ホームページのカウンター 松田美佐


 先日、昨年10月から開いていたホームページにカウンターをつけたので、アクセスした(ホームページを見た)人の数が一目でわかるようになった。なぜ半年以上も経った今になってつけたかというと、このコラムの執筆メンバーで『ポケベル・ケータイ主義!』(ジャストシステム)を上梓し、その中にホームページのアドレスを載せたためである。本というマス・メディアにアドレスが載ることによって、アクセス数がどのように変わるのかに興味があったのだ。ホームページはマス・メディアによらない個人の情報発信のツールだと言われている。しかし、そのホームページの存在を効率的に多くの人に知ってもらうには、現状では既存のマス・メディアで紹介されることが効いている可能性があると思ったのである。
 しかし、カウンターをつけたことは別の効果を持っていた。カウンターの数字が気になって仕方がなくなったのだ。カウンターをつける前は、アクセスした人から電子メールをもらう以外「視聴者」の存在はわかりにくかった。私自身、多くの人に見てもらうだけよりも、偶然見にきたわずかの人と電子メールをやり取りする方を楽しく感じていた。ところが、「視聴者」が見えるようになると、「一体こんなにたくさん誰がアクセスしているのだろう?!」 そして、あまりアクセス数が伸びていない日には、「デザインが悪いのかな。それとも、つまらないのかな。情報を追加しなくっちゃ。」 存在が見えるだけで反応のわからない「視聴者」を相手に、これまで以上に自分の情報発信のあり方を考え直すことが多くなったのである。もちろん、このこと自体は非常に好ましいことだと思う。以前1月24日づけのこのコラムで批判的に書いたような「自己主張オンリー」のホームページから、少し対話型ホームページへの道を歩み始めたのかもしれないからだ。
 ただ、「数」に引きずられる危険性は大きい。ともすると、「せっかくなら、なるべく多くの人にアクセスしてもらいたい」という気持ちになるのだ。このような願望を持つと、ホームページは自らの存在を「数」によって確認する手段となりかねない。自らの情報発信をきっかけにした不特定の人との対話を目指す手段としてホームページを利用したいのならば、アクセス「数」を可視化するだけのカウンターは不必要なのかもしれない。  ホームページが自らの存在を「数」によって確認する手段となりかねないと言うと、プリクラを何百何千と集める少女達の行為を連想して「今日的コミュニケーション」の歪みをそこに見出す人がいるかもしれない。しかし、「人間関係の数値化による自己確認」は本当に「今日的な」ものなのだろうか。例えば、届いた年賀状や中元・歳暮の「数自慢」は昔から耳にする話であって、似たような現象は(少なくとも近代の日本において)ごく「ありふれた」ものだと言えるのではないか。だとすれば、この小さなカウンターの提起する問題は、ホームページという「新しいメディア」においてだけではなく、より広い文脈の中で考えてみる必要があるように思えてくる。

1997年7月18日  『メディア人間学』  京都新聞朝刊14面

まつだ・みさ  

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