「情報弱者」解放論 松田美佐


 ここ一、二年のインターネット・ブームを受けてか、最近「新しいメディアによって情報弱者が解放される」といった話をしばしば耳にする。マス・メディアを中心とした一方向的な情報環境の中で疎外されてきた女性、障害者、高齢者といった「情報弱者」が、双方向メディアを手にすることによって、これまでの不利な立場から抜け出すことができるというのである。
 確かにインターネットにアクセスすることにより、自分にとって必要な情報を好きなときに集めることができるようになる。電子メールを使っての個人的な情報交換も可能であれば、電子会議室で不特定のメンバーとの交流も可能だ。自分のホームページを作れば、世界に向けて情報発信ができる。また、在宅勤務が可能となれば、子供が小さかったり、身体に障害があったりして外出が思うようにならない人だって充分働けるようになるだろう。
 しかし、新しいメディアは必ずしも「情報弱者」を解放するとは限らないのだ。
 ちょっと『ドラえもん』のストーリーを思い起こしていただきたい。未来からやってきたドラえもんがのび太君のために出す道具には非常に便利なものが多い。しかし、のび太君にとってドラえもんの道具が便利なのは、他には誰も持っていない未来の道具だからである。むしろ、その道具が共有されている未来の社会は、その存在を前提とした社会構造になっているのだから、特別便利なものではないはずだ(例えば、瞬間移動装置「どこでもドア」のある未来の社会では「遅刻しそうだ」と走ることはなくなるだろうが、「途中、道が混んでいて・・・」といった言い訳ができなくなるだけで「遅刻」自体は相変わらず存在するはずだ)。
 「情報弱者」論が前提とするメディア観は、どうもこの「ドラえもんの道具」に似ている。つまり、のび太君のいる世界に未来から道具が持ち込まれるように、新しく便利なメディアが外部からやってくる。そのメディアを使いさえすればすぐに「情報弱者」から解放される・・・と聞こえるのだ。しかし、現実には新しいメディアは外部から我々の社会へと持ち込まれるのではない。例えば、パソコン通信やインターネットの初期利用者の多くが技術職の男性であったように、常にそれまでの社会構造、社会意識の影響を受けているのだ。また、「ドラえもんの道具」を持つのも、のび太君だけではない。「情報弱者」だけでなく「情報強者」だって同じ新しいメディアを使うのだ。ならば、「情報弱者」が新しいメディアによって無条件に解放されることありえないはずだ。
 さて、そもそも「情報弱者」とは一体誰を指した言葉なのだろうか。女性と障害者、高齢者は「情報弱者」と一括りにできるのであろうか。この点に関しては、また機会を改めて考えてみたい。

1996年12月13日  『メディア人間学』  京都新聞朝刊15面

まつだ・みさ  

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