「携帯電話とクルマ」 岡田朋之


 運転中の携帯電話の使用が問題になっている。携帯電話の普及にともなって、利用中の自動車事故が急増しているためだ。携帯片手の運転が危ないのは当然のことで、電話会社やメーカーはハンドルから手を離さずに電話できるハンズフリー・システムの使用をすすめている。それでもやはり運転中の通話は注意力が散漫になって危険であるという。だがよく考えてみれば、私たちが運転しながら同乗者と会話をするのはべつに珍しいことではない。ではなぜ電話で話す場合だと危険なのか。
 たいていの場合、同乗している相手なら周囲に見える車や人の動きなどの様子を運転者と共有している。したがってクルマの置かれた状況に何か異常があれば、同乗者もそれを感じとって運転者に話しかけるのを遠慮するだろう。しかし、携帯電話をかけている運転者と話す相手はそんな状況を知る由もない。どれほどクルマの方に危険がさし迫っていたとしても、電話の向こうの相手はそれまでどおり話し続けるであろうし、運転者もそれに合わせて話していると急な状況の変化には気づきにくい。そこに落とし穴があるわけだ。
 かといって、運転者と車外との交信がすべて危険であるから禁じるべきだというわけにもいくまい。車載の無線機はパトカーなどの緊急自動車をはじめ、タクシーなどでも古くから使われており、業務上なくてはならないものだ。モータースポーツの世界でも、ピットとの無線での交信はタイヤ交換や給油のタイミングをはかるうえで、戦略上きわめて重要な位置を占めている。いまや伝説となってしまったF1ドライバー、故アイルトン・セナなどはコーナリングで限界を攻めている真っ最中ですら、無線でスタッフと普通に会話していたそうだ。もっとも、そうした芸当は高速走行中に車の挙動やライバルとの駆け引きなど、短時間にきわめて膨大な量の情報を処理するように訓練されたトップドライバーだけに許されることではあるが。
 今日のメディア論に多大な影響を与えたカナダの研究者、M・マクルーハンはかつて「メディアとは人間の身体の拡張である」とのべた。テレビは眼の拡張であり、電話やラジオは耳の拡張だというわけである。
 彼の議論の中で面白いのは、メディアの中に自動車も含まれていた点だ。近年の車の高性能化により、私たちの身体はある意味で大きく拡張している。そこで危険なのは、道具による身体の拡張を自分自身の技能の拡張と錯覚してしまうことだ。高い運動性能を誇る最近の乗用車は、そんな錯覚を生みがちであるし、そこで容易に凶器と化してしまいかねない。運転中に携帯電話を使おうとする人は、このことをどこまで自覚しているのだろうか。
 マクルーハンは、新しいメディアにはそれを取り扱う技能とルールが要求されることも指摘していた。車の運転も電話も、その一つ一つはもはや当たり前の行為ではある。しかし、私たち一般人がこの二つを両立させる技能とルールを身につけるにはまだ未熟だということなのであろう。


1996年10月18日  『メディア人間学』  京都新聞朝刊17面

おかだ・ともゆき  

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