電車待ちをしていたときのことだが、ずっと一人旅で絶えず安全には気を使っているせいか、アフリカ系の黒い顔の人が来ると、なんとなく怖くなってしまう自分に気づかされた。

日本の閉ざされた社会の中で、国際交流や異文化理解や差別のことなど十分にわかっているつもりでいても、いざ、こういう現実の体験に遭遇すると、いかに表層でしか考えていないということが現れてしまう。国際交流や異文化理解など、何年やっているんだと情けなくなるが、こんな状況に置かれるとどうしようもない思いを抑えがたく、自分の潜在意識のお粗末さに恥じ入るばかりである。自分自身の内なる差別意識との戦いは、まだまだと反省せざるを得ない。

 

    安全

   旅に安全は欠かせない。交通の安全、盗難、自分の体調などどれを取っても一度遭遇すれば旅の楽しさはだいなしになってしまう。旅の安全には万全を期するのが肝要であることに異論はない。しかし、あまりに気にし過ぎて、旅の風情を損なってしまうのも考えものである。

   イタリアは、盗難などが頻発して危ないところと言われている。どの旅行ガイドブックを見てもそう書いてある。旅行社のガイドもそう言っている。「皆さん、危ないですから、財布やパスポートはしっかり握っていてください。一人行動は危ないですから、この旗を目印に付いて来てくださーい。」と言って修学旅行のような集団行動をしている。でも、そんなことしているのは、日本人だけだ。よその旅行者は、数人で気ままに旅を楽しんでいる。日本人の集団を見て、「Oh! ジャパーニーズ・スタイル!」とあきれているイタリア人の様子も見た。

あまりに行き過ぎた行動を見ると、旅行会社が営業上、危険性を吹聴しているんじゃないかと思いたくなってしまう。日本人の安全に対する感覚は、どうも誰かに与えられてもらって当然と思っているんじゃないかという気がしてならない。なにか安全を脅かすことが発生すると、すぐに他人に責任を求めようとする。本当は自分の安全は自分で守らなくちゃならないのに。その点、西洋では”at your own risk”と言われるように自己責任で行動するという自立した発想がある。日本人も、もう、そろそろ自立した安全観をもつ必要があるんじゃないだろうか。

   そう言えば、ローマへ向かう飛行機の中で隣り合わせた若い女性は、一人で2週間スイスを旅行すると言っていた。どうしてスイスかと言うと、「イタリアは、危ないと聞くし、スイスなら安全」と言っていた。彼女は、無事スイスの旅を終えただろうか。

 

    SPQR

   ローマの街中を歩き回るとしょっちゅう出くわすのが、この4文字である。SPQRとは、「セナートス・ポポルス・クェ・ロマーヌス」という古代ローマの言葉であるラテン語 ”SENATVS POPVLVS QVE ROMANVS” の頭文字。意味は、「元老院並びにローマ市民(元老院と民衆のローマ)」。元老院とは今で言う議会である。

   古代ローマは、紀元前753年に狼に育てられたロムルスとレムスが建国したという伝説に始まる。最初は王制だったが、そのうちとんでもない横暴な王が出て、それを打倒して生まれたのが共和制である。共和制は、議会である元老院が権力の頂点に立ち、元老院によって任命された執政官が軍を含めた実際の政治を行う体制である。執政官は、あくまで元老院の雇用者にすぎず、いつでも専制主義化すれば、首を切られる。

   ローマ人は、こよなくこの共和制を愛し、すこしでも専制や王の気配がすると拒絶してしまう。カエサルが、暗殺されたのも、王になろうとしたからという理由だ。カエサルの後を継いで、初代皇帝となったアウグストスも、自分が皇帝であることをひたすら抑え、元老院の僕たることを印象付けた。アウグストスは、その後500年続く大ローマ帝国の楚をしっかりと造った皇帝なのだが、専制の素振りを見せずに成し遂げたことにその偉大さがあった。

   さて、冒頭のSPQRだが、古代ローマの遺跡のあちこちにこの4文字が見られるというだけではないのだ。現在の、市のお知らせや看板、公共施設のあちこち、マンホールのふた等などありとあらゆるものに見られる。あっちにも、こっちにもという感じだ。当然、ローマは、ローマ帝国が滅んで1500年も経ち、その間、中世、ルネサンス、近代と分裂や外国の支配などいろいろな変遷を経てきたが、このSPQRだけは生き残ってきたようだ。古代ローマへの誇りと自己のアイデンテティーの原点をこの4文字に託しているのかもしれない。

