ネット人格(その2) 松田美佐


 先週のこのコラムは、高広氏による「ネット人格」についての議論だった。その論考自体は非常に興味深かったのだが、私はこの件に関して少し違った意見を持っている。
 議論に入る前に、一口にパソコン通信と言ってもサービスによって全く性格が異なるので、ここでは比較的継続的に複数の会員間のコミュニケーションのなされる「フォーラム(特に、話題別のフォーラム)」を取り上げることを先に述べておきたい。
 フォーラムでは「実社会」とは比較にならないほど多くの喧嘩(フレーミング)が起こる(と言われているが、実際は定かではないようにも思う。なぜなら、フォーラムではすべてのやり取りが文字であるため、喧嘩もすべて記録として残るが、「実社会」ではごく一部しか残らない)。あるテーマについての議論が、いつの間にか単なる「言い争い」となる場合もあれば、相手のちょっとした書き間違いを指摘したところ、思わぬ反発が返ってきて喧嘩になる場合もある。このように喧嘩のきっかけはさまざまだが、エスカレートしてくると、きっかけとなった書き込みからは離れて「実社会」での職業や学歴、性など社会的属性に関連する面での攻撃合戦が始まることが数多く見られるのだ。
 フォーラムに参加し始めた頃感じたのは「どうやってお互いの社会的属性を知ったのだろうか」という疑問だった。しかし、やり取りを見ていくにつれ、その謎はすぐに解けた。なぜなら、メンバーは「実社会での自分」について書き込むことが多いのだ。例えば、「自己紹介」の書き込みを分析すると年齢や職業などを積極的に開示する傾向が見られるし、それに対するレス(返事)も「年齢が近い」「自分も昔近くに住んでいた」といった「実社会での自分」と照らし合わせたものが数多く見られる。その様子を見ていると、「フォーラムの話題について関心を持つ」という面では等しい各メンバーが、あえて「実社会での自分」について言及することで、フォーラム内での「個性」を築き上げようとしているように見えてくるのだ。
 もっとも、自分の開示したい社会的属性だけを「ネット人格」の前面に押し出したり、「虚偽」を書き込んだりすることは充分考えられる。しかし、その場合でも「ネット人格」とは、私たちが状況に応じて「親/子」「上司/部下」「先生/生徒」などとして振る舞うような社会的役割の亜種であるように思うのだ。どの役割の「自分」も自分であるように、「ネット人格」も「フォーラムという状況における自分」である。「実社会」において「役割を演じている」という感覚を持つことがあるように、時には自分の「ネット人格」に違和感を感じることだってあるだろう。ちょうど、親が「親」に、先生が「先生」になりきれないことがあるように。ならば、「ネット上の人格」をめぐる問題は、社会的役割とアイデンティティの関係性といった、社会学にとって古くからある問題としてとらえ直すべきではないだろうか。

1997年6月13日  『メディア人間学』  京都新聞朝刊15面

まつだ・みさ  

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