「ネット人格」 高広伯彦


 誰もが女性だと思っていたのが男性だったり、男性だと思っていたのが女性だったり...。パソコン通信の世界では「ネット・オカマ」や「ネット・オナベ」といった、自分の性とは違う性で振る舞う人たちがたくさんいたりする。特に同期的に行われる文字のみの会話=「チャット」の世界では結構いる。画像は無いから、別の性に化けるだけでなく、年齢を偽ったってそうそうわからないし、ネット上では名前だって本名ではなく別の好きな名前にすることだってできる。だから、ネットワーク上で別人格を形成することは簡単。イイ年の男性だけど「女子高校生」に化けて楽しんでる人だっていたりする。誰だって「今の自分と違う別の自分になってみたい」って思うことがあるはずだけど、すでにそんなことが可能なのだ。「ネット人格」で別の「自分」を持つことができるのだから。でもネット上に現れる「人格」のどれが本当の自分のモノで、どれが「ネット人格」なのだろう...。どれも本当で、どれも嘘?
 先月26日、日本最大手のパソコン通信ニフティで起こったトラブルについて東京地裁が一つの判決を下した。ある女性会員が誰もが自由に書き込め、見ることができる「電子会議室」で「事実無根の中傷を書き込まれた」と名誉毀損の訴えを起こした裁判で、被告である男性会員に有罪判決を下したのだ。情報法の立場などからは、無法地帯だったネット上の発言に対して一定基準を示したとして評価されているが、ことはそれだけでないハズだ。というのも誹謗中傷を受けたのは、ネット上の人格であり、それが現実の人格と不可分であるという前提においてのみこの判決が有効なのではないだろうか?ということである。別の言い方をすれば、男性がネット上でヴァーチャルに女性人格を演じていて、その女性人格に対して誹謗中傷が向けられた場合、今回の事件は判例になるのだろうか?
 自我は「自分自身との相互作用」、つまり「自分から見た自分」と「他人から見た自分」のせめぎあいの中で形成されていくとされるが、「ネット人格」の場合はもう一つ「自分から見た別人格の自分」という要素が加わるように思える。これらの編まれた結果としての「人格」が「ネット人格」なのだろう。ただ、自分自身が自分自身に対してあまりにも第3者的になってしまうため、「ネット人格」に対して現実の「人格」との同一性を図ろうとするのは時には非常に難しいことになる。僕がチャットを介して知り合った女性は、「ネット人格」の自分は実際の「自分」よりも良く言われすぎている、イメージが良すぎるとして悩んでいた。つまり「ネット人格」は自分でありながら自分でない「人格」でもあるのだ。だから、今回のニフティの事件においても原告のどの「人格」において、被告のどの「人格」においてなされた行為であるのか、という視点で見ることは非常に興味深い。ただし、判決は現実の「人格」に降りかかってくるのではあるが...。

1997年6月6日  『メディア人間学』  京都新聞朝刊15面

たかひろ・のりひこ  

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