原理的には誰もが情報発信できるインターネットの世界は、うわさb未確認であいまいな情報bの温床になる考えられてきた。ところが、一つの例外を除けば、今のところインターネットやパソコン通信などの電子空間で広く流布したうわさは存在しない。もちろん、電子空間にあいまいな情報が全くない訳ではない。むしろ、たくさんあるのに広まっていかないのである。一体なぜなのか。
この謎を解く一つの鍵は、電子空間が基本的には「複製の世界」であるところにある。同じ内容が口頭で伝播する場合と電子メールで伝播する場合を比較してみよう。広く流布したうわさについて調査すると、「複数の人から同じ話を聞いたので信用した」という発言をしばしば耳にする。つまり、内容自体だけでなく情報源の多さがうわさの信憑性を裏付けたというのである。ただし、この場合の「同じ話」は「同じような話」であって「全く同じ話」ではない。「同じような話」が「複数の情報源」から出ているのならば本当であろう・・・と思い、他の人にも話すのである。たとえ、一つの情報源からの話であっても、口頭での伝播の過程で少しずつ内容が変形するために、このような事態が起こりうるのだ。一方、電子メールで複数の人から「同じ話」が届く場合、多くは「全く同じ話」がやってくる。送られてきたテクストはそのまま複製されて、次に転送されるからである。ゆえに、さまざまな経路を通ってきた話であっても、その背後に「一つの情報源」が透けて見える。いくら複数届いたとしても、電子メールでのうわさの信憑性は乏しいのである。
もう一つの鍵は「匿名性」にある。「匿名のコミュニケーションが可能な電子空間では、いいかげんな情報が流れやすい」と言われている。しかし、匿名の空間だからこそ、うわさが流布しにくいとも考えられるのだ。我々は普通、手に入れた情報のすべてを信用するわけではないし、その情報を他の人に伝えるとなれば、もっと稀である。つまり、個人個人が情報をふるい分けするフィルターの役割を果たしているのだ。ただし、内容の信憑性が乏しい場合でも「この人が言うのだから」と信用してしまうことは多く、かえってそこからうわさが生まれるのである。しかし、電子空間で見えない相手とコミュニケーションする場合には、情報源・情報内容の双方に、より厳しい目を向けるはずだ。「この人は信用できるのか」「この情報の根拠は確かなのか」・・・つまり、多様な情報発信には同じように多様な目が光っているのであって、電子空間は「うわさの巣窟」にはなりえない。
さて、初めに電子空間で広まったうわさが一つだけあると書いた。ネットワークを通じてコンピュータ・ウイルスが広がるといううわさだ。もっとも、電子空間の存立に関わるこの話は、どんな社会にもつきまとう終末論の一種として解釈すべきであると感じるのだが。
1997年2月28日 『メディア人間学』 京都新聞朝刊17面
まつだ・みさ