この一年を通じて、メディア・アートの世界でもっとも話題をさらったのは誰か?
私はためらうことなく「明和電機」を挙げたい。今年はCDとビデオをたて続けに
リリースしチャート入りを果たす一方、全国ツアーをおこなうなど音楽活動を積極的
に展開した。また秋には京都市内の百貨店をはじめ全国で「ツクバ展」を開催。これ
までの作品を一堂に紹介するなかで、会場の係員もすべてメンバーと同じ制服を着用
する凝りようであった。
そもそも明和電機のこれまでの活動は「魚器(なき)シリーズ」と呼ばれる作品群
やユニークな創作楽器の製作が中心だったが、なかでも異彩を放っていたのが自らの
形態を電機メーカーになぞらえていた点である。兄が社長、弟は副社長を名乗り、そ
の作品を「製品」、作品を用いたパフォーマンスは「製品デモ」と呼び、登場する際
の衣装はライトブルーの作業服姿。ちなみに「会社概要」によると資本金はゼロ円だ
とのこと。
このような彼らの活動は、一見するとアートからはほど遠い、人を食ったバカバカ
しいお遊びのように見えるかもしれない。しかし、そこには現代芸術におけるきわめ
て重要な問題が横たわっているのだ。
今から半世紀以上前、社会思想家のW・ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」
という論文の中で、映画や写真といった複製技術によって、芸術作品はオリジナル崇
拝の呪縛から解き放たれ、社会に開かれた存在になりうるのだと述べた。A・ウォー
ホルをはじめとする戦後のポップアートにしても、従来の権威主義的な芸術の枠を打
ち破ろうとする意図がそこにはあった。しかし、そうした試みの多くは、発表された
作品が資本主義のシステムの中に回収されることによって、本来意図していたラディ
カルさをそがれていったのもまた事実なのである。
そんな中で明和電機は、「会社」というきわめて産業主義的な製造業のスタイルを
執拗なまでに敷衍し演じてみせることによって、芸術作品とコマーシャリズムが結び
ついた現代の状況の主題化に成功していると言えないだろうか。その意味で、彼らの
活動そのものを総体的にとらえれば、これまでの複製芸術を超える「ポスト複製芸術
」として位置づけることも可能だ。
この二〇日から大阪の天保山現代館で開催されている「大アート展」には明和電機
としての出品はないものの、熱狂的なファンの手によるコピー商品「海賊版・明和電
機」が展示されているという。しかもそれは明和電機自身からも公認されているとの
こと。通常なら贋(がん)作として排除するはずのものを原作者自身が堂々と取り上
げるあたりにも、彼らなりの戦略が見え隠れしているように思う。
デビュー以来、明和電機はソニーミュージック・エンターテインメントの専属芸術
家として活動してきた。いわば巨大文化産業の「下請け会社」の立場にある彼らが、
来年以降どのような活躍ぶりを見せるのか。期待がもたれるところであり、またそこ
にこそ今後の真価が問われていると言えよう。
1996年12月27日 『メディア人間学』 京都新聞朝刊10面
おかだ・ともゆき