   今回のローマの旅に当たり数回読んだ本「ローマ散策」(岩波新書/河島英昭)に「SPQR」という面白いソネットが紹介されていた。一部抜書きしてみると、

 

   あのSPQR、そこいらじゅうで立派な建物の入口を飾っているやつ

    あんな四つの文字などに、糞ったれ、何の意味もあるものか、一つ一つが。

    ある日のこと、ひょんな気を起こして尋ねてみた、その訳を、おれの先生に。

    そしたら、教えてくれたとも、あの先生は。

   いいか、黙っていろよ、

Soli preti qui rreggneno.”さ。

 

最後のイタリア語は、「ここでは司祭だけが王さまだ。」という意味だそうである。その後の教皇が支配してきたローマを忘れる訳にはいかない。

 

    教皇

   ローマは、四つの表情を持っていると言われる。古代ローマの表情、ルネサンスの表情、バロックの表情、そして現代のローマ。これらが歴史の経過とともに積み重なり、まざりあって現代のローマがある。勿論、これら四つの表情言わばヴェールが、すべて行儀よく積み重なっているわけではない。あるところでは古代ローマが剥き出しになって、ぽっかりと口を開けている。また、あるところでは、バロック期の建物に覆われて古代ローマがひっそりと息をひそめているところもある。

旅行者は、現代のローマの街に放り出されて、あるところでは目に見える形でこのことを実感し、またあるところでは自分の想像力でこれらを嗅ぎ分けなければならない。このことがかえってローマの旅の限りない魅力となっている。

さて、今回のローマの旅においてもこのことを実感したわけだが、なにぶん初めてのローマで、すべてを嗅ぎ分けられたわけではない。フォロ・ロマーノにおいて古代ローマに浸り、トレヴィの泉でバロックの彫刻を楽しんだことは紛れも無いが、四つの表情が混ぜんとなっているところがいたるところにあった。しかし、見分けがつかない中で、ローマの街を歩きながら、これは明らかにローマを明確に分ける二つのヴェールがあるのではないかと感じたことがある。それは、キリスト教以前と以降のヴェールである。

キリスト教は、ローマ帝国末期のコンスタンティヌス帝により公認された。それ以前は、多神教のローマにおいて、帝国内で融和しようとしない一神教の邪悪な宗教として暗に陽に退けられてきた。しかし、ローマが専制君主に変質していった帝国末期においては、専制君主を権威付けるものとしてキリスト教が公認された。それ以来、ローマはキリスト教のヴェールを被りつづけることになったのだ。そして、ローマ帝国が滅んで、イタリアが群雄割拠の時代になってから、実質的なローマの権力者は、キリスト教の「神の代理人」即ち教皇が関わり続けることとなった。

ローマを歩いて見るべきところとして、教会を始めキリスト教に関わるものなしでは、大半のことを見ないことになってしまう。今回の旅でも、宗教的関心からというよりも見るべき建物や美術品があるという理由でヴァチカンを始めかなりの教会を訪ねたが、どれも期待を裏切るものではなかった。古代ローマとキリスト教以降のローマは、ともにローマの魅力を醸し出している。たぶん、このことは、ヨーロッパ文明に広く言える事なのだろう。ローマ(遡ればギリシャも含めて)の文化とキリスト教の文化は、ヨーロッパ文明の通奏低音としてずっと流れつづけてきたのだ。

ローマを歩いていた或る時、大通りが通行止めになって、人だかりができていた。何事かと、眺めていると、間もなく数十台の車の行列が近づいてきた。そのとたん、群集が歓声を上げ、スクーターや車は警笛をピーピー鳴らして盛り上げている。歓声は「パーパ!パーパ!」と叫んでいる。叫んでいる先は、誕生したばかりの新教皇だった。教皇が新しい就任行事でローマの教会を移動中だったのだ。その明るい雰囲気に圧倒されたが、現代のローマでキリスト教が人々とどう言う関係にあるのか、その一面が見え面白かった。

 

