ニューヨークへ行く飛行機の機内誌で面白い広告を見つけた。それは、パーソナル・フォント。コンピュータで自分の筆跡を使うためのソフトウエアだ(ただし英語)。活字に明朝体やゴシック体があるように、コンピュータにもあらかじめさまざまなフォントが用意されている。普通は、その中から自分の好みや印刷の美しさでフォントを選ぶのだが、そういった既成のものではなく、自分の筆跡をフォントとして使おうというのだ。
注文は至って簡単。広告の裏のオーダーシートに、二十六ほどの単語と数字や記号(コンマやハイフン)、文頭にくる場合を考えて大文字すべてをペンで書いて郵送するだけ。単語をいくつも書くのは文字と文字のつながり方を正確に再現するためらしい。そうそう、自分のサインも忘れずに。そこに書いた筆跡をもとに手書きフォントが作られるというわけだ。別の紙で少し練習してから記入したとしても十分とかからない。
これは便利だ。原稿や仕事上の手紙はもっぱらワープロで書く私だが、さすがに目上の方への私信は手書きで送る。ただし、その場合でもあらかじめワープロで文面を作成し、その後手書きで清書する(字が汚いので「清書」とは言いづらいが)。なぜなら、そういった気の入る手紙こそ推敲が必要なのであり、ワープロの持つカット&ペースト(切り貼り)といった編集機能が大活躍するからだ。もし、パーソナル・フォントの日本語版ができれば、礼を失することなく清書の手間を省くことができる。
プリンターから打ち出される「手書き」の文章には、手書き特有の「温もり」が感じられないって?手書きの文章の持つアウラ(「いま」「ここに」という一回性)が感じられないというのか。ならば、文字の乱れやインクのにじみを設定できるようになれば、より「手書きらしく」なるのではないか。つまり、文字と文字の間隔をランダムにする機能を組み込み、下線をつけたりイタリックにしたりするように指定した部分ににじみをつけることができるようになればいいのだ。「本物」の手書きとプリントアウトされる「手書き」の区別がつかなくなるようになる可能性は高い。
さて、問題は仮にそうなった場合に「本物」の手書きが今ほど必要とされるかどうかだ。例えば、同じ箇所がにじんだラブレターが何通も届いたとしたらどうだろう。広告には「あなた自身を表現して!」とある。整っていて美しいが個性のない既成の文字ではなく、あなたしか書けないオリジナルな筆跡で自分を表現しよう!というのだ。しかし、手書きフォントを用いることで、誰もが「あなたの筆跡」で書くことができるようになれば・・・自分の「オリジナル」な筆跡で自分を表現することは不可能になるに違いない。
個人の筆跡のオリジナリティを強調するこのフォントは、そのオリジナリティ自体を解体する矛盾に満ちた存在なのだ。
1997年5月9日 『メディア人間学』 京都新聞朝刊14面
まつだ・みさ