2月14日、ファースト・アルバム『My Sweet Valentine』を出したアイドルがいる。財津和夫や森雪之丞といった歌謡曲界でも超れ筋の作詞家・作曲家が制作にたずさわっており、エラい力の入れようだ。歌っているのは「藤崎詩織」。私立きらめき高校の生徒だ。このアルバムのスゴいところはそれだけではなく、彼女の髪の逆立っている部分が3本だということ。このアルバム以前は2本しかなかった「逆立ち毛」が今回は3本に増えている。どうもこれはファン心理をくすぐりそうだ。この「藤崎詩織」、今流行りの「ギャルゲー」(女の子を口説き落とすタイプの恋愛シミュレーションゲーム)の中でも一番人気の『ときめきメモリアル』の、そのまた『ときメモ』の中でも一番人気の主人公キャラである(声優は金月真美)。当然、「彼女」は生身の肉体を持った存在ではなく、モニター上でしか存在しない。「彼女」に関する情報は、身長と3サイズと、頭脳明晰・スポーツ万能で、自分と釣り合った男の子でないと付き合わないということ。でもファンが日本国内だけで1万5千人、海外でもファンのインターネット・ホームページがあるぐらいだからこれまたスゴい。
この現象を見て「最近の世の中はわけわからん!」と思うだろう。しかし「アイドル」とは昔からそんなものではなかったか? 僕らがテレビとかライブで見てきた「アイドル」だって所詮「生身の肉体を持つ」というだけであり、彼女たちの性格だって僕らの作り出したイメージにすぎなかったのかもしれない。例えば、音楽社会学者の小川博司によれば、小泉今日子は『ヤマトなでしこ七変化』や『なんてったってアイドル』で「仮面(=アイドルとしての自分)」と「素顔(=アイドルじゃない自分)」の二重性を歌っているという。そう言えばキャンディーズも「普通の女の子に戻りたい」と言ってラストコンサートを締めくくったじゃないか。「アイドルをアイドルたらしめている」部分、アイドル(idol)のアイデンティティ(identity)を「アイドル性idolentity」とでも呼ぶとしたら、これを作りあげてるのは、所属事務所であり、メディアであり、かつ僕たち自身なのだろう。だが一方で、僕たちは「アイドル」という存在が内包するこうした二重性を知らず知らずに一つにしようとしている。
それに対し「藤崎詩織」や「伊達杏子」を指す「ヴァーチャル・アイドル」という言葉は「生身の肉体を持たない」という程度の意味に過ぎない。僕らが一つにしてしまう二重性が存在しない。ゆえに片方の「アイドル性」だけでしか存在しえないのだ。だから「彼女」たちこそ「純粋アイドル」。だがそれゆえに悲しいかな「アイドル」として流行らなければ非常に希薄な存在であり、みんなで「アイドル」にしてあげなければ存在できない。では、『藤崎詩織』はなぜ「アイドル」としてブームをまき起こし成功しているだろう? それは全国のファンたち(=「シオリスト」とというらしい)の「ときめき」が同調し、「彼女」の存在を作り上げているから、なのかも知れない。
1997年2月21日 『メディア人間学』 京都新聞朝刊17面
たかひろ・のりひこ