このところ電車やバスなどで「車内での携帯電話の使用はお控えください」というメッセージをよく耳にする。関西ではそれほどでもないが、関東ではかなり徹底していて、JR東日本が先月から満員電車では電源を切るようにとキャンペーンをおこなっているほどだ。
その最大の根拠としてあがっているのは、ペースメーカー装着者への電磁波の影響だが、そのほかに、他の乗客から迷惑だという意見が多い点もつけ加えられている。たしかに携帯電話の話し声がうるさいというのはよく言われることだ。だが、それは何も電話に限ったことではなく、他の乗客同士の会話でも同じはず。
これについては当コラムの執筆メンバーで先ごろ刊行した『ポケベル・ケータイ主義!』(ジャストシステム)の中で、富田英典氏がこう論じている。電車内という赤の他人が近接する場では、お互いの無関心を装うことによって社会的空間の秩序を保っている。これを「不関与の規範」という。しかし携帯電話で話す人を端から見ていると、一方の会話しかわからないため逆に関心を引きつけてしまい、「不関与の規範」を乱す、というのだ。
あと、携帯電話が不快に思われるもうひとつの理由としては、着信を知らせるベルがどこからともなく突然鳴ることで、ドキッとさせられるというのもあるだろう。ではなぜ着信音でドキッとするのか。そもそも、メディアの分類の中で電話はテレビなどのマスメディアとは違って、個人と個人を結ぶパーソナルなメディアとして位置づけられている。しかし、よくよく考えてみれば、電話は家庭や職場といった特定の場所に備え付けられていることからもわかるように、厳密にはそのメンバーの中での共用施設なのだ。だからこそ、かかってきたときにそこに属する誰かが電話をとることは暗黙の了解となっている。そして私たちは従来、電話に対してはそう行動するべく習慣づけられてきた。それが、電車内という公共の場で突然鳴る携帯電話に対してはまだ不慣れなために、いったんは思わず反応しながらも、どうしたらいいか戸惑ってしまうのではなかろうか。
だが、携帯電話の場合は原則として特定の個人が所持するモノである。それならば着信を音で知らせる必要はなく、ポケットなどに身につけてさえいれば着信バイブレーターで十分。イヤホンマイクを差し込んで使えば、ずっと小さな声でささやいても問題なく伝わる。そうやって携帯電話が個人の身体と一体化したメディアとなれば、今の使用環境とはまったく異なった局面も出てくるにちがいない。
このような観点からみれば、今の携帯電話バッシングはメディアと社会のかかわりが大きく変化しつつある中での過渡的な現象としてとらえなおす方がより正確ではないかと思う。にもかかわらず、そうした状況を踏まえることなく、ただやみくもに車内での使用を厳禁するというのはいかがなものか。利用者の多様な声や、携帯ユーザー側の立場を考慮しない鉄道会社の一方的な方針に、全体主義的な嫌悪を感じるのは私だけではないはずだ。
1997年8月1日 『メディア人間学』 京都新聞朝刊14面
おかだ・ともゆき