    目印としての塔

   ローマの街を歩くと、広場や主要な道路の交わりに、塔が立っている。どうして、ローマ人はこうも塔を建てるのが好きなのだろう。また、何のために、やたらと塔を建てたのだろう。

   一つは、古代ローマ帝国の皇帝が自分の事跡や功績を記録した記念柱がある。トラヤヌス帝マルクス・アウレリアス帝の記念柱は見事なもので、歴史記録としての価値も高い。

   もう一つは、中世以降、ローマがキリスト教の中心地となって、多くの巡礼者が集まるようになり、その巡礼の道の目印言わばランドマークとして塔が建てられたということらしい。

   それにしても、現在になって、こう建物が密集してしまっては、いくら高いといっても、目印の機能は果たせないのではないかと思っていたが、今回、実際に歩いてみて、そうではないんだという経験をした。バルベリーニ広場で方向を見失った時、道の遠くにはっきりと塔が見えた。かなり離れたスペイン広場の塔がしっかりと見えたのだ。地図で確かめると、そういう位置関係に確かにある。なるほど、巡礼者が迷わないよう道標の機能をしっかり果たすようになっているんだなあと改めて感心した。

   ただし、これらの塔のほとんどは、エジプトの太陽神の象徴であるオベリスクで、かつてエジプトの神殿から持ってきてものだ。ローマに13本もあると言われるが、その後のキリスト教の教皇が勝手にランドマークとして再利用した。また、皇帝の記念柱に関しては、てっぺんの像も勝手にキリスト教の聖人の像にすげ替えてしまったと言うしたたかなものでもある。

   ローマ人のランドマーク好きは、現在のヴィットリオ・エマヌエレ2世記念堂の“超どでかさ”に受け継がれている。

 

    発車時刻

   最終日、ローマから空港へは来た時と同じく直行鉄道を使うことした。飛行機の出発時間が午前9時30分で、2時間前の空港到着が必要だが、間に合わなければどうしようもないので、余裕を持って3時間前に着くように鉄道に乗ろうとした。テルミニ駅からの始発は、朝5時50分で、所要30分でちょうどいい。

   かなり長い通路を通って、ホームに着く。ホームの上部にある表示には、確かに、「5:50発、空港直行」とあり、列車もホームに入っている。しかし、動く気配はない。他の乗客の姿もない。なにやら妙な雰囲気である。しかし、表示はある。

   すると、幾人かの旅行者が、駅員に聞いている。「空港行きは?」「空港なら、あっち、あっち。」隣の、ホームを指している。こちらも不安になり、同じ質問をすると、同じように隣のホームの列車に乗れと言われる。見ると、「6:10発、空港直行」とある。どうやら、予定の表示と実際の運行は“てきとう”らしい。いや、前もっての予定はあるものの実際は“適当”に変更して、それが普通のことらしい。

   さて、なんとか乗り込んで、これでいよいよ無事空港に向かう見込みはついたかと、ほっとしたが、発車予定時間になっても、動かない。10分、20分と経つが動かない。心配になって近くの人に聞いてみるがなんとも思っていないようである。「この列車、6時10分発ですよね。」「そうですよ。」「どうしたんですかね。」「さあ。」・・・そうこうしているうちに、やっと動き出したのは30分も経ってからである。しかも何事もないかのように動き出したのである。どうやら、イタリアの発車時刻は、○時○分定刻発ではなく、○時○分以降発と考えたほうがよさそうである。

   日本に帰ってきてから、数日たって、関西のJR脱線事故のニュースを聞いた。運転手は、数分の遅れを取り戻そうとして、カーブでスピードを出し過ぎて脱線、大惨事となった。日本の鉄道の「定刻」は1分未満で、秒単位の正確な運行をほこりにしている。そうするために、あらゆる努力を投入して築きあげたものなのだろうが、考えようによっては、それで成り立つ社会に、逆に自縄自縛になってしまっているような気もする。ニュースに関連して、ある大学教授が新聞で次のようなコメントを述べていた。「異様に正確な鉄道の裏には、それなしではやっていけない社会のしくみがある。10分遅れでも<定刻>になる国は、別にいいかげんなわけではない。通勤や通学の時間も短い。遅刻が許されない人も少ない。駅舎もホームもずっと広いから、乗客も落ち着いて待っておれる。日本の鉄道に秒単位の正確さを要求しているのは、この国土や私たちの生活そのものなのだ。」

