会津藩かく戦えり 
〜「會津士魂」読後感想〜
 一ヶ月かかりで「會津士魂」十三巻、「続會津士魂」八巻を読破。
 相当な心構えを持ってのことですが、かなり根気を必要。
 題名の通り、全編に渡り会津側の視点。
 徳川親藩であったが故、京都守護職を押し付けられた挙句、見捨てられたという思いが
 藩主松平容保以下家臣達にあっただろうことが察せられる。
 しかし幕府に対し忠誠を尽くさなければならなかったのは、藩祖保科正之に起因する。
 二代秀忠の庶子で、他家に養子に出されたこの弟を、家光は引き立てた。
 恩義を感じた彼は徳川将軍家への忠誠を遺言とした。
 会津藩には「幕府に逆らう者は我が子孫ではない。家臣も従う必要はない」という家訓が
幕末まで生きている。
 容保は養子藩主であったため、より家風に忠実であろうとし、実際、在職中は孝明天皇の
信頼も篤かった。
 もし孝明天皇が存命なら、会津藩は悲惨な戦いを強いられる事はなかっただろう。
 倒幕を叫ぶ者を取り締まったのは、京都の治安維持が職務である以上当然だ。
 西国諸藩は言うに及ばず、朝廷からも、あまつさえ幕府からも追われる羽目になったのは、
好きで引き受けたわけでもない京都守護職だったから。
 孤立した会津藩側から書かれている本書は、薩長土肥だけでなく、徳川慶喜、勝海舟、
五稜郭で生き残った榎本武揚、大鳥圭介にも辛辣。
 逆に佐々木只三郎に好意的。
 彼が会津出身とわかり納得した。
 新撰組と違って京都見廻組は良く思われた記述を見たことがない。
 当時、容保と並んで敵視された人物はもう一人。
 桑名藩主松平定敬。
 京都所司代にして容保の異母弟。
 桑名藩は遡ると松平定信がいる。
 生家の高須藩は尾張支藩、お互い養家は保科正之、松平定信という堅物にいきつき、
どこを見ても徳川に囲まれた彼らは、御三家以上に幕府を大切にしていたとしか思えない。
 明治に容保は日光東照宮の宮司だったが、後に定敬も職を引き継いでいる。
 やはり徳川一族である所以だろう。
 定敬に関して一冊の本を読んだら、何と彼は京都所司代の座に就いた時、まだ十八。
 その上、容保のように帰るべき城さえなく、箱館まで転戦。
 明治に他の兄弟と撮った写真が載っていたが、二人とも似た雰囲気を持つ細面の文人型。
 よく動乱の中を生き抜いてこられたものだ。
 特に会津は主君と藩士の結束が固い。
 幕末に際しても内部分裂がほとんどなかったことがよくわかる。
 三十年かけて執筆した著者早乙女貢には感服するしかない。
 鮎川兵馬という軸になる藩士はいても、会津藩が関与した一つ一つ事件の詳細が丁寧に
綴られている。
 何しろ彰義隊の上野攻防で一巻、鶴ヶ城落城で一巻。
 奥羽列藩同盟で一巻あるだけに経緯も細かい。
 近隣であるだけに会津藩に同情もし、さらに錦の御旗をかさにきた横柄な西軍にも腹を立てた。
 何しろ仙台半は伊達政宗、米沢藩は上杉謙信以来の矜持がある。
 そして米沢の上杉は保科正之の娘が嫁いだ縁があり、藩主夫妻が若くして没したため、
跡継ぎがなく家名断絶に陥るところを助けてもらった恩義があった。
 またしても保科正之。
 しかし末期養子の認められなかった当時、禄高を半分に減らされたとはいえ、家名存続に尽力して
くれたことに、上杉家は幕末まで深く感謝していた。
 思うに東北地方にとって江戸も京都もあまりに遠く、昔ながらの武士道が三百年の長きにも
変わらず存在していたのだろう。
 何せ容保が京都守護職の座に就いた時、京都へ行ったことのある者は家中に数人しか
いなかったそうだ。
 そんな気風の中でからす組や二本松少年隊が出来上がった。
 二本松藩では少年を戦いの場に出すのを忍びなく「十五歳以上」としたものの、十三歳、
十四歳も多い。
 一人だが十二歳の少年。
 現代でいえばランドセル背負った小学生が、藩のために刀や槍を手に取ったと思うと健気を
通り越して不憫だ。
 会津藩の白虎隊も当初十五歳からだったのを、十六歳と十七歳に引き上げた。
 命じる方も率いる方も嘆息を漏らしたに違いない。
 有名なのは白虎隊だが、年齢別に四神にちなんで青龍隊、朱雀隊、玄武隊もあり、十五歳以下の
幼少組もあった。
 城下の火事を落城と誤解し自刃した少年達の諸共に滅ぼうという純粋さには、何度読んでも心を
打たれる。
 彼らもまた会津藩士の誇りを胸に散っていったのだから。
