今年5月、鹿児島の高校でこんなことがあった。休み時間になると公衆電話の前に生徒たちが集まり、テレホンカードを入れると何を話すともなく、電話ボタンをおしまくる。次の生徒も、その次の生徒も同じような行動をとる。彼らは誰かのポケベルにメッセージを送るために公衆電話の前に列を作る。そんな状況を見た学校側がプッシュボタンの[#]と[*]を接着剤で固めて使えなくいようにしてしまった。例えば[11]が[ア]と相手のポケベルで表示されるためには[*]や[#]を使わなければいけない。つまり、これを使えなくしてしまうということは、実質上の「ポケベル禁止令」だ。「禁止例」は数年前、大阪でもあったし今に始まったことじゃない。しかし「プッシュボタンを固めた」ということから、電話のある種の意味が変化がみえてくる。
昔のブザー音だけのポケベルの場合、呼び出しがあれば、近くの電話に走っていってその電話で相手と連絡をとる。この時ポケベルはまさに「ポケットベル」。電話のベル機能だけを外に持ち出し、電話を拡張したものだ。あるいは、町中の電話を一つにまとめていわば「大きな電話」にしたとも言える。つまりは、この頃のポケベルはそれ自体は単体のメディアではなく、電話の補完的メディアであって、あくまでも「電話機能の一部」にすぎなかった。しかしその後、液晶表示が可能な、現在普及しているようなポケベルのサービスが開始されると、事情は変わってくる。このタイプのポケベル同士でメッセージをやりとりし、双方的なメディアとして使われていたことは、一時テレビや雑誌で取り上げられたのでよく知られた話だ。しかし、「双方向的に使っている」ということばかりに目を向けていると、見落としてしまうことがある。ポケベルのメッセージは、電話の12個のボタンを駆使して送られる。この時、電話はすでに「キーボード」の機能しかもたない。ポケベルにメッセージを送るための装置にすぎなくなってしまっているということだ。
プッシュボタン式になってから、電話はすでに聴覚でのコミュニケーションを可能にするメディアという旧来の電話とは別の意味合いをもっている。最近では外出先から電話を通じて留守録予約できるビデオもあるし、これから日本でも普及しそうなテレホンバンキングなどはその顕著な例。これからもより一層、電話の「リモコン化」や「キーボード化」が進んでいくだろう。けれども、今回の鹿児島での話は、「キーボード化」した電話を「会話のための装置」だけに制限するという電話の変化の流れとは逆行した措置をとった。実際「管理できない」ということ以外ポケベルの使用を禁止する理由もないはずなのに。その一方で情報教育の名の下でパソコン教育をカリキュラムに組み込もうという流れもある。その前に学校で行われるべき「メディア教育」について根本的に考え直す必要はないだろうか。
1997年7月11日 『メディア人間学』 京都新聞朝刊13面
たかひろ・のりひこ