「新メディアへの嫌悪」 高広伯彦


 体を壊して2週間ほど入院生活を送ることになった。こんなことは初めてなので、受付で手続きをしながら、あれはダメ、これもダメと色々と制約があるのだなと思いつつ説明を聞いていた。医療機器を狂わせるということで、病院内で携帯電話の使用を制限していることは周知。でもそれに加えて(他の病院は知らないが)どうやらワープロ・パソコンの持ち込みも不可らしい(電子メールで日常の連絡をやり取りをしている僕にはヒジョーに辛い)。まぁ、飛行機の離着陸のときも使用を制限していることだし、これも電磁波がらみかなと思っていたら、おや待てよ、そういやセンセイの机の上には2台もパソコンがあったよな。そう思った瞬間に受付の女性が一言、「共同生活ですから−−−」。この瞬間メディア学者としての僕にはピンと来たものがあった。これはアレと一緒じゃないか、と。
この病院では申込めば、枕元に外線につながる電話を設置してくれる。ワープロ・パソコンがダメな理由は、キーボードを打つ音がうるさいということらしいのだが、電話での会話も結構うるさいハズ。だとしたら、電話はよくて、ワープロ・パソコンがダメな理由は何なのだろう? そこでふと思ったのが携帯電話の使用制限と同じではないかということだ。
 最近、電車内での携帯電話の使用を「禁止」する方向へと向かっている。これまでは「自粛要請」程度だったのが、より強い言い方で「他のお客様のご迷惑にな りますからおやめください」というアナウンスになってきた。しかしこの「ご迷惑」とは「うるさい」ということのハズ。しかし最近はマナーもなってきて小声で話すようになってきている。それよりも乗客同士の会話のほうが耳障りなときがある。だから、この「携帯での会話禁止」というのも、ただ単に「うるさい」ということによる「禁止」ではなくて、「携帯での話し声」はうるさい、「車内での話し声」はうるさくない、ということなる。
 昨年10月4日の本コラムで松田美佐さんが、初期の電話と携帯電話の電磁波をめぐる噂について書いたように(『携帯電話のうわさ』)、新しいメディアはとかくネガティブに受け取られやすい。例えば、携帯電話での会話と生の会話が同じボリュームで行われているとしても、ほとんどの場合前者のほうがうるさく感じる。同様に電話での会話とキーボードの音が同じボリュームだとしても、後者のほうがうるさく感じるのだろう。これらは「新しいメディアへの嫌悪感・不安感」から来るものだろう。新しいメディアへの期待感がある一方で、なぜこのように感じてしまうのか。これに明確に答えることはまだできないが、華々しいマルチメディア論の裏側で考えていかなければならないことなのかもしれない。
 そういや、「安静にしなくちゃいけないですから」とも言われたが、いやいや、僕には、電子メールと違って強制的に話をさせられる古いメディア=電話のほうが、いろいろ気を使って安静にできないんですけどね。

1997年5月2日  『メディア人間学』  京都新聞朝刊16面

たかひろ・のりひこ  

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