   日本では列車が定刻に発車するのが当たり前と思っているが、世界の中ではむしろ例外と思ったほうがいいのかも知れない。異文化交流に「時間の文化」の違いというのがあり、日本のように時間に正確な場合を、”mono-chronic time”と言い、反対に時間に対してフレキシブルな場合を、”poly-chronic time”と言うのだそうである。

 

    大雑把さと荘厳さ

   普通誰もがその国その国に対して、たぶんこうだろうというイメージを持っている。実際に旅をしてみると予めのイメージと違うこともあれば、やはり思ったとおりだということもある。しかし、厄介なのは、半分は思ったとおりなのに、半分は違っていてそれを全体としてどう理解すればよいか困ってしまうことである。

イタリア人は、陽気で大雑把と言われる。南欧の良く言えばおおらかな悪く言えばいい加減なイメージがある。今回も、交通ルールが適当だったり、地下鉄が突然ストになったり、電車の切符がノーチェックだったり、発車時刻も遅れたり、また、大きな声で陽気におしゃべりしたり、携帯で勝手に大声で話したり、まあ大雑把な国だなと思うことが多かった。しかし、サンピエトロを始め教会に一歩足を踏み入れると、まるでそこは、崇高で荘厳で静寂で繊細で前段のイメージとはまるで異なる。古代の遺跡や今に残る建築物も同じイタリア人の祖先が造っているものである。この大雑把さと荘厳さはどこから来るのだろう。どこでどうやって折り合いをつけて同居しているのだろう。この疑問は、謎である。

   教会の秩序ある美しさは、絶対いい加減な人間にできる訳がない。多分、本の知識や1週間程度の旅の観察ではわからないものがあるのだろう。あらためて考えてみると一面的な理解では不思議に思うことが、この他にも結構あった。地下鉄のサイケデリックな落書きは、これでもかこれでもかというほど描かれているが、街の通りや公共物には落書きはない。勿論古代遺跡には全くない。また、ルール嫌いの割には、警察や役人は威張っている様子だった。

正反対のものが、どこでどう折り合いを付けて同居しているのか不思議でならないが、まあ、この辺が異文化理解の難しくもあり、面白いところでもあるのだろう。

 

    一人旅の食事

   今回の旅は、とにかく歩きまくった。朝8時にはホテルを出て、帰りは夜の8時頃になるから都合毎日12時間ほぼ歩きどおしである。予定したスケジュールがぎっしりなのでどうしてもそうなる。見るべき所と限られた時間との勝負なので、なにかを犠牲にしないと予定のスケジュールを消化できない。私の場合、こういう時に犠牲になるのが食事である。普通は、一人旅でも、折角の海外旅行なのだから、ゆったりと贅沢に食事をとるのだろうが、性分上どうしてもできない。

   今回も時間と経費の節約のため、最小限の食事で済ませた。歩いている途中の昼食は、日本で言うファーストフード的な店でとった。だいたいはカウンターのケースにならんでいる出来合いのスパゲッティやピツァだが、オーダーすると電子レンジでチンするだけのものなので美味いとは言えない。これでも一皿10ユーロ近くとるのではっきり言って高くてまずい。日本のファーストフードで千円以上出して食べる人はいないのだから、ローマの人がこの価格で食べているのだとしたら、ユーロの為替レートが高すぎるのではないかと思ってしまう。

   夜の食事はどうしたのかというと、スーパーで腹に入りそうなものを買ってきたり、あまり大きな声では言えないが、日本から湯沸しポットを持参したカップ麺や非常食で済ませた。この辺は、日頃の山登りの経験上慣れたものである。

   念願のローマ訪問が、かなっただけでも幸せなので、一人で豪華な食事をしていたら罰があたる。優雅な海外グルメは、またの機会にとっておこう!と思ったのであります。

 

    トイレがない

   旅をしていて、表立って大きな声では言えないが、なくてはならないものがある。そう、トイレである。日本では、何処をどう歩いても、トイレは、ほぼ必要なところに見つかるが、ローマでは、何処をどう歩いても、なかなか見つからない。公共的なところでも、はじっこのほうに遠慮がちに何とか存在する程度で、表示も貧弱である。もしも道路を歩いていて、いざ探そうとなったら至難の技である。

