このコラムの連載メンバーが集まったきっかけは電子メールにある。といっても、私以外の方は元々親しかったので、正確には私がこのグループに加わったきっかけだが。
自分の書いた論文を、面識はないが関心領域の近い方に送って、批判や助言を乞うことは多い。その例に倣って私が彼らに論文を送ったところ、一両日のうちに電子メールで返事をいただいた。さらに、その後の二週間で八通の電子メールが行き来するうちに、この五人が集まることが決まったのである。二ヶ月後の初顔合わせでは、初対面であるにも関わらず、ほとんど緊張しなかったことを覚えている。このようにスムーズに事が運んだのは、電子メールのおかげであるように思うのだ。
電子メールは手紙と電話それぞれの長所を合わせ持っていると言われる。暇な時にメッセージを送れば、相手も時間の空いた時に読んで返事を出す。電話とは違って相手の邪魔をすることはないし、手紙のようによく考えてから返事を出すことが可能だ。加えて、電子メールは電話のような即時性も持っている。「二週間に八通」は郵便ではほぼ不可能だが、電子メールなら「一日に八通」だって可能だ。このように考えると、現在のところ電子メールは情報交換しながら物事を決めていくのに最良のメディアであるのかもしれない。
しかし、電子メールは手紙でも電話でもない。そのメディア特性は手紙や電話の延長線上にのみあるのではないのだ。例えば、手紙=メールは記録性の高いメディアだ。だが、手紙は基本的には「相手の書いた手紙」=「自分に宛てられたメッセージ」しか手元に残らない。たとえ自分の書いた手紙をコピーして残している人でも、相手にまで同じことは期待できない。一方、電子メールは、誰もが自分が書いたメールも相手が書いたメールも保存している。つまり、交わされたメールの記録は、共有の記憶としてお互いのコンピュータの中に必ず保存されているのだ。電子メールは情報交換のためのメディアと言うよりはむしろ、記憶を共有するプロセスなのではないか。
近ごろ「パソ婚」という言葉が流行っている。パソコン通信で知り合った二人が結婚することを指すのだが、幾つか別の含みを持たされている。・・・実際に会うこともなく電子メールで愛をはぐくみ、短い交際期間で、場合によっては配偶者と別れてでも突然結婚を決める・・・不可思議な現象のように語られる「パソ婚」だが、記憶を共有し合う二人の親密度は端からは想像できないほど高いはずだ。そして、次元はもちろん全く異なるが、私が緊張することなくグループにとけ込めた理由もこのあたりにあるように思う。
さて、電子情報であって個人の「声」も「筆跡」もない電子メールによって共有される記憶とはどのようなものなのか。記憶自体の変容についても考える必要があるだろう。
1996年11月8日 『メディア人間学』 京都新聞朝刊17面
まつだ・みさ