「電子出版」 藤本憲一


 今から20年ほど前まで、レコード屋の店頭でLPレコードを選ぶ行為は、人気イラストレーターが描くジャケットのイメージを通して、未知の音、聞こえない音に耳を傾ける大冒険であった。わくわくする興奮と同時に、極度の緊張をしいられる厳粛な瞬間でもあった。当時まだ、試聴を許す店は、きわめて限られていた。
 ある日、突然、いっせいに売り出されたCD(コンパクトディスク)が、わずか1〜2年のあいだに、レコード店の棚をすべてCD一色に塗り替えるほどのショッキングなメディア交代劇を引き起こした点は、記憶に新しい。もちろん、メディアとしてのレコードが、大型で持ち運びにかさばるモビリティ(機動性)の面、傷つきやすい材質でノイズを拾いがちという音質の面で、あきらかにCDに劣っていたからこそ、メディア生存競争に敗れ去ったのだという指摘は、否定できない事実であろう。
 しかし、レコードからCDへのメディア交代劇を、小型コンパクト化・デジタル化の趨勢だけに還元することは、いささか短絡的でもある。音源や再生装置の材質・性能の違い以上に、レコードとCDでは、それを購入・所有・視聴する際の、いわくいいがたい「カルチャー」の違いがあったのだから。ロックンロールや前衛ジャズの全盛期であった60年代から70年代にかけて、買ったばかりの新譜LPジャケットを、これ見よがしに小脇に抱えて歩く行為は、若者のとびきりのオシャレだった。レコードが忽然と消えた80年代になっても、大きなギターを背負って歩く「見栄ミュージシャン」や、テニスラケットを小脇に抱える「見栄テニスプレイヤー」は街中にあふれていた。その意味で、LPレコードや大判の美術雑誌やファッション雑誌こそ、自分の趣味やセンスを誇示する恰好の小道具であり、社会学者ヴェブレンの指摘した「見せびらかし消費」の主役だった。
 これに対して90年代に入ると、若者ファッションは、女子高生の画一的なミニスカ制服に代表されるように、自分の趣味やセンス、交友関係やステイタスを、おおっぴらに見せることなく、かばんやポケットの中へ隠すようになる。かばんの中のポケベルやプリクラ、ウォークマンの中のカセットテープやCDが、どんな文字・絵・音のメッセージを送受信しているかは、周囲の誰にもわからない。このファッション感覚の変容は、生活行為そのものの隠蔽化・私秘化の兆候と見るべきだろう。
 今やオールド・メディアの牙城たる書籍までが、CD−ROMをはじめとする電子出版への変化を迫られつつある。もはや大判の美術雑誌やファッション雑誌を誇らしげに抱えて歩く若者など、どこにもいない。メディアの小型コンパクト化・デジタル化、さらに読書行為そのものの隠蔽化・私秘化・・・。やはり時代の趨勢は、遠からぬ日に書籍が、20年前のレコードのごとく、店頭から消え去る方向を予兆しているのだろうか。

1997年7月25日  『メディア人間学』  京都新聞朝刊13面

ふじもと・けんいち  

   『メディア人間学』に戻る   表紙に戻る