イタリア人は、どうしてこんな状況で、足りているのだろう。やはり、イタリア人は、体格が大きいから頻度が少ないので日本のようにトイレに神経質にならなくてもいいのか。また、ローマは、今回行った5月でも夏のような天気だったように、いつも天気が良く、湿度も無いため、水分が体から発散してしまうためなのか。

体格が大きいと言えば、水分補給のため持ち歩くペットボトルも、イタリア人は、1リットルのでかいやつを持ち歩いていた。ラテラーノ教会前の広場で、新教皇のセレモニー−に熱狂していた人々にも、関係者が、1リットルのペットボトルを配っていた。もらった人は、小分けするのかと思って見ていたら、そのまま、ごくごく飲んでいた。大柄な体なので、1リットルのペットボトルを口にくわえても様になっているところがイタリア人らしい。

イタリア人の水分の“注入と排出”の様子は、高尚な思索とは何の関係もない話だが、妙に印象には残ったことではあった。

 

    アッピア街道

   今回のローマの旅を計画するにあたり、絶対行ってみたいところがいくつかあったが、その一つがローマの市街から南東に伸びる古代アッピア街道である。

古代ローマ帝国は、広大な領土を経営するために、ローマを中心とした道路整備を行った。主要な目的は、辺境で外敵の侵入があっても直ぐに駆けつけられるようにという軍事目的だが、当然経済的な交易や人の交流にも役立ち、ローマ帝国の繁栄のインフラとして機能した。これらの道路は、ローマを中心に張り巡らされ、「Tutte le strade portano a Roma. すべての道はローマに通ずる。」と言われたのである。

   アッピア街道は、これらのローマの道路網の一つであるが、今でも、昔の風情を残している。その昔古代ローマ人が通った敷石の街道を、この足で同じように歩いてみたいと前々から思っていた。言わば、この旅のハイライトの一つでもあった。

   アッピア街道へは、街道周遊のアルケオバスを利用した。最初にバスで一回りして、途中レンタサイクルで散策した。ローマを囲む城壁の出口となる、セバスティアーノ門から出発し、途中、一里塚の標識であるマイルストーンや聖ペテロが殉教のために引き返したクォ・バディス教会、地下墓地が残るカタコンベ、マクセンティウスの競技場跡チェリア・メッテラの墓など街道の見るべきものを隈なく見た。敷石が磨り減って、自転車で進むには難渋するところもあったが、昔の風情をそのままに味わうという目的は十分達成された。

 

    オペラ

   この旅の最後に当たり、自分自身への褒美も必要であると考えた。勝手に来たくて来たのに褒美でもないが、私自身にとっては、大きな冒険であり挑戦であった。何とか無事に所期の目的が果たせたのだから褒美も悪くない。

   そこで自分への褒美として最後の晩にオペラを観ることにした。ローマには、二つのオペラ劇場があり、ほぼ毎日なにかしらの公演をやっている。この辺が、ヨーロッパの音楽文化の豊かさの現れである。一つは、大劇場で「トーラン・ドット」をやっていた。もう一つは、少し離れたところにある小劇場で「コシ・ファン・トッテ」。「コシ」は、以前から観たいと思っていたので、狙いを定めてチケットを入手した。日本から予約すると安い席でも数万円もかかるが当日券を4千円で入手できた。

   モーツアルトの「コシ・ファン・トッテ」は、話としては4人の男女が織りなす他愛無いラブコメディーだが、モーツアルトの最後の頃の音楽で完成度が高くアンサンブルが絶妙な作品である。出場者も少なく、小劇場での公演に向いている。ローマの小劇場も、客席が1階のみで、オケと舞台との距離感がなくて、「コシ」には最適だった。言葉もイタリア語でナポリを舞台にしており、この旅の締めくくりには申し分ない。

   公演は、夕刻5時からで、たっぷり9時過ぎまでかかった。この間、モーツアルトの音楽と華やかな舞台に見とれつつ、贅沢な時間を過した。隣の座席にすわった若いイタリア美人も良かった。5日間の旅の疲れもあって時おり睡魔も襲ってきたが、幸福感に浸っていた。そして、音楽の合間に、この旅のいろいろな出来事と感動も交差していた。勿論、こういう機会を許してくれた妻にもあらためて感謝していた。Grazie!