 女性たちが自主的に集まってできた娘子軍も然り。
 武家に生まれて敵の辱めを受けてはならぬという気丈さが見える。
 ただ藩士には「会津は女に戦をさせた恥になる」と言われたらしい。
 女子供にいたるまで会津藩は一体だった。
 落城の際、足手まといになるまいと自害した人数は西郷一族含め、三百人以上。
 あまりに悲壮な最期を遂げた人々に哀悼を惜しまずにいられない。
 だが会津藩が西国諸藩に対しての怨みは、むしろ戊辰戦争後の扱いだったとすら思える。
 一番の原因は、見せしめとして死体の埋葬を許さず、勝手に埋葬した死体を元にあった場所に
戻せと言い、墓碑の建立さえ認めなかった。
 これは武士の情けというより、人道としてどうか。
 私は騎士道も好きだが、一つには共に戦った相手を称えあう精神があるからだ。
 最期まで死力を尽くした人間を敵とはいえ、野ざらしのまま何ヶ月も放置したという行為は暴虐の
謗りを免れようがないだろう。
 「続會津士魂」の落城以後の会津藩と関係者の行末について多く書かれている。
 会津二十三万石が下北本当の三万石の斗南藩として存続を許されたものの、実高は七千石。
 生き残った会津藩士と家族の生活は悲惨を極め、誰もが口を閉ざし資料が少なすぎるという。
 当時少年だった後の陸軍大将柴五郎は履物もなくいつも裸足で、犬の肉さえ食べねばならず、
十三歳で県庁に出仕が決まり宿で出された白米に涙したという記述さえある。
 作物さえろくに育たぬ土地へ配流同然になり、廃藩置県により姿を消す。
 過酷な状況で生きることさえ必死な彼らを、新政府は元会津藩というだけで追い詰めすぎたのは
事実だと思う。
 後半に良く名が出てくる山川健次郎と柴五郎は、栄達を阻まれた会津藩出身者の中で期待の
星だったのが窺える。
 前者は初代帝大総長、後者は陸軍大将となる。
 柴五郎がその地位に就いたのは大正八年だが、山県有朋は「誰が会津のやつを大将にした!」と
怒鳴るほど、会津出身者を嫌い、己の権力の限り妨害をしてきたらしい。
 明治を経て尚、戊辰戦争の禍根は残った。
 無論、小説である以上、誇張も脚色もあるだろう。
 しかし会津に攻めてきた軍の、引用するのさえ憚る数々表現の行為は、半分に差し引いたとしても
目をおおうものがある。
 錦の御旗を仰ぐにしては、規律と統制がなさすぎる。
 危害は武士だけにとどまらず、町人、農民に及んでは、怨むなというのは無理だ。
 ただ読んだのが大人になった今で良かったと感じる。
 歴史の流れを知った上で、客観的に両者を見る目がなければ、冷静に読み勧めることは難しい。
 日本史と幕末に興味がある方も驚くだろう。
 もし多感な少女期だったら、会津まっしぐらだったかもしれない。
 私が幕末において、新撰組、白虎隊に代表される幕府側がという好きなのは、滅びの美学とも
いうべき心意気に感じるからだが、維新に向けて走った人々もまた情熱があった。
 お互いの信念が別の方向だったからといって、白黒つける必要はないだろう。
 誰もが正しいと思う道を選んだで良いと思う。
 会津藩士は時代の流れに乗るには、古風な武士でありすぎた。
 その誇り高さこそが、世に会津の名を残した。
 そして会津藩士の父祖を持ち、満州に生まれた著者が、会津をこれほどまでに愛している事に
感銘を覚える。
 小説の終わり、鮎川兵馬が苦難を乗り越えて会津に辿り着く。
 会津のの山河こそ、故郷であり、心を癒してくれる場なのだという実感が、痛いほど伝わってくる。
 会津若松市のHPを見ても郷土の歴史に誇りを持っているのが一目瞭然だ。
 「最後にこの二十一巻を戊辰に敗死した三千七人の会津藩士とその家族に捧げます」
 巻末のあとがきはこの一文で結ばれている。
 当初は著者や編集者にも迫害が及んだらしいが、完結させるまで死なない、ということも書いて
あった。
 その内、薩摩や長州からも手紙が届き、講演も行い、会津人の苦衷を察してもらえたと感想を
述べている。
 武士の魂と誇りをかけて戦った人々と、不屈の精神で生き抜いた会津の人々に思いを馳せ、
限りない哀切と感慨があふれる。
 まぎれもなく会津藩は幕末の光芒だった。

 平成16年3月1日

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