個人のホームページ 松田美佐


 近年のインターネット・ブームの中、個人でホームページを開いている人がかなり増えてきたように思う。ホームページを作れば、マス・メディアを利用できない「一般市民」であっても不特定多数に向けて情報を発信することができる。だから、どんどんホームページを作ろう!といったムードさえある。しかし、一体何をそんなに発信すればいいのか。
 もちろん、自分が持っている意見や知識を公開するにはホームページは最適だ。本を書くほどまとまった考えでなくていい。ちょっと思ったこと・考えたことをワープロで書いて、ホームページにするためのHTMLと呼ばれる「飾り」をつければ、それでおしまい。全世界へ情報発信ができるのだ。もちろん、テレビやラジオのようにきちんとした番組表がある訳でも、新聞のように各家庭に配達される訳でもないのだから、見てくれる人は少ないかもしれない。しかし、公開した以上は必ずどこかで誰かが見てくれるのだ。
 何も「意見」までいかなくても、自己紹介でもいい。「私は×月×日生まれで、こんなことが好きな人間です」。写真を入れるとなおよい。ホームページは最近流行の個人情報誌の代わりでもある。内容を自分で書かなくても大丈夫。他のホームページへリンクを貼ればよいのだ。ネットサーフィンして気に入ったページを幾つか紹介したり、自分の興味のあるテーマに関連するホームページをコレクションして掲示したりする。「私が面白いと思うページを見てね」という訳だ。これも一種の自己紹介かもしれない。
 しかし、単なる「自己主張」と「情報の発信」は違うのではないか。何も個人的な意見の公開や自己紹介が「情報として価値がない」と言うのではない。清水義範の『発言者たち』という小説がある。テレビ局への抗議の電話やパソコン通信での論争など「私の発言に耳を貸せ」とばかりに無理矢理発言する巷の人々をコミカルに取り上げた小説なのだが、その「面白さ」は登場人物が自分の主張を繰り返すだけで、決して相手と対話しようとしないところにある。これと同じようなことがいくつかのホームページに感じられるのである。つまり、「自分という存在」の主張ばかりで、多様な意見が交差して調整されたり、まとまったりする方向性が感じられないのだ。これが「インターネットは巨大なゴミ箱になる」ということなのだろう。
 ところで、この小説のオチになっているのは、「発言したがる人々」と相補的な関係にある「発言を求める人々」bb街中でいきなりマイクを突きつけ、考えてもいないテーマについて発言を求めるような人々bbの存在である。「個人でホームページを作り、情報発信することは意義深いのだ!」そんな価値観の押しつけに対する答えが、自己主張オンリーのホームページなのかもしれない。

1997年1月24日  『メディア人間学』  京都新聞朝刊17面

まつだ・みさ  

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