「ナム・ジュン・パイク」 高広伯彦


 パソコンには画面の焼き付け(長い間同じ画面を表示しているとその絵がモニターに焼き付いてしまう現象)を防ぐために「スクリーンセーバー」というものがある。一種のソフトで好きなものを設定する事が可能なのだが、僕の最近のお気に入りは、インターネット上にあるスイスの時計メーカー「スウォッチ」のホームページからダウンロードしてきた、韓国人のアーティスト、ナム・ジュン・パイク(白南準)制作のものだ。
 このナム・ジュン・パイクは「ビデオアートの父」とも呼ばれる人物で、彼が1963年に発表した作品がその始まりとされている。テレビ・モニターに磁石を近づけると干渉を起こして映像が乱れるが、初期の一連の作品はこうした現象を用いた、今のCG(コンピュータ・グラフィックス)から見れば非常に素朴なのものだ。けれどもそこに表現されたのは、1950年代以降に加速度的に普及し始めたマスメディア=テレビへの批判的な目であった。例えばヒトラーがプロパガンダ映画を作らせて、メディアを使った大衆操作を大胆にも行ったように、もしかするとテレビも大衆を画一化し、世論操作へ導くのではないか。こうした懸念から、テレビへの批判的作品として、受け手側が「操作」し映像を歪めるという手段に出たのが、パイクのビデオ・アートだった。
 しかしテレビの位置づけ自体が変化したここしばらくは、パイクは、テレビへの、あるいはテレビ出現以降の人間へのオマージュとも思える作品を作り続けている。それらの作品は10個程度のテレビが組みあわされ、人間の姿をなしている。これらは(ボタン式でない)チャンネル式の、しかも筐体が木製の古いテレビで作られているものが多い。そのためかメディア・アートによくある「ハイテク」っぽさが排され(すでにテレビなど「ローテク」なのだが)、「テレビ人間」たちはなんとなく素朴で親しみさえ感じてくる。だがそうした感覚を覚える理由はそれだけではない。パイクの「人間」たちが決して他者的存在なのではなく、むしろ僕ら自身だからだろう。
 テレビは僕たちの日常生活の中に当然のように埋め込まれてしまっている。メディア操作されているなど考えもしないし、もはや僕らはその存在を疑うことすらしない。それは自分たちのカラダについて、普段何かを考えることがないのと同じだ。そんな僕らには「テレビが身体感覚を拡張する」といったメディア論より、パイクの「等身大に身体化されたテレビ」のほうが今はリアリティがある。だがその一方でパイクのスクリーンセーバーがインターネットという新しいメディア上で手に入る時代に突入し、「テレビ人間」にも変化が迫られているということをうすうす僕らは気づき始めている。
 「テレビ人間」=僕たちにとって果たしてそれは進化なのか、あるいは他の何かなのか。90年代も半ばを過ぎ、世紀末へと向かう現在において、僕らはその途上にある。答えはまだ見えてこない。

1997年3月28日  『メディア人間学』  京都新聞朝刊17面

たかひろ・のりひこ  

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